三隅研二「剣」●MOVIEレビュー

盲目的ストイック礼賛映画
僕、昔はこういう嫌な奴だったかも。
この映画の主人公を見ていたら、かつての自分の恥かしさと直面した。「超」が付くほどの真面目人間。目標達成のためならば全てを犠牲にしてもいいと思う盲目症。そんな風に自分を追い込めない周囲の人間のことを馬鹿だと思ってしまう危なっかしくて堅物で愚かな男。
しかし三島由紀夫はそういう男を「愚か」だとは見做さない。むしろ手放しで礼賛する。そこが三島由紀夫の三島由紀夫たるところ。
三島由紀夫原作の「剣」は、剣道に打ち込む青年が主人公。彼は大学の剣道部の主将であり、来るべき大会において最高の成績が上げられることを目指し、自分だけではなく周囲の人間をもストイックに追い込んで行く。「もっと普通の生活感覚を持て」と父親から注意されるほど、彼は日常の全てを剣道に捧げており、生き方に「遊び」がない。未来のことを考えたり男女交際にうつつを抜かすなんて、彼にしてみたらとんでもないこと。とにかく純粋で、まっすぐすぎるのだ。そんな奴は当然、周りからは浮いてしまう。
さわやかな青春モノかと思っていたら火傷する
現在の目標を達成することのみに100%のエネルギーを注ぐ強さは、実は精神的な弱さと裏表の関係にある。精神的に依存出来る目標がないと、生きていられない種類の人間なのだから。いわば「目標依存症」とでも言おうか。そういうタイプの人間は、あくまでも自分の思い描く現実しか受け入れられないために、突発的な出来事や未知なる出会いや偶然性への抵抗力を持つことが出来ない。そして、強い自分でいられなくなった時に、いとも簡単に「ゼロ」になる。物事を適当に流すことが出来ない人というのは、実は非常に危険な人なのだ。
女性はやっぱり「俗悪な誘惑者」として敗北させられる
そんな堅物の彼を「女性的な魅力」で落とそうと執念を燃やす女性を登場させるのが、いかにも三島由紀夫的。「ストイックな男性」の対立概念としては、必ずと言っていいほど「世俗的な誘惑で堕落させようとする、現実存在としての女性」を登場させる。そして結果的には女性性の敗北と、男性性の勝利を高らかに謳い上げてしまう。この作品は、まさにそのパターンどおりの展開である。主人公は、色っぽい女の子の色仕掛けに引っかかるほど「俗悪」ではない。そのことを強調したいがために、女性は「ダシ」に使われるのだ。
男の嫉妬
主人公のあまりのストイックさに嫉妬する、ひねくれ者のアウトローを川津祐介が演じている。彼は、こういう「ちょっとグレた」感じの人間っぽい役柄がとても似合う。二人はあまりにもタイプが違うため、激しく反目しあう。互いに互いのことが気に入らなくてイライラする。しかし、気になって仕方がないのだ。男同士の嫉妬心とは、こういうもの。
二人は互いに、相手が自分には「足りない」ものを持っていることが気になって仕方がないのだ。しかしそういう本音を相手に悟られることは「敗北」を意味するために、意識的に冷たい態度を取ってしまう。男の嫉妬というのは、こんな風に屈折した形で表面化してしまうものであり、こじれてしまうとかなり厄介なものである。実は相手のことがとても「好き」だからこそ嫉妬してしまうのだが、こじれた糸を解きほぐすには「男のプライド」が邪魔してしまう。なかなか回復することはない。

白と黒のコントラストを常に意識させる撮影が秀逸。主人公の清くまっすぐな姿に常に寄り添いつづける「影」の存在を、常に観客に意識させることに成功している。
その映像効果がもたらすスリルはサスペンスを呼び、次に何が起こるかわからないという高揚感を観客にもたらし続ける。主人公の危なっかしさが気になって仕方がない。いつ、彼は折れてしまうのだろうと。
中途半端に生きているのなら死んでしまえ
生きているのならとことん「生きる」。愚直なくらいに自らの信念に忠実に。そして、その信念が実現できないことを悟ったならば、いさぎよく「死ね」。これが三島由紀夫の死生観である。理想が実現できないのならば、人が生きる意味などない。彼は若い頃から、そう思い詰めるタイプの人間であったようだ。そして、精神的な「若さ」が失われることを最も忌避した人なのではなかろうか。
この映画の主人公にとっては「剣道の大会で優勝するため、自らが主将となってチームを統率する」ことのみが生きる全て。その先の未来を想定していないということは、「いつ死んでもいい」と本気で思い続けているのだろう。こうした主人公の人間的気質は明らかに、三島由紀夫本人が投影されているのだろうと思う。
若さの特権である「一途さ」は、やはり肉体的な「若さ」と不可分の関係にあるだろう。健全な精神は健全な肉体に宿る。老いた肉体には老いた精神が宿ってしまうことは、人としての宿命である。しかし三島由紀夫には受け入れられなかった。「肉体の若さ」を失うことで「精神の若さ」までが枯渇し始めてしまう現実を、三島由紀夫は「負け」と見做し、受け入れられなかった。
破綻礼賛
負けを認められない人間の危険性。負けを楽しむことが出来ない人間が必然的に選びとる末期。それは、存在の不安から逃れるための行動。不確実から「確実」「絶対」への転身。すなわち死。死んだ者は絶対に生き返ることは出来ない。「死」それこそが唯一、「絶対」という言葉を当てはめるにふさわしい概念なのだ。
ヒューマニズムを嘲笑う
三島由紀夫は、「自殺するなんて最も愚かで神への冒涜」だとする、よくある啓蒙的で道徳的な死生観とは対極のところを見据えている。彼は、死を選びとる若き人間を決して否定したりはしない。むしろ礼賛する。突然の断絶が生み出す空虚感を、美しく喜ばしいことだとして祝福するのだ。そして、その感性を「歪んだ」ものというよりは「真っ当なこと」なのだと、観客や読者を説伏させてしまうかのような強烈な光を放射する。
彼の描く「死」は絶望ではない。空虚なのだ。そして、それこそがこの世の中が孕んでいる「内臓の正体」なのだ。
生き恥を晒す人間を嘲笑う
この映画のラストシーン。突然の断絶を味合わされた観客は、見事に「ア然」とさせられる。それはまるで、1970年11月25日に日本中が「ア然」とした時のように。
自死を選びとった人間の死体を覗き込む「生きている者たち」の顔が、なんと醜悪で滑稽に思えてしまうことか。「お前らは、のめのめと生きていけるほど鈍感なのか」と言いながら勝ち誇って高笑いをしている三島由紀夫の顔が脳裏をチラつく。「自死」を堂々と礼賛してしまうのだから、三島由紀夫にハマり過ぎると、ある意味危険である。
彼は心底、この世を呪詛していたのだろうと思う。それは裏を返せば、誰よりもこの世を「愛していた」ということなのかもしれない。しかしそれはあくまでも、自分の内的世界としての「この世」ではあったけれども。

監督:三隅研二
制作:藤井浩明 財前定生
原作:三島由紀夫
出演:市川雷蔵 藤由紀子 川津祐介 長谷川明男
河野秋武 紺野ユカ 小桜純子 稲葉義男 角梨枝子
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●「剣」上映情報
キネカ大森で開催中の三島由紀夫映画祭2006で、5/7(日)19:00~、5/10(水)19:00~上映があります。40年ぶりに日本上映が実現した「憂国」と併せて、ぜひご覧ください。
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