フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2017-10
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東京国際レズビアン&ゲイ映画祭24●活動弁士付き上映「福寿草」は、けっこうドロドロ&笑えます

 7月18日(土)は朝から仕事で、そのまま映画祭へ直行しようかと思ってはいたのだが、さすがに連日の疲れが溜まっていたので家で昼寝をしてからにした。『安らぎの家を探して』はバルト9で観ていたし、トークは終了後だろうからと時間を計算しつつ。

 スパイラルホールに15時前に着いたときには映画はまだ上映中。トーク前で待機中の尾辻さんがロビーにいたので軽く雑談。ひょんなことから、今後自分が撮ろうと思う映画の企画をしゃべる場になり、口に出して整理できてよかった。不思議なもので、こうして誰かに「告げる」ことによって初めて、実現に向けて歩みだせるような気持が本格的に湧いてくる。絶対に作ろうと今日、心に決めた。

 15時10分から始まった大塚隆史さんと尾辻さんのトークは、タックさんのリアルトークがたくさん引き出されて、僕としては本当に面白かった。特に印象的だったのは「歳を重ねても、中身が変わっているという実感がない。たとえて言うならば、運転手はなにも変わっていないのに、車がどんどん古くなって、さびて動作が鈍くなっていくという感じ」という発言だった。

 すごくリアルな発言だなぁと思ったし、タックさんらしいなぁと思った。

 とかく年少者は年長者に対して「ロールモデルを示すこと」とか「年長者らしさ」を求めたりしがちだ。そして、年長者自身もそういった「枠」とか「型」にハマっていくことを、美徳だと考える人が多いのではないかと思ってしまうのだが。

 そういうような、「世間が勝手に押し付ける余計なもの」を省いて考えたならば、人間が年齢によって「年相応になる」というのは幻想にすぎないのだろうし、「○○らしさ」を身につけていくことを、他人に勝手に求めるというのは他人の生の有り様を不自由にする発想なのだろうと思う。

 ただ、映画で描かれていたように、ある程度の年齢に達して身体のあちこちに本格的にガタが来はじめ、日常生活が覚束なくなった時にはいよいよ、内面の自分までもが「不自由になったなぁ」という感覚が襲い来るのだろう。身体と精神は直結しているものだから。

 そうなったときに、どのようなライフラインや生活面でのサポート体制を、周囲の人間関係の中で築けているのか。さらには、国やコミュニティがサポートするべき任務を果たせているのか。その国や地域の事情ごとに、柔軟に捉えてチェックしていくべきなのだろうと思う。

 アメリカはどうやら、福祉の面において「国」が担う役割が、かなり低いようだ。だから、LGBT系のコミュニティのみならず、様々な自助的なコミュニティが発達する「必然性」があるのだ。

 翻って日本では?。はたして、映画で描かれていたように「LGBT」という枠で寄り集まるコミューンを造ることに、どれほどの人びとが必然性を感じるのか?。疑問符が大きく付くところだと思う。もっと緩やかに様々な人々と連携する道すじを模索することの方が、日本社会では現実的だし実現可能性も高まるのではなかろうか。

 そんなことを考えながらトークを撮影した後は、「アウトレイジ」を観た。バルト9に続いて2回目だったし、スパイラルホールはスクリーンの大きさが適度に小さいため、映像を突き放して眺めることができるということもあってか、今回は冷静に分析しながら観ることができた。

 アメリカ社会という「強固な反対勢力」が攻撃的に、常に拮抗する形で存在している状況では、映画作家としてはきっと、こういうものを作りたくなるんだろうなぁとは思う。ただ、あまりにも「クローゼット」という言葉に負の意味を付けて糾弾しすぎのような気がするし、同性と性的接触を持つ議員=ゲイという単純なレッテル貼りには、気持ち悪さを感じた。なぜ「バイセクシュアルの可能性」には、全く触れられていないのだろうか。

 僕の予想では、そういう情報を入れることによって、映画の中に監督が含めたいメッセージが「弱められてしまう」ことを恐れるからなのだろうと思う。攻撃的にメッセージを発したい場合には、できるだけ「単純に簡潔に」した方が、訴求力が増すからだ。

 ただ、いくら反対勢力が同じようなプロパガンダを繰り返しているからといって、「目には目を」の発想で同じように、単純で短絡的な方向に走りがちな表現を繰り出す方法論には、表現者としては尊敬できないし、とても乱雑で乱暴で腹立たしささえ覚える。特に、映画のラストに「だからカミングアウトを推進するのだ」的な発言を置き、それを補強するかのようにハーヴェイ・ミルクの実写映像を入れて、LGBT当事者の観客の感覚を興奮状態に扇動した形で映画を終わらせる編集と構成には、怒りを通り越してあきれた。

 こういう映像を「ドキュメンタリー映画」とは呼ばないでほしい。ヒットラーたちが大量生産していた「プロパガンダ映像」と、根本的な質はなにも変わらない。そして、そういう思想性を持って制作された映像に対して、上映後に熱狂的な拍手が起きてしまう状況には、薄ら寒さを覚える。これは僕が感じた真実なので、誰になんといわれようが言及しておくべきことだと思う。こういうことにこだわり続けるのが、僕のスタンスなのだ。

 上映後のロビーでは、双子の姉やパートナーさん、エディさんたちの前で、この怒りをぶちまけてしまったのだが、こういう気持ちを吐き出しても、とりあえず聞いてくれる仲間ができていることが嬉しかった。意見はいろいろ違ってもいい。素直に言い合えるかどうかが大事なんだと思うから。

 続いて観た「キャンディレイン」は、「アウトレイジ」をはじめ、欧米系映画がやたらめったら「言葉」を多用して喋りまくる映画だったのと対照的に、言葉が少なく映像や雰囲気で世界を描き出すタイプの作品だった。左脳ばかりを使用していた状況にブレイクを与えてくれて、右脳が豊かに刺激される映画的な映画だった。

 論理的に突き詰めて考えると、よくわからない描写も多々出てくるし、超現実的な場面もいっぱいある。でも、世界とはそもそも論理で説明など付けようがない不条理に満ちているし、超現実的なものなのだ。物事を深く掘り下げて鋭く見つめる能力のある映画作家は、「論理」の世界からは卒業してこのように映像によって自身の「世界観」を創造して観客に提示する。

 教え諭すのではなく、提示さえすればいいのだと思う。映画というものは。

 そしてこの日。もっとも心を動かされたのは21時過ぎから上映された無声映画「乙女シリーズ その一 花物語 福壽草 」。活動弁士・片岡一郎さんと、柳下美恵さんの即興演奏付き。1935年に作られた映画で、今日では「レズビアン作家」と呼ばれるようになった吉屋信子の大衆向け小説が原作なのだが、当時は映画に「音」を付けるという発想が主流ではなかった分、映像でさまざまな工夫をして観客に提示していたのだということが強烈に感じられて、新鮮な驚きをたくさん得ることができた。

 なにより、客席が沸いていた。カットが切り換わるだけで爆笑が起こったり、驚嘆の声があがったり。実の兄のお嫁さんを好きになってしまう女の子が主人公なのだが、兄に対する嫉妬の眼差しが本当に恐ろしく、まるで昼メロで浮気をされた奥さんが、浮気相手をにらみつけるかのような、とんでもない目つきが出てきたりする。

 映画は理屈じゃない。かといって、理屈を捨ててもなりたたない。その絶妙なバランスを模索しつつ、観客を飽きさせないための娯楽性も追及する。そんな、当時のクリエイター達の真剣な制作姿勢が伝わってくる、素敵な映像だった。

 1935年に、こんな風に本格的に作られた映画に「同性愛」的な描写を堂々と描いたものがあったということ。当時の日本が培っていた文化に興味が沸いたし、誇りにして真摯に学ぶべきことがまだまだたくさんあることに気付けた上映だった。これはまさしく、今年の映画祭渾身の実験企画であり、成功企画だと思う。

 19日(日)の上映ではいよいよ、活動弁士界の第一人者、澤登翠さんが登場するというので、これは見逃せない。また違った生命を映画に吹き込んでくれるのだろうから、すごく楽しみだ。FC2 同性愛 Blog Ranking
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