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やわらかくありたいなぁ。

2017-09
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ニール・ジョーダン「プルートで朝食を」●MOVIEレビュー

 「ほんの少し」どころではない試練

 彼はすごい。本当にすごい。人を疑わない。まっすぐなまなざしで親しげに他者に微笑みかけ、打算も下心も全くない。・・・ところでこんな人、本当にいるの?

 ニール・ジョーダン監督が最新作『プルートで朝食を』で描き出したトランスジェンダーの主人公キトゥンは、まるで「天使」なのではないかと疑いたくなるほどに清らかな精神の持ち主として描かれている。

 ちなみに、この映画の日本公開時のキャッチコピーは「神様は彼に、ほんの少しだけ試練を与えた」なのだが・・・と~んでもない(笑)。実際には「ほんの少し」どころではない数々の過酷な試練が次から次へと襲いかかり、常人ならば気が狂って廃人になってしまうだろうと呆気にとられるほどである。

 そう。
 つまり監督は主人公を「常人」としては描かなかったのだ。まるでファンタジーに出てくるような「聖人」として、意図的に主人公を「美化」して描ききったのだ。途中からそのことに気付き、なぜわざわざ「ファンタジー」として映画全体をコーティングしたのか、監督の意図を汲み取ってみようとは思ったものの・・・残念ながら、伝わらなかった。映画的表現として、成功しているようには感じられなかった。

 やろうとしたコンセプトの意味は「頭では」理解できる。しかし実際に提示された映画からは、なんの感慨も湧いて来ない。コンセプトが空回りして「机上の空論」に終始してしまったという感じ。その原因はきっと、映画の中にあまりにも多くの要素を詰め込みすぎて散漫になり、芝居の「見せ場」を作れなかったからなのではないかと思う。名画の条件とは「印象に残る強力な場面」を作れるかどうかだと思うのだが、この映画には残念ながら、それがない。

 神父の強姦から生まれた彼

 たしかに主人公の人生は数奇なものであり、描くべきことはたくさんある。まずは生まれ方自体が悲劇的だ。

 キリスト教における神父というのは、女人と交わりを持ってはならない。しかし人間なんだからその禁忌を犯すことだってある。ごく真面目な神父が出来心で美しい家政婦を犯したことから生まれた主人公。しかし家政婦は出産後、神父の家の玄関先に主人公を捨てたまま、大都会ロンドンへと旅立ってしまう。

 自分に子どもがあることを知られてはならない神父は、主人公を近所のおばさんに預けて育ててもらう。つまり主人公は「自分の親を知らずに」育ったのだ。

 物心がつくにつれ、まだ見ぬ母に強烈な憧れを抱くようになった主人公。やがて自分の美しさに気付いて女装に興味を持ちはじめ、内面が「女っぽい」自分にも気付いて行く。そのことが原因で周囲との軋轢が生まれるようになってからは、自分の出自についての「空想」や「妄想」を抱くことで現実の辛さから逃避するようになる。

 主人公の周りには同じように、一般社会には馴染めない「はみだし者」たちが集り、刺激的でエキサイティングな出会いと別れを繰り返す。ロック・バンドのヴォーカリストと恋に落ちたり、彼がIRAの活動家であることから事件に巻き込まれたり。挙句の果てにはテロリストの容疑を掛けられ警察に収監されたりもする主人公。
 しかし主人公はどんな状況においても人を疑わず、与えられた境遇を素直に受け入れる。たまに「妄想」に現実逃避しながらも結構うまくやって行く。やがて父親である神父とは邂逅し、実の母親を探し出し再会すべく訪ねて行く彼。しかしその名場面すらも描写はあっさり。

 芝居が散漫。要素詰め込みすぎ

 この映画は結局のところ「主人公の半生記」を描き出すことに振り回され、肝心の「主人公の内面」が見えにくくなっている。主人公の「美しさ」で説得力を持たせるにしても、この主演俳優がそれほど「絶世のオーラを放った美男/美女」であるとも思えない。彼の演技力の限界も、この映画をよそよそしいものにしてしまっている要因だ。彼が役柄を肉体化できているようには思えなかった。

 「キャンディード」を理論として見せられても・・・

 監督が映画を「ファンタジー」としてコーティングした理由を述べた発言が、パンフレットに書いてあった。

 「これほどまでに攻撃的な世の中で自分らしさを保ちながら生き抜いていくにはどうすればいいのだろう?本作を撮るにあたって私はその点をおとぎ話風に描いてみたいと思いました。主人公であるパトリックが自分の置かれた状況から創造していく物語の世界です。パトリック・マッケーブと脚本を推敲していく過程で、常に私の脳裏にあったのはキャンディードでした。世界を美しい場所として捉えることを非常識なまでに強要する中で、パトリックは全てを失っても決して自分自身を見失うことはないのです。」

 ちなみに「キャンディード」とは、フランスの哲学者ヴォルテール原作のミュージカルのことであり、岩波文庫の解説では、次のように説明されています。

「人を疑うことを知らぬ純真な若者カンディード。楽園のような故郷を追放され、苦難と災厄に満ちた社会へ放り出された彼がついに見つけた真理とは…。当時の社会・思想への痛烈な批判を、主人公の過酷な運命に託した啓蒙思想の巨人ヴォルテール(1694‐1778)の代表作。」

ヴォルテール「カンディード 他五篇」(岩波文庫)

水林 章「『カンディード』<戦争>を前にした青年」

 
 たしかに、ヴォルテールのこの哲学的思索は素晴らしいものかもしれないが、それは逆説的に、「聖人でなければこんな世の中生きていけるわけがない」という悲観論でもあるわけで。

 こうした非現実的な人物に現実味を持たせるには、文学や演劇のように観客の想像力で登場人物を造形できる表現様式だったら成立するのかもしれない。しかしこの種の「物語映画」というものは、演じる俳優の肉体の現実性がリアリティーを持ってスクリーンに映し出される。それ自体がものすごく現実的であるにもかかわらず、その主人公の内面に対しての現実感を持てないのならば、観客としては「あの人はいったい何?」と呆気にとられるしかなくなってしまう。最新の映像技術を駆使して主人公の姿が非常にリアルに即物的に映し出されている分、その内面が非現実的であることが逆に際立ってしまうのだ。

 モノクロ映画やアニメ、あるいは実験的なスタイルを選択して「物語映画」であることを拒否すれば、よりリアリティーのある形で「カンディード」の思想が表現出来たのかもしれない。すなわちこの映画はコンセプトに縛られたまま、興行的なバランスを取ることも要求されたためにどっちつかずに終わってしまったのではなかろうか。

 劇中に当時のポップ・ミュージックがたくさん挿入され映画を盛り立ててはいるけれど、そういう安易な方法でスタイリッシュな「気分」を作ることに逃げないで欲しかった。充実した「芝居」の名場面が一つでも撮れていれば、そんな小細工などする必要はなかったはずなのだから。

 どうやら原作小説の主人公は、映画とは違ってもっと生々しく「怒りっぽく」「受身」の人物として造形されていたらしい。しかし映画化にあたって「優しくおもいやりのあるキャラクター」に変えられた。さらに父親である神父のキャラクターも、より善良なものに改変され、物語全体もハッピーエンドに変更された。 (パンフレットの情報より)

 二ール・ジョーダンが映画化にあたって切り捨てた部分にこそ、もしかしたら主人公の人間としての「まっとうな部分」が含まれていたのかもしれない。この改変がもし「興行的な計算」によって行われたのだとしたら、結果としては裏目に出てしまったのではないかと思う。原作をぜひ読んでみたいのだが日本語訳での出版はされていないようなのが残念だ。

Patrick McCabe 「Breakfast on Pluto」

 人は、他者の中に自分と共通する「汚い部分」や「情けない部分」「醜い部分」を発見したときに、より人間的な親しみを持つものだと思う。この映画が描き出した「聖人」に共感する感性が僕にはない。そして、ここまで世の中のことを突き放して捉えたくはない。そのことだけは確認できた映画だった。

「プルートで朝食を」 
(Breakfast on Pluto)
2005年 イギリス
監督:二ール・ジョーダン
出演:キリアン・マーフィー ほか
公式サイト
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ファンタジーとリアリティ

何ででしょうね、最近の作家は「ファンタジー」ばかりを
追及したような人が多いような気がして。
ファンタジー、おとぎ話でありながら真に迫るリアリティがある。
それがもともとのファンタジーのあり方だったのでは…と思います。

さすがakaboshiさん、深い洞察力~。
パンフを読んで、キャラクターの性格の改変があったことを知り、原作も読んでみたくなりました。
こんな時代だからこそ、おとぎ話が望まれてるのかな?(撮る側も、みんなに夢を与えたい、と思ってるのかな?)とも思ったり。。。現実逃避? でも、せめて映画を観てる時間だけでも、現実を忘れたいかも・・・

●Kazuccineさん。

この映画の場合、コンセプトは素晴らしいとは思うのですが
それを消化できてないままに、公開されてしまったという感じです。
また、日本公開のファッショナブルでおしゃれな宣伝イメージは、
「ファンタジー性」を期待させすぎる分、作品がそこまで突き抜けたものになっていないため
「期待はずれ」だという印象を抱く観客を増やしてしまっているような気がします。

●chobiさん。

この映画、本当は
「ファンタジーを、ファンタジーによって批判する」ことを目指しているはずなんですけど・・・。
観終わった後に、パンフの解説を読んで「そうなんだろうなぁ」とは理解できるけど
映画本体からは、その感覚が伝わって来なかった。
だからかえって、宣伝やパンフで必死に説明する必要があったんだろうなぁと。

ちぐはぐ

>まるでファンタジーに出てくるような「聖人」として、意図的に主人公を「美化」して描ききったのだ

同感です。境界を生きる、という重いテーマをファンタジーとして描いているので、どこかちぐはぐな印象になってしまっています。
「嫌われ松子の一生」も、同じような印象でした。

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