フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2017-07
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ブロークバック・マウンテンで見る世界027●おすぎさんのブロークバック評

 「Style」という女性向けファッション誌に、「おすぎの映画を観ればこんなに幸せ」という連載コーナーがあります。
 タイトルの通り、ゲイの映画評論家として有名なおすぎさんが毎月「幸せになる」映画を紹介するわけですが、この映画の場合は例外。「幸せな気分になれるとは思えません」という但し書きを付け、コーナーのタイトルを裏切ってまで、率直な意見を掲載していました。
 ほかの女性向けファッション誌での紹介記事は「男同士の純愛の美しさ」を強調する軽い内容のものが多い中、こうした言説をシビアに載せることは異例のことです。また、「ヘテロ(異性愛者)向け一般メディア」において、LGBT当事者からの発言が掲載されることも、極めて異例のことです。

●「Style」2006年4月号P296「おすぎの映画を観ればこんなに幸せ」
 同性愛を真摯に描く『ブロークバック・マウンテン』

愛することは美しい。
だがその影で涙するものがいることは知るべき


 今月も、また、"幸せな気分”になれるとは思えません、映画を紹介します。
でも、観て本当によかったと思えるとは思うのであります。
 男が男を愛してしまう、ということ、それを異常としていた時代がありました。別に現在だって、それを両手をあげて歓迎などしているとは思えませんが、でも1960年代から80年代にかけては“同性愛”は"薄汚いもの”だったのです。それが最も忌み嫌われた時代、20年にわたって男を愛した男のラブ・ストーリーを綴った映画が『ブロークバック・マウンテン』であります。

 <中略(物語前半説明)>

 イニスとジャックの再会は、あのブロークバック・マウンテンの出会いから4年後だった。きっかけはジャックがイニスに出した絵葉書だった。イニスの家に来るという。その日イニスはビールを飲みながら待った。時は過ぎていく。ウトウトしていると車の音が・・・。妻のアルマには古い釣り友だちと言っておいたイニス。ドアを開け、飛び出し、熱い抱擁を交わすふたり。想いをこらえきれないイニスは物陰にジャックを誘い、唇を交わすのだった。それをアルマが偶然、目にしてしまうなんて思いもしないで・・・。それから20年、一年のうちに何回かジャックがイニスのもとを訪れ、決まったようにふたりはブロークバック・マウンテンに出かけた。アルマの不幸も、ラリーンの無頓着も道づれにしながら・・・。

 アメリカでエイズが発症した年の次の年に、ふたりの関係は意外なかたちで終わります。アン・リーの端正な風景の映像をバックにして繰り広げられるから情緒としてスーッと入ってくるラブ・ストーリーだけど、本来は大きな問題を抱えています。人間が人間を愛すること、それ自体は美しいことだけど、その影で涙を流したり、自分の心を見ないようにしている者もいることを知るべきです。

 おすぎさんのレビューで気づかされたことがあります。映画では「ゲイ・バッシング」によるものではないかと暗示されているジャックの死。
 あれは「アメリカでエイズが発症した年の次の年」なんですね。つまりエイズ騒動の渦中に巻き起こった強烈なゲイ・バッシングによるものではないかと、おすぎさんはこの文章でさらに暗示しているのです。なるほど鋭いですね。

 おすぎさんの言うように映画「ブロークバックマウンテン」では、自分の心を見ないようにした者の涙、生活を破壊された者の涙、そしてさらに付け加えるならば、自分の心に向き合ったが故に彷徨った者の涙が重層低音として流れています。アン・リー監督は、あざといドラマティックな演出を嫌う監督なので割とあっさりと描写されますが、そうした行間に想像を巡らすと、さらに色んなことが感じられる映画ですよね。

 僕は今まで、おすぎさんのことをテレビのバラエティー番組で「おかまキャラ」を誇張している人だという認識しかなかったので、正直「嫌悪」しがちだったのですが、このレビューに触れたことで彼への見方が変わりました。メジャーな場所に身を置いているが故の制約もたくさんあるのでしょうが、言うべき時には言うべきことを、ちゃんと言っているんですね。

 彼に興味を持ったので書店を見てみたら、こんな本を見つけました。
おすぎ著「バカバカバカ!」(ぺんぎん書房)

 ゲイ雑誌「薔薇族」に連載されていたコラムをまとめたものらしいです。僕がゲイを自覚した頃には既に「薔薇族」の全盛期は終わっていたので、彼が連載を持っていたことすら知りませんでした。けっこう、僕が普段感じているのと同じようなことも書かれているので、親近感が湧きました。
 彼が「ゲイ」として発言しているこういう側面は、もっと知られてもいいのではないかと思います。「ブロークバック・マウンテン」がもたらしてくれた、思わぬ発見です。

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コメント

この記事へのコメント

私もおすぎさんが好きです。TVチャンネルを回していて彼の顔が出ていると、思わず止めて聞いてしまいます。今度は何を話してるのかな?わくわく。て感じです。お昼のファッション・チェックも偶然見たら面白かったですよ。彼の辛口トークが可愛いんです。実は、とても常識のある方ではないでしょうか。

なかなか味わい深い人ですよ

akaboshiクンどうも!
おすぎさんは こちら福岡の放送局で 毎週月曜日TVとRADIOでレギュラーをもってます
かれこれ20年目ぐらいになるらしいけど
苦労時代に目をかけてくれた プロデューサーへの恩返しみたいなカタチらしいです
コメントも 正論・独断 上手に交えた 彼ならではのモノです
ごくたまに 彼の友人達がゲストとして 一緒に出演することもあります
最近だと 森光子さんとか 渡辺謙さんとか 幅広いです
イタズラな口と 暖かな心を 兼ね備えた 素敵な人だと想います

●秋さん。

「ゲイのおかま嫌い」とでも言うんでしょうか。
僕は今まで、おすぎさんがテレビに出てくると
思わずチャンネルを変えてしまっていました(笑)。ホントすみません。
しかし、このレビューを知って本を読んでみたところ、そんな自分を反省しました。

ファッションチェックは・・・ピーコさんかもしれないですね。
ピーコさんも、ゲイとしての発言を結構しているらしいので、現在調査中。
けっこう興味が出てきました。

●ワカヲ(♂・♂・kiss)さん。

福岡の人はラッキーですね。
けっこう、ラジオとか地方のテレビ番組だと「本音」が炸裂するもんだし
自由な表現が出来るみたいだから、面白いものなんですよね。
いいな~。見てみたいな~。
東京で制作されている全国ネットのゴールデンの番組ほど、
どーでもいいくだらないものってないですよね(←あ、また偏見が・・・笑)。
やっぱり大勢をターゲットにしようとすると無理が生じて、つまらなくなるものなんですよね。

おすぎさんとピーコさんについては、今まで「知らず嫌い」だったことを反省してます。

バカ バカ バカ!

このタイトルだけで、買いたくなりました。やり場のない憤りを感じることがあったので、言葉にできなくて困って音楽など聴いていましたが、結局事態は変らずに「バカ バカ バカ!」って叫ぶしか出来ない現実。すっごく楽しみ、買います!

イニスは純だけどイヤなヤツかも

結局、3度も観ることになりました。
そして3度目の感想。
やはりイニスが一番イヤなヤツなのかな、と。

まず、自分自身に正直に生きようとする道を探らない。
第2に妻のアルマや子供に対しての愛情を貫き通せない。
第3にジャックに対しての具体的な行動を何らとろうとはしない。
そしてひいてはラリーンにもその影響は及ぶ訳でしょう。
最終的は平安はジャック自身の死によってしか実現できなかった訳で、
おすぎ嬢のいう「人間が人間を愛すること、それ自体は美しいことだけど、その影で涙を流したり、自分の心を見ないようにしている者もいることを知るべきです」という結論がやはり一番、正鵠を鋳ているような気がしますね。

●立さん。

「バカバカバカ!」って堂々と言っても許されるキャラクターを確立してるって、
ある意味すごいですよね。
逆に言えばおすぎさんは、「毒舌を言うように求められてる」わけでもあり、
それはそれで大変なのかもしれないですね。敵も作ってしまうだろうし。

●無名子さん。

イニス・・・
たしかに「イヤな奴」とも言えるかもしれないですが、
僕にとって、もっと「イヤな奴」はイニスの父親ですね。
人を殺したのに罰せられもせずのうのうと生きていて、
しかも息子にトラウマを負わせたその神経が信じられない。

イニスのように、自分に自身が持てずにウジウジしてしまう人って
けっこう多いと思う。
そういう人のことを優しく見つめて、肯定も否定もしていないところが
この映画のすごいところなのかもしれない。

おすぎさんの文末のまとめ方、僕も好きです。

おすぎの映画評は、いつも正直で、本音をズバッと言い当てていて、本質を見抜く事の出来る方なのだと思っています。格好付けずに、本音で生きているから言える言葉を、ちゃんと自分の物にしているので、おすぎの言葉にうなずけます。
映画評論家や、映画ブログを書かれている人に中には、2度と読みたくない!と思ってしまう書き方(勿論、好みはありますが)をしている人に出会う度に、「もっと、本音を出せば!難しい事ばかり、考えないでもいいんじゃない!」と言ってやりたくなりますね!
自分の好みの、映画の感想を書く人にで会えるのも、少ないですね~。

●seaさん。

僕が好きな映画評は、豊富な映画知識をひけらかすのではなく
知識のない人が読んでも興味が惹かれるような「開いた」態度で書かれたものです。

知識をひけらかしたり、専門用語を駆使したりするのって実はいちばん簡単なこと。
「開く」ことの方が難しい。そういう謙虚な姿勢の人を尊敬します。

そして、自分の価値を押し付けるのではなく
読者にさらに考えさせたり発見をもたらせる内容だったら凄いですね。
そういう文章が書ける人を目指して、日々悪戦苦闘中です(笑)。 難しいんだコレがまた。

TBありがとうございました。

このエントリーにトラバでよかったのかどうかわからないんですが。
とりあえずこちらからもトラバさせていただきました。
いろいろと考えさせられることが多くてまとまりのないレビューになってしまい
こちらを読んでいるうちに、また少しずつ考えがまとまり、また広がりつつあります。
私はこの映画を2度観ましたが、次に観たときにまた違った見方が出来そうです。

●mambotaxiさん。

僕も、この映画については「まとめる」ことが不可能です(笑)。
いつまでもウダウダと考え続けることになりそうです。

やっとブロークバックマウンテン観ました。

初めまして。
映画は本当に何年ぶりかです。
また、見始めようかな、と思っていた処でした。
こちらで沢山語られているのを知っていましたが、まずは観てからと思っていましたら、大変な分量になっていて、すぐには読めない気がします。
私はイニスとジャック、そしておすぎさんよりほんの少し若いくらいです。
ですので、感想が違うかも。
まず、当時の生活に圧倒されてしまいました。
ほぼ同世代なのにこんなに忘れている、もうすっかり現代に慣らされていて、「今」の視点で見てしまうが、私はあの中に生きていたのだ、と思いました。
それがまた、どういった状況でも人は個人的な問題を抱えて生きていくのだ、という思いを強めたような気がします。
同性愛の問題は、社会全体の問題として考えて行かなくてはならないけれど、引き受ける個人はそれぞれ別の人間で、抱えている問題も一人一人違う、等と思いました。
個人的感想だらだらと書いています。
勇気と時間のある方、宜しかったらお読み下さいマシ。
(「大好きがいっぱい」のページです)

●いちさん。

いちさんの感想、読ませていただきました。
当時の生活感覚への指摘、特に妻(アルマ)の生活の大変さへの想像力が
素晴らしいと思いました。僕には、そこまで考えるキャパシティーがなかったので
気付かなかった大切な所を教えていただいたという感じです。
誰もが生きることに必死であり、安息を求めているのに上手くいかない。
アン・リー監督は繊細で静かなタッチでありながら、
その部分を冷徹に描きだしているとも言えるでしょう。

『「俺の子を産もうとしないおまえとはもう寝ない」という言葉はあまりにも残酷。
映画は、イニスに気持ちが添うような作りになっているので、深く考えずに行ってしまいがちだが、本当は大変に残酷なことを言っているのだ。』

↑本当に、その通りだと思います。
そして、そんな残酷なことを言わせてしまう社会背景こそが、
いちばん残酷なものであるように思います。

Re:残酷なことを言わせてしまう社会背景

お返事ありがとうございます

>そして、そんな残酷なことを言わせてしまう社会背景こそが、
いちばん残酷なものであるように思います。
私はそう言う意味合いで書いたつもりでは無いのです、誤解させてしまって申し訳ありません。
「そう言わせてしまう社会背景」といったことは別途考えるとして…。

あのシーンは、アルマとの生活を離婚へ進めるためのエピソード、という位置づけだと思うのですが、あのシーンに込めた監督の意図はどういうものかな?と思っているのです。
離婚への道とはいえ、イニスにあのような残酷な言葉を吐かせるのは、そこにどういう意図を組み込んだのかな?と。
示されたのはあの場面だけで、それをどう感じるかは観ている我々一人一人の問題である訳ですが。

観ている側の私が感じたのは…。
同性愛者の夫と異性愛者の妻、夫は自分の気持ちが単なる浮気ではなく、もう抜き差しならぬものと感じてきている。
一方で、妻には責任を感じている、済まないと思っている、愛情深く接しようとつとめている、自分を押しとどめようとしている…。
それが、思わず(または遂に)破けてしまった、それがあの場面。
ひとたび破けてしまうと、歯止めがきかない、もう引き返せない。
「おまえとは寝ない」
見ないようにしていた、自分のうちに潜む女への嫌悪、女であるアルマへの嫌悪、酷薄なまでの生理的嫌悪。
同性愛者と異性愛者の間に横たわる埋めようのない深淵。

映画って細部が大事と思わされることがとてもあります(もちろん映画にもよりますが)。
質に関わる、と。
この映画は、隅々まで丁寧に描かれていて、沢山の事を投げかけてきていると思います。
投げかけているだけで、どう汲み取るかは観る側による。
汲んでも汲んでも尽きる事がない。

原作を買ってきてあるのですが、まだ読むのに勇気がいりそうです。
パンフレットでさえ、ほんの少ししか読んでいないくらいですから。
akaboshiさんはどんどん先に進んでおられるのに、私はまだぐずぐずとあれこれ考えて、書き足したりしています。

●いちさん。

僕は自分がゲイなので、
どうしても自分が普段感じていることを主人公二人にかぶらせて
あの映画のことを考えてしまうのですが、
僕はあの場面を見て「わかる~・・・」と思ってしまいました。
女性から見れば、かなり残酷な場面だと思います。
しかしゲイから見れば、共感できる場面でもあります。
観客の立場によって解釈も感じ方も大きく違う場面のようですね。

「残酷なことを言わせてしまう社会背景がいちばん残酷」と捉えるのはまあ、
いちさんの文章を読んで、さらにそこから感じた僕の主観であって、
押し付けるつもりはありませんよ。

監督があの場面を入れている理由のひとつは
イニスが「女性よりも男性に、より強く性的指向が向いている人物」であることを
観客にはっきりと示しておきたかったからなのではないかと感じます。
特にジャックと再会したことで、そのことを彼が「思い出してしまった」ことを。

尾辻かな子さんも講演で発言していたのですが、「性はグラデーション」であり
人によって本当にさまざま。
ゲイの中にも、女性に生理的嫌悪を覚えるほど「女性がだめ」な人もいれば
「どちらかと言えば男のほうが好き」という程度の人もいる。濃淡がさまざま。
そういう「生理的嫌悪」とまで行かないタイプの人は、
「結婚」が強制されるような時代には女性と結婚する道を選べたんだと思います。
イニスがその典型例。

いちさんが鋭いなぁと思ったのは、
「見ないようにしていた、自分のうちに潜む女への嫌悪」という表現。
おっしゃるとおりですよね。
イニスは、ジャックと出会って自分の中にある
「見ないようにしていた男性への性的指向」に気がついただけではなく、
アルマとの結婚生活で、特にジャックと再会した後は
「見ないようにしていた女性への性的嫌悪」にも気づいてしまったわけですね。
しかし、「気づいたにもかかわらず」そのことを受け入れることが出来なかった。
その残酷。
うわ~。

実は僕もいちさんと同じく、まだあの映画を「もう一回見よう」とは思えません。
原作本も買ってますけど、読もうという気持ちがまだ湧きません。
一回目に見た時の余韻が、まだ続いているのでもう少し落ち着いてからでないと
もう一回あの映画に向き合おうとは思えません。
そういう意味では、僕もぐずぐずしたままですよ(笑)。
ぐずぐず、いつまでも考えたくなる映画に関しては、こうやって記事もぐずぐずと
長くシリーズ化してしまうんです、自分の中に落ち着いて着地してくれないから。

ゲイであろうと無かろうと

>僕は自分がゲイなので、どうしても自分が普段感じていることを主人公二人にかぶらせてあの映画のことを考えてしまうのですが、
私だってそんなに違わないと思うんですけど。
観ている人はみんなそうでは無いかしら?
だって映画がそういう風に作られているでしょう?

よく映画鑑賞という言い方がされますが(そう言う部分もありますが)、鑑賞じゃないなって思います、映画を観るのは。
登場人物となってその人の人生を生きるんだと思います。
現実と違うのは、現実の我々は自分自身の人生しか生きられませんが、映画では(小説なんかもそうですね)、登場人物のそれぞれになってそれぞれの人生を生きられる、ということでしょうか。
で、一番は、やはり主人公になって主人公の人生を生きるかな、って思います。
そして、一方で監督になって全体を見渡している。
そしてまた、俳優さんの美しさや表情を味わったり、演技に参ったり…、こういったことは鑑賞でしょうね。

と言うわけで私は、イニスとなって映画の中で生きて、イニスの目で見ている、って思います、ジャックよりもね。

あの場面は残酷ですけど、当然必要な場面だったと思います。
イニスに設定されている個性にとって、あの反応は突拍子もないものではない、と観客の誰もがきっと思ったでしょう。
私もその一人です。
一般論ではなく、ひとりの個性ある人間で同性愛者でもあるイニスが、同じように個性あるアルマという女性と結婚している。
そのイニスの反応が、取って付けたようでない、充分あり得る、当然だ、自然だ、と観客が思ったとき、一組の男女イニスとアルマの間で起こった事が、同性愛者の男性と異性愛者の女性が結婚するとこのようになる(事もある)と一般化され、理解が進むのだと思います。
一人一人に直接語りかけ体の中に入り込んで、その人を動かす、それが、映画や文学作品といった芸術の力だと私は思っています。

●いちさん。

「私だってそんなに違わないと思うんですけど。
観ている人はみんなそうでは無いかしら?
だって映画がそういう風に作られているでしょう?」

このやりとりで語られている
イニスがアルマに「俺の子を生もうとしないおまえとはもう寝ない」と告げる
一場面の読解として、いちさんはそのように感じられたわけですね。
「女性から見れば、かなり残酷な場面」と一括りにして書いてしまった僕の書き方が
おかしかったようです。失礼しました。

ただ、いちさんの言うように
「観ている人はみんなそう」いうふうに感じるかと言えば、そうではないようにも思いますよ。
僕はこの映画の感想の書かれたブログを多数、見て廻ったことがあるのですが
実際、この場面に対する憤りを女性の視点から語るものも目にしました。
人はやはり、「自分が何者であるか」ということからは逃れられないし
「自分の読み取りやすい角度から」映画を見るものだと思います。
だから「みんな」が同じように感じると捉えるのは早計だと思いますし、
実体とはかけ離れた現実把握なのではないかと思います。

実は今回のコメントで中盤以降、いちさんが書かれた内容は
いささか僕にとっては「引っかかる」内容でした。
ちょっと長くなりますが、僕が感じたことを細かく書いてみようと思います。

いちさんは今回のコメントで、
「鑑賞じゃないなって思います、映画を観るのは。」という文脈で
「現実と違うのは、現実の我々は自分自身の人生しか生きられませんが、
映画では(小説なんかもそうですね)、登場人物のそれぞれになって
それぞれの人生を生きられる、ということでしょうか。
で、一番は、やはり主人公になって主人公の人生を生きるかな、って思います。」
と、書かれています。

さらに、
「と言うわけで私は、イニスとなって映画の中で生きて、
イニスの目で見ている、って思います、ジャックよりもね。」
とも書かれました。

それを受けて「あれっ?」と思い
いちさんが、ご自身のホームページで公開されているこの映画の感想を
再び読ませていただいたのですが・・・
5月23日の感想の時点では、いちさんは、わりと強固に
「女性として」「妻として」「母として」の視点からの感想を書かれているように
僕には感じられましたよ。
いちさんは女性の登場人物たちの心理を非常に深く読み取られていますし、
そこがとても面白いと思いました。そしてその視点は、
結婚したこともなければ子どもを持ったこともない30代のゲイである僕には
なかなか想像が及びにくい視点でもあるわけで、
僕に新しい発見をもたらしてくれました。
(このことは、以前のコメントでもやりとりしましたよね。)

しかし、それがどうして
「私は、イニスとなって映画の中で生きて、イニスの目で見ている、って思います、」
ということに、いつの間にか変わっているのでしょう。
あの感想を読んだ限りでは、そのように僕には感じられません。
その後いちさんが、この映画について日々、考えられているうちに
そうした変化があったのだとしたら、それはとても興味深いことだとは思いますが。

人が、映画や芸術作品に向き合って、何かを感じたり刺激を得たりする際に
「自分が何者であるのか」「どんな人生を歩んできたのか」を他所へ置いて
「主人公になる」「作品の中に入り込む」ことは
難しいことなのではないかと僕は思います。
それは、いちさんの最初の感想が何よりも雄弁に物語っています。

いちさんは最初の感想において、このように書かれていますが、
これが「イニスの目で見ている」感想でしょうか?

「男性であれ女性であれ、同性愛者が自身のセクシャリティーを知られたくないが為に
相手に告げずに結婚する、と言うことはどんな言い訳をしても許されるべきでは無いと
個人的には思う。だが、相手が同性愛者であると知っていて、
自分が一番の存在になり得ない事を承知でなお愛し続けること、結婚し続けること、
それはその人の自由だ。
人間は複雑で、美しい。」

僕は今、ゲイです。
僕は、自分が同性愛者であることを受け入れるために苦しんだ10年以上の時期を
自分の人生の記憶として持ちながら生きていますし、
今でも、環境によっては日常の些細な会話にまで気を使い続けなければならない苛立ちを
なんとかしたいと模索しながら生きています。

今の時代でさえフラストレーションを溜めてしまうのだから
ましてや「ゲイ解放運動」が起こる前の、最も同性愛者が不当な差別を受け
「精神疾患」だと扱われていた時代に、最もアメリカで保守的だとされる地域で
彼らがどんな思いで日常を生きていたのか、その厳しさは想像にも及ばないほどです。
そうした背景を無視してこの映画を語ることは、当事者の僕にとっては不可能です。
映画でもイニスの父親との回想場面で出てきましたが
「ゲイであることが理由でゲイが殺されても、加害者は罰せられない」ような
世の中だったのですよ、当時は。
「隠れて生きざるを得ない」ことは、命に関わる問題だったのです。
僕は、あの時代において彼らが結婚を選んだことは、
「生き延びるため」に止むを得なかったことなのだろうと感じました。

今の日本に置き換えて考えるのは事情がだいぶ違うとは思いますが
それでも、今でもそういう人たちが少なからずいることを知っています。
このブログにも、このシリーズで「既婚者ゲイ」のことを書いたときに
当事者の方からの複雑な思いが、非公開コメントでいくつか寄せられました。
(なんで公開で書いてくれないんだよ~とは思いましたが。)

セクシュアリティーというものは「本人の意志に関係なく」
人との出会いや環境によっても変わり得る流動的なものであるようです。

僕は今のところ、自分の性的指向が「変化した」という体験を持ってはいませんが
僕が実際に知り合ったゲイの人たちの体験談として、そういう話はよく聞きます。
結婚した後になってはじめて、自分が同性への性的指向を持っていることに気がついて
悩む人も当然、いるのだろうと思います。

勘違いしてほしくないのは、性的指向というのは「趣味」や「性癖」ではないこと。
本人の意志には関係なく、「どうしようもなく」なるものだということです。
男性が女性に、女性が男性に強烈に惹かれる時、
それは「趣味」でしたか?自分の意志でコントロール出来ることでしたか?
・・・同じことです。

今でも多くの国々では、世の中の基本的なシステムは、
性的指向が「異性」ではない人たちのことを
「異常者」だと見做すかのようにして、基本的には排除する仕組みになっています。
日本でも1994年まで、同性愛は「精神疾患」扱いでした。
当事者にとっては、「抗いようのない指向」として抱く「本能のような部分」を
「異常」だと見做されてしまうのです。
実際にそのような言葉で言い表す石原都知事のような人もいます。
「異常」という言葉は、当事者が開き直って使うのは自己アピールになりますが
そこに至るまでには心理的葛藤とか開き直りがあるのだということをわかってほしいです。
そして、当事者ではない人が口にすると、それは「自分は正常、あいつらは異常」という
他者を排斥する意味合いを持ちます。これほど傲慢な言葉はないと思います。

当事者として生きていると、そういう言葉や扱いには
どうしても敏感にならざるを得ません。この映画を見ていてもやはり、
多かれ少なかれ彼らの気持ちや体験が「自分の体験」と重なり合うため、
どうしても彼ら本位の見方をします。それ以外のところには関心が向き辛くなります。

一方、異性を愛する人たち=特に女性たちにとっては
いちさんの最初の感想で顕著なように
映画の中に出てくる「同性愛者の妻たち」に感情移入する比率が
僕らよりはずっと、高くなることでしょう。
それはやはり、「妻」だったり「女」として生きている「自分の体験」を
彼女らの行動や思いに重ね合わせるからでしょう。ある意味、当然のことです。

こんな風に、人はそれぞれ、自分の人生経験をベースにして映画を読み取ります。
そして、そうではない見方も獲得できたときに「発見の喜び」を得るし
新しい世界観を得ることが出来て、感動するのです。
いちさんの言われるとおり、この映画は「イニス」の心情に沿って
物語が進行しますから、「妻」に感情移入をしていた人たちも
場面によっては主人公に、ぐっと感情移入したりして様々な他者の気持ちを
知ることになります。ですから「主人公だけ」ではなく、
我々は「自分とは違う他者の気持ちも想像できる喜び」を
映画から得ることが出来るのです。
それは決して「主人公として生きる」ということではなく、
あくまでも映画を見ている「私」が、「私」として感じることなのです。
だからこそ、人それぞれで面白いんじゃないですか。

粗雑で申し訳ありません

とても長いResでしたので、今全部お答えできないと思いますが、少し書いてみたいと思います。
まず、だいぶ粗雑に書いてしまって、反省しています。
久しぶりに映画を観て、しかもあのように心揺さぶられる映画だったので、はしゃぎすぎたかも知れません。
みんなとか誰でもとか確かに安易に言い過ぎましたね。
私がこう感じたから、誰もがそう感ずるだろうと思っているわけではありません。
ましてやそう感ずるべきものだ等とは、もっと思っていません。
akaboshiさんと何度かやりとりして行くうちに、説明しなくても大丈夫、と勝手に思いすぎてしまったかも知れません。
失礼致しました。

「イニスとなって映画の中で生きて、イニスの目で見ている」と言うのは、登場人物の中で誰に一番自分を重ね合わせているか、と言えばイニスだ、と言う意味です。
言い方がまずかったですね。
それは当然、現実に私が生きてきた、私という心と体で感じ取ってきた、生きると言うことはこういう事に違いない、人間とはこういうものに違いない、といった此までの積み重ねがあるからこそ重ね合わせられる、と言うものかな、と思います。
ですから、「『自分が何者であるのか』『どんな人生を歩んできたのか』を他所へ置いて
『主人公になる』『作品の中に入り込む』」と言っているわけでは全くありません。
そしてまた、イニスだけでなくジャックにもアルマにもラリーンにも重ね合わせて観ていると思います、それぞれのシーンで。
たとえば、夜なべにアルマが編み物をしていて、イニスはソファーに寝そべってビールを飲んでいるシーンの話をしましたが、それだって、こんなに妻が大変なのに夫はビールを飲んで…、なんていう風に思っているわけではありません。
一言で旨く説明は出来ませんが、夫である(しかも男性の恋人がいる)イニスの様子、妻である(夫に男性の恋人がいのを知っている)アルマの様子を、それぞれ丁寧に深く描いている…。
どこのシーンもそれぞれの立場というものを丁寧に描いていて、そう言うことの集大成が私をイニスに重ね合わさせている、と、そう思っています。

「男性であれ女性であれ、同性愛者が自身のセクシャリティーを知られたくないが為に
相手に告げずに結婚する、と言うことはどんな言い訳をしても許されるべきでは無いと
個人的には思う。」
これは、私個人が今思っていることで、「イニスの目で見てい」て言っているのではもちろんありません。
(これ以降、akaboshiさんの言われていることにほとんど異論はありません。
たとえば、「勘違いしてほしくないのは、性的指向というのは『趣味』や『性癖』ではないこと。」とありますが、私は、性的指向を「趣味」や「性癖」だと思ったことは一度もありません。そのようなこと書いていないと思いますが、勘違いされるようなことは書いていますでしょうか?)
私は、「セクシャリティーを知られたくないが為に相手に告げずに」というのはまずい、別の言い方をすると、隠れ蓑にするのはまずいと思う、と言っているのです。
結婚してから気づくという方がおいでになるのも承知しています。
親しいゲイ男性の友人が、HIV/AIDSの予防啓発のボランティアをしていて、彼に連れられてイベントに参加したり、彼が出られない時には私が出て彼に様子を知らせたり、等と言うことをしていました。そう言った関係で、結婚しているゲイ男性の方とお知り合いになったりしたのです。
私は個人的には、ゲイ男性の方が結婚するのはまずいとは思っていません。
もとより愛とか性とかいったことは、全く個人および当事者の問題で、はたがどうこう言う筋合いのものでは無いと思っています。
それが、同性愛者であれ異性愛者であれ。
ただ、結婚となると社会的な制度ですから、そう簡単に一言では言えないとは思います。
でもそれも、異性愛者の結婚は本当にハードルは低くなった、というより、もう無いといった方が良いくらいでは、と思います。
同性同士の、結婚またはそれに準ずるものも整備されるべきだと思います。
その一方で、ゲイ男性が女性と結婚するのも、当事者が承知納得しているのであれば問題ないと個人的には思っています。
第三者の立場だから言えることかも知れませんが。

取りあえず、今日の処はこれくらいに留めさせて頂きますね。
続きを書けるかどうか、ちょっと分かりませんが。

●いちさん。

性的指向についての説明は、いちさんに対しての意見というよりは
このやりとりに関心を持ち、読んでくださっている他の方のことも念頭に置き
あえて書かせていただきました。

だいたい、いちさんのおっしゃることは呑み込めました。
僕が最も気になっていたのは「誰もが」「みんな」という言い回しでしたので
そのことを理解してくださったようで、ありがとうございます。
いちさんは、ゲイの知り合いとのお付き合いがかなりあるようですし、
そのことはとても素晴らしいことだと思っていますよ。嬉しく思っています。
ぜひ今後もそうしたことを積極的になさってください。

僕もゲイが、ゲイであることを「相手の女性に隠した上で」結婚することを
現代の日本において行うことについては、懐疑的です。
ネットがこれだけ普及して、出会いの場を作ろうと思えばいくらでも作れる環境において
その選択は、自分にとっても相手にとっても、あまり良くないことなのではないかと
感じるからです。

ただ、現に今でも「既婚者」として過ごしているゲイの中には
●結婚したあとに本当の性的指向に気が付いてしまったけれども、子どもがいたり、
様々な人間関係からそのままの生活を選択している人
●ネット普及以前の、ゲイ同士の出会いの場が限られていた時代において結婚した人
●「生活」と「セクシュアリティー」とを切り離して考えている人
●「社会的な制度としての結婚制度」を、生活上の必要性から「利用」している人

・・・などなど、人それぞれに選択している「生き方」があるのだと思うので、
それを評価する資格は、自分にはないと思っています。

分からなかったんです

akaboshiさん、こんばんわ。前にヒースのファンでこちらにお邪魔した者です。

3月の初鑑賞からかれこれ3ヶ月。これほどこの映画にどっぷり浸かるとその時は思ってもみませんでした。
その初鑑賞の後、何も分からなかったのです。なぜこんなにもやもやした気分になるのか・・・。なぜ、その何時間か後に切なさで涙が出たのか。

私は異性愛者の平凡な主婦です。子供は居ません。一緒に観た、独身の友人が言ったように、「ただの不倫映画じゃん」という言葉に「そんな映画?なんかそれだけじゃない」
とあやふやな反発でしか対応出来なかったんです。(情けなや)
もともとその友人に誘われて、期待せずに観たので…。
それに、「ゲイのカウボーイ」という見出しになんか違和感を感じていたものですから。

その後4度観て、前のいちさんと同じように、イニスの気持ちで観ていた事に気づいたんです。というより、イニスの母親といった感じでしょうか・・。イニスの行動に愛おしさがどんどん増して、後半のジャックの母のあの目を見た時、この目こそ私がイニスを見ていた目だと思ったのでした。随分いろいろな考え方やコメントを見て、分からなかった部分を知ったり、今まで自分が全く知らなかった…というより、知ろうとしなかった事を知ったような気がします。きっとイニスはまだまだ世界にいるだろうし、これまでの歴史の中で自分のセクシャリティを表に出せずに逝ったであろう人達のことを思うと、ますます切なさが増します。

この映画私の中まで入ってきて、まだあれこれ投げかけて来ます。凄い映画に会えて大変ですけど、自分を変えてくれて、感謝しています。

akaboshiさんのこのブログを知った事もこの映画のお蔭ですし。
日々の思い、詩、切なかったり、力強かったり、笑わせてもらったり、時に違うんじゃないなんて思ったり…(^^ゞ 楽しみに見せて頂いてます。

●yukaさん。

すごい・・・。
読ませていただいて、ものすごくジーンと来るコメントでした。
飾らない言葉こそが、本当に人の心に届くんだということを教えていただきましたよ。
ありがとうございます。

イニスの母親のような気持ちで映画を観ることが出来るだなんて、
本当に素晴らしいです!スゴイと思います!
はぁ~・・・ちょっとびっくり。僕には及びが付きません。ホントすごいです。

僕、よく思うんですけど、
「母」とか「母性」という言葉で言い表されるものって凄く素敵だと思うし、
そういう意味で使われる「女性性」は、素晴らしいものだと思います。
そういう感性を持っている方は男女問わず、僕は尊敬します。

男性にも女性にも、「母性」を持っている人はいますよね。
でも不思議なことに、どちらかというと「女性」として社会的に生きている人ほど、
他者に対して「母性」的な大きな包容力を持てる人が多いような気がします。
それはどうしてなのだろう。
とても関心がある問題です。
「男たち」って・・・虚勢を張ってしまう分、結局は小さいんですよね(笑)。余裕がない人が多い。
「女たち」の方が実は強い。他者を受け入れることの出来る懐が深いから。
・・・そんな風に感じることが多いです。

僕はまだまだ、「男」という感じの尖った部分をいっぱい持っていて
なかなか他者に対して優しくなれない部分をたくさん持っている未熟者なのですが、
いつかそういう余計なものを取っ払って、余分な肩の荷を降ろして武装解除して
大きな視点で他者を受け入れ、世の中を捉えることが出来るようになりたいと
思っているんです。

それを「諦め」と捉える人もいるのかもしれないけど、それは違うと思う。
全てをわかった上で、優しく包み込む大きな精神性。
そういう境地に達している人って実際にいますし、
少ないですが、今までの人生の中でも何人か、そういう人に出会ってきました。
そして、そういう人は決まって、とてもフツーの感性を大事にしている
「偉ぶらない」人たちでした。

yukaさんは「異性愛者の平凡な主婦」という風に御自身のことを書いてらっしゃいますが、
だからこそ素敵なことなんだと僕は思います。
フツーの生活感覚から感じることこそ、実は「真理」に近いのではないかと思うんです。
えせアーティストが「芸術のための芸術」を閉鎖された環境でやっているものよりも
ずっとずっと芸術的だと思います。
本物の芸術は生活の中から生まれるのだ!(←な~に熱くなってんだか。笑)。

yukaさんの中に、そういう感性を呼び覚ましたこの映画はすごいと思うし、
そういう風に感じ取ったyukaさんはすごいと思う。
・・・僕、なんだか怖くてこの映画を再び観に行く事をずっと躊躇していたのですが、
yukaさんの感想を読んだおかげで、フラ~ッともう一度、観に行かれるような気がします。
どうもありがとうございます。

そんなに凄くは…

akaboshiさん、こんばんわ。またお邪魔しました。
随分褒めて頂いたようですが、そんなに褒めていただくと???って感じです。

でも、akaboshiさんがおっしゃった「尖がった部分」分かるような気がします。
なぜなら、それはイニスに私が感じたものと同じだからだと思います。
私は2度目の鑑賞以降ずっとイニスが暴力を振るうシーンで泣けてしょうがなかったのです。それはイニスの自分の中の消せないトラウマによる恐怖と、その「男」の尖った部分だと感じ、そんな彼の悲壮感がたまらなかったからだと思います。

この映画のコメントで一番心に残ったのは、監督の物事には曖昧な事が必要だというコメントでした。このコメントにとっても安らぎを感じたのです。
監督はこういう意味で言ったのではないと思いますが、イニスのような人にはそんな考えも必要だったと勝手に私は思ってしまいました。
自分はゲイかもしれない。いやそうじゃないかも…。それで少しは楽になれたかもと…。
そんな曖昧さを心の中にもつ位い良いのかもと…。
自分の心の中には誰も入ってこれないのですから。

akaboshiさん、こちらこそありがとうございます。
私は劣等感だらけなので、おだてに乗ってなんか木に登ってしまそうです。
そして、この曖昧さいっぱいで感想許容範囲いっぱいの映画、私もまた観たくなりました。

●yukaさん。

あはは。驚かせてしまったかもしれませんね、すみません~。
僕の心理的なツボみたいなものに、なんだかピッタリとはまったので
その嬉しさを伝えたくなったのです。どうもありがとうございました。

曖昧さを許容できる余裕って、何事においても大切なのかもしれないですよね。
セクシュアリティーに関しても、アイデンティティーに関しても、
常に曖昧なところを揺れ動いているものなんだと思うくらいがちょうどいい。
それを「男はこうなんだ」「女はこうなんだ」と、生き方までもかっちりと決め付けようとするから
そこにハマらない時に、自分のことを異常なんだとおもってしまう。
イニスも、もっと「曖昧さ」が許容される社会と時代に生まれ育ってたら
人知れず泣くこともなかっただろうし、大切な人が亡くなった後になって
真実を知るということもなかっただろうと思います。

僕、映画を観る前に勇気出して、原作本読んでみようと思います~(笑)。

結婚制度…

結婚しているゲイ男性3人と接点を持ったことがあります。
二人の方とは実際に会っていて(そう言う話をする為に、という訳ではありませんが)、もう一人は会っては居ないのですが、一時的に困難な状況にあり、その間2週間ほど、メールのやりとり(100通くらい)をしました。
3人のうちの一人は、それはひどいでしょう、妻を、妻としても一人の人間としても侮辱していると言われても仕方がない、と思われる方でした。
でもあとの二人は良識のある方で家庭を大事にしておられました。
二人ともお子さんがいて、一人は妻は知っていて「それでも妻は一緒に生きて行くと言っている」という方、もう一人は妻は知らず、「一生妻には知らせたくない(知られたくない、ではなく)」と言っている方でした。
そう言った方をどうこう言っているわけではありません。
何事によらず、誰もが与えられた状況の中その時その時を選んで今があるわけですから。

ただ、選択肢として、「相手には黙って結婚しよう」という選択もありなのだ、というのはまずい、と言っていくべきだと私は思っているのです。
「自身のセクシャリティーを知られたくないが為に相手に告げずに結婚する、と言うことはどんな言い訳をしても許されるべきでは無いと個人的には思う」と言うのはそう言う意味です。

> ●「社会的な制度としての結婚制度」を、生活上の必要性から「利用」している
と言うのがそう言う意味だとしたら、それを良しとする立場は私は取りません。
この場合の「制度の利用」には相手がいるからです。
友情結婚を薦めているところもあるようですね。

「結婚制度」は今どうやって考えたら良いのだろう、と思います。
「結婚制度」は制度として、異性間だけでなく同性間の結婚も同じく認めるべきだ、と言うあり方。
必ずしも結婚に限らず、お互いを人生をともに生きていくと決めた間柄には、結婚と同じように社会制度の恩恵が受けられるようにすべき…、とか。
結婚強制社会、等といって、結婚そのものに反対…とか。

私は此までずっと、障害者として健常者の中で一人ぽつ~んと生きてきた、という感覚がどこかあります(施設で生活するほど重くないという事ですけど)。
もちろんそれがすべてではありませんが、障害者としてのみ生きてきたわけではありませんし。
私の場合、内部障害ではないので、見えるのです。
四六時中見られている、舐め回されている、視線から逃げようがない、いつも身を晒している…、そんな感覚が通奏低音のようにある。
ですから、同性愛者の方の隠れていたいと言う気持ちは、分かる気がしています。
私だって隠れられるものなら隠れたいですものね。
でもひと様の目は変えようがないので、自分の気持ちを変えて行くしか無いです。

人は、与えられた中で努力して、精一杯工夫して生きていくしかない、実際の処、意識するしないにかかわらず、誰もがそうやって生きているのかなって思います。

●いちさん。

僕は、異性愛者に当然のように施行されている制度は
同性愛者にも同等に施行されるべきだと思います。
「子ども生む能力がないのに、それはおかしい」という意見を言う人がいるようですが
異性愛者でも、子どもを持たない人はたくさんいる。
一方、同性愛者でも、養子をもらって子どもを育てる人がいる。
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