三島由紀夫とつきあってみる016●資格があるのは本人のみ。

三島由紀夫について久しぶりに読みたくなった。読書というものは快楽だ。我を忘れて熱中した。
野坂昭如が「赫やくたる逆光 〜私説・三島由紀夫」で記した三島評。人間存在のある一面の真実を、端的に言い表している。「三島はラッキョの皮をむくように、真の自分を見定めるため、一枚一枚はぎとりつつ、同時に、衣裳をまとっていた。」
自分を曝け出して表現する。しかしその表現によって新たな衣裳が纏わり付く。身軽になりたくて始めたことなのに、身重になって行く矛盾。他者の瞳に映る自己が、自らを縛って行く。あの鋭い眼光で、あの尖った感性で、三島は矛盾をとことん意識し、考え続けた。
そして、ついにはラッキョの皮を、最後まで剥いてしまったのだろうか。野坂氏は三島の人生を次のように言い表している。
・・・嘘?「そこには結局、なにもなかった。あるのはただ、厚塗りの化粧。薄っぺらい虚飾。人工的な作り笑い。必死で作り上げてきた自らの物語。その嘘。」
・・・。
たとえ人工的な物語でもいいじゃない。嘘は真実、真実は嘘。すべて物事には両面がある。他人に誰かの人生を「嘘」と決め付ける資格はない。資格があるのは本人のみ。ラッキョの中には「無」しかなくても、そこに三島は自らの、希望をみつけていたかもしれない。誰にもそれを「絶望」と名づける資格はない。
自己の存在を肯定するために、誰かの存在や生き方を否定することほど単純で貧しい思考はない。その愚を、決して犯さぬように。そう誓った新年の読書だった。→FC2 同性愛Blog Ranking
三島由紀夫とつきあってみる015●三島由紀夫のブロークバック・マウンテン
三島由紀夫から強烈に漂う「ゲイ性」を掘り返す
ごくたまに、三島由紀夫のホモセクシュアリティーを「パフォーマンスだったんだ」という言い方で否定する言説も見かけるのですが、まったくもってナンセンス。むしろ彼の作品を読んだり彼の生涯について語る際には、彼のセクシュアリティーを抜きにしては語り得ないと思います。
人は「身体性」からは決して自由になれるものではありません。特に彼の書いた文学作品には、本人の「同性愛」と「極度のマゾヒズムとサディズム」「歪んだ性的嗜好」が非常に色濃く影を落としていることは明らかです。そしてそれらはある程度、僕が把握している「ゲイに共通の性質=典型」と、似通っている部分があるということに注目しています。
「仮面」と「自意識過剰」はゲイの必然
まず、三島由紀夫のあの「仮面性」は、カミングアウトしていないゲイにとっての「日常的な性質」だと言えます。まるで異性愛者であるかのように振る舞うのは、今日でも多くのゲイが社会生活を行う際に実行していることです。
生前の三島由紀夫という人についての証言を読むと、どうやら彼は日常生活で、常に自意識過剰気味だったようです。虚勢を張って常に繕っているかのような姿を見ていると、かえってその内面の「弱さ」が浮き立って感じられたようです。
こうした一面も、悲しいかなゲイの持つ性質の典型と言えます。「異性愛者の仮面」をかぶって日常を生きていると、ばれることを恐れて「他者の視線」に敏感にならざるを得ないため、結果的に自意識過剰になってしまうのです。三島由紀夫はゲイとしてのこの二つの気質を人並みはずれて強烈に併せ持っていたから、あれだけ鋭い感性で世の中を捉えることが出来たのでしょう。「マジョリティー」ではなく「異端」だからこそ見えるものを書いた人。それが三島由紀夫という作家なんだと僕は思うし、そうした視点から読み直されるべきだと思っています。
ゲイの歴史上、貴重な存在彼は女性と結婚し、子どもの父親にもなりました。こうした歩みは、映画「ブロークバック・マウンテン」の主人公が選んだ生き方と重なります。
時代的にも、ほぼ同時代です。1950〜60年代と言えば、まだ「ゲイ解放運動」がアメリカで起こる前。日本では戦後の混乱期から回復し、生活が安定すると同時に社会に「道徳」や「秩序」を取り戻そうという動きが強まった頃でもあります。同性愛というのは「道徳」「秩序」に反するものだとされがちです。実はこの時代は、世界史上でも稀に見る「ホモフォビア」の風潮が高まった時期でもあったようです。
そんな時代状況では、ゲイだということをカミングアウトして生きることなど至難の業。ゲイだという自覚があるのに女性と結婚することは、珍しくなかったようです。三島由紀夫は実の母が大好きで、とても大切にしていたらしいですから、結婚して家庭を持ち子供をつくることは、「母親を安心させるため」でもあったのかもしれません。
しかし結婚後も彼は「実生活」と「ゲイとしての生活」を二重に続けていたようです。三島瑤子夫人が1995年に亡くなって以降、次第にそうした面も暴露されるようになってきました。作家のプライバシーを云々するのは下世話なようではありますが、彼ほど自分の性的嗜好と作品を直結させていた人はいませんから、作家研究として学問的にも見逃せない重要な部分でしょう。
さらに考えてみたら、ゲイの歴史を語る上でも重要な存在です。彼ほど鋭い感性であの時代の「ゲイとして感じたこと」を作品化した人は、日本にはいないのですから。「ゲイ作家としての三島由紀夫」は、まだまだ発見され尽くしてはいないし語られて来ているとも言えないでしょう。
三島由紀夫の希求した「ブロークバックマウンテン」
彼は晩年には、若者たちを集めて「楯の会」を結成。いわばホモ・ソーシャルな集団を作り、男だらけの精神的な絆づくりを強烈に求めて実践します。それは「軍服フェチ」という性的嗜好と「自分に従順に従う若い男好き」の趣味を同時に満たすことでもあったようです。 僕は思います。「楯の会」という組織を作り、男らしい自分作りに没頭し始めた頃の三島由紀夫は、いわば「ブロークバックマウンテン」(本来の自分の解放区)をこの世に実現するための準備に取り掛かっていたのではないかと。「楯の会」では、後に割腹自殺を共にする若い男とも出会います。死をも共有してしまえる人間に、やっと出会える場だったのです。
「肉体改造」はゲイだから
彼は30代になった頃からジムに通い、ボディービルダーのような筋肉を付けて自らの肉体を改造しはじめるのですが、それは「ゲイから、もっとモテるような男になるため」だったのかもしれません。現代でも、その目的のためにジムで筋肉を鍛えるゲイはたくさんいます。ゲイは恋人や他のゲイ達から「鑑賞される肉体」「興奮される肉体」が欲しいからジムで鍛えるのです。それは同時に「自分をもっと好きになるため」でもあります。
三島由紀夫のジム通いや肉体改造については当時、本人がやたらと理屈をこねて周囲を煙に巻いていたようですから、その影響からか難しい哲学的な理由を付けて論じている「三島研究本」もたくさんあります。しかし、それは「ゲイだったから」の一言で済ませてもいいのではないかと僕は思います。ゲイがゲイからモテるために身体を鍛えることは、女性がエステに通うのと同じようなもの。「モテたい」・・・これは人間として、ごく当たり前の感情であって、そこに理屈などいらないのではないかと思います。わざと追い詰められたかった
1970年の自決の時。三島由紀夫は「楯の会」の中で最も従順だった魅力的な若者を道連れに、切腹して一緒に果てました。その死に様はまるで、愛する者との心中のようでもあり、考えようによっては最高にドラマチックな最期です。
したがって、自衛隊で彼が叫んだ言葉と「檄文」は、彼の「マゾヒズム」を補強するための道具だったのではないかと思います。もし本当に世間に主義主張を訴えたいのだったら、もっとわかりやすい言葉で端的に語っていたはずです。彼は作家なのですから、それ位のことはわかっていたことでしょう。檄文のあの「わかりにくさ」と「やたらに長い文章」では、決起を呼びかけられた自衛隊員たちも困ってしまいます。バルコニーからの演説も要領を得ず、三島由紀夫本人に「主義主張を伝えよう」という意志があったとは僕には思えません。檄文は最初から「伝わらないように」書かれた。それは、決起を呼び掛けても誰も賛同してくれないという「追い詰められたマゾヒスティックな感情」に浸るためだった。絶望に打ちひしがれ、自決という悲劇的状況に自らを追い込んで興奮するための方法だった。映画「憂国」の主人公と同じような究極的に悲劇的な状況を、あの日の彼は自らが作り出したのです。
最高のエクスタシーのための、死
「世間の矛盾に追い詰められた悲劇のヒーローが、格好いい軍服を着て、愛する男と共に割腹心中自殺をする」
・・・これが三島由紀夫が長年夢見て、ついには実現した最高の「性的欲求」であり「エクスタシー」だったのでしょう。
晩年の三島氏は作家として「筆力が落ちた」という言われ方をされることが多いようですが、それはきっと、もう自らの本性を言葉を使って探し求める必要がなくなったからなのかもしれません。すなわち「見つけてしまった」から。芸術家は、自らの正体を見つけてしまった時に死ぬのかもしれません。
あれほど博識で勉強家で、あれほど破綻を恐れる論理的構成力で文学作品を生み出した知識人である三島氏が、ついには自らの「エクスタシー」を味わうために死んだという事実。そのことを我々はもっと素直に見つめ、重要視するべきではないでしょうか。人を突き動かす最大の原動力とはなにか。理論でも理屈でも思想でもなく、人が追い求める本当の幸せとは何か。社会性とはなにか。道徳とはなにか。彼の生き様と、死に様が教えてくれているように思います。彼の生き方は奇矯なようではあります。あの死に方も反社会的で反道徳的です。しかし決して「頭のおかしい狂人が犯した他人事」として片付けてはならないと思います。
人間、生まれたからにはきっと誰もが、「自らの本性を探り、抉り出してみたい」というグロテスクな欲望を持っているのではないでしょうか。三島由紀夫の作品と生き方は、その欲望の在り処を抉ることの知的興奮を与えてくれます。そして、それに触れる我々に、自分だけの「ブロークバックマウンテン」(本来の自分の解放区)の存在を意識させ、辿り着いて解放される快楽を求めてもいいんじゃないかと鼓舞するのです。
快楽としての死
彼にとっての「ブロークバックマウンテン」は、「市ヶ谷の自衛隊の総監室」の中で、自決の直前にやっと現実のものとなりました。仮面をかぶる必要の無い「生まれたての自分」に戻るため、愛する者と共に最高の興奮と快楽に酔いしれながら彼は死にました。そこではじめて彼は「生きている」ことを実感し、謳歌できたのかもしれません。しかし、それはあまりにも身勝手で自己完結的な行動でもありました。羽交い絞めにされてその一部始終を目撃させられた総監をはじめ、多くの人々に迷惑をかけてしまったわけですから。彼が生涯かけて追い求め、様々な知識を動員して分析し、ついには突きとめてしまった「自分の本性」。その分析が本物なのかどうか、自らの肉体で感じてみたかったんでしょうね、きっと。
・・・なんという人でしょう、三島由紀夫という人は。→FC2 同性愛Blog Ranking
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「道徳とは、檻である」・・・堂々と言えた時代も今は昔
やっぱり三島由紀夫は「悪党」である。
「悪こそが人間の本性」であることから逃げずに掘り下げ、そこから見えてくる「自分なりの善」を希求しつづけた人。そういう意味では作家として誠実であり、信頼できるし尊敬できる。
しかし彼の不幸は、その感覚が人並み外れて鋭敏すぎたために、戦後の高度経済成長がもたらした無菌国家化の消毒スプレーを誰よりも強烈に浴びてしまったことだろう。鋭敏過ぎる人間というのは、鈍感すぎる人間よりもずっと、「幸せ」からは遠ざかるのが宿命だ。
この映画はまず「道徳教育講座」という文字がスクリーンに大写しになる場面からはじまる。「なんだなんだ、文部省特選映画か?」と思わせた所で、画面の右下から「不」の文字がトコトコと歩いて来て文字列の先頭に加わる。完成したタイトルは「不道徳教育講座」。一文字加わるだけでここまで印象が変わってしまうことの目眩に襲われながら、映画の世界に引き込まれる。
三島由紀夫ひょっこりと登場
その後、突然画面に三島由紀夫本人が登場するので仰天させられる。薄暗いバーのカウンターに腰掛けて、映画の観客に向けて語りかけてくる。「道徳とは、檻である。」実に痛快かつ三島由紀夫的世界観を象徴する言葉である。いつものように目をカッと見開いた自意識過剰気味の三島由紀夫は、観客に「檻から出るための」鍵を渡し、「不道徳教育講座」の世界へと誘うのだ。
道徳の檻が張り巡らされる以前の物語
時は戦後の混乱期から抜け出し、やっと庶民の生活が落ち着き始めた昭和30年代。
生活が安定すると人というのは暇になるから、あれこれと「おせっかい」になり始めるらしく、「道徳という檻」を自ら作り出して自らを縛り上げる勘違いを始めてしまう。
そんな勘違い人間の溜まり場である教育界や政界の権力者達によるヒエラルキーや、産業界の利権構造が複雑に絡まり合って「お前らのどこが善なんだ」と突っ込みたくなるような魑魅魍魎がうようよ沸いている様子を、コミカルに風刺する。「人に善を強いる者たちの欺まん性」を、三島由紀夫は容赦なく描き出し、観客に「笑いという批評精神」にまぶしながら提出するのだ。こんな映画が堂々と作られていた事実は、1959年の日本はまだ死んでいなかったというなによりの証拠である。
近年の日本で強まりつつある「愛国心」だの「自己責任」だのと言った「権力者が押し付けようとする、おせっかいな言説」は、すでにこの頃から言われ始めていたようだ。しかし、この映画が作られた昭和30年代の庶民や映画人たちは死んではいない。そうした言説を権力者が言い出すとむしろ「な〜に言ってやがんだぃ」と馬鹿にし、かえって嘲りの対象としていた様子がこの映画にはリアルに描かれている。
当時は戦争の記憶がまだ生々しく、愛国心を持ち過ぎて盲目になったから国家的な破綻に陥ったのだという事実を人々がまだ忘れてはいない。そして「自己責任」なんていう言葉で他者の行動を「他人事」として切り捨て、ヒステリーを起こして断罪するなんてことも、人間関係が濃厚に結びついている当時の世の中ではあり得ないことだろう。画面からほとばしり出る市井の人々の人間としてのエネルギーの濃厚さは、現代の世の中の無味乾燥ぶりと記憶喪失ぶりを、かえって強く意識させてくれる。
最も「不道徳な男」が最も「道徳的な男」に成り代わる
人殺し以外のあらゆる犯罪を犯したことがあるという「最も不道徳な男」が、刑務所から出所するところからドラマは始まる。
刑事の監視から逃れるために彼は、自分とそっくりな男を見つけてこっそり衣服を取り替え、変装して逃亡する。しかし変装した相手はなんと、「最も道徳的であるべき」道徳教育の権威者だった。こうした「最もドラマティックに物事が進行する」設定を思いつくのが、いかにも三島由紀夫的。
しかし「悪党」というのは頭がいい。次第に環境に順応し、乱暴な言葉遣いではあるが「道徳教育の権威者」そのものであるかのように振るまえるようになる。
彼の「権威」の傘の下にいようと周囲にはたくさんの人間がまとわりついているのだが、講演会などで彼がどんなに「毒舌」を吐いてしまったとしても「おっしゃる通り!」と、巧妙に道徳的言説に「解釈し直してしまう」ところが面白い。権力者になれば、なにを言っても「大層なもの」に聞こえてしまうという現実風刺。
「善人」を気取ると欲望は鬱積して屈折する
女優の三崎千恵子(「男はつらいよ」のオバちゃん役で有名)が、教育大臣の妻の役で出てくるのだが、最高に面白い演技を見せている。彼女は普段は「妻でございます。」と貞淑でつつましやかに振る舞っているのだが、実は屋敷に出入りする車の運転手に恋焦がれている。しかも彼はボディービルダーのような筋骨隆々とした男らしい男。夫人は彼の裸体を思い浮かべ、「よからぬ想像」をしては「いけないわッ!」と掻き消す日々。
しかしある日、ついに我慢がならず告白してしまうのだが、あまりにも舞い上がりすぎて勘違いし、「不道徳な男」に対して邪な告白を言ってしまい、弱みを握られてしまうのだ(笑)。「善人」を気取っている人ほど色んな意味で欲望は鬱積し、始末に負えない人間になってしまう。そんな欲求不満のマダムをコミカルに表現した名演技である。
「道徳的な男」を演じる道を選択する主人公
やはり悪党は悪党。どう振る舞えば賢く生きて行けるのかは本能的に察知する。権力者の娘を妻に迎え、自らを「道徳的な男」そのものに同化させる道を選択する。いわゆる「檻の中」に完全に入り込み、演じながら生きて行く道を彼は選択するのである。
主人公と女が「檻の中」に入り込み、地平線に向かって歩いて行く映像を提示した後、再び三島由紀夫本人が登場し観客に語りかける。
「どうして彼らが檻の中にいることを選択したかって?そりゃ、檻の中で安全に生きるほうが、人間長生き出来るってものさ。」
・・・観客を煙に巻いたまま、この映画も終わって行く。
「不道徳教育講座」1959年/日活/モノクロ/89分
監督:西河克己
制作:芦田正蔵
原作・出演:三島由紀夫
出演: 大坂志郎 信欣三 三崎千恵子
長門裕之 清水まゆみ 浅沼創一
柳沢真一 高島稔 月丘夢路
岡田眞澄 植村謙二郎 佐野浅夫
松下達夫 天草四郎 高品格
初井言栄 葵真木子 浜村純 藤村有弘
●三島由紀夫「不道徳教育講座」(角川文庫)
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三島由紀夫的な盲目的ストイック礼賛映画
僕、昔はこういう嫌な奴だったかも。
この映画の主人公を見ていたら、かつての自分の恥かしさと直面した。「超」が付くほどの真面目人間。目標達成のためならば全てを犠牲にしてもいいと思う盲目症。そんな風に自分を追い込めない周囲の人間のことを馬鹿だと思ってしまう危なっかしくて堅物で愚かな男。
しかし三島由紀夫はそういう男を「愚か」だとは見做さない。むしろ手放しで礼賛する。そこが三島由紀夫の三島由紀夫たるところ。
三島由紀夫原作の「剣」は、剣道に打ち込む青年が主人公。彼は大学の剣道部の主将であり、来るべき大会において最高の成績が上げられることを目指し、自分だけではなく周囲の人間をもストイックに追い込んで行く。「もっと普通の生活感覚を持て」と父親から注意されるほど、彼は日常の全てを剣道に捧げており、生き方に「遊び」がない。未来のことを考えたり男女交際にうつつを抜かすなんて、彼にしてみたらとんでもないこと。とにかく純粋で、まっすぐすぎるのだ。そんな奴は当然、周りからは浮いてしまう。
さわやかな青春モノかと思っていたら火傷する
現在の目標を達成することのみに100%のエネルギーを注ぐ強さは、実は精神的な弱さと裏表の関係にある。精神的に依存出来る目標がないと、生きていられない種類の人間なのだから。いわば「目標依存症」とでも言おうか。そういうタイプの人間は、あくまでも自分の思い描く現実しか受け入れられないために、突発的な出来事や未知なる出会いや偶然性への抵抗力を持つことが出来ない。そして、強い自分でいられなくなった時に、いとも簡単に「ゼロ」になる。物事を適当に流すことが出来ない人というのは、実は非常に危険な人なのだ。
女性はやっぱり「俗悪な誘惑者」として敗北させられる
そんな堅物の彼を「女性的な魅力」で落とそうと執念を燃やす女性を登場させるのが、いかにも三島由紀夫的。「ストイックな男性」の対立概念としては、必ずと言っていいほど「世俗的な誘惑で堕落させようとする、現実存在としての女性」を登場させる。そして結果的には女性性の敗北と、男性性の勝利を高らかに謳い上げてしまう。この作品は、まさにそのパターンどおりの展開である。主人公は、色っぽい女の子の色仕掛けに引っかかるほど「俗悪」ではない。そのことを強調したいがために、女性は「ダシ」に使われるのだ。
男の嫉妬
主人公のあまりのストイックさに嫉妬する、ひねくれ者のアウトローを川津祐介が演じている。彼は、こういう「ちょっとグレた」感じの人間っぽい役柄がとても似合う。二人はあまりにもタイプが違うため、激しく反目しあう。互いに互いのことが気に入らなくてイライラする。しかし、気になって仕方がないのだ。男同士の嫉妬心とは、こういうもの。
二人は互いに、相手が自分には「足りない」ものを持っていることが気になって仕方がないのだ。しかしそういう本音を相手に悟られることは「敗北」を意味するために、意識的に冷たい態度を取ってしまう。男の嫉妬というのは、こんな風に屈折した形で表面化してしまうものであり、こじれてしまうとかなり厄介なものである。実は相手のことがとても「好き」だからこそ嫉妬してしまうのだが、こじれた糸を解きほぐすには「男のプライド」が邪魔してしまう。なかなか回復することはない。
常に影が忍び寄る主人公の生き様 白と黒のコントラストを常に意識させる撮影が秀逸。主人公の清くまっすぐな姿に常に寄り添いつづける「影」の存在を、常に観客に意識させることに成功している。
その映像効果がもたらすスリルはサスペンスを呼び、次に何が起こるかわからないという高揚感を観客にもたらし続ける。主人公の危なっかしさが気になって仕方がない。いつ、彼は折れてしまうのだろうと。
中途半端に生きているのなら死んでしまえ
生きているのならとことん「生きる」。愚直なくらいに自らの信念に忠実に。そして、その信念が実現できないことを悟ったならば、いさぎよく「死ね」。これが三島由紀夫の死生観である。理想が実現できないのならば、人が生きる意味などない。彼は若い頃から、そう思い詰めるタイプの人間であったようだ。そして、精神的な「若さ」が失われることを最も忌避した人なのではなかろうか。
この映画の主人公にとっては「剣道の大会で優勝するため、自らが主将となってチームを統率する」ことのみが生きる全て。その先の未来を想定していないということは、「いつ死んでもいい」と本気で思い続けているのだろう。こうした主人公の人間的気質は明らかに、三島由紀夫本人が投影されているのだろうと思う。
若さの特権である「一途さ」は、やはり肉体的な「若さ」と不可分の関係にあるだろう。健全な精神は健全な肉体に宿る。老いた肉体には老いた精神が宿ってしまうことは、人としての宿命である。しかし三島由紀夫には受け入れられなかった。「肉体の若さ」を失うことで「精神の若さ」までが枯渇し始めてしまう現実を、三島由紀夫は「負け」と見做し、受け入れられなかった。
破綻礼賛
負けを認められない人間の危険性。負けを楽しむことが出来ない人間が必然的に選びとる末期。それは、存在の不安から逃れるための行動。不確実から「確実」「絶対」への転身。すなわち死。死んだ者は絶対に生き返ることは出来ない。「死」それこそが唯一、「絶対」という言葉を当てはめるにふさわしい概念なのだ。
ヒューマニズムを嘲笑う
三島由紀夫は、「自殺するなんて最も愚かで神への冒涜」だとする、よくある啓蒙的で道徳的な死生観とは対極のところを見据えている。彼は、死を選びとる若き人間を決して否定したりはしない。むしろ礼賛する。突然の断絶が生み出す空虚感を、美しく喜ばしいことだとして祝福するのだ。そして、その感性を「歪んだ」ものというよりは「真っ当なこと」なのだと、観客や読者を説伏させてしまうかのような強烈な光を放射する。
彼の描く「死」は絶望ではない。空虚なのだ。そして、それこそがこの世の中が孕んでいる「内臓の正体」なのだ。
生き恥を晒す人間を嘲笑う
この映画のラストシーン。突然の断絶を味合わされた観客は、見事に「ア然」とさせられる。それはまるで、1970年11月25日に日本中が「ア然」とした時のように。
自死を選びとった人間の死体を覗き込む「生きている者たち」の顔が、なんと醜悪で滑稽に思えてしまうことか。「お前らは、のめのめと生きていけるほど鈍感なのか」と言いながら勝ち誇って高笑いをしている三島由紀夫の顔が脳裏をチラつく。「自死」を堂々と礼賛してしまうのだから、三島由紀夫にハマり過ぎると、ある意味危険である。
彼は心底、この世を呪詛していたのだろうと思う。それは裏を返せば、誰よりもこの世を「愛していた」ということなのかもしれない。しかしそれはあくまでも、自分の内的世界としての「この世」ではあったけれども。
「剣」 1964年/大映/モノクロ/95分監督:三隅研二
制作:藤井浩明 財前定生
原作:三島由紀夫
出演:市川雷蔵 藤由紀子 川津祐介 長谷川明男
河野秋武 紺野ユカ 小桜純子 稲葉義男 角梨枝子
●三島由紀夫原作映画「剣」DVD発売中
●三島由紀夫「剣」(講談社文庫)
→FC2 同性愛Blog Ranking
●「剣」上映情報
キネカ大森で開催中の三島由紀夫映画祭2006で、5/7(日)19:00〜、5/10(水)19:00〜上映があります。40年ぶりに日本上映が実現した「憂国」と併せて、ぜひご覧ください。
●当ブログ内三島由紀夫関連映画レビュー
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三島由紀夫とつきあってみる014●今夜、美輪明宏さんが寺山と三島を語ります
ミシマもテラヤマも「ハハ地獄」NHK教育テレビで放送されている「知るを楽しむ」(岸惠子さんもよろしくね)では、美輪明宏さんが「寺山修司〜私と彼とのただならぬ関係」というタイトルで激動の60年代を語っています。●公式サイト
シリーズ3回目の今夜は「ハハ地獄」と題して、詩人・寺山修司の表現には欠かせない「強烈なる母の存在」について語られるようです。その中でどうやら、三島由紀夫との付き合いについても言及されるようで、これは要注目です。
そういえば三島由紀夫にとっても「母の存在」は非常に重要です。幼少時から少年期までを「祖母に溺愛されて幽閉状態で過ごした」という三島由紀夫にとって、自由に触れ合うことの出来なかった母親に対する愛情は並々ならぬものがあったようです。ゲイなのに女性と結婚した理由の一つとして「母を安心させるためだったのではないか」と論じた三島研究本も目にしたことがあります。
寺山修司の場合は「強烈な個性を持った母に溺愛されたこと」が「男子」としての成長に屈折を及ぼしたことが、彼の表現に良くも悪くも多大なる影響を与えているようです。彼の表現の源泉は「母性との葛藤」にあるといってもいいのかもしれません。そしてこの両者に共通して見られるのが、表現における「ゲイ的要素」の頻出。特に寺山修司は「性別の垣根」を軽々と飛び越えるような人物造形を、よく行っています。「少年愛者」であった様子も、あくまでも表現の中からですが伺えます。
美輪明宏さんといえばこちらのドキュメンタリー番組でも証言者として出演していましたが、60年代には三島由紀夫と、70年代以降は寺山修司と非常に親しく付き合いがあったそうです。また、「ゲイの表現者」として60年代という早い時期から「ゲイとしての自己表現」を開始し、世間に戦いを挑んだ尊敬すべき先輩でもあります。今とは比べ物にならないほど風あたりも強かったことでしょうし、好奇の目にも曝されたでしょう。しかし60年代の日本のゲイたちにとって、彼の存在は非常に大きな精神的支柱だったのではないでしょうか。
男目線、女目線からは解放された彼の独特の感性が、あの時代をどのように記憶し、今の我々に何を語ろうとしているのでしょうか。
放送は今夜(4月18日)10:25から。再放送は25日朝5:05からです。→FC2 同性愛Blog Ranking
●「私のこだわり人物伝・ 寺山修司〜私と彼のただならぬ関係」(NHKテキスト)
三島由紀夫「憂国」●MOVIEレビュー
究極のドラマティック「憂国」と名付けられた映画なのだが、映像表現としては特に「国を憂う」という気持ちは喚起されない。むしろスクリーンに映し出された男女の性愛という悦びと心中という悲劇を全て、徹底的に「最高の快楽」として描き出すことを目指し、ある程度達成することの出来た作品だと言えよう。そういう面では非常にアナーキーだし、究極のドラマティックを追求した映画でもある。
世間から排斥されて追い詰められ、愛する者と心中するという行為は、人間が生きるに当たって望み得る最高のドラマティックかつ快楽的な瞬間なのではあるまいか。そんな三島由紀夫的な世界観がドロドロとした「うねり」となってスクリーンから溢れ出し、濁流となって観客に襲いかかる。観客は溺れないように懸命に呼吸をしながら、この濃厚でグロテスクな映像を必死で受けとめる。こんな映像体験は、そう滅多に出来るものではない。
「追い詰められること」のマゾヒスティックな快感
新婚だからという理由でニ・ニ六事件の決起に参加しないよう仲間から説得された武山信二中尉が主人公。しかし彼は国から、ニ・ニ六事件の反乱軍を鎮圧するよう命ぜられてしまう。すなわち友を殺すように、国から命令されてしまったのだ。
国に従えば友を裏切ることになる。
友を裏切れなければ、国を裏切ることになる。
そのどちらも選択できないことに気付いた中尉は、自らの選択として「死」を選び、愛する妻と共に心中する。
セックスと切腹
こうしたドラマティックな筋立ては全て、冒頭で巻物に書かれた文字として観客に提示される。28分の映像として描かれる中心は、男と女のセックスと切腹。能舞台のように単純化・様式化されたセットの中、二人はまるで儀式のように、最期のセックスという最高の快楽を堪能し合う。そして、妻にしっかりと看取られながら汗まみれで切腹に挑む男と、後追い自決を遂げる妻。死に化粧をする妻の姿が最高にエロティックかつグロテスク。ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」が流れる中、台詞は一切無く、精神に殉ずる人間の行動力を「崇高なもの」として称え、美しく描き出す。 画面に役者として登場している三島由紀夫は、常に全身を緊張させている。その表情も、数々残されている肖像写真でお馴染みの、あの「強烈な自己顕示欲」を誇示した仮面のような顔で貫かれている。常に目をカッと見開き、「見られている」ことを強烈に意識した存在の仕方。三島由紀夫という一個人の演技性は、こういう様式化された演出の中ではかえって、生き生きと輝き出すようだ。
セックス場面で「死んでいる」三島由紀夫の肉体
死を目前にした最期のセックス描写は、その殆んどが絵画のようにポージングされ、リアリティというよりは様式的な演出が施されている。そのせいか、あまり生々しいエロティシズムは感じ取れない。
その理由の一つとしては、三島由紀夫の肉体の存在感の希薄さが挙げられるだろう。全裸の女性を前にしても、あまり燃えているようには感じられない。彼の体からは、男の肉体としての匂いたつような生々しさとエロティシズムが感じられない。全身を常に緊張させているためか、必要以上に誇示しようとする筋肉のためか、彼の体からは現実的な存在感が感じられないのだ。妻に身体を差し出し愛撫させている瞬間にも、夫が「官能に充ちた体の反応」を示し、歓喜の叫びをあげる姿は描かれない。結果的に、貪欲に肉欲に溺れてゆく「女のなまなましさ」の方が際立ってくる仕組みになっているのだ。
三島由紀夫的な世界観の中では、セックスという私的な行為においても男は男たらんとプライドを保ち、肉欲に溺れ歓喜の声を上げることは「女々しいこと」として許されないとでも言うのだろうか。そんな、三島由紀夫特有の誇張された虚構的なダンディズムが、セックス描写における男の体のあり方としてもしっかりと表現されているように、僕には感じられた。
「男目線」でも「女目線」でもないセックス表現
一方、女性には現実存在としての獣として「なまなましく」男の体を求めさせ、舐めまわさせている。しかし男の体が無反応なものだから、結果的に女が「男に仕えている」かのようなヒエラルキーすら感じられる。対等な人間同士のセックスという印象が薄いのだ。「男はセックスを精神的な行為として受けとめ、女は生々しい獣として男の体を求める」とでも言いたげなセックス描写なのである。
こうした印象をもたらしてしまう原因として、やはり三島由紀夫の性的志向(ゲイであったこと)が反映されているのではないかと勘繰りたくなるのは、僕がゲイだからなのだろうか。「演出スタッフ」として主演の二人に動作を指導した堂本正樹氏もゲイである。やはりゲイが男女のセックスを描写するのには、限界があったということなのだろう。それに、三島由紀夫がボディービルで鍛えたという筋骨隆々とした肉体は、いわば男に鑑賞されるために着飾ったドレスのようなもの。女性とのセックスにおいて躍動するために作られたものではないのかもしれない。セックス場面の全篇において、彼の肉体は「男として機能」するよりは「男として鑑賞される」役割しか果たしていないように思えるのだ。
したがって、この映画のセックス描写は、世間に溢れかえっている「男視点からの」セックス描写のパターンには、あきらかに属さない。かといって「女視点からの」パターンにも属するとは思えない。過剰な位に「ダンディズム」を信奉する者による、過剰な位に理想化された非現世的なセックス表現なのだ。普通、セックス描写というのは生々しい「動物としての人間存在」を想起させるものだが、やはりそこは三島由紀夫である。彼の歪んだ感性が色濃く自覚的に投影された、奇妙で独特なセックス表現なのである。
三島瑶子夫人は1970年の三島由紀夫の切腹自決後に、このフィルムの回収を呼びかけた。おかげで40年間、日本での上映は行なわれなかった。その理由は、こうした部分にあったのかもしれない。
女性への屈折
ゲイの視点から三島由紀夫を語る時に、この映画には他にも重要な点がある。彼がこの映画の主人公に選んだ武山信二中尉は、「女性と結婚したことが理由で」ニ・ニ六事件の決起に参加できなかった人。つまり「ニ・ニ六事件を実行する近衛連隊」というホモ・ソーシャルな世界(男同士の精神的な絆が強固な集団)から、女性と結婚したばかりということで排斥されてしまった人間の恨み節の表現でもあるという点だ。
男同士の精神的な世界で、男として男らしく「自らの義のために」決起に参加して理想の追求に命を賭けたかったのに、「女という世俗」との関わりによって志を絶たれてしまった男の苦悩。こういう題材を選ぶ所が、いかにもマゾヒスティックで三島由紀夫的である。彼の作品には必ずどこかに「女性蔑視的」あるいは「女性への復讐心」「女性への恐怖心」が滲み出てしまう。しかし、その対照概念として描き出す「男性像」も、あまりにもストイックに理想化されて誇張されたものであるから、どこかぎこちなく、不自然なのだ。
セックスよりも切腹に感じる「なまなましさ」
そしてさらに、演技者・三島由紀夫としての肉体性にも注目したい。
彼は女性とのセックス場面で「死体のように」自らの肉体を存在させたが、自らの肉体を切り刻む「切腹場面」では、よりリアルに生き生きと情熱を持って肉体を提示して演じきっている。はらわたを抉り出し、内臓が飛び出しているのになお刀で切り刻みつづけている時の、苦しみに満ちた汗だくの表情は、ものすごく「歓喜に満ちた」表情であるようにも感じられるのだ。それはまさしく、この映画において、はじめて見ることが出来た「三島由紀夫の生き生きとした表情」なのである。
自己顕示欲のもたらすポーズからは解放され、恥も外聞もなく自分を曝け出し、仮面をとっぱらった真の三島由紀夫。いや、平岡公威が顔を覗かせる、とてもスリリングな瞬間となっている。この映画で僕が最も美しいと思えたのは、彼の「切腹に苦しむ」グロテスクな表情だった。
数々残された「三島由紀夫の肖像」の中で、もっとも人間臭くもっとも素顔に近いのは、あのワンカットなのかもしれない。
「憂国」 1966年/モノクロ/28分 監督/制作/原作/脚色/美術:三島由紀夫
演出:堂本正樹
制作:藤井浩明
撮影:渡辺公夫
出演:三島由紀夫 鶴岡淑子
●三島由紀夫監督「憂國」DVD化発売
●三島由紀夫著「花ざかりの森・憂国―自選短編集」
三島由紀夫の「ゲイの素顔」を知るにはこの一冊●堂本正樹著「回想 回転扉の三島由紀夫」
・・・「憂国」の演出スタッフとして関わった演出家・作家である堂本正樹氏が記した、三島由紀夫との「ゲイとしての」関わりが書かれた著作。昨年(2005年)11月に発売され、新聞等でかなり取り上げられた問題本。
なんでも堂本氏は三島由紀夫を「兄さん」と呼び、二人きりで密かに「切腹ごっこ」を繰り返していたらしい・・・。彼のそうした側面が、やっと公に書かれて語られる時代になって来ました。
他にも「憂国」撮影時の詳細や、三島由紀夫の男関係に関する堂本氏の複雑な思いなど、今だから書けるエピソードが満載。ものすご〜く面白いのでオススメです。
・・・現在、キネカ大森で開催中の「三島由紀夫映画祭2006」では「憂国」が40年ぶりに劇場公開中。しかしチラシに「演出」としての堂本正樹氏の表記なし。上映されたフィルムの中では、三島由紀夫の次に「演出」として並んで明記されていたにも関わらず。
う〜ん、なんでだろ。→FC2 同性愛Blog Ranking
三島由紀夫とつきあってみる013●三島由紀夫映画祭開催中
キネカ大森という意欲的なプログラムを上映するミニ・シアターで現在、三島由紀夫映画祭2006「その目で、心で、衝撃と対峙せよ」が開催中。目玉はなんと言っても、日本では40年ぶりに上映されている「憂国」でしょう。たった28分の作品ですが、あの奇妙さとグロテスクさは28分で充分です(笑)。連日17:30と21:00に上映されていますので、興味のある方は心の準備をして、お出かけください。「憂国」は1965年に製作されATG映画としては空前のヒットを記録したのですが、三島氏が1970年に自決した後、三島夫人によって処分が命ぜられ、日本では行方知れずになっていたフィルムです。最近になって発見され、この映画祭で久々に劇場公開されました。
それ以外にも三島由紀夫原作・出演作を合計18本上映するという充実した映画祭。このブログで以前紹介した増村保造監督の「音楽」の上映もあります。内容の凄まじさからかDVD発売されていませんから(笑)なかなか観ることが出来ないので貴重な機会ですよ。
○上映時間
『憂国』(28分) 4/9〜5/12 連日 17:30/21:00
★4/15(土)イベント予定 17:30〜『憂国』上映前
ゲスト:『憂国』美術監督・間野重雄/ホスト:『憂国』プロデューサー・藤井浩明
<原作・出演作の上映時間>(リンクはDVD化作品)
4/8(土)19:00『炎上』
4/9(日)15:30『潮騒 54年』/19:00『炎上』
4/10(月)15:30『永すぎた春』/19:00『不道徳教育講座』
4/11(火)15:30『不道徳教育講座』/19:00『潮騒 54年』
4/12(水)15:30『潮騒 54年』/19:00『永すぎた春』
4/13(木)15:30『永すぎた春』/19:00『炎上』
4/14(金)15:30『炎上』/19:00『不道徳教育講座』
4/15(土)19:00 『剣』
4/16(日)19:00『からっ風野郎』
4/17(月)19:00『お嬢さん』
4/18(火)19:00『剣』
4/19(水)19:00『からっ風野郎』
4/20(木)19:00『お嬢さん』
4/21(金)19:00『潮騒71年』
4/22(土)19:00『複雑な彼』
★4/23(日)*18:30『肉体の学校』イベント予定 ゲスト:映画監督・木下亮
4/24(月)19:00『愛の渇き』4/25(火)19:00『複雑な彼』
4/26(水)19:00『肉体の学校』
4/27(木)19:00『愛の渇き』
4/28(金)19:00『潮騒71年』
4/29(土)19:00『黒蜥蝪/松竹』
4/30(日)19:00『黒蜥蝪/大映』
5/1 (月)19:00『音楽』
★5/2 (火)*18:30『黒蜥蝪/松竹』
イベント予定 ゲスト:映画監督・行定 勲
5/3 (水)19:00『黒蜥蝪/大映』
5/4 (木)19:00『音楽』
5/5 (金)19:00『潮騒75年』
★5/6 (土)*18:30『炎上』イベント予定
ゲスト 映画プロデューサー藤井浩明
5/7 (日)19:00『剣』
5/8 (月)19:00『からっ風野郎』
5/9 (火)19:00『お嬢さん』
5/10 (水)19:00『剣』
5/11 (木)19:00『複雑な彼』
5/12 (金)19:00『炎上』
○入場料金・・・各作品 当日券1000円均一
僕は先日「憂国」を観に行き、映画評論家・佐藤忠男さんと「憂国」プロデューサー藤井浩明さんのトークを聴きました。
「憂国」は、三島由紀夫を語るのに、いろんな意味で絶対に外せない作品でしょう。
自ら監督・主演したのみならず、5年後の自らの自決を暗示するかのようなその内容。全裸も含む惜しげもない(むしろ誇示するかのような)筋骨隆々とした肉体の表出。三島由紀夫の「性的嗜好」が確実に滲み出ているし、その後の三島夫人によるフィルム隠蔽なども考え合わせると、ゲイとしての三島を考える上でも非常に大事な作品です。
DVDももうすぐ発売
●当ブログ内三島由紀夫関連映画レビュー
三島由紀夫「憂国」●MOVIEレビュー
西河克己「不道徳教育講座」●MOVIEレビュー
三隅研二「剣」●MOVIEレビュー
増村保造「音楽」●MOVIEレビュー
田中千世子「みやび 三島由紀夫」●MOVIEレビュー
三島由紀夫とつきあってみる012●ハマると危険。「三島本」の魔力
「三島由紀夫氏の死について語る」と前回の記事で予告しておきながら、よく考えてみると「人の死なんてそう簡単に語れるもんではない」ということに恐れをなし(笑)、先延ばしにしてしまいました。 しかしその間も三島氏に関しての書物を日常で持ち歩き、電車の中や食事中などに読み進めてはいましたよ。僕はどちらかというと三島氏が「書いた本」よりも、三島氏について「書かれた本」に惹かれます。彼というキャラクターに、ゲイとして非常に興味があるのです。
それにしても面白い。あのユニークな人物が「この世に存在した」という事実だけでも面白いし、どの本からも彼を論じることを面白がっている著者たちの並々ならぬ情熱が伝わってくるので飽きることなどありません。
生前の三島氏との付き合いの濃淡や距離、年齢、性別によって彼に対する評価は様々ですが、いろんな角度から皆さん好き勝手に論じていますし論じられ続けています。しかも、すでに本人が亡くなってから35年も経ちましたし、三島夫人の没後からも10年が経ちましたので「好き勝手」の度合いも年々レベルアップして来てますから、さらに深く面白くなってきています(笑)。そしてその種類たるや様々なジャンルを横断し、非常に幅広いのが彼に関する言説の特徴。これはもう、「三島本」という一つのジャンルが出版界に確立されていると言っても過言ではないでしょう。今年になってからも次から次へと新しい本が出版され続けており、なんとすでに11冊にも達しています。
今年発行された「三島本」一覧(アマゾンで検索)
●春の雪(漫画版)![]()
三島 由紀夫, 池田 理代子, 宮本 えりか 単行本 (2006/02) 主婦と生活社
●三島由紀夫―人と文学 日本の作家100人![]()
佐藤 秀明 (著) 単行本 (2006/02) 勉誠出版
●断章 三島由紀夫![]()
梅津 齊 (著) 単行本 (2006/02) 碧天舎
●源泉の感情河出文庫
三島 由紀夫 (著) 文庫 (2006/02/04) 河出書房新社
●三島由紀夫「最後の独白」―市ヶ谷自決と2・26![]()
前田 宏一 (著) 単行本 (2006/03) 毎日ワンズ
●村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる。PHP新書
佐藤 幹夫 (著) 新書 (2006/03) PHP研究所
●日本改正案―三島由紀夫と楯の会
松藤 竹二郎 (著) 単行本 (2006/03) 毎日ワンズ
●血滾ル三島由紀夫「憲法改正」![]()
松藤 竹二郎 (著) 単行本 (2006/03) 毎日ワンズ
●戦後事件ファイル―赤塚不二夫、安保、三島由紀夫、赤軍、ひばりの死、他![]()
平岡正明コレクション
平岡 正明 (著) 単行本 (2006/03) マガジンファイブ
●最後のロマンティーク三島由紀夫![]()
伊藤 勝彦 (著) 単行本 (2006/03) 新曜社
●三島由紀夫文学論集 I講談社文芸文庫
三島 由紀夫 (著), 虫明 亜呂無 (著) 文庫 (2006/04/11) 講談社
このうち「三島由紀夫「最後の独白」―市ヶ谷自決と2・26」
それにしてもこの出版量。もしかして、「三島本」の追っかけをしているだけでも十分に、人生を退屈せずに過ごせてしまうのではないかと思われます。くれぐれもハマルと危険ですからお気をつけください〜。
ちなみに、これまでどの位「三島本」が発行されてきたのかを国立国会図書館のWebで検索してみたら、書名に「三島由紀夫」と含まれているものだけでも695件がヒット。著者名「三島由紀夫」では704件がヒットしました。これ全部に目を通せる人などいるのでしょうか。僕の三島氏へのスタンスとしては、ハマリ過ぎるのもほどほどにしながら、主に「ゲイの僕として彼に感じる親近感」にこだわりながら、このシリーズを続けてみようと思います。
彼を語るときにはやはり「ゲイだったこと」が非常に重要だし、その視点が抜け落ちているものや、書かないようにしている著作、あるいは意識的に触れないようにしている著作は、読んでいても非常に「浅い」と感じるし、論理や言葉のみで空回りしている印象を受けます。そして、そうした浅薄な著者の態度からは、なんとなく「ホモフォビア」のニュアンスも漂ってきます。
「なぜ三島氏のゲイ性が無視されてきたのか。あるいは、書けなかったのか」
そうした観点から研究してみると、日本におけるLGBT言説の歴史を浮かび上がらせることにもつながりますね。このシリーズをそうした方向に持って行くのも、面白いんじゃないかと思っています。キネカ大森では「三島由紀夫映画祭」がスタートした所ですし、このシリーズ、これから再び活性化しますのでお楽しみに〜。
今後のタイトル予告。
「三島由紀夫のブロークバックマウンテン」(←なんじゃそりゃ〜)→FC2 同性愛Blog Ranking
三島由紀夫とつきあってみる。011●霊に導かれた死・・・!?<後>
本多さんは三島由紀夫の亡き後、悩みながらも半年後には就職。翌年には結婚をし、サラリーマン生活をしながら楯の会の活動も継続しました。他のメンバーも皆、サラリーマンになったそうです。真面目な人柄である本多さんにとって「元・楯の会ナンバー2」という過去は、その後の人生において良くも悪くも、ずっと肩にのしかかり続けたことでしょう。そして、どうして自分が決起のメンバーに選ばれなかったのかという疑問も、くすぶり続けたことでしょう。
三島氏の自決から22年目にしてようやく彼は自分のやりたいことを見つけます。それは現在の仕事。非営利団体「グリーンプラネット」という団体の理事として活躍する姿が紹介されます。飲料水を変え、排水を清め、河川や海を浄化することを市民活動として進める仕事に没頭する本多さん。
「緑の惑星に、元に戻そうということですね」
「楯の会は外からの敵に対して戦っていたわけですが、今は、敵は私たちの内側に潜んでいると気が付きました。」
ここでイメージショットとして街を歩く本多さんの姿と共に、三島由紀夫の小説『英霊の聲』から次の部分が、三島氏自身が朗読したレコードの音声で紹介されます。大ビルは建てども 大義は崩壊し
その窓々は 欲求不満の蛍光灯に輝き渡り
朝な朝な上る陽は スモッグに曇り
感情は鈍磨し 鋭覚は摩滅し
激しきもの 雄々しき魂は地を払う
楯の会の素顔三島氏は「楯の会」の活動の大義として「昭和維新」を掲げていました。ニ・ニ六事件をモデルに「維新草案」と名づけた憲法草案を作成し、天皇を中心にして日本の伝統・歴史・文化がしっかりと守られることを目指したものだったそうです。
テレビの前に初公開されたその草案は原稿用紙に手書きであり、「憲法論議よりも訓練の方が楽しい」などという冗談も書き込まれていました。本多さんは言います。
「これがそのまま実現できるだろうなぁとは誰も考えなかったでしょうし、まあ、最初の議論が始まった時でもね、私どもは別に、法律について格別勉強した人間ではない者ばっかりが集まってますから、まあ、議論は最初の一回か二回かな・・・先生も参加されてて・・・まあ、頭を抱えてたと(笑)。この程度のレベルかと(笑)。」「私たちにとっては、憲法草案も、楯の会の制服も、今となってはただ懐かしいばかりの青春の思い出です。それ以上でも、それ以下でもありません。」
三島由紀夫研究者やファンの中には、楯の会の活動や憲法草案について必要以上に「神聖視」し、自らの政治的主張を補完することに利用する人も少なくないのですが、本多さんのこのコメントからは、そうした余計な意味付けを払拭してしまうかのような痛快さを感じます。
なぜか霊媒師のもとへ・・・。今年の11月25日。
三島氏の35回目の命日「憂国忌」。
本多さんは一人で霊媒師のところへ行き、霊媒師の口を通じて語られた三島氏の声をカセットテープに録音してきました。(本多さんが自ら望んで行ったのか、番組スタッフにやらされたのかは定かではありません。)
カメラの前でテープを再生してみせる本多さん。神妙な顔つきで聴いているようですが・・・
特に心を揺さぶられることも無さそうに、無表情に聴き入る本多さんの顔は正直でした。彼の表情の変化を劇的に撮ろうとアップで待ち構えていたカメラマンのもくろみは、見事にスカされてしまったのではないでしょうか。テープから聴こえてくる(インチキ臭い)霊媒師の声・・・。
「すまなかった。私の分まで生きて、日本を支えて欲しい。」
ラストシーンとしては、テープを胸に、長い廊下を歩き去る本多さんの後姿がイメージショットとして撮影されていました。
???・・・なんだかな〜。
どうやら制作者達は、番組をドラマティックに盛り上げるべく様々な仕掛けを施したようですが、後半の展開はその「わざとらしさ」が前面に立ってしまい、はっきりいって興ざめしてしまいました。前半がミステリアスな展開でグイグイと引き込まれる展開だった分、番組としての最後の着地点があまりにも凡庸であるように感じられ、もったいなかったと思います。
しかし、主人公である本多さんの飄々とした真っ直ぐなキャラクターが、そんなテレビ的な仕掛けをものともせず、まるで「付き合ってあげている」かのよう(笑)。
番組スタッフの注文に色々と応えつつも、見事に「枠」からはみ出すエネルギーを発していて、人間的にとても魅力的でした。
次回は、この番組を通して考えた「三島由紀夫の死」について、現在の僕の見解を書こうと思います。(つづく)
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三島由紀夫とつきあってみる。010●霊に導かれた死・・・!?<前>
12/4に放送されたTBSドキュメンタリー『報道の魂』
「英霊漂ふ・・・〜三島由紀夫自決・35年目の夢枕〜」を見ました。
三島由紀夫の死について、かなり踏み込んだ内容で面白かったですよ。
一挙に掲載するととんでもなく長くなるので(笑)2回に分けて紹介します。
「なぜなのかと悔しく思った。」 この番組の主人公は、本多清さん(58歳)。
彼は1970年当時、倉持清という名前で楯の会に所属し、三島由紀夫の片腕として重宝される存在だったらしいです。
本田さんは三島氏を「先生」と慕い尊敬していたのに、なぜか自決のメンバーから外されました。同志の森田必勝は三島氏と最後まで行動を共にし、三島氏の首を撥ねて一緒に自決したというのに・・・。
どうして俺が選ばれなかった・・・? 三島氏の自決後、奥さんから三島氏の遺書を渡されたけれど彼としては納得できません。きっと、嫉妬も入り混じった複雑な気持ちを抱いたことでしょう。
今の本多さんは、もういい年なので落ち着いて語っていますが、若き日に心酔していた人に選ばれなかった悔しさはいかばかりだったかと思います。58歳の今でもその情熱は燃え続けていることを証明すべく、半裸のまま野外で真剣を振ったり、楯の会の制服でカメラに敬礼して見せたりと、健気なまでに撮影に協力しています。(かなり「やらされてる」感じでもありましたが・・・笑。)
そんな期待通りの場面の後、番組ではまず、誰もが気になる三島氏の自決の謎について推理して行くのですが・・・これがなかなか怖いんですっ!。
ニ・ニ六事件の将校の幽霊にとりつかれていた!?
自決の年の正月、三島邸で新年会があったそうです。そこには楯の会のメンバーや、友人の美輪明宏氏が出席していました。美輪さんはそこで、三島氏の背後に「青い影」を見たというのです。そのことを告げると三島氏は「お〜、こわい〜」とふざけていたものの、いったい誰の霊なのかが気になって、色々と名前を出しはじめました。そして「磯部か? 」と口にしたところで、サッとその「青い影」は消えたというのです。
磯部浅一とは、ニ・ニ六事件を指導した青年将校であり、三島氏が少年時代から最も強く関心を持っていた人。天を恨み国を恨み親を恨み・・・呪いを書きまくった遺書を残した将校なのです。美輪さんは三島氏に警告します。
美輪明宏
「三島さんあなたね、これにとりつかれてたらエライことになるから、これはお祓いした方がいいわよ。これだけ霊が強いんだから・・・。ねえ、自分であって自分でない行動をとってるなぁって不思議に思ったことは、おありにならない?」
三島由紀夫
「あるよ。『英霊の聲』を書いているときに。その時だけは朦朧として、半分居眠りしてるのに筆だけが闊達に動いてた。おかしいなぁと思って・・・それで、出来上がったのを見て不満足な部分があるから書き直そうとしてもどうしても何か、書き直せない力が働いてた。」
こ・・・こわ〜っ!!
ちなみに『英霊の聲』とは・・・1966年に書かれた作品で、ニ・ニ六事件の青年将校が霊媒を通して、国や親や世の中への恨みつらみの言葉を吐く内容だそうです。
三島氏は自決の年(1970年)の5月になって『英霊の聲』を自ら朗読してレコードに録音しました。番組では本人の朗読の声が紹介されましたが、無機質な読み方が本当に何かにとりつかれている人のようで・・・なんとも不気味な印象です。
本多さんは当時を振り返ります。「若かったので『ニ・ニ六事件のような決起では無駄死にになる』と先生に申し上げたことがありました。今思えばそれが、私が外された理由の一つだったのでしょう。」
「三島先生は、国を憂い、大義を問う死に方を求めていました。子ども心に焼きついた青年将校たちの生き方、死に様は、最終的に先生のお手本となってしまいました。」
やはり計算されていた!? あの死に方。
三島氏のあの死に方・・・。
決起して失敗してみんなから裏切られて死んで行くという展開は、磯部浅一の最後とそっくりだそうです。しかも11月25日という日は、三島氏の誕生日の49日前。つまり三島氏は自決から49日経った後、自分の誕生日に生まれ変わろうとしたのではないかという説が紹介されます。
↓つまり・・・
11月25日(自決)+49日=1月14日(誕生日=再生)
こんなことまで計算していただなんて・・・(でも、彼ならやりそう・・・。)
番組後半は、こんな三島氏と付き合った本多さんの現在の姿が紹介されます。
(つづく)
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