ブロークバック・マウンテンで見る世界020●いちばんの敵

関連記事僕は最近、
「同性愛」という体験を持ったことがない人がこの映画を観て
「異性愛も同性愛も一緒」と無邪気に語ることに驚いています。
なぜなら僕の生活感覚では、
両者は明らかに「違うもの」だからです。
もちろん「人を愛する気持ち」という点では同じです。
・・・というより、違うわけがないじゃないですか!
「一緒」と無邪気に語られる内容がもし、
そんな根本的で当たり前なことを指しているのだとしたらショックです。
そう語っている人たちは、
この映画を観る事でやっと我々が「人間だ」ということを
発見したとでもいうのでしょうか。
・・・ま、それは「ご愛嬌」として置いといて(笑)
僕が言う「異性愛と同性愛の違い」とは、
同性愛者が愛情を形にし、表現し、交し合う際に感じなければならない
大きな葛藤のこと。
特に同性を「はじめて」愛した自分に気がついた時、
そんな自分を受け入れるまでの「自分との戦い」です。
それは罪悪感でもあり、自己嫌悪でもあります。
生まれ落ちてからその時までに蓄積された
「社会通念」という常識との戦い。
自分の中に強烈に巣食う「ホモフォビア」との戦い。
現代に生きる同性愛者の多くは、この戦いを経る必要があるのです。
いちばんの敵は、自分の中にいるのですから。
この映画はイニスというキャラクターを通して、
彼がいかに自分と戦い、
彼自身を受け入れるようになったのかが
ちゃんと描かれています。
そして、結局は戦いを放棄してしまったことも。
「同じ」であることを意識することも大切ですが、
「違い」を意識することも大切なこと。
両方揃ってはじめて、
異質なもの同士の交流は深まるのではないでしょうか。
●アン・リー「ブロークバック・マウンテン」●MOVIEレビュー
●「ブロークバック・マウンテンで見る世界」最新記事はこちら。
●DVD「ブロークバック・マウンテン」
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コメント
うーんなんかもしかしてけっこう厳しいことおっしゃってますか?
「人を愛する気持ちは性別を問わず同じもの」、当り前のことですね。確かに。改めていうまでもないことですね。
けどほんとうにそんなこと誰でも“わかって”いるか?というと、そうとはいいきれないですね?
理屈としては“知って”ても、それと感覚として“わかる”ことは同じではない。
女が理屈として男心を“知る”ことは出来ても、“わかる”ところまではいかないのと同じですね。逆もまた然り。
世間の大部分の異性愛者は、ふだん同性愛者の気持ちになんて無関心に暮らしています。人間誰だってそうです。みんな自分のことだけ考えて生きてます。
この映画のすごいところは、「同性愛者だって人を愛する気持ちは異性愛者と同じ」ということを感覚で“わかる”ように描いていることと、「同性愛者ゆえの苦悩が生む悲劇」をまったくの同列で描いているところだと私は思ってます。
同じはずなのに同じじゃない、という矛盾。
ただやっぱり人間てわかりやすいほう、やさしいほう、カンタンなほうに目が向きますから、感想として「同じなんだ」という言葉になっちゃうのはしかたないと思いますよ。
「同じじゃない」という部分はやっぱりぶっちゃけ“他人事”ですからね。
たとえば私個人は同性に性的欲求を感じる感覚をしらないわけじゃないけど、だからといって「私は同性愛者の気持ちがわかります」なんておこがましいことは絶対いえませんし、誰もそんなこといってほしくないでしょう。
もしかして話ズレてますかね?とりあえずここで一発送信します。
ある意味、”多数派の力のあるものに少数派が同化して見られ
同等のものにされる”というのには私は反対っすね。
アメリカは人種的にも少数派みんなに白人に合わせろ、って
言って自分たちの文化の価値を変えて、無くしていって
多数派に合わせたやつらを成功者、と呼ぶ傾向もありますが
セクシュアリティーにしても同化させることは同じ危険性が
あると思ってます。
在日の方達が”日本人”と交流する会のテーマも
違いを認め合い、、、ってやってる。
まあ性と人種、という違いはあっても同じ議論になることは多い。
私もこれに賛成。
http://www.tvac.or.jp/di/7010.html
●ぐりさん。
現に、この映画は同性愛者ではない原作者が書き、
同性愛者ではない監督が監督し、同性愛者ではない俳優二人が同性愛者を演じました。
そして、僕のような同性愛者が納得する同性愛者像を描き出せたんです。
すいません。
正直腹が立つので、もっと考えてから文章書いてもらえますか?
特にニ段落目以降を読むと、人としてものすごく腹が立ちます。
同性愛者、異性愛者とかいう問題ではなく。
そんなことあなたに説明されなくても我々は日常で突き刺さるように感じてますよ。
だから僕はこの記事を書いたんじゃないですか。
よくもまあ、そんな無神経な言葉を駄目押しのようにこのブログに書けますね。
●flowfreeさん。
人が、自分と異質である他者に対して想像力を持たなくなって単純化したら
破滅に向かいますね。
それが案外難しいんですよ
私が物心付いて最初に感じたのは、「なんで女が女を愛せるんだ?」ということでしたから。その後「あー私が男を愛するのと一緒なんだな」とアタマではわかったけど、そういう人を実際に見たことなかったら、想像さえできませんよ。
外国の食べ物とか、文化とかと一緒で、受け入れるまでに時間がかかる、もしくは受け入れられないまま終わってしまうことだってあるのでは?
友人は その一番の敵に滅ぼされてしまったのかもしれません。
彼に出会わなければ その葛藤は わからなかったと思う。
その「一番の敵」を作り出している側の人間であることも気づきもしなかったでしょう。
知らなければ気づきもしない、、、その無邪気さは罪なことなのでは、と今は思うようになりました。
このブログが、、akaboshiさんが好きだから、もっと知りたい、理解したい、という人がたくさんここを訪れて、、、
いつかその敵が小さくなっていってくれるといいな、と思っています。
映画よりも、、、生の人間の声のほうが伝わるとわたしは思うから。
他人の心の叫びに耳を傾けるとき、自分自身が問われて、、、なにかが変わっていく気がします。
ごめんなさい。
コメントごと消してもらったほうがいいかもしれません。
●チュチュ姫さん。
逆に言うと僕も、女性のことを性的に好きになる男性の気持ちが
わからないんですから(笑)。
だから、「わからない人の気持ち」もよくわかる。
「受け入れてもらおう」とか「わかってもらおう」とは全く思わないですけど、
特別視しないでもらいたいというのが一番の欲求かな。
●k猫さん。
そのことを伝えてくださったことに本当に感謝しています。ありがとうございます。
「一番の敵」は、僕らの臆病も一因ではあるんです。
でも現実に「壁」の存在は日常で嫌というほど実感してますし。
強気で生きられる立場や性格の人ばかりではありませんからね、現実問題。
なにか大きなきっかけがほしいところなんですが、
アメリカと違って日本社会ではまだ、「きっかけ」となる出来事が起こっていないんです。
だから結局、存在自体が隠れているから悲劇も「可視化」されないままで来ているし、
一般社会に表面化しているのは特殊な「タレントたち」の「パフォーマンス」ばかりなので
「生活者」として想像されていないんです。
実際には普段、一緒に働いていたり、一緒に学びあったりしているのに。
ばれることによる「関係の変化」に、怯えている人が多数派です。
「ブロークバック・マウンテン」の主人公二人のような生き方をしている人も
現実に、この日本でもまだまだたくさんいます。
話に聞くし、出会ったこともあります。
そして、k猫さんが教えてくれた彼のような選択をする人も、悲しいことに
繰り返し繰り返し生まれ続けています。
僕はたまたま乗り越えることが出来ましたが、危ういときもありました。
大都会に住んでいるゲイたちにとってはコミュニティーに接触しやすいから、
最近の状況の変化を享受しているのですが昼と夜の顔を使い分けている人がまだ大半です。
田舎にいるほど、まだまだ大変だろうと思います。家族の縛りも厳しいだろうし。
だから、この映画は「まだまだ現在進行形の自分たちのこと」として捉えるべきだと言う風に
最近では僕の心境が変わってきました。
少なくとも僕らは、実際問題として捉えるべき立場の人間なのだから。当事者として。
トラックバックいたしました。
私もお礼にトラックバックいたしました。(アダかもしれませんが・・・)
他のコメント欄のみなさんは「BBM」には素敵な文章書いておられるので、肩身が狭い思いです。マイノリティの悲哀もこんなんでしょうか。問題の重さが違い過ぎますね。
映画のレビューはしつこく続きを書いてますので、気が向かれたらまた読みにいらしてください。
●凪(なぎ)さん。
とりあえずブロークバック・マウンテン(1)の方に、以下のコメントを書かせていただきました。
なんのことかわからない皆さんは、ぜひ凪さんのブログへ!
http://myotherside.blog56.fc2.com/blog-entry-20.html
「同性不倫」
↑なるほどね~。そうとも言える。
女性に感情移入して考えると、そう語ってしまってもいいと思います。
実際、結果的にはすごく失礼なことをしているわけだし。
ただ、自分の本性に気付いた人間が、その部分に正直に向き合えないままで
生き続けることは、やはり残酷なことだと思います。
本当は男が好きなのに女性と結婚することを「偽装結婚」と表現するけど
それが「偽り」かどうかについては、僕は懐疑的です。
人って変わり行くものだし、その女性と出会ったときには
本当に心からその女性とやって行けると思ったのかもしれない。
結婚してみれば自分は「まっとうな男」としてやって行けると思ったのかもしれない。
しかし、やっぱりダメだったのだと思う。
特にジャックは「女性と結婚」という行動をしてみて、ますます
本当の自分を思い知らされたんだと思う。
だからイニスに会いに行った。
残酷なことにそれは、イニスの家庭を壊すことでもあった。
そういう「その後にもたらされる結果」については全く予想もせず
情熱が先走ってしまったんだと思う。
この映画は、そういう「本当の自分で生きることの残酷さ」についても
考えさせてくれますね。
シンプルすぎますか?
あ、でも違いありましたね「葛藤」おっしゃる通りです。
ただ、これは本筋から外れてしまうかもしれませんがかつて私が好きになった男性はある病気を持っていました。それは差別されることのある病でした・・・。
でも彼はそれを隠していなくて私は彼を好きになりました。二人は良かったんです。でも私の母が交際を許しませんでした。その圧力に私達は勝てませんでした・・・。
異性愛でもこういうケースあるんです。同性愛者の葛藤とは違うかもしれません。でも社会と戦う(戦わざるを得ない)点じゃ同じではないでしょうか?BBM、そしてこのブログを読んでいたらつい書きたくなりました。
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