フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2018-06
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トランスジェンダー・ケイさんの大阪自彊館闘争、和解へ

 1月10日にGAY JAPAN NEWSが報じたところによると、性同一性障害を理由に2006年に解雇され、その不当性を訴えていたケイさんの「大阪自彊(じきょう)館闘争」は、社会福祉法人「大阪自彊館」側がケイさんに慰謝料180万円を払うことで、昨年末に和解という形になったそうです。

性同一性障害男性に180万円 雇用打ち切り訴訟が和解(GAY JAPAN NEWS)

 ケイさんの訴訟は2006年10月以降、テレビ朝日「スーパーモーニング」にて全国ネットで報道されるなど社会的な注目を集めていました。また、当人も関西レインボーパレードに参加したり、2007年5月に行われた神戸LGBTIQプライドマーチでは、アフターイベントの「L.T.mini」にて自作詩「赤いサンダル」をステージで読むなど、関西方面のコミュニティー活動の場で積極的に、この問題をアピールして支援を呼びかけてきました。その成果が実ったと言えるでしょう。

■再掲載
神戸LGBTIQプライドマーチL.T.mini06●ケイさん自作詩「赤いサンダル」
  
■初掲載時の記事(2007年6月13日)
神戸LGBTIQプライドマーチ参加記12●アフターパーティーL.T.mini03●エイズに学ぶ、心豊かになる為の神戸からのメッセージ

 改めて見てみると、また詩の意味が深く感じとれました。ところでケイさん、実は尾辻さんのPVにも出演してるんですよ。何処に出てくるでしょ~?(ヒント:大阪での5月5日のイベント終了後に撮影しました。)

[ PV ] 尾辻かな子「Running to the rainbow」
  

 個人的な問題なんだと泣き寝入りせずに「社会の問題なのだ」と声を上げることによって、はじめてその声は「声」になる。そして「聞く耳のある人」にはちゃんと届くんだということを、ケイさんの行動から教えてもらいました。FC2 同性愛Blog Ranking

いまさら東京にオリンピックなんていらない

     ▽東京新聞9月2日掲載記事「『東京五輪』招致 石原都知事に聞く」より

「メンタル面では、日ごろの情操を培う基本的なものを精錬するとかね。新宿の二丁目と歌舞伎町は美観とはいえないよね。銀座でもごてごてと色があるし。景観法ができたし、規制力のある条例を今年中に作ります。」

 かつて、1965年に「東京オリンピック」という映画を監督した市川崑は、映画の冒頭に「破壊」のイメージを置くことで時代の空気を表現した。

 クレーンから吊り下げられた鋼鉄の大きな塊が、容赦なく古い建物を打ち砕いて行く映像は、日本の近代化を世界にアピールするための祭りの裏で、なにが犠牲になったのかを如実に浮かび上がらせている。

 戦後20年の蓄積。様々に花開き息づきはじめていたはずの東京独自の庶民の文化。多様な人々が多様な有り様で生活していた豊かな街。猥雑だけれど活気に溢れていた生活の場。それらが皆「近代化」の名の下に画一化され、無個性化されて行った。

 今、また「東京でオリンピックを」と石原慎太郎都知事が燃えている。東京オリンピック当時は作家として、三島由紀夫氏らと共に若者文化の旗手だったはずの人。そんな彼が今、東京の文化を再び破壊し、画一化する政策を推し進めようとしている。

 時代はもう「高度経済成長」を欲してはいない。日本は充分豊かになった。
 今更がむしゃらになって背伸びをし、世界に存在をアピールする必要などない。

 「多様な生」は、個性的な街の中で息づき花開く。
 無個性な街では「無個性な生」が培養されるのみ。

 色はたくさんある方がいい。
 個性的に咲き乱れるたくさんの色のある街こそ、
 東京が世界に誇る文化であり、世界が東京に期待する姿である。


市川崑「東京オリンピック」
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アカデミー賞は日系3世のドキュメンタリーにも注目

 フツーの視点で原爆を語る。

 今年のアカデミー賞。
 「ブロークバック・マウンテン」や「トランスアメリカ」以外に、僕としてはこちらの作品にも注目しています。

 短編ドキュメンタリー部門にノミネートされた「ザ・マッシュルーム・クラブ」(原題「The Mashroom Club」 )という作品で、監督は日系3世のスティーブン・オカザキさん。
→公式HP

 彼は米カリフォルニア州バークリー在住の映画監督で、これまでにも1985年に「公式命令9066/日本人強制収容所」(原題「UNFINISHED BUSINESS~The Japanese American Internment Cases」が長編ドキュメンタリー賞にノミネート。
 1991年の「待ちわびる日々」(原題「DAYS OF WAITING」では、短編ドキュメンタリー賞にノミネートだけではなく受賞も果たしています。一貫して第二次世界大戦という歴史を基点に日本とアメリカの関係にこだわり続けているドキュメンタリストです。

 毎日新聞2/21夕刊「ひと」欄のインタビューによると「ザ・マッシュルーム・クラブ」を作るきっかけは、1979年に友人が英語に翻訳した漫画「はだしのゲン」を読んだことだそうです。戦後50年目の1995年に、米国ではあまり原爆のことが話題にならなかったことに問題意識を持ち、戦後60年を機に昨年、作品を完成させました。

「日本側は被害者の立場だけを強調し、米国側は放射能汚染に触れたがらない」

 ・・・そんな両国それぞれの原爆言説の偏りにかねてから疑問を持っていたというのが、彼ならではの着眼点。日系3世という立場は、日本とアメリカのどちらにも距離を感じるらしく「日米のはざま、太平洋に漂っている」ような感覚をもたらすようです。どちらにも属していないという意識は、どちらにも批判的な視点を持つことにつながります。むしろ彼のようなドキュメンタリストには必要なことであり、財産でもあるのでしょう。

日米とも、加害の歴史に触れるのは「怖い」のだ。

 長年アメリカに住んでいるだけあって、「米国人の心のつかみ方は心得ている」というのが彼の強み。「米国人は原爆の話や映像が怖いのだ。怖がらせず、被爆者の話を聞いてもらえるよう工夫した。」・・・彼の発言からは、率直で真っ直ぐな人柄が窺えます。日本がアジア各地での加害責任と向き合わずに隠蔽しがちな態度を取っているのと同じように、アメリカの人々が原爆被害から目を背けがちであることを「怖い」ということばで表現しているのが印象的です。
 そういえば、ハリウッド映画で原爆を扱ったものはまだ制作されていませんね。原爆投下を「第二次大戦を終わらせた歴史的な出来事」と見ている割には冷たい扱われ方です。やはり「怖い」し「触れたくない部分」であり、出来れば考えたくないのでしょうね。

「原爆を政治問題化せず、被爆者の話を聞こう。数年後に彼らはいないかもしれないから」

 「原爆もの」というと、日本でこれまでに作られてきた作品はどうしても、被害の悲惨さや人命の尊さを情緒的に訴えてくるものになりがちでした。
 もちろんそうした作品は「あの悲劇を忘れない」ためには必要だし意味のあることですが、日本人の既成の原爆観を補強する役割しか果たせていないようにも思います。

 「原爆投下」については様々な歴史的解釈が存在し、なかなか対話が進まないままでいる現在。そこには政治的な思惑も複雑に絡んでいます。そして、安易に一昔前の「イデオロギー対立」の時代の図式に結び付けて感情的に捉えられがちである状況は続いています。この作品がそうした現状に対して何か思考を深めるものになっているのかどうか、未見なのでわかりませんが、彼のような立場の人が作ったということで新しい柔軟な視点が獲得できているのではないかと思います。もし日本で公開される機会があったらぜひ、見てみたいと思います。

 「原爆投下は正当だった」とほとんどの国民が思っているとメディアによって伝えられているアメリカにおいて、アカデミー会員たちがどんな評価を下すのか。原爆を真正面から扱ったこの作品の動向に注目したいと思います。

 スティーブン氏は現在、アメリカで若者に人気のケーブルTV「HBO」の依頼で、2007年から原爆シリーズを放映するために広島、長崎、米国の被爆者を取材しているそうです。
 彼のように「宙ぶらりんで、どちらに対しても批判的な立場を取れる」ことをプラスにして最大限に生かしている姿勢は、ゲイである僕に、なんだかとても勇気をくれます。

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映画「ペパーミント・キャンディー」新文芸坐で26日上映

「ウォンビン兵役報道に思う」で紹介した映画「ペパーミント・キャンディー」が、池袋の新・文芸坐での特集上映「“韓流”シネマコレクション2006」で26日(木)に上映されます。僕はかつてこの映画を見て、とてもショッキングで深い感銘を受けました。とても大好きな映画なので、パンフレットを引っ張り出して再読してみました。

この映画は、日本と韓国が共同で文化事業に取り組んだ最初の映画だったらしいです。1999年にNHKと韓国のイースト・フィルム・プロダクションが共同製作。当時としては画期的なことでした。
2000年1月1日にソウルの少数の映画館で封切られるや口コミで評判が広がり、一気に上映館が広がったそうです。何度でもこの映画を見ようという「リピート運動」まで展開され、カンヌ国際映画祭、モントリオール世界映画祭などの映画祭でも高く評価されました。

物語は40歳の男が人生に絶望し、自殺をしようとするところからはじまります。そして彼の人生を少しずつ遡りながら、結果的に韓国の現代史の闇が浮かび上がる構造になっています。映像表現としても美しく、物語としての娯楽性にも秀でた稀有な映画です。
監督のイ・チャンドン氏の言葉を紹介します。

あの映画では個人だけを描いたというよりも、韓国社会の20年間も描いたと言えます。映画のスタート地点は、1979年で(主人公の)ヨンホは20才です。韓国という国も青年時代でした。(中略)あの時代は貧しかったけれども希望があった。20才のヨンホがカメラマンになりたいという希望を抱いていたようにね。それから自己への裏切り、自己否定の時代、夢や理想を忘却していく時代になったのです。

「ウォンビン兵役報道に思う」でも触れましたが、映画の主人公ヨンホは光州事件の時、たまたま軍隊に徴兵されていたために同世代の若者たちを「弾圧する側」に立たされトラウマを負います。その後は刑事となって労働組合員を拷問する立場になり、やがては実業界で成功を修めるのですが・・・彼の人生からは大切なものがどんどん欠けて行くのです。

光州事件が起きた1980年5月、私は25才でしたが、当時の大学生は民主化運動の真っ只中で、光州のことは噂で伝わってきていました。全斗煥 の新軍部がその後の政権を握って、私は絶望しました。ああいった政権が生まれて支持されるという社会システム、人に対する不信感。純粋な自分には理解することができないほどの絶望感でした。そして、この絶望感が、のちの私の人生を支配することになるだろうと思いました。

(光州事件に関しては)報道規制がなされたため詳細は報道されませんでした。事件の真相は詳しく知らされていません。今回の撮影でも光州の場面が一番苦労しましたね。国防省の許可がとれなくて物理的な面で苦労しました。(中略)現在の韓国は民主化の時代と言っても、やはり光州のことは軍の恥部なので、協力を得ることはできませんでした。

なおこの映画は、当時まだ無名だった俳優のソル・ギョングさんを一躍有名にした作品としても知られています。彼はこの映画での演技力が高く評価され、その後「シルミド」「燃ゆる月」などに出演。3月には「力道山」の公開が控えており、カメレオン俳優と呼ばれるほどに役によってガラッと印象を変えることの出来る名優です。
2002年に彼は再びイ・チャンドン監督作品「オアシス」に出演。26日の文芸坐ではこの二作が二本立てで上映されます。興味のある方はぜひ。
●上映時間
「ペパーミント・キャンディー」
・・・12:45/5:45
「オアシス」
・・・10:20/3:20/8:15(終映10:30)
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☆関連記事・・・イ・チャンドン「ペパーミント・キャンディー」●MOVIEレビュー

乳癌で療養中の宮崎ますみさんを応援します。

療養生活をブログで公開中

先日のMOVIEレビューで紹介した「奇妙なサーカス」で女優復帰を果たした宮崎ますみさん。
数々の報道があったようなので既にご存知の方もいるかとは思いますが、昨年12月2日に乳癌の手術をされ、現在自宅療養中だそうです。ご自身の公式ホームページでコメントも発表しています。

せっかく、あそこまで体当たり演技で臨んだ主演映画の舞台挨拶に参加できなかった無念は、いかばかりかと思います。
しかし現在の彼女は前向きに過ごしているようで、1月13日からはブログ「Trinity Life」 を立ち上げ、手術後の療養生活について毎日記事を掲載されています。

宮崎さん本人もブログに書かれていますが、乳癌というのは今後、女性の死亡率トップになるのではないかと言われている位に身近な病気であるようで、生活習慣や食生活、精神的なものなどが密接に関わっている「現代病」でもあります。彼女がこれから、癌という病気とどう付き合って行くのか。なにを感じて発言して行くのかが、僕としてはとても気になります。
なぜなら・・・「奇妙なサーカス」というスゴイ映画を通じて、僕は彼女が人間性の奥深くまで曝け出す姿を見てしまったからです。おかげで、とても他人とは思えないほどの親近感を持ってしまいました・・・あの映画はとても不思議です(笑)。
こちらのサイトで、初日舞台挨拶に寄せた、彼女のコメントがあったので紹介します。

「園監督は、嘘やごまかし、醜さ、甘美さを、そのまんま容赦なくフィルムに焼き付けてゆきます。まったく恐ろしい監督とめぐり合ったと思いますが、闇を描ける監督は実は深い愛を知っている方だと思います。映画を観た皆さんが、闇の中から光を見つけ出してくだされば、演じたかいがあります。どうぞ楽しんでください」

彼女がなぜ、このハードな作品に出演したのかが伝わってくる、すごくいいコメントだと思いました。監督の園子温氏にとっても、宮崎さんとのめぐり合いは作品に強烈なインパクトを与えたようです。パンフレットのコメントから抜粋します。

「今回は、僕の世界に彼女を引きずりこんだっていうことはないんですね。逆に、彼女の世界を作るためにやってみたら、こういう風になりました、って感じ。」
「彼女の書く文章も読んでみたんですけど、非常に、聖なるものと邪悪なるもの、美しいものと醜いもの、けっこう強烈な対比を好むものが多かったので、この人だったら、そういった世界のほうが輝くんじゃないかなって。エロスだけだとちょっと違って、タナトスにも重きを置きました。」
「宮崎さんにはそんなにタブーはなかったみたいで。実際、どんな設定でも意欲的でね、自分で解釈されるんですよね。いろんな比喩とか使って組立てて、深く読んでいただいて嬉しかったですね。僕の意図さえも超えていた(笑)」

宮崎ますみさんは映画に合わせて写真集も制作したようです。
過激なヌードも披露しているようで・・・今回の映画でのモノスゴイ弾けっぷりといい、かなりアナーキーな感性を持った方のようであり、ますます好感を持ちました(笑)。こういう人には今後もっともっと女優として活躍して欲しいので、ぜひ癌を克服して再度、復帰して活躍してほしいです。
映画の方は、2月9日からベルリンで開催される第56回ベルリン国際映画祭のフォーラム部門に出品されるそうです。
☆東京でのロードショーは終了しましたが、公式サイトによると各地で上映が続いています。耽美でグロテスクな世界が好きな人にはオススメです。
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77時間の「おわび」が今日で終了

12月10日から始まった松下電器産業(株)のCM切り換えが今日で終了の予定です。

松下製温風機の欠陥を告知して回収を呼びかけるあの地味ぃ~なCM・・・。
きらびやかで賑々しい(&騒々しい)他社のCMに紛れて、無機質で無感情な中年女性の声が奇妙な静寂をもたらしていたあの時間。なにも関係ない視聴者にまで「気まずさ」を撒き散らしていた迷惑な15秒とも今日でおさらばです。

それにしても「National」「Panasonic」両ブランドを合わせた新製品のCMすべてがあの「告知」一色になってみると、その放送頻度の多さには驚かされます。松下では年末商戦に合わせ、この10日間だけでも1万7200本のCM枠を用意していたそうです。放送時間にすると77時間。費用は約50億円にもなるそうです。年末ボーナス商戦の一番大切な時期ですから、いくら家電業界の中で今年の「勝ち組」と言われる松下といえども、売上げへの影響は深刻なものがあるのではないでしょうか。
(データは「Fuji Sankei Business i 」12/19号より)

JOCや浜崎あゆみのタイアップにも打撃

CM切り換えによる損失は松下のみならず、松下の商品とタイアップした他業種にも及ぶようです。プラズマテレビ「ビエラ」のCMにはフィギュアスケートの安藤美姫選手が起用されていますが、松下の大量オンエアが無かったことでJOCの冬季オリンピック・キャンペーンは出遅れました。

依然歌謡界に君臨し続けている歌手・浜崎あゆみさんにとってもPanasonicとのタイアップはいわば彼女の「生命線」。毎年この時期の新製品CM大量オンエアーに合わせてアルバムをリリースするほどの蜜月ぶりですから、今年の売上げへの影響は避けられないでしょう。

「自主責任」の号令で切り捨てたもの

今回のような事態をもたらした背景としては、近年の松下の「合理化」の行き過ぎが指摘されています。松下では業績の悪化していた2001年度から経営方針を抜本的に見直し、グループ各社に権限を大幅に移譲する「自主責任経営方式」を導入しました。
結果として業績は「V字回復」し、ヒット商品も数々生まれてシェアを拡大。ライバルのSONYが不振にあえぐ中、今年は「勝ち組」だともてはやされました。

しかしその裏ではトラブルやクレーム処理も各社が個別に対応するようになったため、各部署の連絡や意思の疎通がうまくできなくなり、組織としての迅速な対応に支障をきたしたのではないかと言われています。・・・社内で責任を分担するのは一向に構わないのですが、商品を購入して松下に投資した大切な顧客であるはずの消費者にまで「自分の命の責任」を負わされてはかないません。

消えつつある「町の小さな電気屋さん」

そういえば・・・ちょっと前までは個人経営の「町の電気屋さん」がたくさんあって、人間同士のコミュニケーションを通して家電は販売されているものでした。しかし合理化の名の下に松下では、そうした小さな店をどんどん整理してしまったそうです。これも、きめ細かいアフターサービスが出来なくなった理由の一つではないでしょうか。

たしかに我々消費者としても、店員との濃密なコミュニケーションを通して商品を買うのは正直面倒くさい。大規模量販店の見知らぬ店員からパッと気軽に買うことのほうが心地よくなりつつあることも否めません。今回のようなことが起きてみると、なんとなくそのことへの後ろめたさを感じさせられます。

松下にとって今年は「V字回復」でせっかく勢いづいていた矢先。事故の再発防止策の遅れも、波に乗る会社のイメージを傷つけないことが最優先されてしまったからなのかなぁと感じます。結果として、今年の1月に起きた小学生の死亡事故の教訓を生かせずに、予測されていた通りの死亡事故を再び引き起こす結果になってしまいました。

組織を「改革」する際、経済論理を優先するあまりに「整理してはならない部分」も整理してしまってはいないだろうか。これは一企業だけのではなく、国や自治体に当てはめてみても共通の問題でしょう。「小さな政府へ」という大号令の下で急速な改革が進められていますが、数値では表されないような大切な部分までも切り捨ててはいないだろうかと危惧します。
松下の言う「自主責任」と、政府が国民に要求している「自己責任」という言葉の類似性も、偶然ではないように思います。FC2 同性愛Blog Ranking

あれっ・・・もう風化しちゃったの?~アメリカで原発再評価

原油価格の高騰が問題になっている昨今ですが、その煽りでしょうか。アメリカで新しい原子力発電所の建設が本格的に再開されようとしています。<11/27(日)の読売新聞19面「21世紀の選択~エネルギー」より>

アメリカでは1979年のスリーマイル島事故や1986年のチェルノブイリ原発事故の影響から、27年間にわたり新しい原発が作られることはありませんでした。80年代から90年代にかけては原油価格が低下していたということもあり、火力発電のコストがかからなかったという理由もあるようです。ところが今年の「エネルギー政策法」で急に、原発の建設支援策が盛り込まれたのです。

原発の運営や放射性廃棄物の処理に関する問題点は、まだまだ解消されていません。ほんの些細な人為的ミスが、とり返しのつかない大事故を引き起こすことは歴史的事実が証明しています。

日本国内で言えば東海村の臨海事故が起こったのは1999年。2002年の8月にはトラブル隠しが問題となり福島第一原発一号機に停止命令。昨年の夏には美浜原発蒸気漏れ事故がありました。いずれも初歩的なミスが引き起こしたことであり、死者が出た事例もあります。まかり間違えば大事故に至るところだったのです。

残念ながら読売新聞の記事ではこうした問題点に一言も触れていません(おそらく意図的でしょう)。それどころかアメリカの推進政策を手放しで評価しています。読売新聞といえば1000万部という世界第一位の発行部数を誇る大メディア。その影響力は多大なるものがあります。

今までの原発事故の時もそうでしたが、メディアは事故直後には大騒ぎして世論を喚起しますが、別のニューストピックが出来るとサーッと潮が引くかのごとく扱わなくなります。そして今ではすっかり風化してしまいました。その後も相変わらず小さな事故や設備の老朽化による故障は起こり続けているのですが、社会面の隅っこに小さく掲載されるだけです。もし事故の直後だったらその一つ一つのトラブルはもっと大きく報じられ、我々の危機意識を高めていることでしょう。

アメリカのこの流れを受け、イギリスでも推進政策に転換することが最近発表されました。アメリカ→イギリスと来れば、次はまぎれもなく日本。政策転換するのは確実でしょう。現に12月になってから、各新聞には元総理の中曽根康弘氏をキャンペーンキャラクターにした、日本原子力文化振興財団による「原発推進PR広告」が全面広告として順繰りに掲載されています。世論を刺激しないように様子を窺いながら、ジワリジワリとPRが始まっています。

エネルギーが必要なのはわかります。電気が発電されなければ我々の現在の生活は成り立ちません。しかしそれは非常に高いリスクを背負いながら営まれているということを無視してはいけないでしょう。設備や管理体制の問題点だけではなく、原発が生み出す高レベル放射性廃棄物の最終処分場は決まっていません。処分に困った放射性廃棄物は海洋投棄され、その管理を子孫に押し付けているのです。放射能は長年に渡り危険であり続けるものです。最終的な処理方法がわからないまま、いわば「見切り発車」をしているわけです。

このように、わざわざリスクを背負ってまで推進される政策には必ず「利権構造」が絡んでいます。本来、ジャーナリズムというものはそうした権力の暴走を監視し、批判的な立場を保ちながら我々に考えさせるのが役割であるはずなのですが・・・残念ながらその構造に取り込まれているかのように、大手マスメディアは骨抜きになっているのが現状のようです。

原発でのトラブル隠しの実態が次々と発覚した夏を憶えていますか?全国で原発が一斉に停止されたけれども、政府やメディアが「節電」を呼びかけて真夏の電力不足を乗り切ったではありませんか。やれば出来るはずなんです。

人間が人間である以上、ミスや不正や間違いを犯すのは防ぎようのないことです。だからこそ原発でそれが起こったら計り知れない被害をもたらすということを、もっと認識すべきです。
原発は「神」ではありません。管理しているのはあくまでも生身の人間です。しかも国による管理・検査体制がいかに杜撰でいいかげんなものかということは、マンション設計偽造問題等でも明らかではありませんか。

地震のメカニズムや被害想定の研究もまだ発展途上。原発の耐震性についても「安全だ」と神聖視できるかどうか怪しいものです。危険なものを推進してリスクを高めるよりも、リスクを負わずに済む方向を模索することに政府は労力と資金を投入するべきではないでしょうか。

目先の利権にしがみつく体制は、もういいかげんにして欲しい。人類の未来がかかってるんですから。

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タダほど怖いものはない~フリーペーパーに気をつけよう

今日は久々に「社会派ブログ」です(笑)。

今日、ファミレスの入口でフリーペーパー
「R25」を見つけ、食事しながら読みました。最近、駅の改札だとかコンビニの入口などに置かれているのをよく見かけます。
リクルートが発行し、発行部数は60万部にも上るそうです。電車の中や駅のホームでも読んでいる人をよく見かけます。なにしろタダでいろんな情報が得られ、暇つぶしにもなりますからね。

あれっ?と思ったのは「経済」の記事。
『まもなく輸入再開だけど・・・アメリカの牛肉輸入、結局、全頭検査はなしでいいの?』
という見出しのこの記事をよく読んでみると・・・なんと無邪気にも輸入再開を手放しで「OK」と言ってしまっているのです。

2年前からアメリカ産牛肉の輸入を禁止してきた日本。
国内の牛には「全頭検査」を実施し、念には念を入れて食の安全を保ってきました。
しかし先日のブッシュ米大統領の来日時に、年内のアメリカ産牛肉輸入再開が約束されてしまった事はご存知のとおり。来月には確実に輸入が再開されます。

BSE発生牛の危険性についての研究は、いまだ発展途上であり科学的な根拠は確定していません。そもそも潜伏期間の長い病気ですから、被害についてもまだまだ未知数なのが実際のところです。(全人類にとって「はじめての経験」なのですから。)
さらに、アメリカの杜撰な飼育管理状況や検査体制についても多くの人々が問題点を指摘してきました。そうした懸念を放置したまま、引き取り手のないアメリカ産牛肉の輸入は再開されてしまうのです。目先の国益や経済論理優先のために我々の食の安全が脅かされることになるのです。

しかし「R25」の記事では
「こうした問題こそ感情的にならず、冷静に考えることが必要だろう」
と述べた上で、次のような記述をしています。
(以下、P9より引用します。全文については、12/1からWeb上でも公開されるようです。)
専門家の間では、「20ヶ月以下の牛からは、異常プリオンは検出できない」というのがほぼ一致した見解。検出できない以上、検査をしなくてもリスクは変わらない。「それなら全頭検査で異常プリオンを検出できる、生後20ヶ月以上の牛を輸入するべきじゃないか」という反論もあるだろう。でもこれは、検査のコストがかかってしまうのだから、アメリカにとってはうまみのない話だし、そもそも輸入される米牛肉の多くは生後20ヶ月以下のものなのだ。

一般消費者として最低限理解しておきたいのは、BSE感染のリスクを防ぐ一番の対策は、危険部位の確実な除去だということ。それでも、リスクはゼロにはならない。が、科学的な見地からは、極めて低いリスクであることは事実だ。
もちろん、「アメリカの食肉処理が適切に行なわれているか」という点については、日本政府が責任をもってチェックすることは必要だ。でもそこをクリアしていれば、安い米国牛が再び買えるようになることは、消費者として歓迎していいだろう。
・・・あまりにも無責任に無思慮に書かれた内容ではないでしょうか。
僕が思ったこの記事の問題点は、
●そもそも専門家って誰のこと?(まったく明記なし)
●生後20ヶ月以下の牛を検査しないのは「検査をしても検出できないから」であって、それがイコール「感染牛なし」とは言えないという、誰が考えてもわかる常識への言及がないこと。
→さらに、「検出できない以上、検査をしなくてもリスクは変わらない。」というのは単なる開き直りなのでは?
●「コストがかかるから検査をしない」というアメリカ側の姿勢への批判がないこと。
●アメリカ側に「危険部位の確実な除去」をする体制が整っていないことへの言及がないこと。
●日本政府のチェック体制など整ってもいない事実への言及がないこと。

記事の体裁をとったPR

「R25」はフリーペーパーとして無料で配っているので、記事に信頼性がなくても許されるのでしょうか。錚々たる大企業が広告を出稿し、純粋に広告収入で成り立っている媒体なので、全ページが広告であると思えばいいのでしょうか。
そもそもこの内容では記事とは呼べません。だったら記事の体裁を最初からとらずに「政府広報」とか「食品業界PRのページ」とか明記してほしいものです。表紙にデカデカと「0円」とあるのは、内容には責任を取れないことの言い逃れでしょうか。

新聞ではPR記事には「PR」と明記するのが慣例化していますが、雑誌では未分化のようです。だからうっかり同じ感覚で記事だと思って読むと、読者は無意識のうちに政治的なPRに操作されてしまうのです。(この場合明らかに、それを意図して作られていますから。)
PRならPRだと、潔く明記するべきです。無料でもらう媒体に対してそこまで要求するのはおかしなことなのでしょうか。

タダほど怖いものはない。
「広告・PR」を「情報」という言葉で巧妙に言い換えているフリーペーパーを「やった、タダだ!」と無邪気に持ち帰り、一般雑誌や新聞と同じような感覚で読むことには気をつけたいものです。

哀しき慣例

・・・それにしても「小さな政府」は、さぞかし国民を鍛えてくれそうですね。
薬害エイズ問題やアスベスト問題でもわかる通り、危険性が指摘されても経済の論理を優先させて放置し、はっきりと被害が出て責任問題に発展しないと動かないのがこの国の政府の慣例です。そして、そんな対応を繰り返している政府を「ま、しょうがないか。」と結果的には受け入れ続けているのが我々国民の慣例です。

国が国民を守ってくれると思ったら大間違いです。安全に信頼が置けない商品には消費者が自ら敏感になり、いざとなったら不買運動を起こすようでなければ政府は動かないでしょう。
それにしても、アメリカの顔色を窺うことは、国民の健康や生命と引き換えにするほど大切なことなのでしょうか。
●「R25」に広告を出稿し、「タダ」にしてくれている企業は以下のとおりです。
・・・NTTドコモ、JT、SONY、野村證券、JRA、(株)ターフ・メディア・システム、
日本コカコーラ、マイクロソフト、タワーレコード、日本郵政公社、NTTグループ、
(株)リクルートエイブリック、AIR FRANCE、WILLCOM

●僕が「R25」を手にしたのは、ファミリーレストラン「ジョナサン」の入口です。最近、あちこちの外食チェーン店や駅の改札近辺に専用ラックを設けて発行されています。

●BSE問題については、ブログ「日本がアブナイ!」さんの記事
「北米産牛肉の輸入再開は、アブナイ!(1)(2) 」で、とてもわかりやすく書かれていますのでぜひお読みください。

●「SAFETY JAPAN2005」内に関連記事があります。
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挑発と風刺~詩「ある平均的日本人OLの会話」批判に応えます

9月12日に掲載した「ある平均的日本人OLの会話」という詩について、多くの反響をコメント欄にいただき、ありがとうございました。
皆さん、思ったことを率直に書いてくださったので嬉しかったです。

その中には、この詩で僕が使った言葉遣いや表現方法、あるいはコメント欄での補足説明に関しての批判もありました。
僕は、真摯な気持ちから発せられた批判ならば大歓迎です。僕としても色々と考える契機になりますし、自分の表現についても、再び捉え直して反省することができます。

批判のないところに成長はありません。
僕はこのブログは「仲良し倶楽部」的なものではなく、読んでいる人にとっても僕にとっても、お互いに刺激し合えるような場であって欲しいと思いながら書いています。ですから今後も遠慮せず、思ったことを率直に書いてくださいね。

さて今回の批判を受けて、現在の僕の意見を整理してみました。そのためには僕の現在の政治的立場についても言及する必要があると思い、長くなって恐縮ですが書いてみました。目を通していただけると嬉しいです。

僕がこの詩を書いたのは選挙の翌日、会話を聞いてからわりとすぐのことです。
僕は早朝からの仕事をしているので、残業をしなければ昼には仕事が終わります。
その日は仕事を終えたらすぐエレベーターに乗り、これから昼休みだという彼女たちと一緒になりました。そして、この会話を聞くことになったのです。

まだ選挙の翌日だったので僕は感情的に「ホット」な状態でした。したがって彼女たちの会話には、かなりの衝撃を受け、打ちのめされました。そして「これはブログに書いて自分らの現状を見直す契機にしなければ」と思い、勢いで掲載したというのが本当のところです。

その前日、9月11日の選挙当日に僕は「気をつけよう」という詩を載せています。
そこで怖れていたことが、もはや現実のこととして進行していることに、黙ってはいられなかったからです。それはいわゆる「衆愚政治」の現実化とでも言いましょうか・・・。

権力者が国民を「大衆」という愚かな「マス」だと捉えて巧妙にPR戦略を練り、着々と思惑通りに事を運ぶ状態のことを「衆愚政治」と言うのですが、近年ますますその度合いが増してきていることを感じています。

テレビにおいてはNHKの番組制作に政府が介入していた事件が表面化したことが記憶に新しいかと思います。あれはあくまでも氷山の一角であり、目に見えないところで握りつぶされている番組企画は相当な数に上るでしょう。政府によるメディア統制はますます強化されています。体制批判を展開する著名なニュースキャスターは降板し、社会批判を展開する良質なドキュメンタリー番組は、深夜帯以外には見る影もなくなりました。僕が大学生だった10年前には、もっと鋭く尖った番組がたくさんありました。ところがこの5~6年で、テレビは大きく様変わりしています。テレビの良心的な表現者たちは活躍の場を奪われ、どんどん牙を抜かれているのが現状です。

自民党はPR会社と強力なタッグを組んでいます。そして今回の選挙では争点を「郵政民営化」「改革の実行」というわかりやすい言葉で単純化しました。

「改革」という言葉は前向きなイメージを人々に与えます。先行き不透明な時代の不安感を、なんとかしてくれそうなイメージを人々に発信することが出来ます。

実は自民党のマニフェストには他にも「憲法見直し」「自衛隊の権限強化」など、いまや帝国と化して世界中でやりたい放題のアメリカと同盟を強化するための、見落としてはならない政策もたくさん含まれています。
アメリカとの同盟強化の行き着く先は「徴兵制」の施行でしょう。現にお隣の国では施行され続けていますし、自民党の言う「普通の国」とは「徴兵制が普通にある国」だということは、普段洩れ聞こえてくる有力者たちの本音発言からも明らかです。今のところ憲法第九条の存在が歯止めになっているのですが、ここまで議席を獲得してやりたい放題の環境が整ってしまったら、いよいよ改正も現実化してしまうでしょう。
男女機会均等が進行している現代においては、女性といえども徴兵されるかもしれません。若者だけではなく、大人であれば誰でも対象となり得ます。これは冗談ではなく、間近に差し迫った問題として肝に銘じなければならないと思います。

今回、争点の中心だとマスメディアが騒いだ「郵政民営化」は、あくまでもたくさん掲げられているそうしたマニフェストの一つにしか過ぎません。彼らは、争点をそこに絞ればイメージ戦略として勝算があることを見越した上で、解散総選挙をイベントとして仕掛けてきたのではないか。僕はそう捉えています。
彼らの目論見どおり無党派層の多くは「郵政民営化」という氷山の一角に目を奪われ、「改革」という言葉の魔力に魅せられて自民党に投票しました。しかし、そのほとんどの人々はその下に潜む自民党の本当の思惑の存在を見落としているのではないでしょうか。

小泉首相は近年の政治家の中では稀にみる「一流の役者」です。
テレビ映りが良く、フォトジェニックであり、声の質も人々に安心感を与えます。
彼のキャラクターは、理屈を超えたところで人々の潜在意識に安心感を与えるのです。
記者会見をする姿を見ても、メディアに映されることへの訓練がしっかりとなされていることがわかります。カメラのフレームからはみ出さないように身体を横に揺らさない。まばたきを最小限に抑えて視聴者の吸引力を高める。一言わかりやすいフレーズを口にしたら、聞き手が解釈できるように適度な「間」を設ける。・・・PR会社が訓練したと思われるこうした「テレビ映り」を良くするための表現技術は、長年の首相経験でしっかり身に付き他の追随を許さないレベルにまで上達しています。
それはスター俳優が身につけている映像演技のテクニックと酷似しています。

こうしたことは本来、政治の場において最優先されるべき「政策」とはまったく関係がありません。
しかし、集団心理というものはこうしたことに流されやすいのが事実です。かつてヒトラーは巧みなメディア戦略でドイツの良心的一般市民の心を鷲掴みにしました。ナチスドイツを構成していたのは、ごく普通の人たちです。悪魔ではありません。不況のさなか、「改革」という旗印を掲げたヒトラーを支持したのは、あたりまえに日常を過ごしている善良な人たちだったのです。

だから僕は、彼女たちの無邪気な会話に直面した時、危機感を強く持ちました。
彼女たちの会話からは政策ではなく「小泉純一郎」というキャラクターを無批判に支持している様子が伺えるからです。まるでアイドルタレントの一人であるかのごとく。

実は僕は、あの詩をブログで公開する前に、タイトルについて少し悩みました。OL達の会話は実際にあったことですが、このタイトル自体は、完全なる僕の創作であるからです。
僕自身も「平均的」だとか「日本人」だとか「OL」という抽象的で曖昧な言葉を用いることには抵抗があります。それらの言葉は、人を個人として見るのではなく「ステレオタイプ化」してしまう種類の言葉です。あまり使いたくありません。

しかし、あえて使うことを選択しました。批判は覚悟の上でした。
使うことにより、この詩の表現に挑発的なニュアンスが加算され、風刺の意味が込められると思ったからです。
新聞の政治欄に載っている風刺漫画と同じような感覚・・・と言えばお分かりいただけるでしょうか。
そしてそれは、あくまでも僕の主観です。
そもそもこうした詩による表現は、作者の主観以外の何物でもありません。主観以外になにを書けるというのでしょう。文章というものは個人が書くものであって、主観表現以外はあり得ません。

たしかに「平均的」という言葉は少し乱暴ではありますが、いつもだったら投票に行かないような都市部の無党派層の多くが今回は自民党を支持したこと。そのことをふまえて使った言葉です。

「日本人」という言葉は、多数派の意見や人気というものにすぐ流され、雪崩現象を起こして「右ならえ」をしてしまいがちな国民性を皮肉る意味を込めて使いました。

昨年、イラクで3人の日本人の人質が解放された時に、帰国した彼らを暴力的なまでに「自己責任論」という世論の波が襲いました。その後、その行き過ぎが急激に見直されたわけですが、あの一件からも、今日の我々がいかにマスメディアが煽る世論に流されてしまいがちな状態にあるのかがわかるかと思います。
「みんながそう思っているみたいだから、自分もそう思う。」
こういう思考パターンは危険です。自分の頭で思考した結果ではないから簡単に変わります。その分、権力者からしてみれば好都合。コントロールしやすいからです。60年前に、そのことの愚かさに打ちひしがれ多くの涙が流れたということは、けっして忘れてはなりません。

「OL」という言葉は、僕が目撃した人たちがたまたまOLであったために使いました。
小泉首相は男性であり、彼のイメージ戦略が女性層をターゲットの中心にしていたことは事実です。現に数年前「純ちゃん」と呼ばれてアイドルまがいの写真集を出版したり、自民党のポスター=小泉首相のアップ写真というビジュアル・イメージが継続されていることからもわかるでしょう。僕が目撃したわが社のOLたちはそのPR戦略に、まんまと乗せられているからこういう会話が出来るのだと思います。

彼女たち以外にも僕の女友達に、こういう思考パターンで生活している人が本当にいます。
僕は、彼女と自分とはまったく異質なものの感じ方をすることが面白くて友人関係を続けています。
たまに口論になることもありますが、僕はそういう彼女を否定はしません。観察させてもらっています。
(スミマセン。基本的に僕ってそういうスタンスなんです。噛み合わない意見をぶつけ合って喧嘩して友人関係を終わらせてしまうよりも、異質であることを面白がってみる。そのことで見えてくる新たな発見を期待してしまうのです。意見の相違なんて、その人の人間性のほんの一部であって全体ではない。意見が違う人を自分の周りから排除したり否定することからは、「争い」しか生まれない。僕はそう考えます。)
こうした僕の経験から、僕なりの批判や皮肉も込めて、あえて「OL」という言葉を使用することを選びました。

もし目撃したのが「サラリーマン」だったらそう書いているし、「ゲイ」だったらそう書いていたかもしれません。
僕の場合、たとえ「ある平均的なゲイの会話」としてなにかを書かれたとしても、それが風刺表現として的を射ていると思ったら、気分を害するどころか笑い飛ばして受け入れるでしょう。
もし自分がそれに当てはまらないと思っても気分は害しません。自分は平均的なゲイではなく特殊なゲイでよかったなぁと、ホッと胸をなでおろすでしょう。そもそも、その程度の事で腹を立てていたら、今日までゲイをやってられません。叩かれたり中傷されたりすることには慣れています。

繰り返しになりますが、不快な思いをされた方には、たいへん申し訳ありませんでした。
でも不快な思いをするということは、あなたは「平均的日本人OL」ではないということでもあります。
そのことを誇りに思ってください。

昔から落語や歌舞伎などの大衆芸能の世界では、様々な趣向をこらして自分たちの愚かさや権力者の無慈悲を笑い飛ばし、世の中を批判してきました。この詩もそうした表現の一種だと思っていただけると幸いです。こうした表現が「毒」を持ち、表現としての強度を増すためには、ある程度のステレオタイプ化やカリカチュアはやむを得ないことだと思います。

以上の理由で、僕はあの詩の表現を否定しません。
僕がこれらの言葉を使用したのは「蔑視」からではなく、あくまでもこの詩の表現に「風刺性」と「挑発的なニュアンス」を持たせたかったからです。
万人に心地よく感じられるものは表現とは言えません。表現とはある意味、他者への挑発だからです。だから僕はこの詩の表現に自主規制をして変更する必要性を感じません。

また、コメント欄で返信した僕のコメントについても読み返してみましたが、偽らざる僕の気持ちが書かれていると思いました。記事と違ってコメント欄では即興的に書いてしまいがちなので言葉遣いが辛らつではありますが、僕はこういう考え方を持っている人間です。しかもかなりの毒舌家です(笑)。もし違和感を感じられたのならどんどん指摘していただいて、また言葉を交わし合ってお互いの思考を深めて行きましょう。

これが、今の僕の意見です。
さらに意見がございましたら書いてください。

よろしくお願いします。




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「対テロ戦争」という言葉には、踊らされない。・・・終わりのない戦争なんて勝手に始めるな!04

前回03の記事のコメント欄で、こういうやりとりがありました。
■akumanoaijinさん
「様々なテロとそれに対する先進諸国(特にアメリカ)の対応はまさに
イタチごっこって感じがするわね。
お互いがお互いの行動を種に、また新たな暴力の繰り返しって感じがするわ。
これは、一方的にどちらかが悪いという風には決められないようにも思うの。」
■僕(akaboshi)
「おっしゃるようにイタチごっこが展開されてしまっているわけですが
『どちらが悪いか』と考えた時、僕の意見としては
『どちらも悪いけど、アメリカの方がより悪い』と思います。」
・・・まず、お相手してくださっているakumanoaijinさん、ありがとうございます。
僕がどうしてそう思うのか、コメント欄では書ききれなくなりそうなので(笑)
また記事を書いてしまいました・・・。

冷戦が終わったのは良かったのか?

今の世界は、冷戦構造の崩壊により、かつての「資本主義」対「社会主義」というわかりやすい対立が無くなった分、混迷を極めるようになった・・・という風によく語られる。かつては米・ソが強大な軍事力を競い合うからこそ、かえって均衡が保てていたのだと。

たしかにそういう見方も出来るのかもしれない。ベルリンの壁の崩壊やソビエト連邦の分裂が起こるまでは、人々が想定する最悪のシナリオは、米・ソの直接戦争による核戦争が起こり、人類が滅亡するというものだった。いくら強国といえども、はっきり「滅亡」だとわかっているシナリオには手を付けたくないから、回避しようと懸命に「バランス感覚」を研ぎ澄ませる。そういう時代だったとも言えるのだ。

ところが今は、強者はアメリカ一国である。
アメリカ政府の軍事力に力で均衡できる存在が無くなった。
アメリカ政府は圧倒的な「強さ」を手にしてしまったのである。

現代における「最悪のシナリオ」はアメリカの暴走

現代の我々が想定する最悪のシナリオは、これ以上アメリカが強大になることではないだろうか。
つまり、イラク攻撃で行われたように、アメリカ的価値観に合わない国や勢力を、情報操作によって悪魔呼ばわりし、勝手な大義名分をつけて攻撃が繰り返されること。
これは今のアメリカなら、簡単に実行できてしまう。「人権思想」という伝家の宝刀を振りかざせば悪魔だと名づけて断罪できる材料は、世界中のあちこちに転がっている。その中から、出来るだけアメリカ政府の国益や繁栄につながるものを選び出して攻撃すればいいのである。
力を持つ者がやりたい放題に振る舞える環境。これほど危険なものはないのではなかろうか。

しかし、いくら攻撃をしても悪魔を完全に壊滅させることはできない。それどころか憎悪の種を撒き散らし、報復の嵐を呼び起こす。核兵器など持たなくとも、弱者でもその気になれば大量の人間を殺傷できるということは、すでに9・11で証明されてしまっているのである。

強者がいくら警戒しても、残念ながら弱者の報復を完全に防ぐ手立ては持ちようがない。
それにも関わらずアメリカ政府は、防ぎようのない敵に対して宣戦布告をしてしまった。日本を含む西欧先進国との同盟を強め、対決姿勢を鮮明にしてしまった。
血で血を洗う「最悪のシナリオ」は、すでに紐解かれてしまったのである。

ベトナムから学ぶつもりのないアメリカ。学ぶ必要がないから。

かつてアメリカは、ベトナムに枯葉剤を蒔いてベトコンを絶滅させようとした。しかしできなかった。この失敗から、どうしてアメリカ政府は学ばないのだろう。学ぶつもりがないから、学ばないのではないだろうか。
要するに、戦争を引き起こして兵器を消費することで利益を得る勢力が、アメリカ政府と密接な関係を保ち続けているからだ。それらの勢力はさらに、世界中の電力・エネルギーの源である油田を巡る利権構造を手にしたがっている。最高の「金脈」だからだ。アラブの石油成金にこのまま金脈握らせておくのではなく、直接我が物として自由に扱いたいのだろう。
イラクは世界第二位の石油産油国。9・11後、突然フセイン政権を「敵」に見立てた理由はそこにある。長年の欲望を満たすチャンスだったのだ。

いわばビジネスの世界で言う「多国籍企業」の国家版が、アメリカ政府である。
アメリカ政府は、世界をビジネスの感覚で捉え、市場を拡大したがっているのだ。
アメリカ政府の最終目的とは・・・世界中の人々にマクドナルドを食べさせ、コカコーラを飲ませ、ディズニーランドで遊ばせること。これに尽きるだろう。

現代の対立は、宗教ではなく「文化の対立」

現代の対立は、キリスト教VSイスラム教という枠組みでは語れなくなってきている。神という概念は、芸術や哲学の分野では20世紀ですでに死んだからだ。各宗派の急進派や既得勢力は健在であり続けているが、そうした人々は保守派・守旧派だと言っていい。
大量殺戮の世紀であった20世紀を経て、もう人類は神を信じるほど素朴ではなくなった。解釈不能な出来事をたくさん引き起こし「絶滅すること」さえ選択できるようになった人類。
「核のボタン」を手にしてしまった以上、神の領域に踏み込んでしまったのだ。
神亡き時代を我々は生きている。そう解釈する人は確実に増えている。

では、なんの対立なのだろう。
・・・文化の対立なのではないだろうか。
「アメリカ文化を受け入れられる人々」(アメリカ市場化された国々)
VS
「アメリカ文化を受け入れられない文化を持つ人々」
(アメリカ市場化されていない国々)

文化というものは「暮らし方」である。
風土や気候によって世界中さまざまな種類があり、その土地独自の世界観を醸成してきた。
それが自然な姿であり人類の歴史の豊かさだろう。
そこに優劣はない。多様であることこそ、本来あるべき状態である。

しかしアメリカは政府は「アメリカ文化」で世界中を染め上げようとしている。
資本主義的価値観でケバケバに着飾った、歴史の浅い薄っぺらい文化で。
「エンターテインメント」という甘い衣で装いながら。

なぜなら、そうしないと市場が拡大できないからだ。
その欲望を満たすために、たくさんの人々が「暮らし方」から変えられようとしている。
土足で、まったく違う価値観を強制されようとしている。
それって、「善意の押し付け」「おせっかい」というものなんじゃないのか?
アメリカ政府は、「世界の警察官」を装った偽善者である。
僕はそう思う。

だから、僕はアメリカの方が「より悪い」というふうに考える。
世界を一色(ひといろ)に染め上げるということは、そこに染まりたくない者は排斥されるということだ。
「暮らし方」において、「アメリカ文化」にほぼ染められてしまったこの日本にいると、そうではない人々の思いが想像しにくいのかもしれないが、想像するべきだと思う。

だからといって、抗議の方法として暴力を用いることには反対である。
しかし、その暴力に「圧倒的な軍事力」という暴力で報復しようということには、さらに反対だ。
そしてさらに・・・そうしたことをやる国に無批判でくっついている日本政府を、情けなく思う。
日本には日本にしかできない役割があるはず。
いかなる戦争にも反対している、理想主義的な憲法を持っているのだから。
世界で一国くらい、「理想」を強くアピールする国があってもいいと思う。
それが「バランス」だと思う。
日本は、それが出来るはずなのだ。

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「対テロ戦争」という言葉には、踊らされない。・・・終わりのない戦争なんて勝手に始めるな!03

この記事、0102と書いてきたのですが、そのたびに真摯なコメントをいただき、ありがとうございます。
でも・・・まだ気が済みません(笑)。
どうして僕が「テロ」という言葉の使われ方に違和感を持つのか。しつこく考えてみようと思います。

メディアが扱うテロという言葉

最近では「政治的主張により、その国の政権に脅しをかける目的での暴力行為」のことを広義にテロと呼ぶようになったようだ。
ただ、今回のロンドンの事件で「テロ」と真っ先に語られたことは
やっぱり解せない出来事だった。
なぜなのか。どうやら・・・
メディア批評になってきた。


おかしなこと・・・
①犯人が絞られていない段階から
メディアが「テロ」という言葉を使い、ほぼアルカイダの犯行であると騒ぎ立てたこと。

②犯人が絞られていない段階から
ブレア首相がサミット参加各国の首脳を従え、「対テロ」声明を出したこと。
→イギリス政府へのテロなのだとしたら、
他国の首脳が「共同声明」のごとく画面に収まって映る必要はない。

③イギリス政府へのテロなのだとしたら
「我々に対するテロである」と宣言できるのはイギリス政府だけであるはず。
→それを報道するメディアは
「イギリス政府によりテロと名づけられた事件」という前提を忘れてはいけないと思う。
ことに政治的主張を含む問題なので、ちゃんとした証拠で「犯行声明」などが認定されるまでは「テロ」と名づけること自体が時期尚早である。
犯罪者も罪が確定するまでは「容疑者」と呼ぶのだから、「テロ」も「テロ容疑事件」と呼ぶべきである。

ジャーナリズムの本来の役割

報道メディアというものは本来、政府が暴走しないように政府から独立して、われわれ市民のために政府を監視する役割を担うはず。
(権力というものは、ただでさえ暴走しやすい。第二次世界大戦のナチス・ドイツや日本の大本営発表等の反省から、ジャーナリズムの独立性はますます重要視されるようになったのに・・・。)

政府の情報をそのまま垂れ流すようではジャーナリズムとはいえない。
それは「政府広報」という。(例:NHK・・・←もちろん皮肉。NHKもジャーナリズムでなければいけないんだ本当は。最近のNHKの報道は死んでます。)
だからたとえイギリスのメディアといえども、「政府」とは別の機関である以上、
やはり「イギリス政府によりテロと名づけられた事件」という立場を貫くべきだと思う。

さらに、日本のメディアがイギリス政府の言う「テロ」をそのまま「テロ」というのもおかしなこと。日本はイギリスではない。独立した別の国だ。なおさらイギリス政府に対して距離をとって報道する姿勢があってしかるべき。

ならばアメリカのしたことも「テロ」と呼ぼう。

もし今回のことを「テロ」と名づけるのなら、公平に最近のアメリカの行状に対しても適応すべき。

アメリカのイラク攻撃は、アメリカという国が起こしたイラク政府への「テロ」であると言えてしまうのだから。

イラクが持ってもいなかった大量破壊兵器を「持っている証拠をつかんだ」という虚偽の情報を流し、国連の国際法を無視して攻撃を開始したアメリカ。

国連では「相手国からの攻撃があった場合の自衛による交戦権」しか認めていないはずなので、イラクからなんの攻撃も受けていないのに攻撃を開始したことは明らかに犯罪。
メディアによって宣戦布告がされたが、そもそも国連による国際法違反なわけだから、宣戦布告とは認められない。アメリカはパールハーバーを批判できないのである。
しかも攻撃開始後は予告もなしに平気で一般市民が住んでいる地域に攻撃を繰り返す。
・・・イラク政府から見ればこれは明らかにテロだろう。

イラク側は強力なメディアを持っていないから主張できなかっただけ。というより、イラク政府自体がアメリカにより壊滅させられたので「テロである」と宣言できなかったのだ。

冷静に考えてみたらまったく筋の通らないことを、強引に「筋が通ってるかのごとく」情報操作してきたのはアメリカ。それにそそのかされて自衛隊を派遣してしまった日本なんて、テロ国家への支持を表明したようなもの。つくづく馬鹿。反感を持たれて当然である。

だから、僕は違和感を持っている。
「テロ」という言葉は、強力なメディアを持っている、いわゆる「西欧先進国」の側が一方的に自分たちの敵視する勢力を断罪する目的で使われているように思えるからだ。

今後、ますます使われる頻度は高まるだろう。
僕はその度に、この違和感を忘れないようにしようと思う。
そして、こんな傍若無人がまかり通っていることに、強い憤りを覚える。

帝国は必ず滅びる。そのとき日本は・・・。

歴史上、帝国というものは繁栄を謳歌した後、必ず滅びてきた。
アメリカ帝国の崩壊も、そう先のことではないだろう。
そうなった時、主体性も無く「強いものにまかれる」だけの日本政府の政策も破綻する。

その時・・・どこからも相手にされない醜態をさらすのだろうか。
早く方向転換しておかないと、とんでもないことになる。
・・・もう、手遅れなのかもしれないが。

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