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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2019-11
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チャールズ・ダンス「ラヴェンダーの咲く庭で」●MOVIEレビュー

大戦前夜の静けさの中で

今年いちばん好きになった映画「ベルリン、僕らの革命」に出ていたダニエル・ブリュールが出演しているので、楽しみに見に行った。
オーソドックスな物語映画ながらも、老人と若者の出会いから別れまでの細かい心理描写が巧みであり、とても丁寧に作られている好感の持てる映画だった。

突然現われた若い男。華やぐ老女二人

1936年。イギリスの海辺の田舎町で、ひっそり暮らす老女二人が主人公。
嵐の翌朝。いつものように浜辺を見下ろすと男が打ち上げられていた。見るとなかなかいい男。二人は必死に看病し、言葉の違いも乗り越えながら次第に彼の魅力の虜になって行く。

彼を巡って老女二人が嫉妬の火花をバチバチと燃やすのだが、これが生々しくておもしろい。演じるのはジュディ・デンチとマギー・スミス。演技者として素晴らしい仕事ぶりだ。そして、そんな二人の心理をわかりながらも、純真さと無垢さを武器にして世話になり続ける若い男のしたたかなこと(笑)。

若さに翻弄される喜びと切なさと

それまで沈んだ日常を送っていた老女二人にとって、彼の出現はまさに夢のよう。浮き足立った心の動揺を隠すことは出来ない。次第に彼の面倒を見ることが日々の生きがいになって行く。

生活を彼の好みに合わせたり、彼のちょっとした言葉に翻弄されてナーバスになったり・・・。いくつになっても人には「性(さが)」がある。好きな者に気持ちが高ぶり動揺する感情は、いくら経験を積んでも抑えられないどうしようもないものなのだ。

この映画のいいところは、そういう「老人の性」について啓蒙的に一面的に賛美するのではなく「当たり前のフツーのこと」として描き出しているバランス感覚だ。
「性(さが)」がもたらす華やぎと、同時に芽生える嫉妬や苦悩。
一生懸命な人間というものは喜劇的で滑稽なもの。奔放に振る舞う若者とは対照的に、ただただ翻弄される老いた女たちの可愛さがいとおしい。
大人であろうとすることは子どもである。子どもは実は大人なのである。

しかし、華やいだ日常もいつかは終わりが来る。元気になればいずれ、彼は出て行くのだ。「終わりの予感」は観客を惹き付ける特効薬。
どんな別れが来てしまうのか・・・。見たくないけど見てみたい。観客心理はこちょこちょとくすぐられながら惹き込まれて行く。

若い女が現われたっ!

ある日、若い男はひょんなことからバイオリンを弾きだし、実は相当な名手であることがわかる。村の集まりでも腕前を披露して一躍、有名人になった。
そこへ、若くて美人な放浪画家が現われ、彼の演奏に着目する。実は彼女は有名な音楽家の妹であり、彼を都会のオーケストラにスカウトしようと画策をはじめ、彼に接近してくる。

猛烈に接近してくる若い女の出現に嫉妬の炎メラメラの老女たち。
「あいつは悪魔よ。」「信用のおけない女だわ。」
二人がいくら悪態をつこうが惹かれあう若い二人を止める事は出来ない。この時ばかりは「老い」という現実に残酷なまでに向き合わされてしまうのだ。

「アメリカに行って自由になりたい」

若さと美貌と才能で老女達を虜にするという、この役。俳優ダニエル・ブリュールとしてはまさにハマリ役。彼の俳優としての持ち味は「透明さ」「アクのなさ」にあるからだ。
ちなみに、この男がどんな過去の持ち主なのかについて、映画で具体的には描かれない。ポーランド人であること。アメリカに行きたがっているということ。この二つの情報が与えられるのみである。

時代は1936年。おそらくドイツの侵攻してきたポーランドから命からがら逃げ出したユダヤ系の人物なのだろう。新天地アメリカに希望を抱いて渡る途中、船が遭難してしまったらしい。
「アメリカに行って自由になりたい。」水平線を見ながら彼は言う。
それを聞いて老女は言い返す。「アメリカは欧州のおちこぼれのたまり場よ。」

そして時は過ぎてゆく。時代は暗くなってゆく。

この映画の舞台であるイギリスの片田舎では、段々とキナ臭くなりつつある世界情勢など何処吹く風の、ただただ牧歌的な日常が繰り広げられている。
老人達はそれがどれほど幸福なことか、人生経験から知っている。
しかし、若者は旅立ってしまう。これから嵐が巻き起こるであろう大都会へ。

残されるのは、老いた老女二人を確実に輝かせた、あの夢のような日々の記憶のみである。
時は残酷に移ろい行く。そして人は老いて行く。記憶を咀嚼し、食べ続けながら。

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マグダレーナ・ピェコシュ「笞の痕」●MOVIEレビュー

父の厳格。息子の悲劇。

男の親子。
なにかと厄介な間柄である。
「男」というのは社会的に、メンツや体面を重んじて行動することを美徳とする生き物。西洋的に近代化された文化であるならば、どこでも共通である。

しかしそれを家の中にまで持ち込む時、悲劇が生じる。真面目で不器用な人ほど、公と私を使い分けられずに健全な父子関係を築くことが出来ない。子どもの前で「厳格な父親」であろうとするということは、家の中に「社会」を持ち込んでしまうことでもあることに気が付かない。

この映画はポーランドの30代の女性が監督し、そんな父子関係をシンプルにリアルに描き出した傑作である。
★日本での上映が限られた作品なので、ネタバレを気にせず記述しました。
鑑賞予定のある方はご注意ください。

愛情過多がもたらす暴力

幼いうちから、息子にクラシックを聴くように強要する。男らしく振舞うように強要する。少しでも自分の意にそぐわない行動をすると笞(むち)で打って「お仕置き」する。しかし息子は父の要求に順応できない。親子と言えども、違う感性を持って生まれた「他人」だからだ。

父が息子を自分の枠に嵌めて育てたがるのは愛情の裏返しなのかもしれない。愛情は基本的に盲目である。しかしそのせいで子どもの本当の姿が目に入らない。

子どもからすれば父というのは身体が大きく威圧的な存在だ。力ではかなわないし、「お前は俺がいなかったら死ぬんだぞ」と言われたら、何も言えなくなってしまう。父が暴れ出すとトイレに閉じ籠り震えてやり過ごす息子の孤独は募って行く。

父の権力の前で息子は自分を殺す

親というのは、「親である」という事実そのものがすでに権力的だ。子どもは庇護される立場にあるのでヒエラルキーから言うと「下」になる。
そのうえ、さらに権力を誇示された場合、子どもに出来ることといえば「自分を殺すこと」しかない。

父親の「いる所」と「いない所」でキャラクターを使い分ける癖が身につき、歪んだ性格が醸成されてしまう。部屋に籠もり、カセットテープに本音を録音することで感情を放出する息子。しかしそれも父に見つかり、笞で打たれるのだった。

悪循環

息子は家の中で発散できないから、学校で悪さをするようになる。成績は下がり、落第の危機を招く。
教師から父親に呼び出しがかかる。そのことでまた叱られる。・・・恐怖の悪循環が起こる。
この家は父子家庭であるようだ。
「アメとムチ」の「ムチ」しかないということは、ただでさえ立場の弱い子どもにとっては行き場がなくなる。

自分を殺して育った息子は、孤独を好み歪んで育つ

父の歪んだ愛情というものは息子を歪ませる。息子は周囲と折り合いがつかないので孤独を好むようになり、成長してからは探検家になる。性格が攻撃的だから友人が出来ない。
しかし彼の暗さに興味を持ち、積極的にアプローチをする女性が現れる。「女」であることを前面に押し出し、頑なな彼を翻弄することに喜びを見出すタイプの女性。彼女によって、彼の硬くなった心は解きほどかれて行く。

「あなたは、やさしさを隠した非情家よ。」

彼女は見抜いていた。弱いからこそ強がっている、彼の壊れそうな魂を。
こういうのを母性本能というのだろうか。主人公を救済するために、このような人物を登場させるのは女性監督らしい描き方だと思った。

やがて二人は結ばれる。
30歳を過ぎ、ふとした日常で、父に似てきていることを実感する彼。逃げていたはずの父に、自分が重なって行く不思議。
そしてある日、長らく縁を切っていた父が亡くなったことを、死後数日経ってから知るのだった。


父の孤独死。
はじめて対話できた父と息子


父の遺品としてカセットテープを渡される。そこには、長年会えずにいる息子に対して語りかける父の謝罪が吹き込まれていた。

その中で父は息子に語りかける。かつて息子が吹き込んでいた父への不満が詰まったテープを、
一人で毎日聴いているという。本当は息子に謝りたかったが出来なかったことへの自責の念。年老いた父が孤独の中で吹き込み続けたモノローグが淡々と流れる中、息子は取り返しのつかない時間が経過してしまったことを始めて意識する。
その夜、彼は彼女に抱きつき慟哭する。そのまま激しくセックスする。

◇◇◇
僕にはとても重い映画だった。自分の体験と重なり合う部分が非常に多いからだ。しかしわざわざ自分から、この映画を選んで観に行ってしまった。自分の根幹に関わるテーマだと思っているからだ。

親子なのに格好つけるな!
格好つけてるうちに
人生は終わり行く。


僕はかねがね思っている。親子関係というのは、もっと自然にフツーに形作ることはできないのだろうかと。
僕の父も愛情過多だった。庇護していることを事あるごとに口にし、権力を誇示してきた。厳格さという鎧をまとって息子に接しようとする父との葛藤を抱えながら育った歪みを、僕は今でも克服出来ないでいる。
わりとこういう人は多いのではないだろうか。この国の文化はなぜか、父親の理不尽に対して寛大であるから。前時代的な「家父長制」の亡霊が、いまだに少なからず跋扈し続けているから。

格好つけるというのは基本的に「嘘」である。その人本来の姿ではないのだから。子どもは大人の嘘を敏感に察知する。しかし大人はそれを認めようとしない。
そして、息子に「こうあらねばならない」という理想像を過剰に押し付けるということは、息子の現在に対して盲目である場合が多い。父親というものはなぜか、自分を息子に投影させようとする。だからなかなか「他者」として息子を扱えないのである。

せっかくのかけがえのない「親子の時間」が、こうした歪みで失われてしまうことに早く気付くべきである。「親と子」でいられる時間など、そう長くはないのだから。
◇◇◇
余談だが・・・僕は今までもこれからも、父が要求する「世間並みの男」という理想像に当てはまることは出来ないだろう。ゲイだから。

ゲイの人で、僕と同じように父との葛藤を抱えている人は非常に多いのではないかと思う。
男らしさという規範に息子が当てはまらない場合、父親との葛藤は激しさを増すだろうから。
そして、そういう人ほどゲイになりやすいのではないかとも感じる。
・・・もう少し気持ちの整理が出来たら、いずれこのテーマでここに、書きはじめるかもしれない。

◇◇◇
笞(むち)の痕(あと)
Pregi
2004年 カラー 91分 日本未公開
監督:マグダレーナ・ピェコシュ(1974- )
原本・脚:ヴォイチェフ・クチョク
撮影:マルチン・コシャウカ
美術:ヨアンナ・ドロシュキェヴィッチ、エヴァ・スコチコフスカ
音楽:アドリアン・コナルスキ
出演:ミハウ・ジェブロフスキ、ヤン・フリチ、アグニェシュカ・グロホフスカ、ヴァツワフ・アダムチック、ボリス・シツ、ヤン・ペシェク

<今後の日本公開日程>

●9月25日(日)13:00
・・・「ポーランド映画昨日と今日」
東京国立近代美術館フィルムセンター
小ホール(地下1階)

●10月27日(木)12:00
・・・第18回東京国際女性映画蔡
~映像が女性で輝くとき
東京ウィメンズプラザ
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ミック・デイヴィス「モディリアーニ~真実の愛~」●MOVIEレビュー

モディリアーニに覗かれて育つ

小さい頃、両親の寝室に一枚だけ
モディリアーニの絵があった。
もちろんレプリカだが額縁に入れられたその絵は、
小首を傾げた細長い女性がじっとこちらを見返しているという、典型的な彼の女性像。

寂しがりやで甘えん坊だった僕はよく、眠っている両親の間に割り込んで暖かさの中で眠っていた。明くる朝に目覚めると、目玉のないモディリアーニの女性像に覗き込まれるので僕もジッとみつめていた。
だから今でもモディリアーニの絵を見かけると、とても心が落ち着く。
この映画を見るまで、この画家の生涯に興味を持つことはなかったのだが、かなり面白い生き方をした人だったらしい。

ピカソと、本当の意味でのライバル関係

今世紀初頭のパリ、モンパルナスのカフェでの伝説はやっぱり外せない。
コクトーやユトリロなど若い芸術家たちが集まり芸術論に華を咲かせていたという、アート界における伝説。この映画では、そこで出会ったピカソとモディリアーニのライバル関係に焦点を絞ってわかりやすくした。

すでに若い頃から名声を確立していたピカソに対して、まったく無名だったモディリアーニ。二人の芸術表現や生き方は対照的なのだが、互いに気になってしょうがない。まさにライバルなのだ。
二人は事あるごとに挑発し合い喧嘩をするが心の底では尊敬しあっている。その心理描写が面白くスリリング。
対立関係をお互いに作り出すからこそ創作への原動力が生まれる。否定されるからこそなんとか肯定されようと燃えてしまうのが人間というもの。

争っている最中は互いに疎ましく憎しみも覚えるのだろうが、根底に相手への敬意や愛情があるからこそ、嫉妬の炎は燃えあがるのだ。たいへんなエネルギーが必要ではあるのだが、そのおかげで生み出された数々の作品を目にすると、たとえ嫉妬という負の感情であっても見方を代えれば素晴らしいものに思えてくる。

流行のスタイルを忌避し、自己のスタイルを追及

当時の美術界ではフォービスムやキュビズムが大流行。ピカソはそれらを最も上手に吸収し、自己表現へと取り入れて変身して行く。モディリアーニが反発したのはそういったピカソの姿勢であった。
ピカソは、いわば「スター」になる才能に長けていたのだ。なんでも面白がれるし変わり身の早い性格だったのだろう。
それに対してモディリアーニは天の邪鬼。流行に乗ってしまうことは彼の性格が許さない。だから絵が商品にならない。時代の主流ではなく、はみ出してしまうからだ。

金銭的にも貧しく健康面でも優れなかった。だったらなおさら流行作家になって生計を立てようとは思わなかったのだろうか。
思わなかったのだ、そこがモディリアーニのモディリアーニたるところ。
写真を見るとかなりの美男子であったようだから、きっと女性が放っておかなかったにちがいない。彼のまっすぐな性格に惚れ込む強い女性が常に傍にいたのだろう。そして彼もたぶん甘え上手だったのだろう。

絵がかけなくなって彫刻に専念していた時期もあるらしい。
そうした創作面での妥協を許さない性格は徐々に実を結び、自己のスタイルの確立へと繋がって行く。今となっては誰もが思い浮かべるあの「モディリアーニ調」の女性画は、この性格だから生み出された独自のスタイルなのだ。
憂いを帯びてどこか儚げだけれども、その自分が秘めている芯の強さがどこかしらにじみ出てくる人物画。それはきっと、モディリアーニの自画像でもあるのだろう。

死ぬのを待たれていた画家。

なかなか職業画家としての地位を確立できず、かといって自分の信念・性格を曲げることもできなかった彼は、次第に酒に溺れるようになる。
結局35歳で身体を持ち崩し死去。妻のジャンヌは
第二子を身籠っていたのだが、彼の死から二日後に後追い自殺する。

実は、彼の生前からその絵の可能性に気付いていた画商はかなりいるらしい。しかし本人の性格や体調不良からその死が迫っていることは周囲も察知していて、死後に絵を安く買占め、高値で売ろうと画策していたという。
結局、そのたくらみどおりになった。

死人に口なし。商品化される「モディリアーニ伝説」。

今では世界的に有名なブランドと化したモディリアーニ。これほど世界中に広まるものであったことを、ついに本人は知らないままだった。そこがいわゆる「モディリアーニ伝説」として人々の興味をそそるところ。

芸術家という、一見華々しくも思える生き方の裏に潜む一筋縄では行かぬ闇。
そこを垣間見られる彼の伝説。
まっすぐに生きた人が、認められないままに人知れず非業の死を遂げる。
それは、そこまでの強さを持てずにフツーに生きている我々が、実は心の底で憧れる激しい生き方。要するに一つのヒーロー像である。
この映画は、そうしたモディリアーニ伝説を見事に補強し、観客を表面的に楽しませてくれる。
もう少しこの監督なりの見解や批評にまで踏み込んで表現することは出来なかったのだろうか。恋愛映画として商品化するには、しょうがないことなのかもしれないが。

「真実の愛」
・・・副題のセンスとしてどうなんだろう(笑)


この映画の日本公開時の副題には「真実の愛」とある。モディリアーニの死後自殺したジャンヌとの「愛」もこの映画の軸として描かれているからだ。
しかし僕の興味が、彼の芸術家としての生涯の方にあったためか、「愛」とやらの描写はあまり印象に残らなかった。なぜならこの手の映画にありがちな、女性観客を意識したラブロマンス風の演出の紋切り型から抜け切れていなかったように思うから。
そこに捉われてしまったことが、この映画を中途半端な印象にしてしまった原因なのではなかろうか。芸術家というものは、決して綺麗なものではない。ヒーローでもない。
表現せざるを得ない屈折を抱えた人間が行う排泄行為が芸術だ。
安易に主人公をヒーローにしてしまうのではなく、もう少し「人間の狂気」に迫って欲しかった。

比較するのもなんだけど、やっぱり比較してみたくなった。

1958年にジャック・ベッケル監督が、ジェラール・フィリップの主演で「モンパルナスの灯」という映画を創っている。
こちらもモディリアーニの生涯を描いているが、この映画とは焦点の当て方がだいぶ違うらしい。
パンフレットで評論化が比較して、今回の作品の甘ったるさを婉曲的に皮肉っていた。
ぜひ見てみようと思う。


「モディリアーニ~真実の愛~」
2004年 仏・英・伊合作 126分
監督・脚本・・・ミック・デイヴィス
エグゼクティブ・プロデューサー・・・アンディ・ガルシア
出演・・・アンディ・ガルシア、エルザ・ジルベルスタイン、オミッド・ジャリリ、
エヴァ・ヘルツィゴヴァ、イポリット・ジラルド他

「モディリアーニ 真実の愛」DVD

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映画を見るということ/語るということ

自分が今、求めるから見る。

映画体験というのは、人それぞれに違っていい。たくさん見ている人、あまり見ていない人・・・。たとえ同じ映画を見たとしても、その人の積み重ねてきた人生の記憶によって感じ方はバラバラであり、語り方もバラバラであるはずだ。

そこに正解はない。優劣もない。


僕がいちばん嫌なのは、シネフィルによる自閉した映画評論の世界。
専門用語や作品名、監督名などに詳しくなければついて行けないような会話や議論をこぞって展開したがる方々を今までたくさん目にしてきたけど・・・そういうのは「閉じている」ような気がする。

マニアがマニア同士で集まって語り合っても、「自分たちの詳しさ」を自慢し合うことは出来るだろうけど、ただそれだけ。
しかも大抵「○○監督がこの前のシンポジウムで言ってたけど・・・」とか「○○に書いてあったけど・・・」とか誰かの言ってた言葉に詳しいだけ。「それはわかったけど、じゃあお前はどう思うんだよ」と突っ込んで喧嘩になりかけたこともある。そういう知識ばかり詰め込んで理論武装している人たちに限って、実際の行動には移せない。なぜなら「頭でっかち」になると理想ばかりが高くなりすぎてしまい、いざ作品を創る時に自分の行動が追いついていないことに落ち込み、挫折感を味わいやすいからだ。

本当に映画が好きなんだったら、誰にでもわかる言葉で「開いて」語るべきだ。
マニア以外の声を謙虚に聴き、取り入れてこそ新しい世界は開けてくる。
本当にすぐれた評論家や監督は、そうしたことの出来る謙虚さを持った人だと僕は思う。

このことは、映画の世界に限らず、学問など他の分野についても言えることだ。
世の中のあらゆることは、本当はいくらでも簡単な言葉で語れるはず。昔から劇作家や宗教家たちは、文字の読めない人々にそうやって物語を伝えてきているじゃないか。

わざわざ難しい専門用語を好き好んでこねくり回す人って・・・
「簡単な言葉に翻訳する能力がない権威主義者」なんだと思う。

僕は、権威主義者をなによりも憎む。

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ペドロ・コスタ「骨」●映画レビュー

ミステリアスだから、人は魅かれる。


男と女。

彼らの、無言のまなざしのアップから映画はスタートする。

なんということはないアップであるはずなのに、内面の孤独、言い知れぬ虚無感の全てが含まれたようなまなざし。そのインパクトに、目が離せなくなる。

余計な説明はいっさいなし。台詞も必要最小限。
気持ちいいくらいに、観客という他者を信用してくれている映画だ。
(その分、ちょっと疲れるけど・・・笑)。

男は無気力な日々を過ごしているらしい。
赤ん坊の世話。それしかしていない。なぜ彼がそうなのか映画はまったく説明しない。

女はそんな男といることで彼の無気力が自分に感染するのを恐れているかのよう。
焦燥感を抱えながらも仕事に出かける日々。

彼らに降り積もる、残酷な現実の重し。

男は通院しているらしい。そこの看護婦に癒しを求める。
看護婦は男を放っておけず、家に招く。・・・男女の交流がある。
男は、別の女とも寝る。その女に赤ん坊を売ろうとする。
さらには赤ん坊を捨てたりもする。

男の絶望を抱えきれなくなった女が発する言葉。
「あなたの痛みを分かちあいたかっただけなのよ。」
・・・しかし男には響かない。心をなくしてさまよう女。

やがて女はガス自殺を図る。

・・・映画はこんなトーンで進行するが、そこでは彼らの日常に起こることの「断片」が、ただ切り取られるだけ。「断片」で描かれた出来事の結果は見せない。女のガス自殺の結果すら。
その後のシーンで女が何事もなかったかのように過ごしているのを映すことで、観客には自殺が未遂に終わったことがわかる。・・・つまり核心はそこにはないのだ。

表面的にドラマティックなものには、本当のドラマはない。

テレビの二時間ドラマやハリウッドの大作映画は、観ている最中はドキドキするのかもしれないが、なぜ心に残りにくいのだろう。きっとそれらは観客のことを信用せず、必要以上にドラマをドラマティックに誇張しすぎるからだろう。それを見る観客に、自分から読み取る自由を与えない。観客の主体性を信じていないのだ。すべてが説明されてしまうから、観客は自分の感性をまったく動員せずに与えられたものを「ただ眺める」状態になってしまう。そんなものは記憶には残らない。

本当のドラマは、無言だったり無表情だったりする当たり前の日常の中で、いつの間にか蓄積されるものの中にある。その「微妙なひだ」を読み取るのは観客。心に蓄積されるマグマを読み取るのも観客。
それが映画。表現というもの。

この映画は、
観客の「目」を信用している。
信用された観客は、自由に映画と向き合える。
そして見終わった後も、心の中でいつまでも映画を育てて行けるのだ。

僕の場合は・・・最初の「あのまなざし」が忘れられなくなり、
ふとした時に思い出すことになるのだろう、きっと。

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「パゾリーニの死に方伝説」について

パゾリーニ監督殺害:
事件から30年、ローマ地検再捜査へ

●毎日新聞ニュース
より引用(2005年6月4日付)


イタリアの映画監督、ピエル・パオロ・パゾリーニ氏(1922~75年)が映画「ソドムの市」を撮り終えた直後に殺害された事件から今年で30年。犯人として服役を終えた男性が最近になって「犯人は別にいる」と証言、監督の側近も「真相は別にある」と話し始め、ローマ地検は3日までに事件の再捜査に乗り出すことを決めた。殺害を認めた30年前の供述を覆したのは、9年7月の懲役刑に服し、既に出所しているピノ・ペロージ氏(46)。判決は、当時17歳だったペロージ氏が、ローマ近郊の海岸で同性愛者の監督に不快な行為を要求されて逆上、木材で殴った上、監督の車でひいて殺したと認定した。ところがペロージ氏は、5月7日に放送されたドキュメンタリー番組で「犯人は別の3人組。家族に危害を加えると脅されたので罪をかぶった。もう両親も死んだので話せる」と語り、にわかに注目を集めた。同氏は今のところ、犯人像については一切語っていない。(ローマ共同)

【パゾリーニ事件】映画「ソドムの市」や「アポロンの地獄」で知られるパゾリーニ監督は1975年11月2日、ローマ近郊の海岸で激しく損傷した遺体で見つかった。直後に監督の車を運転していたペロージ少年が殺害を供述、79年に最高裁で懲役9年7月の刑が確定した。監督は左右の政治家らを鋭く批判し、「反道徳的」とされる作品が多かったことから、事件は政治テロではないかとの憶測があった。遺族は真相究明を求め続け、90年代にも捜査が1度再開されたが、新事実は見つからなかった。(ローマ共同)



パゾリーニの映画をはじめて知ったのは「王女メディア」。20歳の頃、深夜にテレビをザッピングしていたらマリア・カラスの魔女のような風貌が飛び込んできた。、まるで刃物のような個性と映像の毒気に、目が離せなくなったのを覚えている。
その後、ユーロ・スペースでの特集上映に通い、全作品を見た。正直、イタリア社会やキリスト教文化圏のことを知っていないと「意味的に」理解できないものもあったけれど、「マンマ・ローマ」での息子を愛する母の普遍的なイメージや「大きな鳥と小さな鳥」での映画的実験などが強烈に印象に残っている。彼のどの作品にも言えることだが、とにかく強烈なのだ。「半端」がない。
20代前半の僕は生き方を模索し、そのためのヒントとすべく知識に飢えていた。なんでも知りたかったし見たかった。そんな時期に出会ったパゾリーニは、飢えていた心に衝撃と安らぎを与えてくれた。表現者として生きるということの壮絶さの片鱗を、垣間見せてくれた。その死については確かに謎が残っているのだが、芸術家にはつきものの「伝説」の一つとして受けとめている。
真相がどうであろうと僕にとっては関係ない。パゾリーニがその後も生きていたらどんな作品が生まれただろうなんて考えるのも馬鹿げている。
表現と生涯とは必ずしも一致しない。表現されたものは作家にとって「子ども」のようなものであり、すでに勝手に一人歩きをしているのだ。
子どもにとって、親がどういう死に方をしたかは大した問題ではない。「産み落としてくれた」という事実のみが、大切なのだ。

「the one and only PIER PAOLO PASOLINI !」
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ジャン・ユスターシュ「僕の小さな恋人たち」●映画レビュー

子ども時代のいろんな事が、腹の底からすべてすくいあげられるような・・・
腹をえぐられて記憶が開発され直すような・・・そんな感覚を味わえる映画。
(↑どんな表現なんだか・・・笑)

監督の少年時代を回顧して作られたらしいが、少年期の「すべてが新鮮で生々しく自分に迫ってくる感覚」が静かに、時にはユーモラスに描かれる。国も文化も違うところが描かれてはいるんだけど、あの年頃に感じてたことってそうだったよな~と、通じるものの方が多い。

驚くのが、必要以上に人物をフレームアウトさせる所までカットを引き伸ばし、人物がいなくなった「カラ」の画面をあえて多用するという独特の映像センス。最初は「あれっ?」と思うのだが、次第にこの監督さんの体内リズムなのだなぁと生理的に納得しながら観て行くと、そうしたゴツゴツした部分こそが、「記憶について」の表現でもあるこの映画の微妙な雰囲気づくりに貢献しているのだと気付く。

単なる物語ばかりを効率よく追うような映画では味わえない、
言語表現を越えた「映画」ならではの表現を堪能できた2時間だった。

「僕の小さな恋人たち」DVD
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