フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2017-03
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フランソワ・オゾン「ぼくを葬る」●MOVIEレビュー1

 死は嘘を許さない

 死を目前にしたとき。人は「嘘」を清算したくなるのかもしれない。彼にとって「生まれ育った家族」は精神的な安らぎをもたらすものではなかった。だから彼は、「死期が迫っている」という事実すら家族と共有しようとはしない。

 ゲイの映画監督フランソワ・オゾンの最新作『ぼくを葬る』は「自分自身の死」を描き出したという。主人公を31歳のゲイに設定し、監督自らが脚本を書き、おそらく自身が辿ったゲイとしての精神遍歴を託しているのだろう。映画の冒頭で突然、末期がんで残り3ヶ月の命であることを告げられる主人公。あとは彼が、死ぬまでの日々をどう過ごすのか。観客の関心はシンプルに集約される。

 「寄る辺なき」ゲイの魂を、そっと包み込む視線

 ゲイ当事者が見ると、細かいディテールや主人公の心理描写や、「世の中」というものの捉え方に共鳴できる部分が多いと思う。そして、ゲイではない人々にとっては「ゲイへの幻想」あるいは「偏見」を木っ端みじんに打ち砕く可能性を秘めた映画でもある。主人公のフワフワとした「寄る辺なさ」は、ゲイとして生きる者の一つの典型を示していると思う。そのことを否定せず、むしろ肯定しながら観客に突きつける態度は、この映画に込めた監督の野心を表していると言えるのではなかろうか。これまでにも、オゾンの映画では必ず、こうした態度が貫かれて来た。作品によっては遠慮がちだったことも多々あるのだが、今回は容赦なく剥き出しに表現されている。

<このレビューはネタバレです。これからご覧になる方は注意してください。>

フランソワ・オゾン監督「ぼくを葬る」公式サイト
当ブログ内関連記事(この映画の広報戦略について言及。)
ゲイ映画「ぼくを葬る」公開中

 家族との不和・断絶を確認

 主人公には姉がいる。子連れで離婚してしまったらしい。自らの死に直面した主人公にとっては、子どもがいるということ自体すでに嫉妬の対象でもある。主人公は、愚痴を言う姉に過剰反応して苛立ちをぶつけ、せっかくの「家族団らん」をぶち壊してしまう。

 気まずいまま、車で自宅まで送ってくれた父親と、久々に二人きりの時間を過ごす。息子の精神状態がおかしいことに気付きつつも、何も声をかけてあげられない父。父は若い頃、浮気が盛んで母を悩ませた。主人公はそんな父を恨んでいるらしい。それからずっと冷めた関係が続いているようだ。

「僕が怖い?」
 主人公は父に聞く。
「時々な。」
 父は応える。

 息子がゲイであることを父は知っている。そのこともあってか、父親が息子を畏怖している様子が画面から伝わってくる。「父と子」としてわかりあいたいのに、どうしても越えられない「精神的な壁」の存在が残酷に浮かび上がる。

 息子はすでに、こんな家族関係を「あきらめている」ようだ。だから家族の誰にも「自身の死」について語らない。秘密を共有する存在と見做していないのだ。家族はきっと、彼の死後に結果を知らされて驚くのだろう。「それならそれでいい」と割り切っている主人公の精神状態が、痛い。 嘘の関係。その空虚を空虚のままで味わい噛み締める。「虚飾に過ぎなかった絆」に、自分だけで別れを告げながら。なんという孤独。

 恋人との一方的な別れ

 自宅に帰ればゲイの恋人がいる。いつものように惰性のセックスをした後、主人公は突然、

「もう欲望がなくなった。一緒にいる意味がない。出て行け」

と宣告する。突然の彼の豹変ぶりがわからない恋人。主人公は恋人すらも、「死について共有」する相手と見做してはいなかったことに気付いてしまったようだ。もうじき死ぬ人間に、未来を共有するパートナーは必要ない。こうして彼は、この世の「しがらみ」を一方的に断ち切ることで着実に死出の準備を整えはじめる。孤独と引き換えに自由を手に入れながら。

 自由の味。享楽

 仕事とも別れを告げ、さらに自由度は加速する。彼は夜の街に繰り出し、ゲイとしての性欲を開放し享楽をむさぼるために「クルージング・バー」に出かける。「ハッテン場」となっている店内では、肉欲の奴隷になった逞しい男たちが本能剥き出しの獣となっている。彼も獣になったのだろう。ゲイとしての享楽を存分に味わったのだろう。

 旅立ち

 身体を開放したら、精神も開放されたがっていることに彼は気付く。処世術だの打算だのといった現世的な「しがらみ」の一切から解き放たれ、究極の孤独という自由を抱きしめた時、彼には会いたくなる人がいた。それは祖母だった。

 祖母は田舎町で独りで生きている。彼は祖母にだけ、ほかの誰にも口に出来なかった秘密=死が目前に迫っていることを語ることが出来た。

「どうして私にだけ語ってくれたの?」
「おばあちゃんも僕に似てるから。もうすぐ死ぬ。」

 無防備なまでにあからさまな言葉の応酬。しかし魂が共鳴し合う二人だからこそ交わせる会話。彼にとって「家族」と呼べるのは、祖母だけだったのだろう。二人はその夜、同じベッドで寝る。

 ジャンヌ・モローという名女優

 主人公の孤独を唯一癒すことの出来る祖母。この役を演じたジャンヌ・モローは本当に素敵な女優だと思う。「大女優」特有の気取ったオーラなどさらさら感じさせず、「生きてきた痕跡」がそのまま刻まれた皺だらけの顔を晒し、しわがれ声で、老いさらばえた寂しい祖母を的確に演じ、人生の芳醇な苦さを滲ませた名演技を魅せてくれた。

「もう少し早く生まれていたら、あなたと結婚した。」

 最期に主人公は、こう告げて祖母と別れる。
 手を振って孫を見送った後、一人寂しげに家に戻る祖母の背中が忘れられない。彼女はなお残酷な孤独を引き受けて生き続けるのだ。僕がこの映画で最も印象に残ったのは、この時のジャンヌ・モローの背中だった。真の芸術家・ジャンヌ・モロー万歳。

 女性との子作りセックス(旦那付き)

 この映画ではとても「奇妙な」セックス・シーンがある。男と女と男のセックスである。
 祖母の家から帰る途中に立ち寄ったカフェで働く女性から、代理父になってくれないかと頼まれた主人公。なんでも、その女性の旦那に原因があるらしく、子どもが出来ないというのだ。

「あなたは美しい。あなたとなら、主人も同意してくれると思う。」

 その場では、願いを拒否した主人公。

 しかし、祖母との邂逅がその後の彼を大きく変化させたようだ。恋人と再会して互いの近況を確かめ合ったり、残り少ない時間を前向きに行動し始めた主人公。もう一度カフェに立ち寄り「代理父になる」ことを自らが希望する。そして旦那も交えた三者での「子作りセックス」が行われることになるのだ。女性に興奮出来ないゲイは、旦那がいてくれれば興奮できる。三者ともに、その事情を受け入れた上での一見、不思議なセックス。滑稽なセックス。しかしなぜか、とても美しいのだ。僕の中の既成の価値観が困惑しながらも、同時に喜びながら音を立てて崩れ去るかのような感覚を味わった。

 「職業写真家」から「芸術写真家」へ

 こうした子作り場面をあえて描いたのは、オゾン特有の屈折した表現かもしれない。この映画の主人公の職業は「フォトグラファー」である。芸術表現ではなく「広告表現」としての写真撮影を生業としていた人物なのだ。映画の冒頭において、彼の生き方は「芸術家」ではない。もし彼を最初から「芸術家」として描き出していたならば、こうした「子作り場面」は必要なかったはずである。芸術家は常に作品という「子作り」をしているようなものだから。

 この映画でオゾンが「オゾン自身」と「主人公」に、こうした大きな違いをあえて作ったのは、単なる「仮想自伝映画」として閉塞したくなかったことともう一つ、「芸術についての思想」を表現したかったからなのだと思う。なかなかの「したたか者」である、フランソワ・オゾンという人は。

 死に直面し、人は「芸術家」になる

 人生が順調な時には「商品としての写真」しか撮っていなかった主人公。しかし死を宣告されて以降の彼は、なんの目的意識もなく「心が動かされたときに」シャッターを押すようになる。姉が公園で子どもを連れて遊んでいる姿に生命の輝きを見出し、そっと気付かれないようにシャッターを押したり、なんでもない公園の木々にレンズを向けたりする。

 彼は「死」と直面したことではじめて、「芸術としての写真」に目覚めたのだ。おそらく本人の自覚はないままで。芸術って本来、そういうものなのかもしれない。芸術のための芸術なんて嘘。
人生のためにこそ芸術はある。

 死に場所は自分で選択する

 まばゆいばかりの光に満ちた真夏の海岸。肌を露出させた健康な人々が生命を謳歌する中で、末期の癌に侵された主人公はその青白い裸身を晒しながら、最期の海水浴を楽しむ。そして、夕陽が沈む中、砂浜で眠りにつく。

 日没が迫り、人々は海岸から去り行く。闇が訪れる。
 しかし主人公はその場を去らない。
 闇と同化するように、その生を終える。
 自ら選んだ死に場所で。自分一人で「死」を噛み締めながら。

 一人で死を迎える孤独は、寂しいことではないのかもしれない。
 孤独を楽しむ術を知った人間にとっては。


「ぼくを葬る」 2005年/フランス/81分
(TIME TO LEAVE/Le temps qui reste)
脚本・監督:フランソワ・オゾン
出演:メルヴィル・レポー、ジャンヌ・モロー、
ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ、
ダニエル・デュヴァル、マリー・リヴィエール他

フランソワ・オゾン監督作品DVD
「ぼくを葬る」
「ふたりの5つの分かれ路」DVD
(ゲイ・カップルが登場し、主役を翻弄)
「ホームドラマ」DVD
(ゲイの息子が登場)
「クリミナル・ラヴァーズ」DVD
(主人公の少年はゲイ)
フランソワ・オゾンDVD-BOX「海を見る」「サマードレス」「ベッドタイム・ストーリーズ」「クリミナル・ラヴァーズ」他9作品収録
フランソワ・オゾン監督フィルモグラフィー

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コメント

この記事へのコメント

TBありがとうございました

こんにちは。
何かこちらのレビューを読んで心にぐっときました。
あまりもリアルで滑稽で、でも鮮烈な美しい死と性。
個人的にはロマン自身であらゆる事を自分の記憶に残したので孤独ではなかった、と思ってます。
自分で自分を葬る…こんな選択もありだなとしみじみ思いました。

TBありがとうございました☆

痛くて美しい作品だと思いました。うまく理解できない部分もありましたが
最後の夕闇に溶けていくロマンは彼の選択に満足していたのだと思います。

●charlotteさん。

ロマンは最期、満ち足りた顔で死んで生きましたもんね。
「自分で自分を葬る」って、
出来そうでなかなか出来ないことかもしれない。

●Renさん。

溶けて行く場所を自分で選択できるのって
実は幸せかもしれないですよね。
病院で死ぬのではなく、あそこで死んだというのが「彼らしさ」。

TBありがとうございます!

「寄る辺なさ」そういえば私はロマンのそんな姿に、生きる人間の体温のようなものや生の愛おしさを強く感じたように思います。
その姿があの映画の芯を強いものにしているような気がします。
何故だかはよく分かりませんが…。
それにしても、ラストの海辺のシーンは本当に深く美しいですよね。

静かな映画でした(コメント失礼。)

主人公の「寄る辺なさがゲイとして生きる者の一つの典型」ということを映画に込めた監督の野心・・・。私には、考えもつきませんでした。とても鋭い。俳優さんのルックスもあるかもしれませんが、残りの人生を「らしく」生き抜いた感のあるロマンが最後、とても愛おしく思えました・・・。
浜辺で眠る彼は幸せそうでした。

●mizukiさん。

ラストの場面は、
「死」というものを映画的に描き出した素敵な場面だと思いました。

不思議ですよね。普通、「死」の場面というと悲しみとか暗いイメージが付きまとうけど
この映画の場合、「素敵」とか「美しい」と思えてしまう。
既存の価値観を反転させてくれる映画でしたね。

●koさん。

よく、死の瞬間を「誰かに看取ってもらうこと」こそ
幸せのバロメーターだと言う人がいるし、多くの映画ではそういう描かれ方をします。
しかしこの映画は、孤独に死んで行く主人公を「不幸」だとは感じさせない。
そこがすごいですね。

遅ればせながらTBありがとうございました。オゾンが男性を主人公に撮るのは
短編以来のことでしたので、興味深く見てきました。最新作 Paradise では、また
女性ヒロインへ回帰してしまうとの事ですが、また是非とも男性を主人公に撮って
欲しいとも思います。ヴィスコンティの『ベニスに死す』を思い出しながら、この作品を見ていました。

●takagi さん。

『ベニスに死す』もこの作品同様、
「死」を描いているのに、どこか幸福感とか陶酔感を感じさせますよね。
それにしてもフランソワ・オゾンの映画は初期の短編を見ると、
びっくりするほどの「ゲイ趣味全開」ですよね。
女性を主人公にした映画を作っているときには「小出し」にしてきたそうした部分が
この映画では、おもいっきり「発散」されているかのような印象を持ちました。

この映画で思う存分「開放」できたから、
これからは新たな展開に進めるのかもしれないですね。
彼のようなタイプのゲイは、女性心理を描くことは大得意なんだと思います。

二信(ネタバレあり)

コメントありがとうございました。
重ねてですが、やはり僕自身は主人公は恋人との同棲生活を単に肉体的なものとは受け止めていなかった気がします。追い出した後、もう一度誘って、今度は断られていましたよね。確かに恋人の方が主人公のレベルについていけたかどうかは、疑問の残るところですけど、あの辺が伏線になって、代理父~遺産相続の遺言書作成へと繋がっていくのだと思います。
「堕胎」云々の直感は、公正役場(なのかな)を出た後の会話。「エイズじゃない。普通の悪性の腫瘍だ」と自分の病気を告白した場面。夫の表情の歪み方が尋常には見えなかったので、そんな読みをしてしまいました。
ところで……。エンドロールが終わって、最後に暗転するまで、席を立つ観客がほとんど居なかったのが意外。振り返ってみると、最後に、主人公がデジカメで撮っていた画像がフォトアルバムのように流れるという期待がどこかにあったのではないか、と。自分はいつも席を立たないのが常ですが、ふと展開の予想でそういう場面を想定していた気がします。
最後に浜辺のシーン。あれはやってみると分かるんですけど、本当に気持ちがいいもんですよ。夕陽が綺麗な浜辺だとすべてが溶けていくような感覚。フランスの辺りは干満の差が大きいと聞きますから、一夜明けると何もなくなっている浜辺、というシーンも自分では想定していたのかもしれません。
あれこれ。ともかくいろいろなことを考えさせてくれる映画でした。勧めてくれてありがとう。

●無名子さん。

そうかもしれませんね。もう少し細かく言うと
死を宣告された直後、絶望や自暴自棄に陥っていた時には
恋人のことを「そう思おうとした」のかもしれないですね。
そう「思い込もうとする」ことで自分を納得させようとした、というか・・・。
「死を受け入れる」ために、かなり無理やり自分の心理状態すら
コントロールしようとしたのかもしれないですね。

でも、ジャンヌ・モローとの場面のあと、
後半は憑き物が取れたように変化する主人公が、僕は好きでした。

恋人を呼び寄せ再会した場面での
何も知らずにあっけらかんとした様子でいる恋人と、
それをなんとも言えない表情で見つめる主人公の場面も、すごく印象に残ってます。

浜辺で夕闇迫る中、寝転がり続けてみたことがあるんですね(笑)。
この夏、海に行こうと思っているので試してみます(笑)。
そうか。あのあと、彼の身体は波にさらわれて海に溶けて行くんですね。
そこまでは想像しなかった。すごいですね。

はじめまして。
「バッド・エデュケーション」へのTBありがとうございました。
TBをお返ししようとしたのですが、なぜかうまく反映されないようなのです。
そこで次にこちらの「僕を葬る」のほうにもTBを飛ばしてみたのですが、やはり反映されないようです。

そこで、こちらでTBしてくださったお礼をと思いまして、コメント残させていただきますね~。
読みごたえのある記事を読ませていただきました。
ありがとうございました。

●bettyさん。

はじめまして。
TBがうまくいかないのは、禁止ワード設定に引っかかったせいかもしれないので
全部解除しておきました。もし面倒でなければ再チャレンジをどうぞ。

bettyさんのブログでは、この映画に関連して
「自然の摂理」論が盛り上がったようですね(笑)。
僕も昔はbettyさんのように思っていたのですが・・・
実は同性愛は、動物や昆虫でも起こっている「自然現象」だという研究結果が
いくつも出されているんですよ~。ご参考までに。
All Aboutのサイトでも取り上げられています↓
http://allabout.co.jp/relationship/homosexual/closeup/CU20051030A/index2.htm
では、今後もよろしくお願いしま~す。

akaboshiさん
>同性愛は、動物や昆虫でも起こっている「自然現象」だという研究結果が
いくつも出されているんですよ~<

なるほどですう。

ただ、私が感想に書いたことはちょっとちがって、(自然界の掟といったので誤解を招くかもしれませんね、すみません)
この映画ではオゾン監督はいままでの同性愛を描いてきた作品とちがって、とても内省的になっていると思ったんですよね。

それが死をテーマにしたことで、突き詰めていったときに、同性愛である自分が人生や命を振り返ってなにを思うか?ということになったと思うんですわ。

内省的になったとき、どんな人でも、自分はこれでよかったのか? もっと違うなにかがあったのではないか?と、いろいろとかえりみると思うんです。
私ももちろんそうです。

そうしたときに、オゾン監督は同性愛者である自分のことを内省的に考えるわけで、その結果が、自分には子孫を残すという自然界の大きな約束事を果たせなかったという思いが出てきたと思うんです。

大きな枠組みのなかの自然界であり、人間のことですよ。

一般的に動物映画を作ったら、生殖期がきたらオスと雌は求め合い、交尾し、メスは子を産み落とすということが映像になりますよね。そういう大きな枠組みの中の自然のことです。

オゾン監督が映画のなかで父親に言わせた台詞の「自然界」も、その大きな意味での自然のことではないかと思います。

だからもちろん、オゾンが「同性愛でごめんなさい」と言ってるようだったというのも、同性愛にたいして後ろめたさを感じろということではまったくなくて、むしろ逆ですよ。

私は異性愛で子供が二人いますけど、そんなふうに大多数の平凡な人生だったから、自分てなんて平坦でつまんない人生だったかな、とあるときふっと思ってしまうことと同じです。

作家の内省的思考がいまま以上にくっきり感じられて素晴らしい映画だったなあと、そのてんにもっとも今回は感じ入ってしまったということです。

遅くなりましたがTBありがとうございました☆この前失礼なことを書き込んだかなぁと思いなかなかコメントを書けずにいたんですがお礼はしたほうがいいよな…と思ってコメントさせていただきました。
「僕を葬る」は今だにふとした時に考えてしまいます。この映画以降なかなか都合が合わず映画を見に行けてないからかもしれませんが…レビューを見てまた泣きそうになりました。私にとって見たときよりどんどん深みを増した珍しい映画でした。

●bettyさん。

あ、
僕ぜんぜん怒ったわけではないので、気にしないでくださいね。
bettyさんのブログに書かれていた下記の部分が事実とは違っていたので、
前回のコメントで指摘させていただいただけです。

「【自然界の掟】ではオス同士ってありえるんですか?
ないでしょう?」

・・・いや~、でもこれ、僕も少し前までは知らなかったことですから(笑)
ぶっちゃけ、はじめて知ったときには「あ、自分は異常ではないんだ」と
同性愛者であることを肯定的に捉える材料にはなりました。
こういう情報にすがりたくなってしまうんです、どうしても。すみませ~ん(笑)。

ところで
bettyさんの「自然界の摂理」の記事を読んで僕が思ったことですが、

オゾン監督自身は芸術家として「映画」=「精神が生み出した子ども」を
すでにたくさんこの世に産み落としているので、
たとえ死を宣告されたとしても
物理的な「子作り」をしようとは思わなかったかもしれませんね。
芸術家にとっての作品作りって「出産→子育て」のような物だと思うんです。
同性愛者ではなくても、芸術に身を捧げて独身を貫く人たちって
昔から結構、いますよね。

ただこの映画の主人公は、芸術家ではなく「フォトグラファー(職業写真家)」として
設定されていますから、この映画は「オゾン監督の自伝」ではない。
主人公は、仕事としての写真を撮っているだけで
自分の「精神が生み出した子ども」を産み落としている芸術家ではない。

だからこそ死を宣告された時に、どうしようもない空虚感を味わったのだと思う。
「精神が生み出した子ども」も産み落としてなければ、ゲイですから物理的な子どももいない。
だから主人公はしばらく、苛立ちを周囲にぶつけて彷徨った。

映画の後半では、それまで芸術表現には関心が無かった主人公が
なんの衒いもなく、自分の心の赴くままに自分が美しいと思ったものに対してカメラを向け、
無心に写真を撮り始める。
あの表現が、僕はすごく好きです。

●agehaさん。

あれっ、失礼なことなんてありましたっけ?(笑)。
泣きそうになりますか。
僕は、どちらかというとこの映画、ハッピーエンドだったと捉えているので
死ぬ直前のなんとも言えない「人生、満喫した~」という表情を思い出しては
救われた気持ちになったりしてます。

そう思われてなかったならよかったです。
主人公は幸せそうだったんですが「死」についてなんか周りの人間のこととか自分のこととか考えさせられてしまったというか…
でも色々考え方が違って楽しいですね☆
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