フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2017-09
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メゾン・ド・ヒミコで未知との遭遇010●ふたたび観に行く

また観に行きました。
そしたら・・・観たはずなのに憶えていない場面や記憶違いなども見つかり、記憶の不思議を改めて感じたのでした(←なんのこっちゃ。笑)
だから以前の記事で書いたディテールは、違うところもあります。あんまり気にしないでくださいね~。

今回思ったのは、この映画、実はすごくシビアだということ。
うっかり無防備のままで観るとちょっとした精神的ダメージを受けてしまうかもしれません。
僕にとっては、前回とはまったく雰囲気が違って感じられました。なぜなのでしょう・・・。

筋を追うことからの解放

はじめて観る時というのはどうしても、物語の筋を追うことに意識が集中します。そのため細かい所に目が行き届きません。
特にこの映画は沙織(柴咲コウ)をストーリーテラーのようにして進行するため、まずは彼女の心理がどう変化するのかに気を取られがちです。

しかし今回の僕は、すでに物語を知っています。だから沙織の心理から解放され、周囲のいろんな人たちのことに目を向けられるようになりました。だから印象がガラッと違って見えたのだと思います。

卑弥呼からの自立

今回いちばん印象に残ったのは、卑弥呼の哀しさ。
老いて死に行く者の哀しさが残酷なまでに感じられ、胸を衝かれました。

卑弥呼が大量に血を吐いた日。
春彦は不安に耐えられず沙織を電話で呼び出します。
そして卑弥呼がベッドで寝ている横で、募る不安を沙織に吐露してしまいます。


「こうやって、この人がちょっとずつ死にかけていくのを見ていながら、オレ、生きていたいとか思えなくなってくんだよ・・・もう、愛とかさ、意味ねーじゃん」

「だから、オレが自分をこっちの世界につなぎとめとくにはさ、欲望なんだよ!
それだけなんだよ!」
実はこの言葉を、卑弥呼はちゃんと聴いていたようです。
後日、春彦に釘を刺すからです。

ドレスを着た山崎を、ホームの皆で連れ出してクラブへ行く夜。出かける前に春彦は、ベッドの卑弥呼に挨拶します。
「じゃ、適当にその辺で遊ばせてくるよ」
すると卑弥呼は突然春彦のTシャツの袖をつかんで険しい顔で言うのです。
「駄目よ・・・駄目。」
恋人への嫉妬心をあらわにした、生々しい場面だと思いました。
もしかしたらこの時点で卑弥呼は、沙織と春彦が惹かれあっていることにも気付いていたのかもしれません。
あるいは、ホームの皆を外界へ連れ出すことを止めたのかもしれません。
そのどれもが含まれているように感じられる、多義的な「駄目」でした。
しかも卑弥呼にしては珍しく、感情的に取り乱しているのだから驚きです。

若さの残酷

しかし春彦は若い。卑弥呼の制止を振り切って、思うがままの行動を実践します。
その夜、春彦は沙織と思いが通じ合ってキスをしてしまいます。そして後日ベッドを共にしてみるところまで、二人の関係は急速に発展します。

これでは、卑弥呼は完全に置き去りです。
死に行く老いた者は、生を謳歌している若者の熱情や衝動を止めることはできないのです。
なんという残酷。
あの、めくるめくようなダンスシーンの裏には、卑弥呼の底知れぬ孤独があったのです。

人間の業

生きている限り常に移ろい行くのが「人の心」というもの。
だからこそ、共鳴し合えると感じた時には、儚さを承知の上でわかち合い、楽しむのです。
しかしその楽しみは必ず終わり、空しさが訪れます。
それが人間の生です。

そんな繰り返しをそのままに、突き放すような態度で提示しているのが、この映画の本質であるかのように、今回は感じられました。

だからこの映画を「ファンタジー」と呼ぶのは、あまりにも表層的な見方ではないでしょうか。
「笑い」や「美しさ」の裏には毒がある。「ファンタジー」的なデコレーションは、その毒を少しでも緩和させ、少しでも開かれた表現にしようという、監督なりのバランス感覚なのでしょう。
◇◇◇
次回は、上映の後に行なわれた犬童一心監督と田中泯さんのトークショーについて書いてみます。実は僕は、これを目当てに出かけました。そして、この映画の持っている体質通りにシニカルな、犬童監督という人格に興味を持ちました。では次回。

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コメント

この記事へのコメント

はじめまして。『メゾン・ド・ヒミコ』をみてからここのサイトを拝見しています。私も一度見てから、つい先日のトークショーの回を再見していたので、「奇遇だなあ、そんなにお客さん入っていなかったのにあの中にakaboshiさんもいらっしゃったんだ」と一人感慨にふけってしまいました。
ところでヒミコの「駄目よ」は春彦が出かけることに対しての「駄目」だったのでしょうか?私は「適当に遊ばせてくる」の「適当」に対しての「駄目」だと感じました。決死の覚悟で女装の上外出することを選んだ山崎に同行するのに「適当」では駄目という意味ではないかと思ったのです。だからこそ皆は支度に手間取り、その代わり思い切りドレスアップして現れたのではないかと。その後のセリフでも「春彦から電話があって着替えろと言われて手間取った」というような内容のものがありましたし・・・。私はあのシーンはヒミコから山崎への精一杯のはなむけだと思ってその心配りに「さすがヒミコ」と感心していたのです。

『ヒミコ』については書かないと言いつつ、あちこちで言葉の暴力を撒き散らしているlunatiqueです(笑)。
さて、「駄目よ」の解釈ですが、私はmizuさんの意見に賛成です。
それと、卑弥呼と春彦の関係ですが、これに関しては、私は年齢的にどうしても卑弥呼よりにみてしまうのです。そうした立場からすると、春彦がここまで自分についてきてくれたのはうれしいけど、まだ未来のある春彦をしばれないと思うのが当然の気がします。
ただ、原則、私は自分を卑弥呼に引きつけてこの映画を観るということはしたくありませんし、その点、akaboshiさんは了解してくださっていると思います。
ですからこれは、映画をはなれた私の自由な意見ですが、若者は残酷でいいのだと思います。その残酷さが許せなかったら、若者とはつきあえません。春彦が細川を誘惑することも、沙織と関係をもとうとすることも、そして半田とのことも、すべて卑弥呼の許容範囲のことではないかと私は思います。
観るたびに作品の印象がかわるというのは私も同感。この映画、私は今は、沙織と春彦の風変わりなラブ・ストーリーだと思っています。

●mizu さん。
お~、あの回に、このブログの関係者結構いたんですね。
あんなにお客さん少なかったのに・・・(爆)。
「駄目よ」の件ですが、シナリオを見てみたら・・・そうなのかも(爆)。
僕は、「駄目よ・・・駄目」の場面の演技が妙に生々しく感じられたショックで、
その後の、みんなが車に乗り込んだ際に言葉だけで挿入されている
二つの台詞を・・・ボ~っとして聞き逃していました(笑)。
高原の声
「レディをエスコートするのにふさわしいカッコをさせえ!ゆうて
卑弥呼が怒りよってからに」
木嶋の声
「春彦くんから、急いで着替えてくれ!って電話があったもんで、
そりゃもうみんな慌ててね」
↑これですね。
そっか~。ここで「オチ」があったわけか~。
・・・田中泯さん、思わせぶりな演技しすぎっ!
(ってゆーか、そういう誤解をさせようと仕組まれた場面ですよね、コレ。
・・・完全に騙されました。笑)。

● lunatique さん。
なるほど。
卑弥呼にとっては、すべて許容出来ているのかもしれませんね。
自分の人生経験の中でも、かつて似たようなことをしてきたのでしょうから。
でも・・・な~んか、それじゃぁつまんないな(笑)。
若者の残酷を「許容」するためには、どんな人でもやはり
心理的な葛藤はあるのだと思います。
葛藤した上で、許せるか許せないかが、若者との違いだと思います。
だから、その葛藤が表現された場面なのかと思い込んでしまいました(笑)。
残念だな~。そういう卑弥呼であっても、僕はいいと思うし
春彦の前だからこそ、そういう部分を出せているのかと思って・・・
ただでさえ鉄面皮に見える卑弥呼の「子どもっぽい」ところが見えたのかと思い
嬉しかったのに・・・(←だからそれは誤解だっつーの。笑)。

これは、批判派の人たちと私に共通する点ではないかと思うのですが、『ヒミコ』をいくらみても、卑弥呼と春彦の関係はみえてこないんです。つまり、この映画について膨大な妄想をふくらましている私にも、二人のであいのきっかけ、二人がどうつきあっていたか、さっぱり理解できない。だから、春彦というのは、とても演じにくい役だと思います。ただ、二人の関係がみえてこないというのは、最初からそれがみえないようにつくってあるからなので、それはこの映画の欠点ではないというのが私の考えです。
ただですね。卑弥呼が春彦の残酷さを許容できるようになったのは、病気と死の宣告があったためかもしれず、それ以前は「欲望」がメラメラ渦巻いていたかもしれない。
以下はまた私の解釈に戻ってしまうのですが、死の宣告が春彦に対する卑弥呼の思いをかえたということはありうるんじゃないですか。それが「宣告」のもつ意味だと思う。宣告以前の卑弥呼を充たしていたのが春彦との今だとすれば、宣告後の卑弥呼が考えるのは残される春彦の未来。だから、卑弥呼は春彦を急いで自立させなくなてはならないと思うのじゃないかというのが、私の考えです。

mizuさん、lunatiqueさんの意見にも、同感ですが、ヒミコの「ダメよ!」には、
1、山崎をきちんと誠心誠意エスコートしなさい。いい加減ではいけませ   ん。
2、春彦の若さに対するヒキコの心の裏にある嫉妬。
3、ヒミコが2に思う自分への戒め。
   と思いました。
確かに、年齢さのある付き合いにおいては、年上が譲歩して、大きく包み込まなければならない部分は大きいと思いますが、必ずしも、この言葉を吐いた(あえて、そう思うのです。病床で、死をまじかに感じているわけですから)ヒミコが、今まで口には出来なかった自分の本心を、この場で、
一言で語ったのでしょう。だから、この一言が軽くないし、大切です。
普段、本心を見せないで生きていても、ふと、言いたくなる時はあるはずです。そんなヒミコのなまめかしさが、あってもいいのです。
正気のままで、亡くなると言う残酷さを含んでいますので。

lunaさんの意見も理解できますが、ヒミコの春彦への思いは、どの程度の愛だったのかが解りませんでした。愛については、形や重さが違うので、その程度によっても、言葉の持つ意味が違うのではないでしょうか?

昔だったら、私もLunaさんのように、理解する事が出来ましたが、恋人を眼の前にして思うのは、若者を自立させなければならない!という大人としての模範的な思い。でも、最後なのだから、普段はいえなかった、恋人に対する甘えの部分をいう事で、全部、自分を吐き出したのではないでしょうか?ヒミコは卑弥呼ではなくて、一人のはかない人だったと言う気がすると、この2人の恋愛物語とも取れる話です。

akaboshiさん、横レスごめんなさい。
そう考えると、この話の全てが愛に包まれたラブストーリーなのです。

●lunatiqueさん。
卑弥呼と春彦の関係は、観客の想像に委ねられてるのでしょうね。
「俺、ずうっと、一人だったからさ・・・卑弥呼と会うまでずっと・・・
ここは潰したくないんだ」
・・・この春彦の台詞で充分、僕には二人の関係に共鳴できます。
この映画は、説明的な台詞が最小限に抑えられているので、
いろんな解釈が生まれて面白いんでしょうね。
う~ん。
僕には、やはり最後まで卑弥呼にも「欲望」はあったはずだと思います。
頭では「そうしよう」と考えても、
なかなかそうは割り切れないのが人間だと思うから。

●seaさん。
整理してくださってありがとうございます。
僕は、ここで提出された解釈の「どれもが」当てはまるのではないかと感じました。
この映画って、一言の台詞でも
いろんな意味が含まれるように吟味されてるし
普段の生活でも言葉って、はっきりとした「意味」を込めて使ってるわけではない。
言ってしまった後に、自分でその意味を解釈する事だってあります。
よく練られた脚本というのは、
そういうレベルにまで台詞が達している者だと思います。
だから、いろんな解釈が出来るということは、それだけ豊かな表現に
この映画がなっているということだと思います。
横レス、大歓迎ですよ。どんどん議論しちゃいましょう(笑)。

ありがとうございます。
この続きを書きましたので、TBさせていただきます。

lunatiqueさんの考えも解りますが、恋人同士だと冷静な大人の感情だけではないと思います。自分の死を目前にした焦りや、絶望なども交錯するし、言わないでおこうと、思った事も言ってしまったりするのが、生身の人間の良いところではないでしょうか?
そう思うと、ヒミコのなまめかしさもあって、然るべきと思います。

どうも、死を目前にした人の気持ちの分析とかはじめて、リアルとかリアルじゃないとかやっちゃうと、結局またこの映画をつくるときに犬童さんが考えてたこととそれちゃって、リアリズムというものさししかない人たちと同じとこへ行っちゃうと思うんですよ。
う~むだから、これはあまりこたえになってないんですけど、たとえば、2002年に、末期癌の多田智満子さんを自殺を決意している矢川澄子さんが秘かなお別れのために訪問してるという事実があるわけで、死を前にした人間がとる態度はいろいろある。矢川さんはそうやって多田さんにお別れして気がすんだんでしょうけど、多田さんにとっては、これはすごく残酷な行為で、矢川さんの自殺の直後、われわれは赤坂のある飲み屋にあつまって、矢川さんを悼むと同時に、この事実を多田さんにどう伝えるか悩んだんです。
後日、多田さんが『ユリイカ』に発表した悼句は次のようなものです。
  来む春は墓遊びせむ花の陰
まあ、なにを言いたいかというと、死を目前にした人の態度はいろいろあるんじゃないかということですね。

ちなみに、その後、秋になって築地にすむある評論家に多田智満子さんから、この本は私にはもう不要ですからといって大量の本が贈られてきたといいますが、受け取った方は、どのような礼状を書いたらいいか、とても悩んだそうです。
(akaboshiさん、『ヒミコ』に直接関係ない書き込みでごめんなさい。)

考えれば、難しいですね。死んでいく人とそうでない人の気持ちのずれもあるし、ヒミコ自身、もしかしたら、自分の意思とは違った事を考えたかもしれないし、・・・・・・・・・・あくまでも、いろいろな解釈があって、いいと思います。

●lunatiqueさん。
TBありがとうございます。読ませていただきました。
僕は「答え」を出したくて映画のことを記事にしているのではなく、
「僕はこう感じたんですが、あなたはどう思いますか?」という
投げかけをこのブログでは行なっています。
だから、犬童監督がこの映画を作るときになにを考えていたかという
「答え」を求めることに僕は関心がありません。
表現というのは、作り手が作れるのは作品の「半分」であって、
あとの残り半分は、受けての「心」が作って行くものだと思うからです。
だから誤解があってもいいし、間違いがあってもいい。
大事なのは、その作品を観たことで触発されて、なにを感じられたかということ。
それがどれだけ持続し、いろんなものを生み出し、成長し続けるかということ。
だから、いつまでもウダウダと考え続けたくなるようなものほど、「名作」なんだと思います。
この映画は、これだけの言葉を導き出すことに成功しているのですから
僕にとっては近年まれにみる「名作」だと思っています。

●lunatiqueさん(↓つづき)
この映画を「ゲイ描写」という、ある一面からしか観る事が出来なかった人たちは
映画とか、芸術とかいうものとの付き合い方を知らないのではないかと僕は感じます。
「答え」を作品に求めてどうする。プロパガンダ映画じゃあるまいし。
「答え」というものは、自分が作り出してゆくものだと思うし、
更新しつづけるべきものだと思っています。

● seaさん。
死に行く者の気持ちは、究極的に言ってしまえば、
そういう状況に自分が置かれてみて、はじめてわかる者だと思います。
しかし、当事者でなくとも「想像すること」は許されると思います。
他者の痛みを想像したい、わかりたい。
何処まで行ってもそこに「答え」は出ませんが、
それでも興味・関心さえあれば「わかろう」と思い続けることは出来る。
その態度を続けることこそ大事なんだと思います。
映画とか芸術表現というものは、そういう態度の表明なんだと思います。

最後にまとめて下さったakaboshi さんの言葉が身にしみます。
私の感想は、感情論だし、理論からわかろうとしなくても、それはそれで、いいのだと思います。いくつかの見方や、取り入れ方があって、それが、作品の面白さであると思うからです。答えが一つと言うのでは、映画としての魅力がないと思うし、色々と、波紋を広げる事が出来るって事がこの作品の魅力ですね。

●seaさん。
感情論と理論、そのどちらも大切だし、どちらが欠けてもいけないものだと
僕は思います。
人間って、その両方を併せ持っているものだと思います。
理論好きな人は感情論を否定しがちですが、それって偽善だと感じることがあります。

「メゾン・ド・ヒミコ」についてのまとめた感想です。
TBさせて頂きました。

●seaさん。
僕もそろそろまとめた感想書かなきゃと思いつつ・・・。
この映画は今後も、二番館で上映されるようになったら観に行くでしょうし
DVDレンタルが始まったら借りて見るでしょうし・・・。
そのたびにコロコロと変わる感想を書き続けようかなとは、思ってます。
あいかわらずダラダラと(笑)。
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