akaboshiコラム030●対立軸で物事を捉えないということ

『映像を読む:見えること、見えないこと』というタイトルで行われたシンポジウムでは、パネリスト3名のうち、僕にとっては斉藤綾子さんの話が最も印象的でした。映像を「読む」ということの概念が、自分の中で刷新された気がします。
■斉藤綾子『映画と身体/性(日本映画史叢書 6)』
やはりこういう場でも語られているのは、旧来のアクティビズム的な「単線的」で「目的達成至上主義的」なモノの味方から、いかに自由になるかということではないかと感じました。(僕の今の問題意識がそこにあるから、そういう風に思ったんでしょうけどもね。)
たとえば、「可視化」と「不可視化」は、どちらも対立する絶対的な概念などでは決して無く、あくまでも相対的なものであるということ。そして、視点を変えてみれば「可視」と「不可視」は同時性のあるものだったりもするという指摘がありました。
そして、従来の概念では、「隠されたものを、いかに明らかにするのか」が、映像を読み解く際(リーディング)の方法と考えられていたのですが、実はそんな単純なものではないはずだということが、わかりやすく伝わってくる講演でした。
物事を「読む」ために。
あるいは、「世界」を解釈するために。
二律背反的な「矛盾」そのものを、どう面白がって発見できるのか。複雑で重層的なものなんだと受け止めて行けるのか。そのアンテナの鋭さとか、精神面・思考面での「筋肉」の柔軟性が、問われてくるのだと思います。
「○○ VS ●●」という風に、単純な対立軸で物事を捉えていないかどうか。総点検する必要があるのかもしれないです。物事は単純化して考えた方が、ある意味では「楽」だったりするわけですが、楽して得られる「答え」なら、もうとっくの昔に出てるはずでしょ。
あ~。いろいろと整理できたぁ~。
質疑応答の際に、斉藤さんは映画『セルロイド・クローゼット』をどう評価しているのかを聞いてみました。そしたら、『ベン・ハー』のエピソードを紹介している部分が最も面白かったとのこと。主人公の男と男の濃密な関係が暗示されている映画なのですが、監督は、片方の役者には決して「そのこと」を伝えずに撮影したというエピソード。 たしかに演出論として、とても面白い事例ですよね。
その後、もう一度発言できたので、「僕としては『セルロイド・クローゼット』は、どうも旧来の活動的な『カミングアウト!』色(隠されていたものを暴きだそうという方向での強い意志)を感じて辟易とするのですが・・・。もし今後、日本映画で日本版の『セルロイド・クローゼット』を作る場合には、もっと重層的で複雑な『読み』を意図しながら、作られるのかもしれないですね」と問いかけてみました。

そして、今後もし日本版『セルロイド・クローゼット』が作られるとしたら、『現前しているイメージの中から、どう重層的に読み取って行けるのか』がポイントになってくるだろうとも、語ってくださいました。
■石井郁子著『異才の人 木下恵介―弱い男たちの美しさを中心に』
僕は以前より、『日本版セルロイド・クローゼット』みたいなものを、いつか創りたいと思っているのですが、「もし日本で作るとしても、ゲイリブ的な方向性での単純なプロパガンダ映画にはしたくない。そんなもん、作る前から完成形が見えてんじゃんつまらない。」と思い、どうアプローチしようかと掴みあぐねていたんです。(笑)、その違和感に言葉を与えられ、大いなる示唆をもらったシンポジウムでした。→FC2 同性愛 Blog Ranking
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