フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2017-09
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悪と善001●「善」の政治性

「善と悪」。

この対立概念を語るとき、フツーは最初に「善」が来ます。しかし僕は、この新連載を設けるにあたり、あえて「悪」を先に持って来ようと思いました。
なぜなら、人間とは本来「悪」であると思うからです。

どうしてそう思うのか。
以前から考えてみようと思っていました。
僕は昔から、書店や古本屋で書名に「悪」という文字を見つけると、つい手に取ってしまう習性があります。このブログで三島由紀夫氏や工藤静香さん、左幸子さんについて語りたくなったのも、これらの人々が表現活動においてきちんと「悪」と向き合っているからなのだと思っています。

いざ語ると言っても、あいかわらず方針も立てずに成り行きまかせで進行すると思いますが、その状態をあえて楽しみたいと思います。(それがブログの醍醐味!)
このブログを読み始めたのもなにかの縁。ぜひぜひ、「悪」という概念について言葉を交わしてみませんか~?。
さて今回はまず、ブログ友だちの記事へのコメントという形で、書いてみようと思います。
flowfreeさんの「大学の真相 海外で考える」の記事より。
性の捉え方と文化:正常を狂気に変え得る精神分析
●flowfreeさん。
僕の「音楽」のレビューが刺激になったなんて、嬉しいです。
僕もあの映画にはとても衝撃を受けました。三島由紀夫氏は、人のいろんな部分を刺激して開発する名人のようです(笑)。

「音楽」では近親相姦の描写がありますが、これはいわゆる表社会では「タブー」とされることですよね。しかしこの映画の中では美しく人間的なこととして描かれています。明らかに一般社会との価値の反転が意図されています。
驚きました。そして、いろいろと考えさせられました。

僕もflowfreeさんと同じように、昔から「タブー」とされるものがどうして「タブー」とされて嫌悪されるのか、違和感を憶えながら生きてきました。それは自分が社会からタブー視されがちな同性愛者であることも、少しは関係があるのかもしれません。
でも考えてみたら近親相姦は同性愛と同じくらい・・・いや、もしかしたらそれ以上に「忌まわしいこと」として嫌悪されがちなものなのかもしれませんね。そのことにも気がつきました。

でも・・・どうして嫌悪されるのだろう。
どうして禁止されるのだろう。
それは・・・禁止しないと、ついついやってしまう事だからなのかも知れません。

家族というものは親しく接する分、お互いを理解しやすいし親しみやすい存在。恋愛感情が芽生えたとしてもなんら不思議はありません。僕も、恋愛感情というわけではありませんが姉のことは大好きだし、兄弟や親子が愛し合うということは「フツーに起こり得ること」として理解できます。

でも現在の日本において、法律上では近親同士の恋愛について保証する生活制度はありませんし、そもそも「口にするのも憚られる」こととして闇に葬り去られる行為であることは確かでしょう。すなわち「悪」と呼ばれる行為として断罪され、本人達も社会から「罪」の意識を持つように強制されるような感があります。

でも・・・僕はよく思うのですが、そもそも法律だとか正義だとか道徳だとか、人を「悪」だと断罪することで「善」であることを強いる仕組みというものは、人の表情と同じようにコロコロと移り変わるものですよね。

ここで「善」と「悪」という概念について、「戦争」を例に考えてみます。

たとえば60年前の日本は、少しでも多くの敵国人を殺せば「善」として評価される社会システムでした。国家という歯車の一部として殺人マシーンになることを拒否する者は「悪」として断罪され、投獄されて人々の見せしめとされました。

ところが今はどうでしょう。
人を一人殺すことは重大な犯罪として重い罪に罰せられます。

「戦時」と「平時」という言葉のマジックだけで、人間というものはこんなにも簡単に価値観を180度変えてしまいます。そして、それを受け入れてしまう「あやふやな」生き物です。
現に、今でも世界中、ありとあらゆる所で「戦時」と「平時」の切り換えは行なわれていて、人の命に関わる価値観はコロコロと切り換わり続けています。

また、こういうこともよく言われますよね。
「本能を野放しにしていたら危険だ。皆がやりたい放題に振る舞ったら社会の秩序が保てない。」
・・・こうした発想からスタートして、人間集団が社会を成り立たせるには一定の「ルール」が必要とされ、宗教や法律が生れたのでしょう。

しかし宗教や法律も、所詮は、「あやふやでしかない」人間が作った、あやふやなもの。
完全なものなど作れるわけがないのです。

そこの所を勘違いして「絶対神」がいるかのごとく喧伝し、物語を作って「無知の民」に啓蒙してきたと自負する方々が世界中に勢力を拡大しました。
そして、彼らが自分達の正当性を誇示するために作り出した概念こそが「善」。



「善」が「善」であるためには、対立概念が必要となります。
そこではじめて、人間の本能的な行動を「悪」と名づける断罪が始まったのではないでしょうか。
自分たちの信じる絶対神こそ「善」であり、信じない者は「悪」である。
・・・なんという身勝手で政治的な都合でしょう。

政治なんて、所詮は刹那的で一過性のもの。権力者が変わるたびにコロコロと移り変わります。我々無辜の民は油断をしていると、そうした権力者の押し付ける道徳観を無批判に受け入れて流されてしまいがちです。歴史はそうやって繰り返されてきました。

流されないためには学ぶこと。

いろんな価値観があって、世界や人間というものはこんなにも多用で豊かなものだということを知ること。世界の多様性や人間の複雑さを丸ごと描き出す豊かな芸術表現に触れ、感覚を鋭くすること。
そうした知識の積み重ねが、一過性の政治的な道徳観ではビクともしない「自分独自の」道徳観・価値観を作り上げるのだと思います。そして、作り上げて行きながらも、常に学び続けて更新して行く過程そのものが、「生きる」ということだと思います。

近親相姦も、その時の本人たちにとっての必然であり、心から求める事なのだったら、誰の咎めも気にする必要はないことだと僕は思います。
同性愛も然り。その他の「タブー」も然り。
政治的な都合によりコロコロと移り変わる「善」の強制なんて気にしない。
我々を「無知の民」だと決め付け、啓蒙しようとする権力者なんて気にしない。

・・・それは現実にはなかなか難しく、勇気のいることですが、そう思える強さを育むためにも、「固まらずに学び続ける謙虚さ」を忘れずに生きて行きたいと思います。

flowfreeさんの文章を読んで、今日の僕はこんなことを書きたくなりました。・・・どうもお粗末さまでした。
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コメント

この記事へのコメント

学ぶ事ですか・・・そうですね、フラフラしてられません。桃も学ぼうと思います。でも、前の会社では、上司が「社内恋愛禁止!!」とか「知識をつけろ」とかほざいていたのに裏では、不倫しまくりに、裏帳簿やら汚い事のオンパレードでした。自由は、自由でも宣言した本人がやったらいけません。こっちは、本気でいろいろ守ってきたんだから。学ぶ以外にそうした事から学ぶというより気をつける人がここに居るのに。アレから社会とは、汚いと思っています。この例は、間違っていますよね?桃がおかしいですか?

●桃さん。
すっげ~。不倫しまくりに裏帳簿っ!
上司の特権を濫用しまくってますね~。
本当に、そういう人って現実にいるんですね~。
やっぱり人間って弱い生き物だから、
権力を握るようになると、ついつい行使したくなってしまうんじゃないでしょうか。
そういうの人が「善人」ぶっていると、ある意味滑稽ですよね。
・・・全然、間違ってないですよ。

いやあ、akaboshiさんはいつも感受性が高い人だと感心させられますよ。頭も柔らかいよね、コッチ (ってどっち?)の話にしっかり反応してくれて嬉しいしちゃんと書いて良かったと思わせてくれます。そんな自分は幸せもんだな。映画の近親の愛の描写もそんな感じが予想出来ましたよ。やっぱり三島、っすね。結構おおーと思った言葉たくさん入ってたんだよね。コレも:
” 世界の多様性や人間の複雑さを丸ごと描き出す豊かな芸術表現に触れ、感覚を鋭くすること。そうした知識の積み重ねが、一過性の政治的な道徳観ではビクともしない「自分独自の」道徳観・価値観を作り上げる”
まとめがうまいねえ。感覚鋭くなるよね、その繰り返ししてると。全体主義,国家統制主義のような価値を基本に育つとなかなか難しいけど一応芸術や文化的には自由に選べる選択肢多いからそこから学び続けたいですね。ホント、コロコロ変わる善悪には敏感になっていたい。そして疑問に思うものに対して何らかの形で表現したいな。同性愛もやはりタブーの一つでした。西欧でも病気と見なされていたのはそんな昔の話ではないし。なかなか良い例だなあと思いました。思い思いに書いてくれて有り難う。

>人間とは本来「悪」である
でもakaboshiさんの本当に言いたいことは「悪でも善でもない」ですよね?「悪と善」の概念が恣意的につくりあげられたものであるという考えに基づいて言うならば。
その人間が本来持って生まれるものと(例:悪)、後天的に「社会化」されることによって持つようになるもの(例:善)のギャップに苦しむのが生なんだろうなと、思います。自分の中でのギャップも、他人とのギャップも。そこに真摯に向き合ったもの(表現媒体)が芸術として昇華される。ぼくはそういう気がします。

私は、人間とは本来「善」も「悪」もないものだと思います。もう少し正確に言えば、「善」と「悪」が分離不可分なもの。そこから、「善」へ志向してゆくのではないでしょうか。その意味で、本来「善」と言えるかもしれません。
いくつか考えさせられました。
akaboshiさんは、本来悪らしいですが(笑)、悪なのではなく悪に惹かれているように見受けました。三島由紀夫や左幸子は「悪」と対峙し、表現したのであって、「悪」だと思いません。「悪」と対峙できるのは「善」ではないか。
また、戦時中の行為を例にとられてますが、いくら政府が「善」だと奨励しても、多くの国民は「必要悪」と受け取るしかなかったのではと思います。いくら戦時中でも、真に「善」は不変だと。国家の価値観は変わっても、そうそう人間個人の「善」は変わるもんじゃない。変わるようなら、それは「善」ではない。
固まらずに学び続ける謙虚さ、それこそ「善」じゃないですか。人間本来もっている「善」でしょう。
以上、散漫なコメントで御免蒙。

akaboshiさんって いったい何者??(@@)
「ヒミコ」の映画がきっかけで ここへちょこちょこ来させてもらうようになったけど、
この人の脳ミソは 何が詰まってるんやろ? と(笑)
6つ年上の私ですが、尊敬です。 素直に。
で、悪と善についてですが、私はどちらかというと
人間は本来「善」である   と思いたい。
赤ちゃんのあの笑顔は何の汚れもない、本物ですからねぇ。
そして段々と大人の汚い世界にまみれていくのかなと。
うちには小5の娘と小3の息子がいるので、
正しい判断のできる人になってほしいなと思っています。

〈つづき〉
あと近親相姦の話ですが、これはやっぱり理解しがたいところかも。。。。
家族愛と、いわゆる“恋愛”というのは別モノというのが 私の思いで。
家族っていうのは、血がつながってるわけですし、
お互い理解しやすいというか、相通ずるところはありますよね。
特に親子間は“無償の愛”の関係ですし(。。と思ってるんですが)。
居心地はいいし、安心できるでしょうね。
ただ、そこに性欲が絡むのはなぁ。。。
うちの息子、これがまたむちゃくちゃかわいくって(親バカ)
いまだにちゅ~もすりゃ~ おっぱい触りにきたりもします(笑)
でもそれはスキンシップであって、性の対象とは全く考えられないし、
踏み込んではならない領域だと思っています。
環境や価値観の全然違う者同士が お互いを高め合い、育んでいくのが
恋愛のおもしろいところでしょうし、
それが近親者間となると、居心地がいい分、世界が広がらないように思うのです。
まぁこういう意見もあるってことで。
三島作品、私は読んだことがないのですが、
すごく興味深いので 今度読んでみますね。
職場のPCからのカキコでした(何やっとんねん)

ちょっとまたその映画「音楽」での質問なんですが。上記事で”~は近親相姦の描写がありますが、これはいわゆる表社会では「タブー」とされることですよね。しかしこの映画の中では美しく人間的なこととして描かれています。明らかに一般社会との価値の反転が意図されています。
驚きました。そして、いろいろと考えさせられました。”とありましたが
映画内で女性は精神的に病んでいる、と言われているようですよね。
それと近親相姦がやっぱり繋げられている、ということでしたか。
その映画の流れをみてakaboshiさんは色々と考えさせられるようになったんでしょうか。逆に、この映画がなかったらそこまで考えられなかったかもしれない、と言うほどこの映画から思うことが多かったということでしょうか。”近親相姦も、その時の本人たちにとっての必然であり、心から求める事なのだったら、誰の咎めも気にする必要はないことだと僕は思います。”
こう思えたのも映画があってこそでしょうか。そういった事この映画に既に表現されていたのかな、と思うとやっぱりこの映画は自分にとってど真ん中!だなあ、と思えまして。

続き:
akaboshiさんはお姉さんに愛着があったようですね。実は自分はキョウダイには触っただけで虫唾(ムシズ)が走る、という程毛嫌いしている中育ちました。それだけ意識する何かがあったとも言えますがだから余計に近親の関係を持つ方達が理解できずに不思議に思えてさらに考えるようになったと思います。”作り上げて行きながらも、常に学び続けて更新して行く過程そのものが、「生きる」ということ”これも心に響きました。この生き方を選んでる一人間、かもしれません。

うーん 難しい話題ですね。 私は、人は善人だとは思いませんが、少なくとも自我が芽生えるまでは、純粋で善悪ではかれないものだと思います。 大人になるにつれ、嫌でも自分にとって何が利益になるのか学んでいきますし、それがわかるにつれて悪を知ってしまうのだと思います。 私は高齢者と接する機会が多くいろいろなことを教えられますが、戦時中の日本の方針を支持する方は確かにいますが、多くの方は赤紙を恐れていましたし、敵を倒すことを善とは感じていなかったようです。 今の社会の善悪は確かに政治等によって意図的に築きあげられた部分も多いと思いますが、私たちが成長する過程で養われてきた道徳感(大半が親の道徳感ですが)が大きいと思います。 幼少時代に刷り込まれた価値感によって同じ物事でも善と捉える人もいるし、悪と捉える人もいるのだろうと思います。 そんな私は、背徳という言葉に惹かれてしまうしかたのない人間です(笑)

● flowfreeさん。
同性愛がタブーとされてきたり、弾圧されてきた歴史についても、
ちゃんと学ばなくてはと思っています。
でも、されは被害者意識を補強するためにではなく、
同じようなことは他のことに適応して考えてもいくらでも起こっているということに
敏感になりたいからです。

● nicoさん。
「悪」は、悪いことだとは思えないんですね、僕。
昔は芝居小屋のようなところを「悪場所」と呼んでいましたよね。
あのニュアンスで、「悪」というものを捉えています。
「悪」=人間の本能的な部分=「善」により抑圧されて日常では解放されないもの。
・・・こういう感じでしょうか。
そもそも「悪」とか「善」という言葉自体が抽象的すぎて
幅広い解釈をされてしまう言葉なんですよね。
もう少し具体的に整理した言葉で語れる事を、今後目指そうと思います。

●cafenoirさん。
<「悪」と対峙できるのは「善」ではないか。>とありますが
・・・僕が思うに、自分のことを「善」だと思っている人たちは
僕のいう意味での「悪」に対峙することは出来なくて
否定したり排斥してしまうのではないかと思います。
「悪」に対峙したり「悪」が理解できるには、
自分を「悪」だと認識できることが条件なのではないかと考えます。
・・・それが結果的に他人から見ると「善」に見える、ということは言えるのかも。
「戦時中」と一くくりにするのが乱暴だったのかもしれませんね。
ただ、国家により「大義」が与えられると、人間というのは簡単に
「敵視」した人間の命への想像力を失ってしまう生き物です。
自分の生存や家族の生存を脅かす敵がいるとプロパガンダされたら
感情的に集団ヒステリーを起こしてしまうのが、人間というものです。
そのことを指摘しました。

●kajukajuさん。
赤ちゃんの笑顔に「穢れの無さ」を感じ取るのは、
赤ちゃんそのものから「善」が発せられているというよりも
周りの大人の「願望」なのではないかと思います。
(姉の子どもが生まれたときに、周りの大人たちを見ていてそう思いました。)
赤ちゃんも次第に、周囲の人間との関係を意識しはじめると
「周りから好かれる」ために媚びを売るようになります。
「羞恥心」がまだ芽生えていませんから、その「あざとさ」は強烈です。
大人たちはその姿を見て無邪気に「かわいい~」と喜び、囃し立てますが
その中心で可愛がられている赤ちゃんの中に僕は「悪」を感じてしまいます(笑)。
「うわっ。こんな小さな頃から人間ってこうなんだなぁ」と・・・思ってしまいました(笑)。

●(↓つづき)
成長するにつれ、子どもが本来持っている「悪」の部分は複雑に成長します。
そこで大人が「悪」と向き合って付き合う複雑な感性を持たないままだと
子どもは大変です。
無理やり、大人の「善」を押し付けられて、納得のいかないままに
「矯正」されてしまうからです。
大人の権力を利用した「無理な矯正」は、歪んだ子どもを育てます。
子どもは、大人の欺瞞を感じ取る能力を持っているからです。
けっこう、子どもって怖いですよ~(笑)。・・・以上、自分の経験からでした(笑)。
性的欲望というものは先天的・後天的な様々な要因が
複雑に絡まりあって形成される「ナマモノ」だと思うので、
生きている以上は変化する可能性のあるものだと僕は思います。
三島由紀夫が「音楽」で言いたかったのはそういうことかもしれません。
面白いですよ~。ぜひ読んでみて下さい。

●flowfreeさん。
映画では、女性の精神疾患の原因を探って、
行き着く先に近親相姦が設定されていました。
僕は「音楽」を見るまでは、あまり近親相姦のことを考えたことはありませんでした。
自分は、そこまで強烈な愛情を肉親に持ったことがなかったからです。
でもそれは偶然、そうだっただけなのかもしれないと思いました。
映画よりも、三島由紀夫の原作の方がさらに細かく
いろんなことを考えさせてくれる小説になっています。
もっと奥深く考えられるいろんな要素が詰まっています。
機会がありましたらぜひ、読んでみて下さい。

●yoriさん。
戦時中、兵隊はどうして敵を殺せたのでしょう。
特攻隊員の手記などを読むとわかりますが、彼らはやはり悩んでいます。
どうして人を殺さなければならないのか。
そして彼らは、無理やりに自分を納得させるために
「国のため」とか「家族のため」とか「恋人のため」とか「天皇のため」とか
なんとか強烈に自分を鼓舞させるための理由を考えて殺人を正当化します。
哲学書を懸命に読んで、自分なりの理論を必死に組み立てた上で
特攻隊として死んだ人もいました。
必死になって「自分の正義」を作り、
自分の人殺しは「善」につながるものなのだと理論武装して人殺しをします。
戦争というのは、そういう精神構造で成り立っているものだと思います。
「善」って、追い詰められると自分で作れちゃうものなんですね。
そして、角度を変えてみてみるとそれは「悪」かもしれないということに
盲目になってしまうんです。

akaboshiさん。友人を通してですが正直自分も”あの立場になかったのは単に偶然だったのかもしれない”と思うようになりました。
今大学のアジア図書館で検索したら三島の「音楽」、ありましたよー。早速借りて読んだら感想書いてみます。

●flowfreeさん。
親しい人の中に、そういう人がいると
想像力が持てるんですよね。
僕の場合は、たまたま今までそういう人と出会わなかったので
意識して考えることがありませんでした。
しかし今、僕は三島由紀夫のことが気になって彼に関心を持っています。
だから彼が小説というフィクションの中であれ、描いたことについては
とても惹かれてしまうのです。
そして、どうしてこういうことを書きたくなったんだろうと興味が湧くのです。
感想お待ちしてます~。

「追い詰められると自分で作れちゃうもの」 確かにそうかもしれませんね。 ナチスの電気椅子の心理実験もそうですもんね。
いろいろと考えさせられました。 

●yoriさん。
ナチスが行なったことも、彼らは当時の価値基準で「善」だと思って
行なっていたのではないでしょうか。

「悪」タブーとされるもの他にも在りますね。
先日、加藤健一の「審判」を見た。2時間半休憩なし。
大道具も照明も音響の変化も無い中
たった独りで膨大なセリフを観客(判事たちと言う事らしい)にしゃべり続けるという。
小道具には尖らせた大腿骨のみ。
加藤は生き残ったヴァホフ大尉という役である。
こちらもかなり緊張する。
ドイツ軍に追われ捕虜になったロシア兵将校七人
彼らはすべての衣服を剥ぎ取られ修道院の地下室に
閉じ込められ置き去りにされる。水も食料も与えられず
明かりは高い小窓のみ、助けを呼ぶ手立ては無い。
11日目に下した決断「生きる為に自分の肉体を放棄として
仲間の食料として提供する」一人でも生き延びるために・・・
極限の状態でタブーとされる道を選んだのだ。
殺した者、死んだ者は食料となり仲間の命となっていく。
そして・・・生存者は二人。発狂したルービン少佐と正気のヴァホフ大尉。

(続き)
ひどく重いテーマだった。ヴァホフは問う。「有罪です。有罪でない筈が
あるでしょうか?」と、どうもルービンも殺そうとしていたらしい。
尖った骨で刺して・・・愛するがゆえに・・・そう、愛なのだ。
閉鎖された恐ろしい悪夢のような状況だ。 
「有罪だ!」と言える者がはたして居るのだろうか?しかし、確実に
「有罪」にしなくてはいけないのだろう。秩序を守るためには・・・
実際では救出された時、二人とも発狂していて、きちんとした食事を
与えられてから射殺。痕跡を消すため建物は爆破された。
セリフが直接脳に響く。恐ろしい場面をつぎつぎに映像のように、イメージしてしまう。
よどんだ空気や血の匂いまで感じられるようだ。ひどく息苦しい。
狂ったルービンが見た高窓から入った幻の小鳥、私にも見えたのだ。
役者は化粧をし、衣装を着け、役になりきっていくというが今回はすべて違った。
舞台が終わったのに、席から立ち上がれない。
ひどく疲れて誰とも口を利きたくない。自虐的な気分だ。
まだ考えはまとまらない。
akaboshiさんは演劇をやってらしたから、また違った見方をされると思います。

●mitiru さん。
「審判」は、僕は観た事はないのですが
以前は劇団民藝の大滝秀治さんが演じられたりしていましたよね。
もっと以前には滝沢修さんも。
歴代の「一人芝居」をこなせる俳優さんたちにとって、
いつか登ってみたい巨大な山なのだと思います。
密室に閉じ込められた捕虜達の人肉食を扱った戯曲なんですよね。
大岡昇平の「野火」でも人肉食は扱われていて、映画で見たことがあります。
ショックを受けました。
極限状況に追い込まれたときに人は何を感じるのか・・・。
そうした状況を自分が経験せずに生きていることに感謝したし、
経験した人にしか感じられないであろう世界観を知ることは大切なことだと思いました。
きっと、そこまでこの世の深淵を覗き見てしまうと
「神」だとか「正義」だとか・・・
・・・そういう幻想がどうでもよくなるのではないかと思います。
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