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フツーに生きてるGAYの日常

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2023-10
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三島由紀夫とつきあってみる020●三島の「おおっぴらな同性愛」と、パリでの木下惠介との接点

 俄然、僕の中で最も興味深い歴史上の人物「2大巨頭」になりつつある三島由紀夫と木下恵介。この2人、接点が無いように思っていたのですが実はある時期、海外で親交があったことが資料からわかりました。

 図書館で見つけたパンフレット『愛のかたち~木下恵介の世界』。

 これは平成八年度(第51回)芸術祭主催公演・日本映画名作鑑賞会として新橋の虎ノ門ホールで行われた、木下恵介監督の回顧上映会で配られたものであり、実は当時大学生だった僕はこれに通いまして、上映された20本を全て見て木下映画に初めて触れたという、個人的にも思い出深い上映会なのですが。

 このパンフレットの見開きに「木下監督へのメッセージ」として作家の山田太一さんの文章が載っており、以下のような記述がありました。(抜粋)

 『一九五二年の初夏、パリで木下さんは、同じアパートにいた三島由紀夫氏と深夜盛り場から歩いて帰ったそうである。
 その時木下さんは「三島さんは、どうして日本の政治について我関せずなんですか。小説家だって日本の運命の中で生きているんでしょう」と聞いている。
 「そんな事はどうだっていいんだ。」と当時の三島氏はこたえたそうである。「国がどうなろうと、小説家が書くのは別の事だからね」 
 それはそうだろう。しかし、自分はそのようにはなれない、と木下さんは思ったそうである。』

 1952年といえば三島由紀夫氏は、1948年の『仮面の告白』、1951年の『禁色』と立て続けに同性愛小説を書いてセンセーショナルな新進作家として有名になった直後。文壇デビューしたての時期で、「私小説的な作品」で注目されていた時期です。だから上記のような会話となったのでしょう。

 この時期の木下恵介氏は1951年に日本初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』を制作するなど、すでに松竹のトップ・スター映画監督であり、パリ遊学から帰った直後には、『日本の悲劇』『女の園』『二十四の瞳』などを制作。キャリアの中で最も充実し、社会的・興行的評価も高く、日本映画史でも屈指の名作と言われる作品群を量産することになるわけですから、彼の人生を辿る上で非常に重要な時期にあたります。

 そんな華々しさの中にあった両者が1952年の同じ時期に、パリで「海外遊学」の時間を共にして交流し、しかも同じアパートに住んでいたという事実はとても興味深いです。

 三島氏はこの頃について、なにか書き残してはいないだろうかと本棚から『三島由紀夫「日録」』(安藤武著)を引っ張り出してめくってみたところ、1952年の項には頻繁に木下恵介氏との交流が書かれています。

 1952年、28歳だった三島氏はパリ滞在だけではなく5ヶ月間という長期の海外旅行を敢行しています。

 ロス、ニューヨーク、サン・パウロ、リオデジャネイロ、ジュネーブ、ロンドン、アテネ、ローマなどなど。そのうち3月3日から4月18日までの間がパリ滞在だったわけですが、なんとこの時、パリに着くなり早々、旅行小切手の盗難に遭ってしまったそうです。持ち金が足りず、予定していたグランドホテルでの宿泊が叶わなくなり困っていたところ、宿を手配したのが木下恵介氏。木下氏が宿として使用していた日本人経営のパンシオン「ぼたんや」に、三島氏は泊まることになります。

 それ以降、木下氏との交流に関する記述としては以下の通り。

■4月16日頃。時々、木下恵介、黛敏郎、佐野繁次郎画伯が遊びに来た。
■4月17日夜、木下恵介、黛敏郎とゲイテ・リリック劇場へ。フランツ・レハールのオペレッタ「微笑の国」を観劇。
■4月22日 「パリ二人組対談/木下恵介」(東京新聞)掲載=パリにて。四月上旬対談。

 これらの記述から、パリではかなり頻繁に交流していたのではないかということが伺えます。また、三島氏の窮地を救ったということは、それ以前に日本国内でも両者の交流があったのではないかとの推測もできるエピソードではないでしょうか。

 また、『三島由紀夫「日録」』には、パリに滞在する直前に寄っていたリオ・デジャネイロでの三島氏の行動が記されているのですが、朝日新聞通信員の茂木氏が後に語ったという以下のエピソード、なかなか凄いと感じました。

 『しかし、茂木氏の最大の驚きは、三島の「おおっぴらな同性愛」であった。茂木によれば、三島は決まったように昼間のホテルに、「公園でうろついているような種類」の十七歳前後の少年を連れて来ていたのである。三島はそれをあけひろげにしていたので、茂木は三島にどうやってそんな少年たちに近づくのかとたずねてみた。「あの世界」には言葉なしの了解がある。というのが三島の説明だった。 三島は自分に興味があるのは求愛の過程と女性心理であり、「最終的な行為」にはまったく意味がないといった。
 その言葉の真実を、三島は或る日の午後、茂木氏を電話で呼び出し、ホテルに来て自分を或る日本女性から救助してくれと懇願したことで説明した。その女性というのはブラジル在住邦人の細君だったが、三島のいうことでは、彼を誘惑しようとしていたのである』(『三島由紀夫―ある評伝』

 ちなみに、この海外遊学中に三島が週刊誌に連載するために執筆していた小説は、同性愛を描いて1951年に発表された『禁色』の続編とされる小説『秘薬』なんだそうです。

 ほかにも『三島由紀夫「日録」』を丹念に見てみると、レズビアン小説の翻案を考えていたこともあるなど、この頃の三島由紀夫の素敵なエピソードがいっぱい載ってました。木下恵介を調べることで、こうして気付けて良かった(爆)

 それにしても、1996年に出版されたこうした「かなりちゃんと作られている本」に、三島氏のゲイ的行動の奔放さが客観的に、こ~んなにたくさん載ってるのにも関わらず、なぜいまだに「三島由紀夫同性愛者否定説」が語られたりしてるのか。・・・意味がわかんなぁ~い(←ってのは嘘で、そのカラクリはわかるけど。苦笑)

 三島由紀夫をめぐる「同性愛言説」の変容を、きちんとまとめて歴史化してみると面白そう。そう思って資料を集めているところです。FC2 同性愛 Blog Ranking



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