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フツーに生きてるGAYの日常

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2023-05
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石原都知事の同性愛者差別発言を受けて27●歌川泰司さんによる「ゲイの近代史」(文字起こし付き) #ishihara_kougi



 1月14日(金)開催「石原都知事の同性愛者差別発言、なにが問題か?」の映像公開第9弾。

 第二部の冒頭では、歌川泰司さんが「ゲイの近代史」を画像スライド付きで語りました。性的マイノリティのことを全く知らない方でもわかるようにと言葉を噛み砕いて語られていたのが印象的でした。 

 なおこの「ゲイの近代史」は、歌川さんがブログ「♂♂ゲイです、ほぼ夫婦です」を通じて自主出版・販売している『ツレちゃんに逢いたい』にも同様の内容のものが掲載されています。映像の中のトークでも語っていますが、『ツレちゃんに逢いたい』は本当にオススメです。同書を読みながら僕は、いつの間にか嗚咽していました。そして、こうした本が今、増刷を繰り返すほどに自主出版で売れているという事実に希望を感じます。

★文字起こし作業協力 Very Thanks!:石原都知事の同性愛者差別発言に抗議する有志の会メンバー

ゲイの近代史1 歌川泰司さん


ゲイの近代史2 歌川泰司さん


YOUTUBE「石原都知事の同性愛者差別発言、なにが問題か?」PLAYLIST 

島田暁(司会)

 はい。それでは、ただ今より第二部、男のペア女のペアという石原都知事の発言にかけまして、そういうタイトルつけてしまったんですけれども、「同居生活喜怒哀楽」と申しまして、ゲイカップル、レズビアンカップルとしての同居生活で感じる喜怒哀楽を、それぞれの人生経験や仕事をからめながら語り合う、クロストークを行っていただきます。

 それではまず最初に、ゲストの歌川泰司さんのほうから、ちょっと映写しながらお話ししたいということがありますので、ぜひお願いしたいと思います。よろしくお願いします。

歌川泰司

 みなさんこんばんは。歌川泰司と申します。今日は寒い中ようこそお越しくださいました。難しい話や真剣な話がいっぱい続いた中でですね、わたくしアホキャラ要員として呼ばれてまいりましたので、これからどうぞリラックスしてお聞きになってください。

 男同士、女同士、の同居カップルのクロストークというテーマで、同居カップルを実際にお呼びしてクロストークを行いたいと思っておりますが、その前にちょっと。

 わたくし実はマンガを描いているんですが、この前発売致しましたマンガで、ゲイのパートナーシップみたいなことが、昭和60年代からどんなふうに全然育たなくて、あるきっかけでどんなふうに育つようになって、今どんな位置にいるのかな?みたいなことを、さらっとプレゼンテーションさせていただいてからですね、クロストークのほうに移ってまいりたいと思います。大丈夫です、すぐ終わります。

1●ミュージカル ゲイの近代史

 ここに『ミュージカル ゲイの近代史』と書いておりますが、なぜミュージカルかというと、わたくしがマンガ誌上でミュージカルをやりたかったからなんですね。バカでしょ?



2●60年代 夢の高度成長期

 1960年代。私が生まれたのは1960年代ですが、それよりも年下の方もいらっしゃれば年上の方もいらっしゃると思うんですけれども、約40年から50年前ですね、日本は高度成長期の中にあって、「おぅモウレツー!」とかですね、スースースーダララッタ♪とか、そんな夢いっぱいの、「これからどんどん成長していくんだぞ」みたいな、「隣のお宅がカラーテレビを買ったからうちも買いましょう!」みたいな、「カラーテレビがあったらうちは幸せよー!みたいな」、そんな夢いっぱいの時代でしたが、ゲイの人たちは・・・ゲイという概念が当時あったかどうかはちょっとわからないんですけれども、ゲイの人たちは、「なにも自分たちにとってプラスの情報がない」という、そういった状況でした。

 親に「男が好き」なんてことがバレたら、母は泣く、父は吼える、本人はちょっと「もう死のうかな」とか考えちゃう、そんなような状況で、もちろん当時はネットもありません。ゲイ雑誌すらありません。聞こえてくるのはネガティブな情報ばっかりですよね。そんな中で自分を受け入れられるはずもなく、つらい日々を過ごしていたということですね。



3●人目を忍んで出会う

 だいたい当時は、わりと似たような苦労というか、経済的にも日本国民総体がですね、あまり格差がなくて、似たような苦労をしていましたが、ゲイピープルも似たような苦労をしていました。親に「結婚しないのか?」と迫られる、「家督を継ぐおまえが何やってんだ!」みたいな。そんなようなことでして、しょぼしょぼと、「どうしても自分は女性とは…」という人は、なんとかのらりくらりと逃げなきゃいけなかった。ちょっとは大丈夫なんじゃないかなみたいな人は、無理くり結婚してですね、無理くり子ども作って、そういった人たちがたくさんいたわけですね。

 メディア的なもので何も繋がれない人たちが、何をしたかというと、「公園のトイレ」というメディアを発明します。これ申し合わせたようにですね、世界中にあるんですね。日本だけじゃないんです。私いろんな国に行くと、ゲイが出没しそうなところに行くんですけれども、必ずトイレには、「あ、昔ココで事が起こったな」という、そんなような痕跡だのなんだのを発見しますので、コレ世界中にあります。どれだけ世界中でゲイの人たちが、大手を振って恋ができなかったか、相手が見つからなかったか、それを如実に物語っているんじゃないかなと思っております。



4●出会いの場は夜中のトイレ

 公園のトイレというものを発見した人はですね、「ここに来たら仲間に会えるしエッチもできるんだ!」と、「夢に見たエッチ」・・・、そんなことで公園に夜な夜な集まってですね、それしか道がなかったんですね。


 当時はゲイバーなんていうのも恐ろしくていけないようなところだったし、身近な近所の公園だったり「そういった人たちが来るよ」という噂も耳にした公園だったり、そういったものに集まって、とりあえずセックスの問題だけは解消していたというところですね。



5●初のメジャー社交場は日比谷公園のトイレ

 これが一番有名な、日本の「そういった」トイレです。どこでしょう?日比谷公園のトイレですね。現物を見せちゃってすみません。このトイレですね、今もうありません。一昨年前に撤去されました。それまではその当時ここで出会いを重ねてきた人たちがまだ現役で頑張っていました。それが今もうありません。別にやりなさいといっているわけじゃないんですけれども、とりあえず今はありません。



 ここに「用便以外の利用・立ち入りを禁ずる」とわざわざ書いてあります。わざわざ書かなきゃいけないくらいに、それ以外の理由で使われていたんでしょうね。



 落書きなんかも残っております。ホモ(男)大好きな26才までの・・・ほげほげ・・・167cm、85k・・・。ちょっとガチムチですね。当時はですね、電話番号なんかぺろーなんて教えちゃうと、こんなところに書かれちゃったりするみたいな、そういった関係性みたいなことっていうのがとてもじゃないけど作れなかった。そういった状況にみんながいたということですね。それは強く、忘れちゃいけないかなというふうに思っておりますけれども。



6●関係性を育てるのは難しかった

 「また会いたい。連絡先を教えてくれない?」っていわれても、「後で恐喝する気か?」みたいなことで、関係性みたいなものはとてもじゃないけど作れない。こういった場面が当時、僕は当時子どもだったんであれなんですけれども、当時ご活躍になっていた人の話では、そういった感じですね。



7●それでもつながりたい

 「それでもつながりたい!」「それでもなんとか仲間とつながりたい!」「男の子が好きだーという気持ちを誰かと共有したい!」そんな気持ちから作った、本当にアングラなんですけれども、こういった同人誌を作って発行している人もいました。このタイトルの明朝体なんかもたぶん手書きだと思うし、この絵や文字なんかもテンプレートかなんか使って手書きでやって、ガリ版で刷ったんだと思うんですけれども、この絵なんかもね、ちょっと細かいところはみ出したりなんかしてますが、これを見たときやっぱり私、「いとおしい」と思いましたね。自分が普段ね、twitterでも何でも今ゲイバナしようと思えばできちゃうんだけれども、当時はできなかった。それをなんとかしてやりたいという気持ちがここからすべてに表れている。絵なんかうまくないんだけど、技術なんかないんだけど、とにかくやりたいんだという気持ちがここに表れているんじゃないかと思っています。



8●アメリカの状況はもっと難しかった

 アメリカはもっと大変でした。アメリカはゲイ同士で集まったり、ゲイバーが政治家の点数稼ぎとかで摘発されちゃうと、みんな逮捕されちゃうんですよね。逮捕されそうになって、「お願いです。見逃してください」ってお巡りさんに言って、「ケツを蹴っ飛ばさせたら見逃してやるよ」とかいって、「はい。蹴っ飛ばしてください」みたいな。プライドもへったくれもありませんね。圧政といってもいいんじゃないかと思うんですけれども、アメリカはそういう目にあっていました。

 1969年。有名なストーンウォール事件。ある時ですね、摘発に対して、最初に反発したのはレズビアン。女性は勇敢ですね。ふざけんな!といい始めた、と。蹴っ飛ばし始めた、と。そこから、捨て身のレズビアンの一人から、一派が万波となり、ちょっと暴動になったんですけれども、これ本物の当時の写真です。そして、世界中のニュースになったわけですね。初めて自分たちの権利を主張しようとしてLGBTが立ち上がった、そういった瞬間でした。



9●70年代 新宿2丁目

 そして70年代に入ります。70年代に入りますと新宿2丁目というものがゲイタウンとしてだんだん定着していきますね。この人たちの衣装なんですけれど、これミュージカルだから着てるんですけど、当時本当にこういう格好した人たちがけっこういたんです。今の2丁目歩いてる人とはまったくちょっと違う感じで、すごいギラギラしたお姉さんがいっぱいいましたですね。そして行儀作法にとてもうるさかった。そんな印象の新宿2丁目でした。



10●70年代の男アイコン

 当時アイコンとなった男の子たち。これは三浦友和くんですけれども、頭七三ですね。そしてママチャリに乗ってますね。それでも、ゲイからはとっても人気があったんです。そして、ノンケ女子から人気があったのはジュリー!みたいな。そういう人たちが活躍してた時代ですね。



11●ゲイ自身のゲイフォビアを垣間見る場所

 新宿2丁目ができた。バンザーイ。「これからもう僕ら大手を振って新宿2丁目で青春を謳歌してやる!」、そんなふうになったか?なりませんでした。とにかく、自分を受け入れるということがまだ当時はできていなかった。ゲイ自身がね。ということは、一緒に2丁目に来ているゲイのこともやっぱり受け入れられない。「なんだとこのオカマ!」「アンタこそオカマじゃないの!」みたいな、そんなゲイフォビアにすごく色濃く影響されたやりとりが、繰り広げられることが多かったということですね。

 それでも、無いよりはマシなんですよ。無いよりはマシなんですけれども、まだまだゲイたちが「関係性」みたいなものを作り上げていこうじゃないか、そういったところに辿り着くまで、個人個人は違いますよ、全体から見たらそういった印象をよく受けがちだった。「2丁目に来てるのがバレたら、やっぱり、自殺ものよ」みたいな、そんなこんなで、過ごしてきたわけですね。



12●ハッテン旅館

 これ真偽のほどが定かじゃないんですけれども、当時のハッテン旅館の第1号の建物がこれだという説があるんですが、要は、公園でしてたこととそう変わらずですね、ゲイがゲイに対して、期待できるものっていうのは、セックス以外その当時は期待ができなかった、関係性を作っていくっていう素地がなかった。世間にもなかったし、自分の中にもなかった。世間と自分が関連しあって、やっぱり持てないという、そういった状況だったわけなんですね。



13●つきまとう「暗い現実」イメージ

 『新宿2丁目曲がり角』という歌が出てました。牧陽子さん。カップリングは陽子の辛み節。歌詞がスゴイんです。

ツキを落とした女には 野良犬ばっかりつきまとう
新宿2丁目暗い路地 私はいつも曲がり角

 何があったの!?。この陽子という名前はなぜついてるの!?みたいな。そんなイメージで、やっぱり2丁目は、暗い場末だなっていうイメージがあったわけなんですよね。



14●薔薇族が創刊

 そしてストーンウォール事件の3年後、『薔薇族』が創刊されます。これ創刊号です。初めてゲイのメディアっていうのがこの世の中に登場しました。これは全国誌としてゲイの人たちに買われていきまして、ゲイメディアとして、ゲイがつながりあうっていうひとつのきっかけとなったものですね。



 15●アメリカではゲイリブが成長

 そして70年代はハーヴィ・ミルク氏の暗殺事件がありました。さきほど、石川大我さんがハーヴィ・ミルクのことをご紹介していらっしゃいましたけれども、ハーヴィ・ミルクがゲイのリベレーションのために闘って、市議となって、そして暗殺されたという事件がありましたね。ここから、アメリカのゲイリベレーション運動が急速に進んでいきます。世界各地でパレードが行われるようになった。そしてデモ行進も行われるようになった。権利を主張し始めたわけですね。そんなこんなで、アメリカは急激に姿を変えて行った。



16●80年代 ゲイが注目を集める

 そして80年代。私にとって80年代といえば聖子ちゃんですが、この当時メディアで、日本でもゲイが大変に注目を浴び始めた年代でしたね。映画『モーリス』なんかもやりました。見たことがある方もいらっしゃるかもしれません。

 あと『同窓会』ですね。日本のテレビドラマでもゲイが登場して、ゲイがノンケのことをおかす、という。どう考えてもムリだろそれ!?みたいな、そんなドラマが作られたりもしました。ゲイっていうものが、世間の中で認識され始めたんだなという印象をゲイたちも抱いたんだと思います。

 ただですね、残念なことに、両方とも展開がすごく「やおい」っぽいんですね。なのでゲイ本人が自分の生活とか、自分の立ち位置みたいなものに照らし合わせて、希望を持っていく、関係性を作っていこうじゃないかっていう、そういった希望を持っていくっていうところには至らなかった。80年代、特に前半に関しては、そういう感じじゃないかなと思います。

 この当時からですね、伝言ダイヤルというものが登場しましてですね、ゲイたちは2丁目に行かなくても、電話線で繋がれるというところになりまして。伝言ダイアルを通して、出会いが盛んに行われたんですけれども、あと他に、薔薇族なんかで通信欄というものがありまして。今なんかね、ネットで、メールでもtwitterでも、Grinderでも、すぐにぱっとその場で、「どこにいるのー?」なんていって繋がれますけれども、その当時は、薔薇族にまず募集投稿をしてですね、そして掲載されるまで待って、そこにお手紙が来るまで待って、回送されてくるまで待って、そして手紙のやり取りをしてから会っていた、という感じなんですけれども。

 その投稿には、いろんな自分の希望、年上がいいとか、年下がいいとか、いろいろ書いてあったんですけれども、そこに書いてあるのが、けっこう「2丁目×」「2丁目の方はご遠慮ください」「おネエっぽい方は勘弁」とか。「何がおネエは勘弁よ。アンタもおネエのくせにー」とかみんな読んで言ってたんですけれども、その中にもちょっとゲイフォビアみたいなものが色濃く反映されていたんじゃないかなと思っています。



20●80年代 なんだかんだいって主役はハッテンバ

 でもなんだかんだ言って、主流はハッテンバだったんですね。ゲイたちがどこで出会ってるかというと。やっぱりこの当時になってもまだ、セックスというもの以外にはあまり期待が持てなかった。期待を持つだけの情報もなかったし、そういった時期がきていなかったということですかね。



21●90年代 パートナーシップへの希望を持ち始める

 そして、90年代に入ります。90年代になると、アメリカで急速に進んだゲイスタディがですね、日本にも輸入されてきました。そこで、ここに伏見憲明さん、ここに大塚隆史さん、ちょっとここに嫌がらせのようにバカみたいな写真を載せてみましたけれども。そして、伊藤悟さんですね。こういった方々が、初めて僕たちに対して、「キミたちそのままでいいんですよ。OKなんですよ。男同士でもいいじゃないですか。付き合っていきましょうよ」そういうメッセージを初めて発信してくれ始めた。

 僕なんかもそうでしたけれども、それまで「ゲイフォビアのフォビ子」みたいな感じでしたけれども、初めて「あ!なんかこういうのいいんだって言ってくれる人がいる」っていうことで、そこから自分自身が急速に変わっていけたんじゃないかなと思っています。そして90年代から今に至るまで、パートナーシップっていうものをやってみようじゃないかという、ゲイや、レズビアンもそうですけれども、たくさん出て来てですね、初めてここで現実的な問題にぶち当たり始めたんじゃないかなと思っています。




22●00年代 現実的な問題と向き合う

 これはクィア・ジャパン・リターンズ(QJr)ですけれども。雑誌もようやくスタートラインについたんじゃないかなというような、老後の問題だったり、生活の問題だったり、また恋の問題だったり、それから、私もいろいろゲイカップルの友達はいっぱいいますけれども、どこまでが浮気のラインかお互い全然違うとかね、今まで話し合ってもこなかったようなところでぶつかって別れたり、長続きさせるのはそれなりに大変ということをお互いかみしめながらですね、なんとか二人というのを続けていこうじゃないか、そういったようなところに、今、フェーズにいるんじゃないかなと思っています。なので、どんどんどんどん、「自分の場合はこうで」というものを、発信できる人が発信していって、いろんな情報を共有できたらいいんじゃないかなと思って、わたくしも、私は同居が11年目ですが、私も発信する1人となっているという次第です。

 ということで、以上でわたくしのプレゼンテーションが終わりました。ありがとうございました。

島田暁

 はい。歌川さんありがとうございました。歌川泰司さんはですね、マンガ作家でして、元「All About 同性愛」のガイドをなさっていまして、現在はブログ「♂♂ゲイです、ほぼ夫婦です」というブログからマンガ化された『じりラブ』というものが集英社から出されていて、『ツレちゃんに逢いたい』というのが最新刊として、ブログのほうで販売されているということです。

歌川泰司

 島田さん、『ツレちゃんに逢いたい』読んで泣いたんだって?

島田暁

 ホントに、ちょっとビックリしました。いきなり…。

歌川泰司

 なんだコイツ(笑)

島田暁

 そうですね、同性カップルで暮らしている歌川さんの生活上ぶつかったいろいろな問題が描かれていて、読んでいて思わず嗚咽してしまいました。ぜひみなさんもお読みください。

歌川泰司

 帰りに受付で売っていますので、よろしくお願いします。

島田暁

 はい、それでは第二部のトークゲストをお迎えします。じゃあどうぞ、出てきてください。FC2 同性愛 Blog Ranking



座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル奨励賞ありがとうございます。

『しみじみと歩いてる』
 
★3月に東京で自主上映会を開催します。

3月21日(祝)13:20/15:20(2回上映入替制/1200円)
会場:なかのZERO視聴覚ホール
監督:島田暁/2010年制作 77分■制作:akaboshi企画

 2006年10月から、大阪の御堂筋を性的マイノリティとその友人たちが歩く『関西レインボーパレード』に通いながら出会ったレズビアン、ゲイ、MtFトランスジェンダー、FtMトランスジェンダーそれぞれの日常生活、それぞれの違い、家族へのカミングアウト、仕事場や人間関係における葛藤、苦しみ、そして喜びを描いたドキュメンタリー。ゲイである監督の視点からまとめました。
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