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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2023-05
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ブロークバック・マウンテンで見る世界024●ゲイ・イメージ考

 映画が浮かび上がらせた「ゲイ・イメージ」

 この映画を観て、「彼ら二人はゲイなのか」と疑問を持つ人がいるようです。つまり「彼らをゲイと見做していいのか」ということらしいのですが、ゲイである僕にとってその疑問はとても不思議だし、ある意味では面白い疑問だとも思います。なぜなら「ゲイと見做す」という判断をする際に浮かび上がるのは、その人が従来抱えてきた「ゲイという言葉へのイメージ」であり本音だからです。普段、存在を意識すらされない我々ですから、こんな機会はめったにありません。

 特に、カミングアウトしているゲイが、これまで自分の周囲にいなかった人たち(今の日本ではほとんどの人がそうでしょう)にとっては、イニスのことを「ゲイ」と呼ぶことに、ためらいを感じる人が多いようです。

 その理由の一つはきっと、映画の主人公二人ともが「男っぽい」からだと思います。たしかに彼らは、世間に流布している「ゲイ」「同性愛者」「おかま」という言葉から短絡的に連想される「フェミニンな感じ」のキャラクターではないし、テレビタレントのように「オネエ言葉」で喋るわけでもありません。ルックスは「イケメンだけどフツーの男」だし、女性と結婚してセックスもして、子どもを持ったりもしているわけですから、なおさら「彼らはなんなの?」と混乱させるみたいです。

 その混乱はおそらく、この作品の映画化に当たってアン・リー監督が「確信犯として」描き出した場面のせいでもあると思います。なにせこの映画では「男性同士のセックス場面」だけではなく、あえて「女性とのセックス場面」をも生々しく映像化しています。この映画が物議を醸し、多くの観客の旧来の価値基準を掻き乱している理由の一つに、その場面も含まれるのではないかと思います。

 今回は、この映画の反響によって浮かび上がった「ゲイ・イメージ」の相違について、特に「非当事者たち」によるイメージと、「ゲイである僕が思う」イメージの相違について、こだわってみようと思います。

注:ここで使う「ゲイ」とは、男性のことを恋愛対象として好きになっている自分のことを、自覚している男性のことを指します。ゲイの中には女性を性的には愛せない人が圧倒的に多いのですが、中には愛せる人もいます。また、そうしたセクシュアリティーが人との出会いによって柔軟に移り変わる人もいます。
「ゲイ」という概念や「男女どちらを、どの程度好きになるかの比率」は人それぞれ。はっきりと固定された正解があるものではありません。したがって僕は「今、自分で自分のことをゲイなんだと認識している人」のことを、ゲイと見做すことにしています。

 ここで僕の話をします。

 実は僕は、自らを「ゲイ」だと自覚して行動を起こしてから、まだ3年ほどしか経っていません。男性のことを好きになる傾向が強いことは中学生の頃から気付いていました。しかしそのことに向き合ってはいませんでした。周囲の男友達のように、どうして自分は女性を性的な対象として見ることが出来ないのか。どうして女性の裸のグラビアを見ても全く興奮しないのか。どうして女の子に「女っぽく」近寄ってこられると生理的に嫌悪感を持つのか。自分で自分が疑問でした。しかし僕はそんな自分に向き合うことが怖いから恋愛感情を押し殺し、ずっと逃げ続けて生きてきました。(→その頃の僕のダメ人間ぶりは、こちらのシリーズに書きました。)なぜなら自分に向き合うと、自分が「おかま」だということを認めることになるからです。

 「おかま」という言葉は、それを言われた人間にとっては非常に侮蔑的な言葉に感じられることが多々あります。世代によって感覚に差はあるようですが、僕の感覚では自分のことを「おかま」と呼ばれることには、今でも抵抗を覚えます。それは個人の体験にもよるようです。

 例えば僕は幼少からピアノを習っていたのですが、小学生の時にクラスの男子から「ピアノなんか習って女みたいな奴だな。おかま~ぁ」と、しつこくからかわれたことがあります。どちらかと言えば弱気で内気だった僕はジョークとして聞き流すことが出来ず、けっこう傷つきました。まだ性にも目覚める前であり、自分としては「男子」だと思っているわけですから「女みたい」とか「おかま」と言われるのはショックです。「男子」として育てられた自分を否定されたような気持ちになります。その後は、ピアノを習っていることを友達には話さないように心がけました。

 僕はかつて「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」を抱えていました

 中学や高校時代になると、学年に一人や二人は「女っぽい男の子」がいたものです。その頃の僕は、周囲の人たちと同じように彼らを「可愛そうな人たち」だと思っていたし「自分とは関係のない人たち」だと思っていました。誰だって自分が「嫌悪される側」には入りたくないものです。彼らが裏で、周囲の人間からどんな「蔑みや嘲りの対象」として語られているのかを知っていたし、自分もその輪の中に加わっていたからです。罪の意識はまったくなく。

 すなわちその頃の僕は、女性を生理的に嫌悪するのと同時に、たとえタイプの男性がいたとしても「ホモフォビア」を理由に「嫌悪を装っていた」わけですね。嫌悪しないとタイプの男性を好きになってしまい、自分の「おかま」と向き合うことになってしまいますから。その頃の僕はきっと、周囲に「嫌悪エネルギー」を撒き散らしていたのでしょうね。(しょ~もなっ。)

 そんな状態で20代の後半までの月日を過ごしたので、言わずもがな僕のキャラクターは、いわゆる「フツーの男」です。ファッションも髪型も、喋り方も完全に「平均的な男」という感じです。

 20代の後半になってようやく「ゲイ」の人たちと接する機会を持つようになってから、まずは驚きました。自分のようなケースは特殊だろうと思っていたら、その反対。むしろ僕は「平均的・多数派のゲイ」だったのです。たしかに「おかま」のイメージどおりに女性っぽい人や「オネエ言葉」で喋る人もいますが全体の中ではむしろ少数派。そうした人ほど「ゲイ」であることがキャラクターとして「わかりやすく表面化」しているわけですから、新宿二丁目を中心とした「ゲイ・コミュニティー」に積極的に関わるケースが多いようです。しかし、そうした行動を取らない人もたくさんいるのが実情だし、むしろほとんどのゲイは「フツーの平凡な男っぽい感じ」のキャラクターなのだと知ったのです。

 考えてみれば当たり前のことなんですよね。カミングアウトしていないということはなにも引きこもって無人島で生きているわけではなく、男性であるキャラクターを身に纏いながら「異性愛者のフリをして」社会の中に存在しているということなのですから。ゲイだと悟られて「おかま」というレッテルを貼られることによる中傷や、偏見により社会的地位を失うことへの恐れも抱えています。だから「フツーの男キャラ」で過ごす事の方が安全だし、自らもずっと馴染んで生きて来たキャラクターでもあります。僕の場合は自分を女性も愛せる男だと認識したがっている時期が長かったわけですからキャラクターもそのまんまなのです。

 お互いに見えない「ゲイ」と「ゲイを差別する人」

 ゲイだということが知れると、今の日本ではまだまだ、スキャンダルとして扱われるかもしれない恐れから完全には自由になれません。芸能人や政治家にも一定数は必ずいるはずの「フツーの男キャラ」のゲイが、ゲイとしての本音で語ったり政治的主張をしている姿を見かけないのは、そのことを恐れているからだと思います。

 なぜなら、どこに強烈なホモフォビアを抱えている人がいるのかが、現実問題としてとても見えにくいからです。自分の会社やライバル会社の役員や上司、同僚に、もしゲイに対して強烈な偏見を抱えた人がいた場合、なにをされるかわかりません。実際にそうした被害に遭って脅されたり、いじめられた人の話も聞きます。世の中、人の揚げ足をとろうとする人はたくさんいますから。

 しかもゲイ自体が普段、「異性愛者」を装い隠れているのが現状ですから、強烈な偏見を抱えている人が誰なのかも、なかなか表面化される機会はありません。隠れているから話題にすらなりにくいし、強烈な偏見を抱えている人の思想というものは「ゲイ」を目の当たりにしたり「おかま」について語らないと表現されないからです。だから、お互いに見えないのです。

 もしかしたらゲイの側の過剰防衛という面もあるだろうし、必要以上に仮想敵を強大なものとして思い描き過ぎている面もあるのでしょう。しかし、ある程度の世論の後押しなり、何らかのきっかけがないと、ゲイを戦々恐々とさせているこの心理的圧迫や恐怖感からはなかなか自由になれません。本音とタテマエを使い分け、直接的な衝突や自己主張を避けたがる日本社会に濃厚な二面性も、その圧迫を生み出す原因になっていると思います。まだ世論は熟しているとは言えないし、我々が当たり前の生活者として生きていることへの想像力を持っている人が非常に少ないのが現実です。

 こうしたゲイのあり方や世の中の仕組みを認識していれば、映画でのイニスやジャックの姿は「とてもリアリティーのある」ゲイの姿だと映ります。彼らは、あの時代における「ゲイ」としての典型的な生き方をしていると思うし、彼らのような二重生活は、程度の差こそあれ現在でも「ゲイにとっての日常」であり続けています。

 「既婚者ゲイ」という生き方

 映画の中の二人のように、女性と結婚して子どもを作っているけれども、同時に男性とも関係を持ち続ける「既婚者ゲイ」も、実際に世の中にたくさん存在しています。日本でも、60~70年代に青春時代を過ごしたゲイの多くの者たちが「既婚者にならざるを得なかった」というのが現実だったようです。作家の三島由紀夫氏も、その代表例だと思います。

 その頃はまだインターネットもありませんし、ゲイ同士が出会って恋愛関係を築ける場は大都会などの特殊な場所に限られていたようです。ゲイの交流雑誌として一時代を切り拓いた「薔薇族」の創刊も、1971年のこと。それほど長い歴史があるわけではありません。

 「薔薇族」創刊・普及前のゲイたちは、今とは比べ物にならない孤独感と戦いながら、日常を生きていたのだと思います。いつまでも男が結婚をしないで一人でいると「おかま」であると公言することになってしまうプレッシャーもあります。また、両親が生きているうちに安心させてあげようと、自らを偽って結婚を「してあげる」人も、実際にたくさんいたようです。
 70年代~90年代頃(ネット普及以前)のゲイの生き方については、伊藤文学さんの著書「薔薇ひらく日々を~薔薇族と共に歩んだ30年」を読むと、詳しく知ることができます。彼はゲイではないにも関わらずゲイに関心を持ち続け、ゲイバーをかつて新宿で経営したり、最近でも「薔薇族」を復刊したりして日本のゲイたちをずっと応援し続けている人です。

伊藤文學著・「薔薇ひらく日を―『薔薇族』と共に歩んだ30年」

 「ブロークバックマウンテン」と「町」との往復は、多くのゲイにとって日常である

 既婚者に限らずゲイの多くは今でも、公的には「異性愛者の男」としてのキャラクターを身に纏い、たとえば男同士の会話に出てくる恋愛話や「オンナの話」などになった時、異性愛者に話を合わせ、ゲイであることが「バレないように」振る舞っています。そして、自分が本当に感じることを本音で語ったり、異性愛者の鎧を脱いで身軽になるのはあくまでも私的な場に限定していますし、人を選んで行なっていますので二枚舌はゲイの必然。もし都会ではない場所で結婚して私的な場を持てなくなってしまったりしたら、ゲイは精神的にかなり追い詰められてしまうのではないでしょうか。

 この映画で描かれた「ブロークバックマウンテン」という場所は、ゲイにとっては自分を解放し、ゲイとして振る舞える時間や場所と同義。そして、彼らが山を下りてから過ごした「町での日々」は、我々が本音を隠して生きている時間や場と同義。その両方の世界を行ったり来たりしているのが、現在でも行われている平均的なゲイの生き方だと言うことも出来るでしょう。

 イニスを「異性愛者」とカテゴライズしておきたいホモフォビア

 イニスの事を「異性愛者だ」と見做したがる考え方の深層には、「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」があるように感じます。なぜならイニスをゲイだと認めることは、イニスが「素顔と仮面を使い分けて生きていた」ことを認め、実生活で仮面を被らざるを得ない根本的な理由である、「ストレート社会に巣食うホモフォビア」と向き合うことになってしまうからです。あくまでも彼を異性愛者と見做し「あれは性欲の溜まった男同士、誰もいないところだから事故のように行なわれた出来心による悪戯」だと思っておけば、異性愛者たちが「自己に巣食う暗部」と向き合う必要はなくなります。

 また、同じ観点から「異性愛者であるイニスが、同性愛者であるジャックの想いを受け入れた」という解釈もあるようですが、それを真に受けると、こういうことになってしまわないでしょうか。
 同性愛者ジャックが「男とやりたがっていたから」異性愛者イニスが「やらせてあげた」。すなわちイニスは、「ブロークバックマウンテン」での日々において、ジャックに対して「恋人同士であるかのように演じてあげて、ゲイのために肉体を捧げてあげていた」。そして山を下りてからの再会も、ジャックの前でだけ「ゲイを演じてあげていた」ということになってしまいます。あの映画において、「山」と「町」どちらの環境が演じているものだと表現されていたのかは、言うまでもないことでしょう。

 「ゲイ」という言葉は基本的に「男性の同性愛者」という意味です。ジャックが男性である以上、イニスを「ゲイ」だと呼ばないということは、イニスがジャックに愛情を持たなかったということを意味してしまいます。  

 イニスがあくまでも異性愛者であり、同性愛者の思いを受け入れてあげたのだと考える背後には、異性愛者を「一段上」のところに置いて同性愛者を「可愛そうで哀れなもの」だと見做す、「旧来のゲイ・イメージ通りの意識」があるように僕は感じます。細かいことかもしれませんが、この映画が発しているメッセージにも関わる重要な部分だと思いますので、あえて書かせていただきました。

 「ゲイ映画」ということに抵抗を感じるホモフォビア

 また、この映画のことを「これはゲイ映画だ」とゲイが述べることに抵抗を感じる方もいるらしいです。それは裏を返せば「同性愛者」「ゲイ」「おかま」という言葉を、今までその人が「どういうイメージで捉えて来たのか」を、如実に物語ってしまっているのではないかと思います。それはゲイの問題というよりはむしろ「そう思っている人たち」の内面の問題だと思いますので、それに合わせて僕が自らの見解を変える必要もないし、気を使って主張を控える必要も感じません。

 また、たとえ「ゲイ映画」という言葉のイメージが汚れていて、「従来のゲイ向け成人映画」というニュアンスで捉えられるのだとしても、その捉え方自体に「無知から来る差別意識」があると思いますので、そう思ってしまう人たちに合わせて僕の主張を変える必要も感じません。このブログでも紹介してきた「シュガー」「ハードコア・デイズ」 をはじめ、「ゲイ向け成人映画」というカテゴリーに入れられがちな作品の中にだって素晴らしい作品はたくさんあるし、志を込めて作られた名作がたくさんあります。そのことをぜひ知ってもらいたいと思いますし、「ゲイ」という言葉が付くことに抵抗を感じてしまう自らの内面と向き合ってほしいと思います。

 このブログのスタンス

 このブログは、タイトルに「GAY」という言葉が入っていることからもわかるとおり「ゲイが書いていることを読者が承知している」ことを前提にして書いています。ゲイとして生きている僕の主観を包み隠さず書くことが、ここを見に来ている人への礼儀だと思っています。「ゲイ・イメージ」が汚れているのだとしたら、それはゲイの問題ではなく、そういう目で見ている社会の問題だと思います。そして、そのことに遠慮して、これまで対社会的には本音を控えてきたゲイの「卑屈さ」にも一因があると思います。したがって僕はこの場を「ストレート言説に気を使って大人しく語る場」ではなく、「思うことを率直に主張する場」だと捉え、書いて行こうと思います。 

 「ゲイ・イメージ」考

 「ブロークバックマウンテン」の公開は図らずも、日本社会の大勢においては依然としてLGBTのことが「存在すら現実感を持って意識されていない」現実を浮かび上がらせてもいます。そして、LGBTではない人たちが無自覚に発している「ホモフォビア的なニュアンスを含んだ差別的な発言」を表面化させてもいます。

 実はこの現象自体、とても画期的であり、意味のある事だとも思います。今まで潜在していて見えなかったものが、この映画をきっかけにして一挙に表現され、しかもブログ時代ということもあり、ネット上に溢れ出しているのですから。

 僕は他所でそういう発言を見かけたとしても基本的にはスルーしていますが、当ブログにコメントとして書き込まれた発言に、そういうニュアンスが感じられたものに関しては、指摘してこだわらせていただきます。僕はゲイの代表者を気取っているわけではなく、あくまでもこのブログのコンセプトの中心テーマとして、僕の主観を表明しているだけです。今の僕は実生活では「ゲイとしての本音」を率直に語れる立場にありませんが、ここはそういう場であってもいいはずです。

 最後に、「キネマ旬報」3月下旬号に掲載されていたアン・リー監督の発言を紹介します。

 「映画作家としての僕の挑戦よりも、むしろ映画を観てくれる人が試されるんじゃないかな。他者に対して寛容であること、あるいは自分の未知の領域に関してもオープンでいられるか否か。そして内なる“恥”の部分とどう向き合うか。この映画で動揺してしまうのは別に悪いことだとは思わないけど、でもイニスとジャックの情熱を受けとめられる正直さと勇気は持ってほしい」

 「自分の視点よりもまず他の人の視点を撮るという習慣が身についているのかもしれないな。女性とか、同性愛者とかね。」

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コメント

この記事へのコメント

この度やっと

akaboshiさん
 ブロークバック・マウンテンの感想をエントリーしました・・・が、他の皆様に比べてどうもお気楽というか考えナシな文章になってしまいました。
イニスの苦しみ、必死さも映画を見て感じてたのですが、全然伝えられてません。
 この映画をこんな風にしか表現出来ない自分はやっぱりヒドイ人間なのかなあ、と反省してます。(ちょっと今泣きそうです)

 びあんこさんへ
 いつぞやはブログに案内してくださり、ありがとうございました。
 実はコメントを寄せようとしたのですが、スクリプトエラーのため出来ませんでしたので、こちらからコメントいたします。(すいません、akaboshiさん。場を貸してください・・・)案内していただいた記事は拝見しました。(その他の記事もですけど)久々に心に強いインパクトを与える映画に出会えた喜びに溢れてますね。実は私も喜んでるんですよ。それではまたお邪魔しますね。

●凪さん

凪さんのエントリー読みました・・・すっげ~笑った(爆)。
解釈の点でも全く違和感なく読めたし。

イニスを落とすまでのジャックの「純情乙女」ぶりは、
意外とジャックの作戦もあったりして・・・。
(彼、策士かもしれないもん。笑)

そういえばイニスの少年時代は回想シーンとかも出てくるからある程度想像がつくんだけど、
ジャックの過去の印象が薄いなぁ~。・・・やっぱり、次に観るときにはジャックに要注目。

寝た翌朝の「さりげない大嘘つきっぷりにゲイ歴の年季」という凪さんの指摘、
するどいっ!と思った。(笑)

皆さん、凪さんのレビュー面白いっすよ~↓
http://myotherside.blog56.fc2.com/blog-entry-17.html

いつも楽しく拝読しています。

いつも楽しく、また、考えさせられながら拝読しています。書き込むのは今回が初めてです。実は、面白いサイトを見つけまして割としっかりしたノンアダルトサイトだったんですが、そこでコラムの募集をしています。akaboshiさんのブログをそのサイトで紹介できればとおもってメールしました。これだけの文章をこのブログだけで終わらすのはもったいないと思います。URLに貼ってみましたので、是非、見てみてください。
今後も、楽しみに読ませていただきます。 
では、

お久しぶりです

ついに地元の映画館でも公開が決定しました。
ってか、遅いよ田舎の映画館。
遅ればせながら観た暁には、自分のブログに感想書いてみようと思います。

私は大学のとき、友人にカムアウトしました。
やはり多くの人はゲイを非日常の存在と捉えていました。
それゆえに、よくも悪くも偏った見方が多かったことにも気づかされましたけどね。
学校で同和教育や人権教育にかかわってみて、教員にもそういう人が多いって
こともよーく、よーくわかりました。田舎だから余計にひどい。
だからこそ、私は「フツーの存在」でありたいと思うのです。
教育の現場から少しでも、小さいところからでも何かを変えていきたい。

もう一度見に行こうかな・・・

初めて書き込みします。『L』に『BT』もちと混ざったくらいの♀です。
LGBT側の『ブローク・・』感想を探して辿り着きました。

普通の映画評をいろいろと読んでみましたが、
ストレートとはいえ映画好きなのだから感受性はそう悪くないのではという期待がほとんど外れ、
知らないことにマジョリティーはいろいろこねくり回して解釈をつけるんだなぁと、ちょっと残念な日々です。

『性欲の溜まった男同士、誰もいないところだから事故のように行なわれた出来心』
と言った言説に出会うと、『世のストレート男性はそんな野獣ばかりなのか!』とこっちがピックリしますよ(笑)。
男女に置き換えてみれば、テントに誘われて断るのも、どちらかのアプローチで一気に最後までなだれ込んじゃうのも、ごくごくありがちだと思うのですがねx?
(あそこでテントを出て行くというならともかく、『まぁあせらず、まずはプラトニックからはじめようよ』などと妥協して、おとなしく寝なおしたりされたらズッコケますよ・笑)

少し茶化してしまいましたが、この映画のように、日々じわじわと食い込んでくる映画は私も初めてです。
原作の本も、3回目くらいのほうが泣けました。
特に、メキシコでの浮気の話なんかをなじる前に、俺たちがこれまで何回しか会えていないのか、それを考えてみろよ!と訴えているところは、ほんとストレートで・・・。
ジャックをもっと取り上げて、ジャックについて語ってあげてください!(勝手

現代でも、既婚者と遠距離恋愛したらこーゆー切ないことに・・・と自分がそんな恋愛をしている気持ちになりました。

●マルさん。

教えていただきありがとうございます。
実は以前に、このサイトは見かけたことがあったのですが・・・
もう少し様子を見させてください。

●Kazuccineさん。

ゲイの存在を「非日常だ」と思っている人たちのすぐ隣で
われわれは日常を過ごしているんだよね(笑)。

ゲイにいろんな人がいるのと同じように、教員にもいろんな人がいて
今思えば、学校という閉鎖社会の中で「お山の大将」になって
好き放題に振る舞っている方々も、けっこういたなぁ~と思います。

「校則」を楯に生徒の画一化を奨励して髪型や制服の着方まで口を出して矯正し、
実は生徒のためよりも学校の名誉だとか評判ばかりを気にしているような人。
そういう奴等に限って声がデカくて図体もデカいから、「生徒指導教官」として君臨する。
・・・ああいう環境を感受性の豊かな時期に当たり前に受け入れさせられてると、
「他者」への想像力を持つどころか「集団に埋没する癖」ばかり付けさせられちゃいますよね。

僕の経験では、中学校が特に酷かったなぁ・・・。生徒を抑圧することにおいては。

Kazzucineさんにはぜひ、そんな教育現場の「常識」に風穴を開けられるような存在になって
生徒の人間性を「開放」出来る人であって欲しいと思う。

●くにさん。

なんか、読めば棘がささってくるし細かいことが気になって仕方なくなるので
最近ではあまり、他のブログの「ブロークバック評」は読みに出かけないようにしてます。

この映画をきっかけにして、あまりにも無邪気にゲイのことを
「はしゃぎながら」「面白おかしく」取り上げているところが多いし、
しかもタチが悪いことに「ゲイに読まれるかもしれないこと」をまったく気にせずに
それらの記事やコメントが書かれてますからね~。
半匿名の(筆者の人格がサイバー上に形成されている)ブログにおいても・・・。
(完全匿名制の2ちゃんねるで飛び交う会話でならば、まぁわかりますが)。
当事者からしてみると「それって蔑視だろ」と突っ込みたくなるところ満載。
ゲイへの蔑視表現に出会いたければ「ブロークバックマウンテン」を検索すると、
今なら、ありとあらゆる発言を見つけ出すことが出来る状態です(笑)。
そういうところからも、「あぁ・・・。やっぱりこの人たちには本当に、日常的な存在としては
見做されていないんだなぁ」という現実を思い知らされるし、
なおさら今後への原動力を掻きたてられます(笑)。ありがとうブロークバックマウンテン!

テントのシーンのことですが、おっしゃるとおり
イニスは、ジャックに手を出されて嫌だったら逃げることも出来たわけですよね。
屈強で健康的な若者なんだから。
誘われてそのまま受け入れたという行為そのものが、彼の思いのすべてを物語ってますね。
・・・実に単純なことでした(笑)。

「知らないことにマジョリティーはいろいろこねくり回して解釈をつけるんだなぁと、
ちょっと残念」←これにはまったく同感です。
ブロークバックの感想だけではなく、三島由紀夫の研究書を読んでいても
最近では同じことを感じます。
彼のボディービルへの傾倒とか、太陽と海が好きで暇さえあれば日焼けをしていたという
ゲイ的に「ありがち」な行動も、ストレート自認者たちにとっては「奇矯な行動」に映るらしく
やたらに理屈をこねくり回して時には哲学的に、さまざまな解釈が施されています(笑)。

でもあれって、「だってゲイだもん」の一言で言ってしまえるような気が・・・。
(↑ちょっと乱暴すぎ?笑)。
「ゲイのことを哲学的に解釈する言葉に出会いたければ三島由紀夫研究書を読めっ!」
・・・という感じで、面白いです(笑)。

話が反れましたが、僕も最近はジャックのことが気になりだしています。
彼が行動しなければ、なにも始まらなかったんですよね、この話。

TBありがとうございました。

はじめまして。実は以前に「ブロークバック」つながりで、akaboshiさんのこちらのサイトは見させていただいてたんです。非常に興味深く、また考えさせられながら拝見しました。
コメントやTBもつけたかったんですが、何をどう言っても上っ面な言葉になってしまいそうで、躊躇していたのです。(笑)

ゲイの方から見たこの映画への思いを読むにつれ、この作品がますます多面的で奥深いものだと気付きました。自分が抱いた感想も、また違った色合いを帯びてきたりして。

自分でもうまく説明できないんですが、不思議なくらいこの作品に心を奪われ、揺さぶられました。2回見に行ったんですが、私が一番好きなシーンが、それぞれが結婚したあとの4年後の再開シーン。抑えに抑えていた思いが爆発する、あのせつなさと苦しさに打ちのめされて泣きました。そしてあれはゲイの二人だからこその、様々な葛藤を背負った上でのせつなさだったと思うのです。
私はこの作品、本当に好きです。

ありがとうございます

初めまして。
えーと、何から書けばいいのか。とにかく、ありがとうございますと書いたのは、
BBMを年明けくらいに知って、春を待って、それでも映画館に行くのに勇気がいって、
「オレはただ映画を見に行くんだから」
と自分なのか誰に向かってなのか分からなくても言い聞かせることが必要で、
それで一回観て、原作を読んで(日本語でですが)、もう一度観に行って、
そしたら少し落ち着いたけどそれは映画から受けた感情や煩悶が消えたのではなくて
静かにだけど固まって自分の中に残ったのであって、
それでもネットでいろんなブログを見てみてもなかなか男性が、
しかもakaboshiさんの言う「gayを認知してる」人が書いたものには行き当たらなくて、
周りにこの映画のことで語れる場所も無くて、それで、やっと、ここを見つけたからです。
不必要なくらい長くなってしまいました笑。
でも、本当に、やっとこういう場が見つかって嬉しく思っています。
肝である映画の感想なんかも「オレは・・・!」という文章をやっぱ
この映画に関して語れる場所が無いので見ていただきたい、
それについてakaboshiさんや他の方の意見も聞いてみたいというのはあるんですが、
今ここに書いたのでは迷惑なくらい長くなってしまうと思うので(既に笑?)
何か別の機会なり方法を選ぼうと思います。
1時間半くらいかけてBBMに関するdiaryをばーっと読ませていただきました。
これからもちょくちょく寄らせていただきます。
他の記事(って言うんですかね?)もこれから読ませてもらいます。
ホント長くなってすいません。

●紅玉さん。

この映画って、観終わった後に「はじまる」映画なのだと思います。
思い返すたびに印象が変わってくるし、他人の感想に触れるとまた自分の考えも変わって行く。
とても大きな「出会い」なんだと思う。
よく、映画を観た後に
「心の中に大切にしまっておきたいから、これ以上語らないで」とかいう人がいますが、
僕はそれよりも、
何度でも想起して考え直して新しい発見を楽しむことの方が楽しいと思います。
僕の、この映画に対する思いは日々変化してるし、
好きになったり嫌いになったりもしてもいます(笑)。
その感覚が生々しくずっと持続しているというのが、すごいと思います。

●camelさん。

はじめまして。思いが率直に伝わる素敵な文章ですね。

「オレはただ映画を見に行くんだから」
と自分なのか誰に向かってなのか分からなくても言い聞かせることが必要

↑書いていただいたこの部分に、僕は非常に興味があります。
その葛藤はいったい、なにが原因だったのでしょう。
そして、一回見ただけでは落ち着かず、原作を読んで二回目を見て
やっと落ち着いたというその感覚・・・なんなんでしょうね(笑)。

僕は実は、原作本を買いはしましたがまだ「読もう」という気持ちが起こらず、
一回目を観た時の衝撃の余韻の渦中にいます。
もう少し落ち着いたら、また観に行こうと思ってますが、しばらくかかりそうです。

このブログのコメント欄は、いくら長くても対応できますので
遠慮なく長文投稿をしちゃってください。
(but,入力途中でエラーを起こさないように注意!笑)。

それにしても中国訳の「断背山」とは

意味深長な名前を付けた者だと思いますね。
何に対して背き切り落としたのか。通念、規約、信仰、社会的な栄誉や幸福などなど。
ひさびさにいろいろなことを考えさせられる映画です。

じゃあ長いやつを・・・

お返事ありがとうございます。ちょっと間が空いてしまってすいません。
まず、質問に答えるためにオレのポジションを
はっきり(しないんですが笑)させといた方がいいのかなと。
オレは、最近になってやっと
「自分は精神的・性的に同性(男)を求めている」
ということを自分で受け容れるようになりました。
と言ってもそのことを知ってるのはオレだけですが。
今までは、そうなんだろうなということは分かっていましたし、
今やネット社会、そういうところも頻繁に覗いてたりしました。それは今も笑。
ただ、分かってもらえると思うんですが、
「そうなんだろうなと思っていること」と「自分のそういう部分を自分で受け容れること」って
大きな違いがありますよね。

で、
「オレはただ映画を見に行くんだから」
と自分なのか誰に向かってなのか分からなくても言い聞かせることが必要

だったっていうのは、akaboshiさんが昨日深夜アップのBBM25の
『「男」が観に行きにくい映画』で書いている通りのことです。
オレは、映画を観に行った時はもちろん(敢えて「もちろん」と書かせてもらいます)
「男」として観に行ってるわけですよ。
だから、自分にも

「オレは一映画ファンなんだ」
「これが素晴らしい映画ならオレがゲイじゃなくたって観に来ていいだろ」

と言い聞かせてましたし、周りに対しては、

「じゃああの名作lolitaを観に行った人達はみんなロリコンか?
 それこそファインディング・ニモを観に行ったのはみんな魚じゃなくて人間やろ」

というように、もちろんそんなこと言いませんが笑、
そういうことを自己暗示的に繰り返しながらやっと観に行ったっていう状態でした。
akaboshiさんが書いているように劇場に足を運ぶと
やっぱりゲイだと思われるんじゃないかと、まぁ、恐れながら行きました。
でも、「この映画に来る男=ゲイ」という見られ方をされると思ってるって事は
自分もそういう見方をしてるって事なんじゃないかと思ったんです。
オレは自分の今のポジションに付いて上にああ書いて、それは嘘ではないですが、
やっぱり「波」があってですね、ジキルとハイドじゃないですが
「ゲイとストレートの中間」みたいな、
何が不安なのかも分からない不安が大きすぎて、そんな状態やと思うんです。
かといってバイかというと、それは違う気がするし・・・と。
だからオレは、ゲイとして・ストレートとしてよりもっと深い部分でこの映画を認めたいから、
ゲイだから、ストレートだからじゃなくて「オレ」として観たいから、
だから「この映画に来る男=ゲイ」という見方が自分の中にもあるんじゃないかと思った時、
それは止めようと思って。そしたら少し楽になりましたね。
なんていうか、ゲイとしての自分に嘘をつくということではなくて、
自分が「この映画に来る男=ゲイ」って思うって事は、
「ゲイじゃなくたってこの映画観たっていいやろ!」と本気で思って
本気で歯がゆい思いをした自分をすら見捨ててることになるんじゃないかと思って。

という、答えになってるんですかね。どうなんやろ。
オレが行ったのは大阪の劇場なんですが、一回目は1日の映画サービスデイの昼間に入ったので立ち見。
二回目は平日のレイトショーで余裕でしたけど。
でも女性客の多さ、というか女性客ばっかでびっくりしましたね。

劇場の外に、BBM関連のインタビューを集めた雑誌の切抜きがまとめて貼ってあって、
それを結構時間かけて読んでたんですよ。
そしたら原作者のアニー・プルーが
「この映画を観て一番当惑するのは多くのジャックやイニス達だと思う」
って書いてて。
正にその通りですね。深すぎて当惑どころじゃ済まないです。

お言葉に甘えて長いやつを書かせてもらいました笑。

●無名子さん。

そうですね。
すごく「大きなもの」を揺さぶってしまっている映画なんだと思います。
観客は何かしらの形で動揺せざるを得ない。
この映画が引き起こした地震によって、なにかが掻き回されている最中なのかもしれない。
僕はその過程を、ここに記録して行きたい。

●camelさん。

すげ~、こんな長くても平気なんだ(笑) 。ありがとうございます。

僕もcamelさんと同じように「そうなんだろうな」と思いつつも
自分を見つめない時期が長かったから気持ちがすごくわかります。
そういう時期に、なにげなく観に行った映画でものすごく興奮するものは
やはり「ゲイ」が作った映画だったり、「ゲイ」的なセンスを含んだ表現でした。
ピーター・グリーナウェイとか、パゾリーニの映画には
ゲイが作ったという予備知識がなく見たにも関わらず、ものすごく惹かれましたよ。

・・・そうやってますます気付いてしまうわけですが(笑)。

「この映画に来る男=ゲイ」という見方についてですが、
僕の今の意見としては、「ゲイ」は「男」や「女」という概念と同様に
恥じるものでもなんでもないんだから、
たとえ「ゲイなのかも」と思われても僕は構わないし、
他の男性客を「そうなのかも」と思ってしまう感情を否定はしないなぁ。
だから、いわゆる「ストレート自認男性」が「ゲイだと思われる」ことが恥ずかしいと
思ってしまうこと自体、変わってゆくべきだと思う。
もっと軽~く捉えられるようになって欲しい。ゲイに対して世の中の側が。
特別視するわけでもなく、かといって蔑視するわけでもなく
「あ、いてもいいんじゃないの。
俺は今は『女好き』だけど、あいつは今は『男好き』なんだろ」って感じで軽~く(笑)。
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