フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2017-07
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メゾン・ド・ヒミコで未知との遭遇008●卑弥呼の人生

沙織との対面シーンに行く前に、さらに寄り道して父親・卑弥呼(田中泯)の人生について考えてみたくなりました。

この映画の中では、卑弥呼の過去についてはあまり説明がありません。
その分、限られた情報の中から観客自身が卑弥呼の人物像を組み立てることになります。
彼についての情報は、冒頭のナレーションに多く含まれています。オフィシャル・ブックのシナリオから引用しながら、考えてみようと思います。
ナレーション「1958年。東京銀座コリドー街の奥に一軒のゲイバーが開店した。店の名は卑弥呼。初代ママは退廃的な美貌とエレガントな接客で客たちを魅了するも、1985年に肝硬変のため引退。2代目卑弥呼を一体誰が襲名するのかは当時ゲイたちの注目の的であったが、彗星のごとく現れてママとなった人物があった。吉田照雄、40歳。初代ママに劣らぬ魅力と才覚で店を繁盛させ続けるが、2000年に突然閉店。神奈川県、大浦海岸の近くに一軒の老人ホームがひっそりと開設されたのは、その2ヶ月後であった。
(脚本:渡辺あや)

卑弥呼の本名は吉田照雄。
1945年、終戦の年に生まれた。
年齢設定は59歳。
いわゆる「団塊の世代」と呼ばれる戦後のベビー・ブームの人たちよりも、少し上の世代(「プレ団塊世代」と呼ばれることもあるそうです)。高度経済成長の加速する最中に青春時代を過ごした世代です。

19歳の時に東京オリンピックが開催され、ベトナム戦争が激化する中で大学時代を過ごし、学生運動がこれから活発になるという頃に大学卒業。 ある意味、1968年に世界中で吹き荒れた「大学闘争」や「若者たちによる革命運動」の下地を作リ、引っ張る役割を果した世代だと言うこともできるでしょう。今の若者達と比較すると、血気盛んな世代であるとは言えると思います。国家権力や既成の権威に対して反抗することがムーブメントとしてあったわけですから。

☆もちろん「世代」によって個人の性格が決まるわけではなく、どんな時代にもいろんなタイプの人たちがいたでしょう。しかし「どういう時代の雰囲気の中で青春を過ごしたか」ということは、多かれ少なかれその人の人生に影響を与える要因でもあるので、ちょっと乱暴な「世代論」を持ち出してみました。
☆ちなみに、卑弥呼を演じた田中泯さんも、1945年生まれだそうです。・・・公式サイト参照)



会社に勤め始めた頃の1970年には大阪万博という「高度経済成長誇示の一大国家イベント」と、三島由紀夫の自殺という「高度経済成長の精神的揺らぎ」を象徴する大きな出来事があります。
1973年のオイルショックの頃には、バリバリと仕事をこなすようになっていたことでしょう。

1981年。彼が36歳の時に沙織が生まれます。
その頃に沙織の母親と結婚したのでしょうから、20代~30代の間は普通に会社勤めをしていたようです。

そして1985年、40歳の時にゲイバー「卑弥呼」の2代目を継ぎます。時代はバブルの絶頂期を迎えようとしている頃です・・・
ということは、どうやら30代の頃の吉田照雄さんは二重生活をしていたという事になります。
家庭を持ち妻子を持ち、社会では「男」として生きつつ、「ゲイ」としての自分を解放する場も同時に持ち続ける二重生活。あり得ない事のようですが、実際、このような生き方をしている人はいるし、特に珍しいことではないようです。(よく話に聞きますから。)

こう辿って見てみると、やっぱり気になるのは、彼はなぜ40歳の時に突然「卑弥呼」の2代目ママになったのかということ。
おそらく初代ママと愛人関係にあったか、親密な間柄だったということでしょう。余程の思い入れがなければ、家庭を捨ててまでゲイバーを継いだりなんかしないでしょうから。

「40歳になる」という節目の時に愛する者を亡くし、人生というものを考えた。そして、彼の中で「自分の生き方」を選択し直したのではないでしょうか。

長年の二重生活でフラストレーションが溜まっていたのかもしれません。女性との性生活を続けることはやっぱり無理だったのかもしれません。その上で彼は、自分の本性に忠実に生きる道を選択したのです。

そのために払われた犠牲は多大なるものがあります。今まで仕事で築き上げて来たキャリアや社会的な地位は捨てたでしょうし、家庭も捨てることになった。娘も捨てることになった。
あちこちに傷や禍根を残すことは目に見えています。
しかし彼は、そうした道を選んだ人なのです。

その後15年間、55歳で店を閉じるまで「卑弥呼」のママとして夜の世界に君臨し、店を繁盛させます。春彦とは店で出会ったのでしょうか。店を続けながら資金を貯め、晩年の過ごし方として選び取ったのが「ゲイのための老人ホーム」を建設し、そこを運営するという道。

吉田照雄さんの人生の分岐点は40歳。
そこから先は「卑弥呼」と名を変え、堰を切ったように自分の人生を選び取り、設計しながら実現してきたと言えるでしょう。特に「メゾン・ド・ヒミコ」建設にあたって春彦はパートナーであり、未来を一緒に作り出す「同志」でもあったのでしょう。

そんな卑弥呼も末期癌を患い、余命幾ばくもない状態。
死期の迫った卑弥呼への愛情から、春彦は父娘の再会という修羅場を設定します。

そこでは、互いにゆずれない「人生という名の重し」を背負ったままの二人が、真正面からぶつかり合うことになるのです。
ある意味残酷な対面ではありますが、やはり必要なことではあったのだと思います。

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コメント

この記事へのコメント

メゾン・ド・ヒミコの感想が書けましたので、TBさせて頂きました。
①から⑧まで在りますので、お時間のある時に、読んでください。
10年に一本の傑作だと思いました。

●seaさん。
覗かせていただきました。
印象的な言葉がたくさんあって、読み応えありましたよ。

ゲイ専用の老人ホームがあったら行きますか?私の親友は出会いが多そう☆といって行きそうだけど(老人になってもこのキャラかどうかは別として)、なんか嫌だなぁと思ってしまうのは何故でしょう?うぅーん。

● ephaさん。
僕も・・・実は「ゲイ専用」ということには抵抗があります。
閉鎖的にならなくても、専用にしなくても実は、理解者はいるだろうし。
閉じているのは社会の方だけではなく、自分達でもある。
だから「ゲイに理解・興味のある人」という風に範囲を広げてもいいのかなと。
・・・そのあたり、この映画でもちゃんと描かれてますけどね。

akaboshiさん、TBとコメントありがとうございます。
だらっとしたブログが、akaboshiさんの、コメントで、
スカッとした物に変身できました。
すごい力持ちなんですね!

●seaさん。
いえ、とんでもないです。ただ、思ったことを率直に書かせていただいただけです。

 ところで先日“メゾン・ド・ヒミコ”を観に行きました。 食指が動かないとか言っておいて(笑) 食わず嫌いはまずいかなと。 キレイな映画でしたね。 ロケ地(御前崎?よくぞ見つけた)もカメラも音楽も(細野さんだ)も役者さん達の演技も空気感も。 監督もよく勉強されてますね。 気持ち良くなりそうになりました。
 でも、矢張り駄目。 こんなに根深いとは。
 確かに確かに良く勉強なさってる。 が、それは“一応真摯に描くつもりだからこのネタ使わせて”みたいな、免罪符の様な気がしてなりません。
 私もみってさんが指摘されている所が引っ掛かります。 先ずダンスホールで山崎が昔の部下にバッシュされるシーン。 怒るのは沙織だけで、他の連れが何もしないのが妙。 しかも沙織は山崎が苛められたから怒ったのであって、ゲイ・バッシングに対してではない。 それから誤魔化す様にダンスレヴューになり、その後春彦は沙織にキスをする。 これって多くのヘテロ女性にはたまらないシーンでしょう。 女性は基本的に男性に恐怖心を抱いてます。 でも触れたい。 
続く

続き
ゲイの春彦は女性にとって性的脅威が無い、言わば去去勢されており、しかも若くて美貌。 こんな都合のいい存在は無いでしょう。(既視感あると思ったら“私の愛情の対象”だ)
 次にバッシャーの中学生。 これまで数々の器物破壊行為をされ続け、相手の正体(学校名とか)が分かっているのに、大した抗議もせず甘んじているのが妙。 しかも春彦が内一人を引っ叩いた後、その子は春彦に惚れちゃって、いきなり仲間にアウトして(仲間無言)、ホームに入って行く...こんな堂々と出来る訳が無い。 チップのつもりなのだろうか。
 大勢の方の御指摘通り、私もこの物語に“ゲイ”の設定の必要性が特に在るとは思えません(既視感あると思ったら、ギャスパー・ノエの“アレックス”だ)。 “ゲイ”と言うのは、大衆が或る程度想像出来る範囲内の未知の世界である為に選ばれたに過ぎない。 単なる“死の際にある親が、昔捨てた子と向き合う”話では地味過ぎるから、奥行きと色付けに使ったのではないか。 もしそうなら余りにも無神経過ぎる。
続く

続き
有史以来多くのひとがそれで苦しみ、命を落とし、人生を捧げているというのに。 この親子のぶつかり合いの描写が甘ったるくなく真摯なだけあって、この選択は本当に残念でなりません。
 (もし、親:男、子:女、親の恋人:女 だったら...腐女子のお客さん呼べないか。 親:女、子:男、親の恋人:男 なら... 女子大喜び(爆))
 ここに旧い才能達の言葉を引用します。
続く

“「モーリス」が書かれて以来、イギリスの一般大衆の態度に変化が生じた。 かつては無知と恐怖だったものが、今日では熟知と軽蔑に変わったのである。 エドワード・カーペンターはこのような方向に社会が変わることを望んで努力したのではなかった。 彼はある感情が寛大さをもって認識されるようになることを望み、原始の頃からあった人間の感情に、ごく普通の場所がまた与えられるようになることを望んだのである。 そして私は彼ほどの楽天主義者ではないけれども、知識は理解につながるだろうと考えた。 カーペンターや私にわかっていなかったのは、大衆は同性愛そのものを嫌悪するのではなく、それを考えることを厭うのだという点であった” (E.M.フォースター “モーリス”作者あとがき 片岡しのぶ訳)

“「今や暗殺者の時」というランボーの福音に帰依するかわりに、若者たちは、「愛は新たに作り直されるべきだ」という一節を記憶に留めた方がよかっただろう。 危険な実験。 それらが芸術の分野では容認されるのは、世間が芸術など本気にしてないからであって、実生活ではそれらは断罪される。 (中略) 社会の悪徳が、私に自己を撓めぬことを悪徳とする。 私は身を退く。 フランスでは、カンバセレスの素行とナポレオン法典の長命のため、この悪徳によって徒刑場送りになることはない。 しかし私は、大目に見ようという扱いは承服できないのだ。 それは、愛と自由に対する私の愛を傷つける” (ジャン・コクトー “白書” 山上昌子訳)
続く

続き
 前者は、1960年、後者は1927年に執筆されました。 これらの時代より良い方へ変化しているのでしょうか。 身の回りレベルではむしろ悪化なのでは。 ここ日本では、TV界での“おかま”キャラの台頭(ジェンダー・ロールとジェンダー・アイデンティティとセクシュアル・オリエンテイションが別概念だなんてどうでもいいみたい)。 サブカルチャーでは腐女子が台頭し、今や出版業界の重要な一角を占める産業になっています(輸出もしてるし)。 又、以前“Green Eyes”(Andrew O’ hare著 00年)という北アイルランドを舞台にした小説を読んだ時、一番驚いたのは設定が90年代という事でした。
 暗い話ばかりでごめんなさい。 akaboshiさんを傷付ける気は毛頭ありません。 でも私は“大目に見る”事が出来無いのです。 人道の問題なので。
ここまで読んで下さったakaboshiさん、皆さん、有難うございました。

Akaboshiさん、みなさん、こんばんは♪
『メゾン・ド・ヒミコ』について、私のブログに「ほんもののなにかに出あえる映画」という記事を新しく書きましたので、TBさせていただきました。
お暇な折にでもお読み下さい。

私のブログの↑の記事を書いてから、細川に抱かれながら沙織が泣いていた理由を少し考えてました。
沙織は、私が「泣いているのは、専務が考えているどんな理由とも違います」って言いますよね。ではそれはなんなのかっていうこと。
あの瞬間、沙織は、自分はそれでもやっぱり春彦を愛してるって気がついたんだと思いますが、その次の瞬間、「あ、この自分の気持ちは母と同じだ」と、母の苦しみとそれでも死ぬまで卑弥呼を愛し続けた母を、ようやく了解したんだと思います。
つまり、私の考えでは、『メゾン・ド・ヒミコ』は深刻な状況にいる母と娘の葛藤を描いた作品なんですが、その葛藤に終止符がうたれ、沙織が母の気持ちを自分の身体でまざまざと受けとめたのがあの瞬間ではないでしょうか。だから犬童監督はあの場面をドヴォルザークの『母が教え給いし歌』にダブらせたのだと思います。
結局、『メゾン・ド・ヒミコ』でもっとも重要な人物は、母ではないでしょうか。不在の母が、作品のなかで大きな比重をしめるという構造、これはたとえば、三島の『サド侯爵夫人』におけるサド侯爵によく似てますね♪

●渦さん。
「ダンスホールで山崎が昔の部下にバッシュされるシーン。 怒るのは沙織だけで、他の連れが何もしないのが妙。 しかも沙織は山崎が苛められたから怒ったのであって、ゲイ・バッシングに対してではない。」
↑・・・他の連れは、怒って戦っても意味がないことをわかっていたのではないでしょうか。
「目には目を」の復讐の連鎖は、幼くて無知な者がすることです。
それに、ゲイではない沙織が、ゲイ・バッシングに対して怒る理由はありません。
彼女は、山崎さんという「友だちが侮辱されたから」怒った。ただそれだけのこと。
フツーの人間として当然の行動だと思いました。
「私もこの物語に“ゲイ”の設定の必要性が特に在るとは思えません」
↑多くのゲイがこうした理由でこの映画の事を批判しているようですが
僕は、そのことは大したことだとは思いませんでした。
だって、この映画を作ったのは「ゲイ」の人たちではないのです。

●渦さん(つづき)
僕は、基本的に「ゲイ」ということを特別なことだとは思っていません。
我々の感じる孤独感だとか被害者意識だとかを生み出す原因は
社会の側だけではなく、自分たち自身の自意識過剰がもたらしている部分も
あるのだと思っています。そういう面において
自分で自分に批判意識を持たなくてはいけないと考えています。
この映画は、細かい描写は抜きにして、作品全体の精神としては
「ゲイ」を特別なものとして扱っていません。
もっと大きな普遍的な人間同士の触れ合いだとか関係性を描いています。
だから、僕にとって気になる映画であり続けているのだと思います。

● lunatiqueさん。
沙織は母と同じ道を歩んでしまったわけですね。
でも彼女が母と違うのは、
若くてこれからまだまだ人生の時間があるということですね。

ピキピキピッキー♪

●lunatiqueさん。
↑なんか・・・こういうリアクションもオモシロイかも(笑)。
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メゾン・ド・ヒミコで未知との遭遇008●卑弥呼の人生 こちらこそ初めまして、トラックバックありがとうございます。最初、GAYをガイ(男)と読んでましたが、途中でゲイということに気づきました(笑)僕自身はあまりゲイの方に対して抵抗はなく、むしろ自分の知らない世

メゾン・ド・ヒミコ -①

沙織自分と母を捨てて、壁の向こうに去って行ってしまった父。そんな父を、心の生きている部分で慕いながらも、父を憎む事で自己への満足感を高め、正当化して納得している。愛が根底にある、血のつながりの肉親、特に親子の情は、他人には入る事に出来ない特別な世界でもあ

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