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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2018-08
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ブロードウェイミュージカル「RENT/レント」●PLAYレビュー

 『RENT/レント』の来日公演を新宿厚生年金会館に観に行った。東京は2、3日前から急激に寒くなった。寒さ対策に出遅れた僕は風邪の初期症状で喉が痛く頭がボーっとした状態。従ってかなり神経が「ささくれ立った」状態での観劇だったため、辛口の感想になることのご容赦を(笑)。

 『RENT』自体は今年の5月にクリス・コロンバス監督の映画「RENT/レント」を見たので物語は把握済み。同性愛者が当たり前の存在として描かれているし、80年代のNYの空気が見事にパッケージされた作品なのだと興味を持った。なるほど舞台では演出が面白い。限られた舞台空間で観客の想像力を刺激しながら場面が移り変わって行く。しかも舞台上でバンドが生演奏しているので「ライブ」を観ているような感覚にもなり、大抵の和製ミュージカルを観る時に感じがちな「むず痒さ」とか「嫌らしさ」を感じることは、なかった。

 ただ・・・なんだろう、あの客席の雰囲気は・・・。すでに「RENTファン/マニア」という共同体が出来上がっているらしいのだ。おそらく何回も観ていて物語を隅から隅まで知り尽くしているらしい客席を埋め尽くした2000人以上の観客の多くは、役者の演技が大したことのない(と、僕には思われる)場面でも、いわゆる「名場面」「見せ場」では勝手に拍手喝采。「えっ・・・今の・・・何が良かったの?」と、初心者である僕はしょっちゅう周囲から置いて行かれた。客席と演技者との関係って、もっと「対話」をしながら緊張感を持って成り立たせなくちゃ駄目なんじゃないの?と思ったり。

 ナマの舞台ならではの興奮とか、その場限りの一回性の一体感は・・・僕が観に行った回(11/17)では起こらず終了(と、僕には感じられた。)。それよりも僕の意識は途中から、日本語字幕の、あまりにもお粗末な表現に集中してしまっていた。

 日本語字幕にドン引き

●第一幕の最後。大事な「見せ場」の一つである歌のクライマックスで「ホモもレズも バイセクシュアルも・・・」という字幕が・・・おいおい、「生の多様性」を高らかに歌っている場面で「ホモ」かよ~!「レズ」かよ~!(←こんな大事な場面で差別語かよ~!笑)
●第二幕で、ゲイの「エンジェル」の追憶を語っているときに「ドラッグクイーン」 という字幕が・・・おいおい、彼は「ドラッグ(麻薬)のクイーン」なのかよぉ~!(←正確にはドラァグクイーンでしょっ!意味がわかってたらこんな間違いはしないはず。)

 一ヶ所ならまだしも、二ヶ所もこうした表現をしてしまうということは明らかに翻訳者の知識・調査・現実認識不足。それに、翻訳者はもとより上演を開始するまでに日本側のスタッフが誰一人として指摘して修正しなかったという事実にも驚き。にもかかわらず新宿2丁目から目と鼻の先の会場で10日間も上演されてしまっているという事実には寒気が・・・(←風邪もありますけど。笑)。
 アンケート用紙がFAXで送信できるみたいなので、指摘してTBS事業局に送ろうと思います。今後、観に行かれる方々はそこんところも要チェック!

●東京公演
2006年11月16日(木)~25日(土)東京厚生年金会館
●名古屋公演
日時:2006年11月28日(火)~29日(水)愛知勤労会館
●大阪公演
2006年12月01日(金)~02日(土)大阪厚生年金会館 大ホール
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劇団フライングステージ「ムーンリバー」●PLAYレビュー

     「自分」を教えてくれるのは、自分なのかもしれない。


 川というのは不思議なものだ。

 一人になりたいとき、心を開放したいときに川原に出かけると、なんとも言えない安らぎと静けさをくれる。特に夜の川原に月が出ていたりすると最高だ。目の前に広がる世界の大きさ。川面に映る「きらら」の明滅を眺めているだけで、時の経つのを忘れて魅入り、あれこれと取りとめもない思いが次から次へと溢れ出して行く。

 ゲイの劇団フライングステージが上演した「ムーンリバー」の舞台は、中央に大きな満月を配した舞台美術がとにかく美しかった。そして、階段状になっている川岸から主人公がぼんやりと川面を見つめるとき、その視線の先にある客席に座っている自分が、まるで冥界の住人になったかのような気がした。

 「ゲイであることの目覚め」に戸惑う中学生の男子の日常を、「大丈夫だよ、平気だよ。」と、そっと応援しながら見守る感じ。そこには、かつての自分と同じような壁にぶつかりながらも、自然体でぶつかって逞しく乗り越えて行く少年の、まっすぐで切実な姿があった。

 少年が川原に来ると、きまっていつも幽霊が現れる。大門伍朗氏の演じた「芸者ゲイ」の幽霊は、派手派手しい格好と大仰で荒々しい振る舞いで少年をからかい、同時に客席を大いに笑わせる。次第に、その幽霊は少年の心の中に棲むグロテスクな「本音の化身」なのだということが観客にはわかってくる。

 自分の中に棲む「魔物」から逃げず、肯定的に認めて受け入れたとき、人は本当の意味で人生の楽しみ方を知り始めるのかもしれない。幽霊との付き合い方を知った時、少年は人生を楽しみ始めたのだ。

 少年は恋心を抱いていた。家に住み込みで働いている年上の青年に。ラジオから語りかける「ゲイのみなさん。こんばんは」というタックさんの声が、そんな少年を刺激する。自分はもしかして、ラジオのパーソナリティが言っている「ゲイ」と呼ばれる人たちの仲間なのかもしれない・・・驚きと不安と興奮と。川原の幽霊はその感情をさらに引き出すかのように少年を刺激し続け、恋の素晴らしさを説き、未知の世界に跳び込むようにと促し続ける。

 そして嵐の夜。
 少年は青年と同じ部屋で、隣り合って眠る幸運を得る。
 大好きな青年と。

 すぐ隣で大好きな人が寝息を立てている。

 荒れ狂う夏の嵐の中。
 誰にも見られない。
 音も漏れる心配は無い。

 そして何より少年にとって嬉しいのは、その青年も「ゲイ」なのかもしれないという噂を仕入れていたことだ。自分の願いは届くかもしれない。しかし、もし彼がゲイではないのだとしたら大変なリスクを負うことにもなりかねない。

 恋に狂ったらどんな人でも大胆になる。「彼に触れたい、近づきたい」という思いは激しく高まって行く。嵐に後押しされるように。

 少年は、やっとの思いで青年に触れることが出来るのだが、青年はそれに気付いているのかわからない。相変わらず寝息を立て続けている。寝返りを打ったりしている。気付いているのか?いないのか?

 気付いていても、気付かぬ振りをしているのかもしれない。
 その、もどかしさ。

 翌日、少年の初恋は無残にも砕け散った。しかし少年は、彼と出会ったことで自分が「ゲイである」という抑えようの無い本性を知った。

 ゲイの未来はそこからはじまる。
 少年はこれから、自分を受け入れる旅に出発するのだ。


劇団フライングステージ第30回公演「ムーンリバー」

  1979年 秋
  台風、ラジオ
  初めて聞いたゲイという言葉
  僕の初恋

2006年8月9日(水)~13日(日)
中野 ザ・ポケットで上演。すてきな時間をありがとうございました。
作・演出:関根信一
出演:関根信一/石関 準/小林高朗/野口聖員/早瀬知之/阪口拓也/ますだいっこう/東じゅんぺい/羽田 真/加藤記生(宇宙堂)/木村佐都美(おちないりんご)/西田夏奈子/大門伍朗
美術:小池れい/照明:福田さやか/音響:樋口亜弓/衣裳:石関 準/舞台監督:笹原千寿/宣伝美術:佐久間記代子/宣伝写真:サトウカオル/稽古場:にしすがも創造舎/助成:芸術文化振興基金/制作:劇団制作社/プロデューサー:樺澤 良/製作:劇団フライングステージ

関連記事
劇団フライングステージ「ムーンリバー」は、あたたかい。
「ゲイのみなさん、こんばんは」

劇団フライングステージ次回公演
「二人でお茶を tea for two」

 作・演出:関根信一 出演:森川佳紀・関根信一
 日時:9/16(土)15:00~ 19:00~
     9/17(日)18:30~(開場は開演の30分前)
 会場:札幌BLOCH(ブロック)
  (中央区北3条東5丁目5 岩佐ビル1F)
 料金:前売り¥2,000 当日¥2,300
 主催:第10回レインボーマーチ札幌実行委員会
    HSA札幌ミーティング
 後援:THE BODY SHOP

劇団フライングステージ公式サイト
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桃花村舞踊公演「重力と愉快」●PLAYレビュー

大雪の日の夜、自転車での転倒にもめげず(笑)新国立劇場に田中泯さんが主宰する桃花村の舞踊公演「重力と愉快」を見に行ってきました。

僕は以前10年ほど前に新聞の招待券プレゼントが当たったことをきっかけに、田中泯さんがどんな人なのかも知らずに「独舞公演」を見に行ったことがあるのですが、その時はかなりショックを受けた記憶があります。天井から吊られた巨大な鏡を相手に格闘する姿はトゲトゲしく毒毒しいものであり、最終的には全裸になるなど、ウブだった僕にはとても衝撃的な内容でした。

今回の舞台はわりとスタイリッシュにまとめられていました。桃花村という舞踊集団の公演であり、彼は構成・演出・出演を兼ねていたということもありますし、この10年での彼の精神面での変化も当然あるのでしょう。いい意味でも悪い意味でも「洗練」という言葉を連想させられました。

舞台というものは生ものであり、一回性のもの。同じことが二度と繰り返されることはありません。この日は初日ということもあり出演者も硬かったのかもしれませんが、コンセプトや舞台空間と踊り手が、上手く共鳴出来ていなかったようで、残念ながら「舞台の神様」は降りて来ませんでした(・・・まあ、滅多に下りてくるものでもありませんけど。笑)。

それにしても新国立劇場・小劇場という所はどうしてあんなに無機質で冷たい空間なのでしょう。初台にある「新国立劇場」一帯の空間自体、新しくて綺麗で立派なんだけど人間としては落ち着くことの出来ない、「無菌空間の冷酷さ」を感じます。あんな冷たい空間では舞台芸術の「猥雑さ」とか「ケレン味」は発揮されないでしょうし、無駄にデザインや大きさばかりにこだわった、最近の公共施設にありがちな、建築した行政の「威信」ばかりを感じさせる失敗建築。実際にそこで息づくべき人間のことが考えられていないのです。

9・11以降の窒息イメージ

舞台には天井から吊るされたロープで四角いフレームが作られ、ベケットや別役実の世界を連想させる一本の電柱に外灯。他には二本の木が立っています。
そこへ子どもに引っぱられて登場する女や軍服姿の男たちが登場して、フレーム内から逸脱したり戻ったりしながら様々なイメージを現出させて行きます。ロープを端と端で引っ張り合って「対立する者同士」になる男たちは「終わりなき戦争」をイメージさせますし、あまり交感し合わずに自分の世界に閉じこもりがちな人物たちはディス・コミュニケーションに苦しむ現代人を皮肉っているのでしょう。しかし毒気が足りないしイメージとしての新鮮さもあまり感じられなかったのが残念です。

金魚の勝利

最も印象的だったのは、小道具として出てきた「生身の金魚」。
金魚鉢を抱えた女性が、本物の金魚を床に放り出してしまうのですが、真っ赤な金魚がバタバタともがく姿は、それだけで充分に生々しく鮮やかで目を引きます。やがて金魚の動きは止まってしまうのですが、拾われて水に戻されると何事もなかったかのように蘇生します。これぞまさしく「水を得た魚」。
さまざまな哲学的解釈を呼び起こすイメージ描写ではありますが、この日の舞台でいちばん印象に残ったのが、舞踊家たちの動きよりも金魚の「生物としての」意図のない純粋な動きだったというのが皮肉です。よく「子どもと動物には勝てない」ということが言われたりしますが、芸術家としては、ちょっと悔しい結果でもあります。

ホール公演休止宣言

実は田中泯さんは今回を最後に、ホールでの公演はしばらく行わないことを宣言しています。

「踊りは個人的で、衝動に近いものと思っています。踊りたいと思ったら公演まで待たずに踊りたいのです。劇場を否定するのではなく、少し離れて野外など非劇場空間で展開していきたい」

「踊り始めたらそこが劇場になってしまうんです。私の“真実の瞬間”を出せる場所で踊りたい。生き方をもっと踊りに近づけたい。」(産経新聞1/19より)

当日配られたパンフレットにも、英文でその意志が記されていました。
彼の言うことはわかります。舞台芸術家が公演をする際にはまず、2年ほど前に「会場を予約」し、企画書を提出してチラシを作り、やっと稽古がはじまります。さらには宣伝をし・・・ということを繰り返していると、活動がパターン化してきて「義務」になってしまうのでしょう。そうしたサイクルから抜け出したがっている彼の本音の部分が伝わってくる舞台内容ではありました。

ラストシーンは、舞台空間と現実空間を隔てる「フレーム」として使用されていたロープを使って皆で縄跳びを始めるのですが、綺麗につっかえずに飛ぶことが目的なのではなく、様々な人間が共同作業として「遊ぶ」時空間を作りたかったのでしょう。しかし、この日の舞台ではそうした奇跡の瞬間は訪れません。途中で突然、田中泯さんが客先に振り向いて「ありがとうございました」と言って縄跳びを断ち切り、幕切れとなりました。「えっ、これで終わっちゃうの」という中途半端な気持ちになったことは否定できません。

その後、日曜と月曜にも公演があったので、この日の反省や反響をもとにして最終的にどんな形に発展して行ったのかはわかりませんが、初日の上演でいちばん僕の印象に残ったのは金魚の生命力と、演出家として疲れている田中泯さんの「苛立ち」のようなものでした。やっぱり彼の「独舞」を見てみたい。そう思いました。

田中泯さんの次の公演は、宣言どおり野外で行なわれます。
●JADE2006・土方巽メモリアル
田中泯独舞「生理歩測」
地図-01-カラダカラダノダカラダ。
舞踏:田中泯
楽士:大熊ワタル(クラリネット)
楽士:こぐれみわぞう(太鼓)
3/11(土)・12(日)
両日とも開場13:30/開演14:00
新宿・戸山公園箱根山地区にて無料。
大久保通り口の受付に集合(雨天決行)
公園内をあちこち移動するらしいです。
問合せ:JADE事務局 03-5728-2547

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田中泯・砂に踊る「兵士の物語」●PLAYレビュー(TV)

音楽VS言葉の物語

NHK教育テレビで1/3(火)に放送された、田中泯・砂に踊る「兵士の物語」。
ストラヴィンスキーが劇場用音楽として作った曲を、舞踊家と作曲家とテレビ演出家とのコラボレーションで映像化したもので、とても見ごたえがありました。なにより、「言葉」と「音楽」を対比させるという、この物語に込められたメッセージの深さに惹かれました。


悪魔に魂を売り渡し、巨万の富を得る男

登場人物は兵士と悪魔の二人。
休暇をもらって戦場から帰ってきた兵士が、河原でヴァオリンを弾いて休んでいます。兵士は音楽家であり、音楽は彼の魂。純粋に音楽を楽しむ彼。

そこへ悪魔が登場し、「お前のヴァイオリンと引き換えに、未来の事が何でもわかる本をやろう」と告げます。悪魔が言うには、その本には未来の出来事が為替レートからなにからすべて記されているというのです。
兵士は悪魔の誘惑に乗り、ヴァイオリン(=音楽=魂)を手放してしまいます。

巨万の富は、心を砂漠にするだけだった

兵士は故郷の村へ帰りますが、誰も兵士の姿に気付きません。魂を売り渡してしまったので、もう「生きている人たち」と交流が出来なくなってしまったのです。
亡霊となって彷徨いながらも、未来の事が書かれている本によって兵士は巨万の富を得ます。しかし、心は乾いて行くばかりなのでした。


音楽の喜びを取りもどす

そんなある日。
兵士は、城に眠る王女に恋をします。しかし眠っている彼女を目覚めさせるには、音楽の力が必要らしいのです。
そこで兵士は再び悪魔に会い、せっかく築いた巨万の富と粗末なヴァイオリンを交換します。

兵士が必死で奏でる魂の音楽は、王女の心に届いて目覚めさせ、二人はめでたく結ばれることになりました。
やがて兵士が手放した預言書は朽ちて行きます。兵士はもう、未来の事を知ることが出来なくなりました。その代わり、「生きる」ことを取り戻しました。

悪魔は不滅である

一方、悪魔が死ぬことはありません。
また次の機会を狙って虎視眈々と目を光らせ続ける悪魔の踊りで、物語は幕を閉じます。・・・このように、「兵士の物語」は一見単純な寓話形式ではありますが、そこに込められた世界観は、まるで20世紀の世界史を暗喩しているかのようです。「言葉」のもたらした「理想」や「大義」に翻弄され、「現在の喜び」を見失った果てに、数々のジェノサイドが引き起こされました。そして、いまでも悪魔は簡単に人々の心に忍び込み、心の砂漠化は進行中です。とても現代性のある物語であり、人間の普遍的な愚かしさを鋭く衝いている傑作だと思いました。

田中泯という表現者

田中泯さんは悪魔を演じていたのですが、飄々とした風貌がピッタリでした(笑)。何よりも、その軽やかな動きの自由さに目が引き付けられます。踊っているのに踊っているように見えない。抽象表現をしているはずなのに、そんな風に感じられないから不思議です。
番組内で語られていた、田中泯さんの舞踊論を紹介します。

「たぶん私たちは、重力から逃れないことを選んだ・・・っていう風にも言えるわけですね。だから、重力そのものが本当は愉快なものなんだと思ってもいいんじゃないかなっていう気がするんです。そのことを本当に認めきった時に、とても愉快なこととして、僕なんかには感じられるんですね。用意周到に、大変な労力を使って準備を重ねて、そしてそれが一瞬・・・本当に短い一瞬かもしれないんですけども・・・いや、長い一瞬かもしれません・・・その一瞬に、フッと自分に訪れてきた時の、楽しさ。愉快さみたいなものっていうのは、僕はとってもわかるような気がします。」
田中泯さんの舞踊は、いわゆる「ショーダンス」ではないので「派手さ」や「わかりやすさ」とは無縁なのですが、一つ一つの動きに「他者との関係性」や「自己の内面」や「音楽との葛藤」が複雑に絡まり合っていて深みがあるのです。しかもそれを理屈(言葉)ではなく魂(音楽)として表現できる方法を、彼は体得しているのでしょう。
たとえ映像として切り取られてもその強度は死なずに、見る者を充分、惹き付ける力を持っていました。ぜひ今度、生で舞台を見てみたいと思います。
●田中泯さん舞台情報
桃花村舞踊公演「重力と愉快」(田中泯公式サイトより)
新国立劇場・小劇場にて
2006. 1/21 sat 19:30, 22 sun 16:00, 23 mon 19:30
構成・演出=田中泯
出演=玉井康成、夏井秀和、菊島延幸、原田悠士、石原志保、松尾彩子、伊藤菜起、渡辺奏、田中泯
◎入場料(全自由席・日付指定)前売¥3,000 当日 ¥3,500
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八月納涼歌舞伎「法界坊」●PLAYレビュー

歌舞伎を観たのは10年ぶりだ。

10年前の僕は「東京に出てくる」ということだけで興奮し、見るもの聞くものが珍しかったというおめでたい奴だった。「こ、これがあの有名な歌舞伎座・・・本物だぁ・・・」と建物を見上げながら単純に感動したことを憶えている。

当時は学生だったから当然のごとく金はない。
いちばん安いチケットを買い3階席の後ろの方から観たのだが、そこで巻き起こる現象のすべてが面白くて新鮮だった。

遠く下の方に見える舞台に向かって、隣の席のおじさんが突然「ヨッ○○屋っ!」と声を掛ける驚き。しかも何人もあちこちから声を掛けるのに、しっかりと声が揃っているのも不思議。
大きくて色鮮やかな舞台セットと、役者の衣裳にも目を奪われた。物語の筋はわからなくても、舞踊として視覚をちゃんと楽しませてくれる。
そしてなにより、場内に漂うあたたかな雰囲気がいい。
現代劇(新劇系)の舞台に親しんでいた僕にとっては、観客が作り出す歌舞伎座独自の「場」の雰囲気が珍しかったし心地よかった。

その後、行く機会はなかった。なんとなく取っ付きにくい印象は拭えなかった。歌舞伎独自の様式や物語に親しんでおかないと、やっぱり敷居が高く思えてしまう。

しかし今回突然、観る機会が訪れた。10年前の感激の記憶と照らし合わせながら、今の僕がなにを感じるのかがとても楽しみになり、出かけてみた。
歌舞伎鑑賞2回目の、とても素朴で幼稚なレビューになることをお許し願いたい。

えっ、あの人たちみんな男?・・・性の超越ぶりがあまりにも自然。

一階席のほぼ真ん中という好条件での観劇。舞台が近い。花道も近い。10年前とはまったく別の劇場に来たみたいだ。
イヤホンガイドを借りて準備は万端。緞帳が開いてさあはじまった。

お茶屋の店先で女中さんたちが歌舞伎調の台詞回しで喋っている。
来たぞ来たぞ、これぞ歌舞伎っ!
綺麗で華やかで明るい世界に浸ろうかと思いきや、ん?・・・そういえば。初歩的な疑問が頭をよぎる。

歌舞伎役者ってみんな男なんだよねえ。たとえ女中さんの役でもそうなんだよねえ。
えっ・・・あの、どう見てもナチュラルに軽い身のこなしで女として振る舞っている人が、実生活では男なのか?
声だって全然太くない・・・。さすが。歌舞伎の芸は幼い頃からみっちりと仕込まれるというから、これは訓練の成果なのだろう。
「女形」というにはあまりにもナチュラル。「女」を誇示していないのに自然に女として舞台に存在している。舞台上における性の越境ぶりの自然さに、クラクラと軽いめまいがした(笑)

串田和美さんが演出という期待。

歌舞伎は一日中上演している。僕は夜6時からの「法界坊」を見たのだが、演出は串田和美さん。なんと、現代演劇界におけるビッグ・ネームではないか。

かつて「オンシアター自由劇場」を主宰し吉田日出子さんらと「上海バンスキング」などのヒット作を作った彼。現在ではフリーの演出家として数々の舞台を演出し続けている。
歌舞伎の演出は何度か経験があるらしいが、僕は今回はじめてそのことを知り、驚いた。
黒テントなどで実験的で先鋭的な舞台を演出してきた串田さんが歌舞伎!?。
野田秀樹さんや蜷川幸雄さんも最近は歌舞伎の演出に進出しているという。
それだけ歌舞伎界が「新鮮な現代の空気」を取り入れ、革新して行こうという意欲に満ちているのだと思う。なかなか面白い展開であり今後が楽しみだ。

役者同士の関係性を丁寧に構築。「様式」で死んだ演技を否定する。

串田さんの演出は、俳優の演技の質に如実に現われていた。

基本的には歌舞伎の節回しを大切にしつつ、時々、まるで現代劇であるかのような「遊び」を俳優にやらせるのだ。
上手い俳優は、そうしたアドリブであるかのような「遊び」を楽しみ、客席を沸かせる。それは相手役との関係性をしっかりと把握し、「様式だから」という安心感に埋没してしまわない「生きた」演技の形である。しかし「遊び」はあくまでも「遊び」。歌舞伎調の様式という基本にすぐ戻れるからこそ遊べるのである。

「現代的遊び」と「伝統様式」との行ったり来たり。
その浮遊した演技感覚が自ずと俳優たちに緊張感を持続させ、観客にもスリルを与える。
だから歌舞伎なのにちっとも眠たくならないのだ。

主役の法界坊を演じる中村勘三郎さんは、その点やはり「ピカ一」で、演出家の要請を見事に消化していた。
法界坊とは「悪僧」のことなのだが、基本的にダラダラとした崩した姿勢で存在し、幼子のような幼稚さも兼ね備えたコミカルな役柄を飄々と楽しんでみせてくれる。身体が身軽だし、アドリブもバンバン入るから目が離せない。
彼が舞台にいる時といない時では、「場」の温度が明らかに違うように感じられた。

伝統芸能というものはどうしても「様式」に甘んじて死んだ演技をしがちになる。
見ている者は退屈しやすく、眠くなりがちだ。
しかしこうした現代劇における演技の基本を導入することによって、生き生きと躍動をはじめるのだ。だからこそ、歌舞伎界から現代演劇の演出家へのラブ・コールが絶えないのだろう。
歌舞伎界は、生き残るための大切な鉱脈を見つけたのである。

歌舞伎とは「見えないはずのものを見せてしまって、あっけらかんと笑い飛ばす遊び」である。

物語は基本的には、封建制度の理不尽さに翻弄され、恨みや妬みがぶつかり合って殺し合いにまで進展して行くという歌舞伎の王道どおりの展開。

きれいだったはずの登場人物の心に潜んでいた「エロ」や「悪」が、どんどん露呈してゆくさまはグロテスク。滑稽なくらいに様式で誇張されるものだから、その露悪的な物語がちっとも陰惨には感じられないのがいい。

立ち回りで相手の腕を切り落としたらユーモラスに飛んで行ったり、顔を切りつけたらパカッと割れて中の肉が丸見えになったり。本当ならば正視するのも憚られるような気持ち悪い出来事を、平気で軽々とやってしまうのだ。
演出家は、こうした歌舞伎の特色を意識的にわざと誇張して、際立たせる仕掛けをいくつも設けている。

黒は「見えないもの」の象徴。そこをあえて「見せる」演出。

たとえば、暗闇の中で何かを求めて探りあい、立ち回る「だんまり」という無言劇の場面。
本来は背景に黒幕を張ったり照明を暗くして「暗闇」を表現し、その中をスローモーションのように皆が動きまわるというスタイルなのだが、串田演出ではわざと客席の電気までつけて煌々とまぶしい中で「だんまり」を行わせた。
最初は違和感があってどう観たらいいのか戸惑う観客も、しだいに「普段は隠されていて見えないもの」の細部までじっくりと観ることの楽しみを見出して行く。

「黒子」の存在も際立たせた。「黒子」は本来、舞台上に出てきても「見えないもの」として扱われる存在。ところが串田演出は黒子にも物語に介入させ登場人物とコミュニケートさせたり、意志を持った人格としてさまざまな悪戯をさせている。

雷の場面ではわざと「風神・雷神」のパネルをあざといまでに吊るして登場させ、目には見えないはずの自然界の神々の存在をも舞台上に現出させる。歌舞伎の持つ「あざとさ」を余計に際立たせて批評してみようという試みを感じた。

そして、たぶん串田さんが最も(?)こだわったであろう演出が、二幕のラスト近くにあった。
法界坊が幽霊となってロープで吊るされ、客席の上を彷徨う場面のあと。
吊られた幽霊が姿を消し、さあこれで終わりかと思いきや、いきなり舞台の隅に大きなサーチライトが一つ登場し、ものすごい光量で天井を照らし出す。縦横無尽に動き回るライトの先に、
なにかが捕らえられて照らし出されるのかのような期待を持たせておいて、結局はなにも照らし出さずに、行き場をなくしたかのようにライトは去って行く。
一見すると意味がない。しかし、何かが暗示されているような気がして胸に引っかかった。

謎のサーチライトが象徴するもの。

観劇当日の僕は、この謎の演出の意味がわからなかった。
物語とは関係のない意味不明なことをするということは、演出家がその場面に強いこだわりを持って仕組んだということを意味する。あの仕掛けはなんだったのだろう。

今日になって突然わかったような気がした。
あれは「見えないものを見えるようにしたい」という、「露悪」への憧れを持ち続ける人間存在というものを象徴したかったのではないだろうか。
「なかなか見えない」からこそ、「もっと見よう」と思って人は惹きつけられる。しかも隠されていて「悪」の香りがするものに、人は根源的な魅力を感じて引き寄せられる。エロスというものはそういうものだ。

しかし現代社会はそうした「悪」や「汚いもの」をどんどん、社会の表舞台から抹殺して「クリーンな」管理社会へと変貌しようとしている。人間本来の多様性は否定されて画一化され、不自由で息苦しい社会を我々は築きつつある。
そうした流れの中でも人間の根源にはやっぱり「悪」がある。「悪」とは「人間の本能」の別名だと僕は考える。本能を無くしたら、すでにそれは人間ではない。

社会の息苦しさによって「悪」のガス抜きができにくくなってしまったら、歪んだ形で「悪」は蓄積されて行く。鬱積されたマグマはいつか必ず噴火する。そのための出口を塞いでしまうのが現代社会。じゃあ、どういう形で噴火すればいいのか。自分で新たに捜さなければならない時代なのだ。

歌舞伎は「悪」をあっけらかんと舞台上に提示し、観客に大笑いさせたり美しさに酔わせたりする。昔から「悪場所」と揶揄されながらも人々に求められて来たのは、歌舞伎のグロテスクな「悪」を見に行くことで、自らの「悪」をガス抜き出来るからなのかもしれない。

本当の暗闇の深さを知らなくなったわれわれ。

あのサーチライトは、現代のわれわれの欲望の姿だ。
幽霊を探しても、私たちには見えなくなってしまった。
あまりにも明るくクリーンで清潔な「良識」の灯りに包まれることに慣れてしまったから。
もう、幽霊や魑魅魍魎たちのおそろしくも魅力的な姿に、本当の意味で怯えることが我々には出来なくなってしまった。
そもそも東京に住んでいると、夜でも「闇」がない。
深夜でも地上のネオンサインが夜空を染め上げていて、路地という路地には外灯が赤々と点いている。闇に潜む幽霊の存在など、想像すら出来なくなる。
こうして人間としての本能は、どんどん鈍くなり殺されてゆくのだ。

なんとつまらないことだろう。
闇の深さを知らなければ光の素晴らしさも知ることは出来ないというのに。

そう思うと、あの日見た歌舞伎のすべての場面が、遠い世界にある懐かしいけれどももう届かない、グロテスクな夢の世界に思えてくる。なんだかせつない。

見えないからこそ見ようとする。
見えないものがなくなったら、見ようとすることすらしなくなってしまう。

そうした力に対抗し、人間のありのままをみつめようとする営み。
昔も今も、歌舞伎の本質は「ロック」である。


「法界坊(ほうかいぼう) 」
序幕 深川宮本の場より
大喜利 隅田川の場まで
浄瑠璃「双面水照月」
演出・串田和美(ポスターの人形制作も→)
歌舞伎座にて8月28日まで

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