映画を見るということ/語るということ
自分が今、求めるから見る。
映画体験というのは、人それぞれに違っていい。たくさん見ている人、あまり見ていない人・・・。たとえ同じ映画を見たとしても、その人の積み重ねてきた人生の記憶によって感じ方はバラバラであり、語り方もバラバラであるはずだ。
そこに正解はない。優劣もない。
僕がいちばん嫌なのは、シネフィルによる自閉した映画評論の世界。
専門用語や作品名、監督名などに詳しくなければついて行けないような会話や議論をこぞって展開したがる方々を今までたくさん目にしてきたけど・・・そういうのは「閉じている」ような気がする。
マニアがマニア同士で集まって語り合っても、「自分たちの詳しさ」を自慢し合うことは出来るだろうけど、ただそれだけ。
しかも大抵「○○監督がこの前のシンポジウムで言ってたけど・・・」とか「○○に書いてあったけど・・・」とか誰かの言ってた言葉に詳しいだけ。「それはわかったけど、じゃあお前はどう思うんだよ」と突っ込んで喧嘩になりかけたこともある。そういう知識ばかり詰め込んで理論武装している人たちに限って、実際の行動には移せない。なぜなら「頭でっかち」になると理想ばかりが高くなりすぎてしまい、いざ作品を創る時に自分の行動が追いついていないことに落ち込み、挫折感を味わいやすいからだ。
本当に映画が好きなんだったら、誰にでもわかる言葉で「開いて」語るべきだ。
マニア以外の声を謙虚に聴き、取り入れてこそ新しい世界は開けてくる。
本当にすぐれた評論家や監督は、そうしたことの出来る謙虚さを持った人だと僕は思う。
このことは、映画の世界に限らず、学問など他の分野についても言えることだ。
世の中のあらゆることは、本当はいくらでも簡単な言葉で語れるはず。昔から劇作家や宗教家たちは、文字の読めない人々にそうやって物語を伝えてきているじゃないか。
わざわざ難しい専門用語を好き好んでこねくり回す人って・・・
「簡単な言葉に翻訳する能力がない権威主義者」なんだと思う。
僕は、権威主義者をなによりも憎む。
→FC2 同性愛Blog Ranking
映画体験というのは、人それぞれに違っていい。たくさん見ている人、あまり見ていない人・・・。たとえ同じ映画を見たとしても、その人の積み重ねてきた人生の記憶によって感じ方はバラバラであり、語り方もバラバラであるはずだ。そこに正解はない。優劣もない。
僕がいちばん嫌なのは、シネフィルによる自閉した映画評論の世界。
専門用語や作品名、監督名などに詳しくなければついて行けないような会話や議論をこぞって展開したがる方々を今までたくさん目にしてきたけど・・・そういうのは「閉じている」ような気がする。
マニアがマニア同士で集まって語り合っても、「自分たちの詳しさ」を自慢し合うことは出来るだろうけど、ただそれだけ。しかも大抵「○○監督がこの前のシンポジウムで言ってたけど・・・」とか「○○に書いてあったけど・・・」とか誰かの言ってた言葉に詳しいだけ。「それはわかったけど、じゃあお前はどう思うんだよ」と突っ込んで喧嘩になりかけたこともある。そういう知識ばかり詰め込んで理論武装している人たちに限って、実際の行動には移せない。なぜなら「頭でっかち」になると理想ばかりが高くなりすぎてしまい、いざ作品を創る時に自分の行動が追いついていないことに落ち込み、挫折感を味わいやすいからだ。
本当に映画が好きなんだったら、誰にでもわかる言葉で「開いて」語るべきだ。
マニア以外の声を謙虚に聴き、取り入れてこそ新しい世界は開けてくる。
本当にすぐれた評論家や監督は、そうしたことの出来る謙虚さを持った人だと僕は思う。
このことは、映画の世界に限らず、学問など他の分野についても言えることだ。
世の中のあらゆることは、本当はいくらでも簡単な言葉で語れるはず。昔から劇作家や宗教家たちは、文字の読めない人々にそうやって物語を伝えてきているじゃないか。
わざわざ難しい専門用語を好き好んでこねくり回す人って・・・
「簡単な言葉に翻訳する能力がない権威主義者」なんだと思う。
僕は、権威主義者をなによりも憎む。
→FC2 同性愛Blog Ranking
ペドロ・コスタ「骨」●映画レビュー
ミステリアスだから、人は魅かれる。
男と女。
彼らの、無言のまなざしのアップから映画はスタートする。
なんということはないアップであるはずなのに、内面の孤独、言い知れぬ虚無感の全てが含まれたようなまなざし。そのインパクトに、目が離せなくなる。
余計な説明はいっさいなし。台詞も必要最小限。
気持ちいいくらいに、観客という他者を信用してくれている映画だ。
(その分、ちょっと疲れるけど・・・笑)。
男は無気力な日々を過ごしているらしい。
赤ん坊の世話。それしかしていない。なぜ彼がそうなのか映画はまったく説明しない。
女はそんな男といることで彼の無気力が自分に感染するのを恐れているかのよう。
焦燥感を抱えながらも仕事に出かける日々。
彼らに降り積もる、残酷な現実の重し。
男は通院しているらしい。そこの看護婦に癒しを求める。
看護婦は男を放っておけず、家に招く。・・・男女の交流がある。
男は、別の女とも寝る。その女に赤ん坊を売ろうとする。
さらには赤ん坊を捨てたりもする。
男の絶望を抱えきれなくなった女が発する言葉。
「あなたの痛みを分かちあいたかっただけなのよ。」
・・・しかし男には響かない。心をなくしてさまよう女。
やがて女はガス自殺を図る。
・・・映画はこんなトーンで進行するが、そこでは彼らの日常に起こることの「断片」が、ただ切り取られるだけ。「断片」で描かれた出来事の結果は見せない。女のガス自殺の結果すら。
その後のシーンで女が何事もなかったかのように過ごしているのを映すことで、観客には自殺が未遂に終わったことがわかる。・・・つまり核心はそこにはないのだ。
表面的にドラマティックなものには、本当のドラマはない。
テレビの二時間ドラマやハリウッドの大作映画は、観ている最中はドキドキするのかもしれないが、なぜ心に残りにくいのだろう。きっとそれらは観客のことを信用せず、必要以上にドラマをドラマティックに誇張しすぎるからだろう。それを見る観客に、自分から読み取る自由を与えない。観客の主体性を信じていないのだ。すべてが説明されてしまうから、観客は自分の感性をまったく動員せずに与えられたものを「ただ眺める」状態になってしまう。そんなものは記憶には残らない。
本当のドラマは、無言だったり無表情だったりする当たり前の日常の中で、いつの間にか蓄積されるものの中にある。その「微妙なひだ」を読み取るのは観客。心に蓄積されるマグマを読み取るのも観客。
それが映画。表現というもの。
この映画は、
観客の「目」を信用している。
信用された観客は、自由に映画と向き合える。
そして見終わった後も、心の中でいつまでも映画を育てて行けるのだ。
僕の場合は・・・最初の「あのまなざし」が忘れられなくなり、
ふとした時に思い出すことになるのだろう、きっと。
→FC2 同性愛Blog Ranking
男と女。彼らの、無言のまなざしのアップから映画はスタートする。
なんということはないアップであるはずなのに、内面の孤独、言い知れぬ虚無感の全てが含まれたようなまなざし。そのインパクトに、目が離せなくなる。
余計な説明はいっさいなし。台詞も必要最小限。
気持ちいいくらいに、観客という他者を信用してくれている映画だ。
(その分、ちょっと疲れるけど・・・笑)。
男は無気力な日々を過ごしているらしい。赤ん坊の世話。それしかしていない。なぜ彼がそうなのか映画はまったく説明しない。
女はそんな男といることで彼の無気力が自分に感染するのを恐れているかのよう。
焦燥感を抱えながらも仕事に出かける日々。
彼らに降り積もる、残酷な現実の重し。
男は通院しているらしい。そこの看護婦に癒しを求める。
看護婦は男を放っておけず、家に招く。・・・男女の交流がある。
男は、別の女とも寝る。その女に赤ん坊を売ろうとする。
さらには赤ん坊を捨てたりもする。
男の絶望を抱えきれなくなった女が発する言葉。
「あなたの痛みを分かちあいたかっただけなのよ。」
・・・しかし男には響かない。心をなくしてさまよう女。
やがて女はガス自殺を図る。
・・・映画はこんなトーンで進行するが、そこでは彼らの日常に起こることの「断片」が、ただ切り取られるだけ。「断片」で描かれた出来事の結果は見せない。女のガス自殺の結果すら。
その後のシーンで女が何事もなかったかのように過ごしているのを映すことで、観客には自殺が未遂に終わったことがわかる。・・・つまり核心はそこにはないのだ。
表面的にドラマティックなものには、本当のドラマはない。
テレビの二時間ドラマやハリウッドの大作映画は、観ている最中はドキドキするのかもしれないが、なぜ心に残りにくいのだろう。きっとそれらは観客のことを信用せず、必要以上にドラマをドラマティックに誇張しすぎるからだろう。それを見る観客に、自分から読み取る自由を与えない。観客の主体性を信じていないのだ。すべてが説明されてしまうから、観客は自分の感性をまったく動員せずに与えられたものを「ただ眺める」状態になってしまう。そんなものは記憶には残らない。
本当のドラマは、無言だったり無表情だったりする当たり前の日常の中で、いつの間にか蓄積されるものの中にある。その「微妙なひだ」を読み取るのは観客。心に蓄積されるマグマを読み取るのも観客。
それが映画。表現というもの。
この映画は、
観客の「目」を信用している。
信用された観客は、自由に映画と向き合える。
そして見終わった後も、心の中でいつまでも映画を育てて行けるのだ。
僕の場合は・・・最初の「あのまなざし」が忘れられなくなり、
ふとした時に思い出すことになるのだろう、きっと。
→FC2 同性愛Blog Ranking
「パゾリーニの死に方伝説」について
パゾリーニ監督殺害:事件から30年、ローマ地検再捜査へ
●毎日新聞ニュース より引用(2005年6月4日付)
イタリアの映画監督、ピエル・パオロ・パゾリーニ氏(1922〜75年)が映画「ソドムの市」を撮り終えた直後に殺害された事件から今年で30年。犯人として服役を終えた男性が最近になって「犯人は別にいる」と証言、監督の側近も「真相は別にある」と話し始め、ローマ地検は3日までに事件の再捜査に乗り出すことを決めた。殺害を認めた30年前の供述を覆したのは、9年7月の懲役刑に服し、既に出所しているピノ・ペロージ氏(46)。判決は、当時17歳だったペロージ氏が、ローマ近郊の海岸で同性愛者の監督に不快な行為を要求されて逆上、木材で殴った上、監督の車でひいて殺したと認定した。ところがペロージ氏は、5月7日に放送されたドキュメンタリー番組で「犯人は別の3人組。家族に危害を加えると脅されたので罪をかぶった。もう両親も死んだので話せる」と語り、にわかに注目を集めた。同氏は今のところ、犯人像については一切語っていない。(ローマ共同)
【パゾリーニ事件】映画「ソドムの市」や「アポロンの地獄」で知られるパゾリーニ監督は1975年11月2日、ローマ近郊の海岸で激しく損傷した遺体で見つかった。直後に監督の車を運転していたペロージ少年が殺害を供述、79年に最高裁で懲役9年7月の刑が確定した。監督は左右の政治家らを鋭く批判し、「反道徳的」とされる作品が多かったことから、事件は政治テロではないかとの憶測があった。遺族は真相究明を求め続け、90年代にも捜査が1度再開されたが、新事実は見つからなかった。(ローマ共同)
パゾリーニの映画をはじめて知ったのは「王女メディア」。20歳の頃、深夜にテレビをザッピングしていたらマリア・カラスの魔女のような風貌が飛び込んできた。、まるで刃物のような個性と映像の毒気に、目が離せなくなったのを覚えている。その後、ユーロ・スペースでの特集上映に通い、全作品を見た。正直、イタリア社会やキリスト教文化圏のことを知っていないと「意味的に」理解できないものもあったけれど、「マンマ・ローマ」での息子を愛する母の普遍的なイメージや「大きな鳥と小さな鳥」での映画的実験などが強烈に印象に残っている。彼のどの作品にも言えることだが、とにかく強烈なのだ。「半端」がない。
20代前半の僕は生き方を模索し、そのためのヒントとすべく知識に飢えていた。なんでも知りたかったし見たかった。そんな時期に出会ったパゾリーニは、飢えていた心に衝撃と安らぎを与えてくれた。表現者として生きるということの壮絶さの片鱗を、垣間見せてくれた。その死については確かに謎が残っているのだが、芸術家にはつきものの「伝説」の一つとして受けとめている。
真相がどうであろうと僕にとっては関係ない。パゾリーニがその後も生きていたらどんな作品が生まれただろうなんて考えるのも馬鹿げている。
表現と生涯とは必ずしも一致しない。表現されたものは作家にとって「子ども」のようなものであり、すでに勝手に一人歩きをしているのだ。
子どもにとって、親がどういう死に方をしたかは大した問題ではない。「産み落としてくれた」という事実のみが、大切なのだ。
● 「the one and only PIER PAOLO PASOLINI !」
→FC2 同性愛Blog Ranking
ジャン・ユスターシュ「僕の小さな恋人たち」●映画レビュー
子ども時代のいろんな事が、腹の底からすべてすくいあげられるような・・・腹をえぐられて記憶が開発され直すような・・・そんな感覚を味わえる映画。
(↑どんな表現なんだか・・・笑)
監督の少年時代を回顧して作られたらしいが、少年期の「すべてが新鮮で生々しく自分に迫ってくる感覚」が静かに、時にはユーモラスに描かれる。国も文化も違うところが描かれてはいるんだけど、あの年頃に感じてたことってそうだったよな〜と、通じるものの方が多い。
驚くのが、必要以上に人物をフレームアウトさせる所までカットを引き伸ばし、人物がいなくなった「カラ」の画面をあえて多用するという独特の映像センス。最初は「あれっ?」と思うのだが、次第にこの監督さんの体内リズムなのだなぁと生理的に納得しながら観て行くと、そうしたゴツゴツした部分こそが、「記憶について」の表現でもあるこの映画の微妙な雰囲気づくりに貢献しているのだと気付く。
単なる物語ばかりを効率よく追うような映画では味わえない、
言語表現を越えた「映画」ならではの表現を堪能できた2時間だった。
●「僕の小さな恋人たち」DVD
→FC2 同性愛Blog Ranking
