akaboshiコラム011●永遠の鹿児島3DAYS
都会で生きていると、なんでもすぐに買いに行ける。仲間にはすぐ会える。基本的に「不便」というものを感じない。そのこと自体、なんとも思わない位に当たり前のこととして享受している。
しかし、そういう日常の意味を根源から疑うことになる「旅」を経験した。ライフワークとして取り組んでいる映画作り。その取材で鹿児島に出掛けたのだ。
この3年間。僕は全国各地のLGBT関係のイベントに、よく通った。一時期は、このブログで映像公開することに使命感のようなものを感じたりして、撮影・公開が目的で通っている時期もあった。だが、次第にその目的は気持ちの中心から外れて行き、今ではむしろ友人・知人に会って、互いの変化や変わらなさを確認し合う「なんでもない時間」に喜びを感じるようになった。
そんな中で出会った人が、鹿児島に多く住んでいる。そこで1月31日から2月2日まで、思いきって飛んでみることにした。かねてから彼ら/彼女らの日常生活を知り、可能ならばその断片を映像に収めさせてもらいたいと思っていたからだ。
羽田から小型の機体で飛び、着いた鹿児島空港には、友人(レズビアンのカップル)が車で迎えに来てくれた。今回は宿もお世話になる。誘われた当初は躊躇したのだが、この人たちなら素直に甘えさせてもらおうという気持ちの方が勝った。それは正解だったと思う。
ささやかな2人暮らし。女同士ということが周囲からどう見られるのか。やはり常に意識せざるを得ない。しかもここは鹿児島。都会のように匿名性の中に紛れることは難しい。彼女たちが、どのようにその辺のことと向き合っているのか。手料理を御馳走になりながら、詳しく聞いた。
無理せず、できないことはしない。周囲を刺激しないような方法での説明を施し、様子を見ながら少しずつ自分たちの居心地の良さを作って行く。同居を始めて約半年である彼女らの取っている方法論からは、現実に即して地に足のついた、生活者としての知恵を感じた。
昨今のNHK教育テレビ『ハートをつなごう』で描かれる同性愛者と言えば、必ずと言っていいほど活動家的な見地からの「模範的な行動」が取材され、その行為が賞賛される形で描き出される傾向にある。
しかし、それを行わせている背景にある心の闇の深さや笑顔の裏、「模範」を他人に示すことによって生じる様々な欺瞞や内面の分裂には、なかなか踏み込まないし描き出せていない。影が出来ない位の眩しい光を当て、ただ「頑張っている姿」を描き出す。結果的に、制作者側の選別により「あるベクトルに適った生き方」が肯定され、テレビで描くことのできない生き方をしている者たちに疎外感を抱え込ませる。「模範を描き出すこと=人間を描くこと」だと制作者が勘違いしている限り、番組がそうした権力性から逃れ得ることはできないことだろう。
模範的に振る舞いたくても振る舞えない環境で生きている者だって、現実社会と真正面から向き合い格闘しながら、知恵を絞って繊細に、なおかつ逞しく生きている。
たとえば鹿児島の彼女らは、休日は家族の農作業を手伝ったり、誘われたら旅行をしたり。周囲との濃密な付き合いの中で同性のパートナーを「ルームシェアをしている人」と紹介しながら楽しく過ごす。気付く人は勝手に気付けばいい。気付かない人はそのままでもいい。あくまでも自然体なのだ。その話しぶりからは、「いずれパートナーとして紹介するつもり」と決めている風な企みは感じられない。つまり、いわゆる「カミングアウト」に第一義の目標を設定しているようには思えないのだ。
しかし、それはちっとも不自然だとは感じなかったし、恥ずべきことだとも思わなかった。彼女らの生活環境の中ではむしろ、素敵なことだとさえ感じた。周囲との関係性を第一に考え、自分たちも疲れない方法論を選び取る。これが、いわゆる「正しいこと」なのかどうかはわからない。いや、そもそも人の生き方に「正しい/正しくない」などと評価軸を持ち込むこと自体が、とても傲慢でおせっかいな発想なのではないかと昔から思っている。
きっと、結果は後から勝手に付いてくるのだと思う。人と人との付き合いにおける基本原則を、おざなりにさえしていなければ。
都会の喧騒から解放された山と森と田園風景に囲まれた、空気の綺麗な鹿児島の地。
実家の畑で採れたという、おいしくて新鮮な野菜をふんだんに使った手料理を何度も御馳走になりながら、2人がどうして鹿児島での同居を決意したかに至るライフヒストリーを聴き続けた。2人がかけ合い漫才のように面白おかしく話すので、大笑いしたりこちらからも突っ込んだりしているうちに、心の根源的なところから、あったかいものが自然に染み出てくるような気がして、全身からゆったりと力が抜けて行くのを感じた。
もともとは都会で必死に生きていた40代の「彼女」が、忙しさや諸事情で生活が破綻に近い位に荒んでしまい、体調も崩してしまっていた。そこへ、パレードで知り合ったもう一人の40代の「彼女」が訪ねて行き、見るに見かねて生活を立て直し、まるで「保護」するかのようにして始まったという鹿児島での同居生活。まだ歩み始めたばかりの2人の関係の中では、喧嘩することもしばしばあるようだが、きっと丁々発止の掛け合い漫才を続けながら乗り越えていくのだろう。そんな未来が思い描けるほどの強い絆を感じた。
彼女らは普段から、鹿児島在住のゲイのカップルや同業のゲイの方、レズビアン・カップルの友人らとも連絡を取り合い、「吹き溜まりの会」と称して手料理を食べたりしているという。3年前の「関西レインボーパレード」以降、さまざまなイベントで出会った仲間たちだ。
時には互いのことを真剣に心配し合ったり、助けあったり。当事者同士でなければ語り合えないようなことを語り合ったりしている。
「同性愛者として生きる上での生活にまつわる実際的な問題」というのは、そういう場で語り合ってこそ、具体的に見えてくるようだ。時には本気で頭を悩ませてしまうような、のっぴきならない問題もある。でも、まずは一緒に食事をしながら一緒に笑い合って過ごす時間の中でこそ、英気が養われて行く。そして、再び問題に向き合うための勇気も湧いてくる。
鹿児島という土地柄では、都会と比べて物や人の数は少ない。しかしその分、人の「心」に目線が注がれやすいのではないだろうか。彼女らが、他人のことを本気で心配しながら関わり合っている姿を見て、そう思った。そして、いわゆる「コミュニティ活動」での出会いが、こうして参加した一人一人の日常にまで深く影響を与え、繋がり合うきっかけになっているという事実を目の当たりにして、その存在意義を新たに発見した。
都会の雑踏に再び紛れていると、むしょうに鹿児島での日々が思い出される。僕にとってもう、目の前の「東京DAYS」は当たり前の日常ではなくなった。これからは常に比較対象ができ、相対化されるのだ。それは幸運なことでもあり、同時に不幸なことでもある。
なにが大切か。生きる上で、なにを求めるのか。人や物に溢れる大都会の真ん中で、僕はそれらを見失わずに追及し続けて行けるのだろうか。
鹿児島で「なにかを見つけた彼女たち」と過ごした3日間の記憶は、これから先ずっと、僕に「なにか」を問いかけ続けてくるのだろう。→FC2 同性愛 Blog Ranking
しかし、そういう日常の意味を根源から疑うことになる「旅」を経験した。ライフワークとして取り組んでいる映画作り。その取材で鹿児島に出掛けたのだ。
この3年間。僕は全国各地のLGBT関係のイベントに、よく通った。一時期は、このブログで映像公開することに使命感のようなものを感じたりして、撮影・公開が目的で通っている時期もあった。だが、次第にその目的は気持ちの中心から外れて行き、今ではむしろ友人・知人に会って、互いの変化や変わらなさを確認し合う「なんでもない時間」に喜びを感じるようになった。

羽田から小型の機体で飛び、着いた鹿児島空港には、友人(レズビアンのカップル)が車で迎えに来てくれた。今回は宿もお世話になる。誘われた当初は躊躇したのだが、この人たちなら素直に甘えさせてもらおうという気持ちの方が勝った。それは正解だったと思う。
ささやかな2人暮らし。女同士ということが周囲からどう見られるのか。やはり常に意識せざるを得ない。しかもここは鹿児島。都会のように匿名性の中に紛れることは難しい。彼女たちが、どのようにその辺のことと向き合っているのか。手料理を御馳走になりながら、詳しく聞いた。
無理せず、できないことはしない。周囲を刺激しないような方法での説明を施し、様子を見ながら少しずつ自分たちの居心地の良さを作って行く。同居を始めて約半年である彼女らの取っている方法論からは、現実に即して地に足のついた、生活者としての知恵を感じた。

しかし、それを行わせている背景にある心の闇の深さや笑顔の裏、「模範」を他人に示すことによって生じる様々な欺瞞や内面の分裂には、なかなか踏み込まないし描き出せていない。影が出来ない位の眩しい光を当て、ただ「頑張っている姿」を描き出す。結果的に、制作者側の選別により「あるベクトルに適った生き方」が肯定され、テレビで描くことのできない生き方をしている者たちに疎外感を抱え込ませる。「模範を描き出すこと=人間を描くこと」だと制作者が勘違いしている限り、番組がそうした権力性から逃れ得ることはできないことだろう。
模範的に振る舞いたくても振る舞えない環境で生きている者だって、現実社会と真正面から向き合い格闘しながら、知恵を絞って繊細に、なおかつ逞しく生きている。
たとえば鹿児島の彼女らは、休日は家族の農作業を手伝ったり、誘われたら旅行をしたり。周囲との濃密な付き合いの中で同性のパートナーを「ルームシェアをしている人」と紹介しながら楽しく過ごす。気付く人は勝手に気付けばいい。気付かない人はそのままでもいい。あくまでも自然体なのだ。その話しぶりからは、「いずれパートナーとして紹介するつもり」と決めている風な企みは感じられない。つまり、いわゆる「カミングアウト」に第一義の目標を設定しているようには思えないのだ。
しかし、それはちっとも不自然だとは感じなかったし、恥ずべきことだとも思わなかった。彼女らの生活環境の中ではむしろ、素敵なことだとさえ感じた。周囲との関係性を第一に考え、自分たちも疲れない方法論を選び取る。これが、いわゆる「正しいこと」なのかどうかはわからない。いや、そもそも人の生き方に「正しい/正しくない」などと評価軸を持ち込むこと自体が、とても傲慢でおせっかいな発想なのではないかと昔から思っている。
きっと、結果は後から勝手に付いてくるのだと思う。人と人との付き合いにおける基本原則を、おざなりにさえしていなければ。

実家の畑で採れたという、おいしくて新鮮な野菜をふんだんに使った手料理を何度も御馳走になりながら、2人がどうして鹿児島での同居を決意したかに至るライフヒストリーを聴き続けた。2人がかけ合い漫才のように面白おかしく話すので、大笑いしたりこちらからも突っ込んだりしているうちに、心の根源的なところから、あったかいものが自然に染み出てくるような気がして、全身からゆったりと力が抜けて行くのを感じた。
もともとは都会で必死に生きていた40代の「彼女」が、忙しさや諸事情で生活が破綻に近い位に荒んでしまい、体調も崩してしまっていた。そこへ、パレードで知り合ったもう一人の40代の「彼女」が訪ねて行き、見るに見かねて生活を立て直し、まるで「保護」するかのようにして始まったという鹿児島での同居生活。まだ歩み始めたばかりの2人の関係の中では、喧嘩することもしばしばあるようだが、きっと丁々発止の掛け合い漫才を続けながら乗り越えていくのだろう。そんな未来が思い描けるほどの強い絆を感じた。

時には互いのことを真剣に心配し合ったり、助けあったり。当事者同士でなければ語り合えないようなことを語り合ったりしている。
「同性愛者として生きる上での生活にまつわる実際的な問題」というのは、そういう場で語り合ってこそ、具体的に見えてくるようだ。時には本気で頭を悩ませてしまうような、のっぴきならない問題もある。でも、まずは一緒に食事をしながら一緒に笑い合って過ごす時間の中でこそ、英気が養われて行く。そして、再び問題に向き合うための勇気も湧いてくる。
鹿児島という土地柄では、都会と比べて物や人の数は少ない。しかしその分、人の「心」に目線が注がれやすいのではないだろうか。彼女らが、他人のことを本気で心配しながら関わり合っている姿を見て、そう思った。そして、いわゆる「コミュニティ活動」での出会いが、こうして参加した一人一人の日常にまで深く影響を与え、繋がり合うきっかけになっているという事実を目の当たりにして、その存在意義を新たに発見した。

なにが大切か。生きる上で、なにを求めるのか。人や物に溢れる大都会の真ん中で、僕はそれらを見失わずに追及し続けて行けるのだろうか。
鹿児島で「なにかを見つけた彼女たち」と過ごした3日間の記憶は、これから先ずっと、僕に「なにか」を問いかけ続けてくるのだろう。→FC2 同性愛 Blog Ranking
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はじめまして。ブロークバックマウンテン公開時の記事をきっかけに、拝読させていただいておりました。鹿児島在住の30代のゲイです。少し年上の相方と付き合って2年近くになります。鹿児島にいながら、自然である生き方を、僕らも模索しています。
この鹿児島に、akaboshiさんがいらしてたんだなぁと思うと、なんだか不思議な感じです。なんだかうれしいもんです。
これからも読ませていただきます。お体にきをつけて。
この鹿児島に、akaboshiさんがいらしてたんだなぁと思うと、なんだか不思議な感じです。なんだかうれしいもんです。
これからも読ませていただきます。お体にきをつけて。
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