セクマイ系★タレントWORK002●椿姫彩菜の『3/25才 これからのワタシの「夢と現実」』における「すべての差別や偏見をなくしたい」への疑問

★『3/25才 これからのワタシの「夢と現実」』
フォトエッセイというスタイルでまとめられており、手軽に30分くらいで読めてしまう内容なのですが、まだ25歳という彼女。恋愛観や人生観が実体験や挫折に基づいていないからか、そのほとんどが「夢見がちに想像を膨らませている」という段階に留まっており、その辺の記述に関しては正直、イライラしながら読みました。(だって刺激が少ないんだもん)。
しかし、「トランス当事者である自分」について語っている部分では、自らの心の奥底にあるコンプレックスを含めて、自己省察・自己分析をしながらタレントとしての今後の路線を見定めていこうとする「発展途上の魅力」にあふれているようにも思いました。
特に、『「女性らしさ」を意識したことはありません』と題された章に書かれていた、以下の記述が印象的です。
「ほら、やっぱり男じゃん!」と言われることへの忌避感・トラウマ・コンプレックス。それが彼女の現在の活動の原動力であることが伝わってきます。そして彼女は、そうした辛い思いを同じような境遇の人に味あわせたくないという思いからか、「すべての差別や偏見をなくしたい」(P152)と書いてます。今までも、ステレオタイプ的な「ザ・女性」みたいな女性らしさを意識したことはありません。ただ、過去の一時期、特に意識していたことは、正直、あります。
というのも、いわゆる「女のコらしく」してないと、ことあるごとに「ほら、やっぱり男じゃん!」とか言われて、バカにされることが多かったからなんです。すごく悲しかったし、悔しい思いもたくさんしました。だから、女のコ以上に「女のコらしく」と、一時は確かに意識していました。
そういうことを言われて、バカにされたり、見下されたりしないための備えというか、防衛本能的な心の動きが、強く働いていたんだと思います。もしかしたら、当時の私はちょっと肩に力が入りすぎていたのかもしれないですね・・・・・・・。(苦笑)
ただ、僕はこういう安直な表現を「ペラペラっと」無防備に書けてしまう感覚には疑問を抱きます。そもそも差別や偏見ってのは人が人である以上、多かれ少なかれ必ず持つものであって、聖者でもなければ無色透明に「無くす」ことなど不可能ではないかと思いますから。
なぜなら自己と他者が「違う感覚や思考を持つ」と認めるということは、「その関係性の間には、さまざまな面において差別感情や偏見が少なからず生じること」を認め合うことなのではないかと思うからです。人が人と関係性を築きながら生きている以上、自分以外の者に対して抱く差別感情や偏見を根絶することなど事実上、不可能ではないかと思います。
だからこそ「人の心には醜い部分もある」ことを自分で認めて受け入れて、どう上手に付き合っていくのかを考えた方が、楽になれるんじゃないかと思うんです。自分の心の醜さから目を背け、他者ばかりを糾弾するのはフェアではありません。
この箇所だけではありません。僕がこの本の全体から最も感じたのは、彼女の「まっすぐさ」がもたらす息苦しさでした。コンプレックスを克服したいがあまり、結果的には「人間存在」というものに対する感性の許容範囲が狭くなってはいないか?と。
彼女が今後、もっと幅広く余裕をもった視点を身につけ、自分の醜さ(心のダークサイド)をも深く掘り下げ、表現出来るようになるかどうか。息長く活動を続けられるかどうかのポイントは、そこにあるのではないかと感じました。→FC2 同性愛 Blog Ranking
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