akaboshiコラム010●関西クィア映画祭で揺れた「あたりまえ」

こんな貴重な上映の機会なのに、平日昼というのはやはりもったいない。もっと好条件で上映できるくらいに資金的な余裕が生まれて欲しい。
ロビーではFtMライフスタイルマガジン「Like Boy」がブースを出展していた。「東京で発行されている雑誌なので、関西ではなかなか直に手に取る機会がありませんよ~!ぜひ!」と呼びかけられていて、用意した在庫の売り切れが続出していた。同誌はいわば、FtM版の「バディ」といった感じで、「ハッピーFtMライフ」的なイメージで、表紙やグラビアのビジュアル的にも「格好よさ」を感じさせる。こういうのが出てきたのって、当事者にとっては嬉しいのではないだろうか。
そういえば昨年の東京国際レズビアン&ゲイ映画祭では、トランス関連の上映が「皆無に等しかった」と言ってしまっていい。たぶん短編の中にはあったのだろうが、あまり印象に残っていない。そういう意味では、動員があまり見込まれなさそうだけれども、ちゃんとトランスの映画も取り上げたり、内容的に刺激的だったり尖っていたり、少し難解ぎみだったり・・・と、より深く「映画の多様性」を感じられるという意味で、関西クィア映画祭的なプログラミングセンスというのは貴重だと思った。HEP HALL位の大きさならば、こうしたプログラムの上映にも適している。
東京の「動員拡大路線」がいいのか。関西の「内容の深度追及」がいいのか。さまざまに意見はわかれるだろうが、どちらにも各々の価値がある。結果的に、独自性を競い合う状況が生まれていることは、観客としては喜ばしい。

たとえば、「クィア映画系」の有料専門チャンネルとかが出来ればいいのだが・・・。需要が少ないのかもしれない。いや、それともまだ需要が発掘され、開発されていないだけなのかもしれないが。
僕は、自分が映画が好きだということもあり、特にこうしたクィア系映画祭が大好きだ。とにかく映画祭期間は「自分がセクマイ当事者であることがなんでもなく感じられる」感覚が味わえるから。つまり「忘れられる」のだ。自分がマイノリティとされる存在なのだということを。
目の前で上映される映画のほとんどは、セクマイが世の中に存在することを「当たり前」とする視点から制作され、観客の中にも当然「たくさん居るもの」という前提で作られている。しかし映画祭が終わり、日常のありふれたところで目や耳から入ってくる映像・音声の多くは、セクマイが「居ないことが前提」で作られているものが95%以上はあるのが現実。
これって、あんまり意識してないけど、「意識しない位に当たり前」の状況として過ごしているんだなぁということを、映画祭から解放されて日常に出た時に気付くのだ。「このストレスは、堆積すると結構大きなものになるんじゃないか?」という、普段忘れてしまっていることに。
また、たとえばNHK教育テレビ『ハートをつなごう』や民放ニュース番組での報道などでのセクマイ描写を見て感じる違和感というのは、クィア系映画祭での「存在が当たり前とされて作られている映像世界」を見た後だからこそ、感じるものなのではないかとも思う。あの手の真面目なテレビ番組世界の中ではまだ、「居ない」とされていたものが「居るんだよ」という紹介が行われている段階であって、それってつまりは「非当事者主体」の目線なのだ。当事者目線ではない。

★同作品の撮影と編集を担当しました。ぜひご覧ください。
★詳しくはこちら。
21世紀になっても相変わらず、日本のテレビの現実は、まだ「セクマイを発見」したり「出会って」いる段階。でもとりあえずは、これが積み重ねられて継続されることによって、次の段階に進めるんだと割り切って、ちょっとでも先へ進めるように後押しするような気持ちで見ればいいんだなぁとも思う。

わざわざ閉鎖空間である「クィア系映画祭」に行かずとも「自己受容のシャワー」が浴びられる環境が、もっと充実すべきだし、そのために出来ることをこれからも模索しながら探していきたい。→FC2 同性愛 Blog Ranking
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