マジョリティの自覚
受けている抑圧が酷いと、人は、傷付けられている事実を「無きもの」として捉えなければ、やってられないところまで追い込まれる。だから社会的な抑圧構造の被害側の「声」はそもそも出て行きにくい。そのことを知っている人たちは、それが「出ている事実」の重みを感じるが、感じない人は感じない。
昨年から「マイノリティ・ドキュメンタリー映画祭」などを開催しながら自分が確認したかったことは、そういうことなのかもしれないと今日、自覚した。抑圧構造を必死にはねのけ、その声が表面に「出る」ことの大変さや重さを「理解できる」ことこそ「マイノリティ視点」から共有できる感性だ。
世の中には、それが「わからない人」が確実に居る。自分だって、自分の関心分野に入らず理解が浅い問題については、どういった抑圧構造をはねのけて、その声が表に出てきているのかの背景を想像できなかったりしているだろう。「マジョリティ視点」と「マイノリティ視点」とは、そういう違いなのだ。
問題は、「自分はこの分野については『マジョリティ視点』であり背景が読み取れていない」という事を、マジョリティ当事者が自覚することの困難にある。マイノリティは、抑圧構造が自ずと「自分はマイノリティだ」と気付かせるが、抑圧を受けていない者は「マジョリティの自覚」が出来にくい。
だから踏んでいることに気づけない。自分だってまだまだたくさんのものを踏んでいるだろうし、なにも踏まずに済むことなんて、生きている限りは有り得ない理想論かもしれない。でも、せめて「自分は今○○を踏んでいる」という自覚くらいは持ち、それが避け得ないことなのだとしたら胸は痛めたい。→FC2 同性愛 Blog Ranking
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