akaboshiコラム032●イトー・ターリ、橋口亮輔、リム・デズリ・・・3者の背中を鏡にして

リム・デズリ監督の『HOME』は、マレーシア国内でのビルマ難民問題を告発する内容なのですが、決して攻撃性を帯びずにむしろ静かな語り口。成熟した丁寧な映像表現で現実の不条理を描き出した深みのある作品でした。
単なるメッセージを伝えるだけの社会派プロパガンダ映画に陥らず、映像ならではの表現とは何かを監督が模索しながら撮っていた様子が伝わってきました。この「こだわり」が有るのと無いのとでは「深み」が全然違ってきます。デズリ監督、さすがだなぁと思いました。
トークの様子は、僕の方からお願いして撮影させてもらい、YouTubeに挙げさせてもらうことになりました。デズリさんからは「パフ★シネマの上映とは関係のないテーマだよ」と言われたのですが、僕としては「だからこそ」僕のブログで紹介させてもらいたいと思うんです。
かつて「レズビアンであること」に執拗にこだわって映画を創っていた人が、今では更に深く、自己の出自にも関わる「移民問題」に積極的に取り組んでいる。その背中から学ぶべきことって、たくさんあるような気がするんです。

パフォーマンス・アーティストのイトー・ターリさんも、かつて作品の中でカミングアウトをして以来、10年近く「レズビアンであること」にこだわって来たのですが、現在では自由になり、従軍慰安婦問題や沖縄の米軍基地周辺での女性に対する性暴力の問題などの、社会性を帯びた具体的なテーマを取り込んだ作品創りに、積極的に取り組んでいます。
「自分」の枠から解放されて、視点が「社会」の方にも広がっている。この3者に共通して言えることだなぁと思いました。
だからといって現在のこの3者が「セクマイであること」を完全に捨てきったかというと、そんな単純なことではないと思います。
「セクマイであること」とはつまり、社会通念で「当たり前」とされていることから離れられる(あるいは離れてしまう)ということです。つまり、いろんなことを分析し直す癖が付くんですね。これって表現者にはすごく大事なこと。
「セクマイであること」を、視点を深化させるための養分に変え、なおかつこれまで「捕らわれていたもの」から離れることが出来た人たちの軽やかな姿勢や、その「背中」を見つめることで、いろんなことを感じます。

今の自分とは違う、この3者の「背中」を見ることで、己の姿も相対的に浮かび上がるんですね。「ロールモデル」っていうのはきっと、安易に「お手本」なんかにするべきものではなく、今の己を浮かび上がらせるための「鏡」にするべきものではないでしょうか。
そういう意味でこの3者は、僕にとっての「ロールモデル」です。→FC2 同性愛 Blog Ranking
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