akaboshiコラム009●永遠の喪~ダムタイプ「S/N」シンポジウム心象

1月10日(土)、小雪の散らつく京都精華大学で行われた公開シンポジウム「S/Nについて、語られなかったこと~介入の芸術:個人の記憶、公共の記憶、その交差点へ」は、故・古橋悌二氏が永遠に「新たな言葉を持たない存在」になったことを、まだ受け止めきれていないかのような、宙ぶらりんな面持ちで居る人々の言葉が、まさしく「宙空を飛び交っていた」という感じの場だった。

なぜなら古橋氏こそが、「アート」というものが評価されるにつれ、その身に孕むようになってしまう固着化・定型化による「権威主義」を、最も嫌った表現者だったという思いがあるからだ。
その思想はかつて、1990年代に最も先鋭化された形で、アート集団「ダムタイプ」のパフォーマンス作品『S/N』として結実された。「シグナル(S)」と「ノイズ(N)」の区分けそのものを、さまざまな角度から疑って世界を多様な視点から見つめてみようというメッセージが込められた同作品は、制作時期に古橋氏が「ダムタイプ」カンパニー内でHIV公表・同性愛者カミングアウトを行い、死期が迫った中で制作された。当時、たくさんのアート系カルチャー情報を報じるメディアで取り上げられ、のちに「死期を悟った者が此の世に生の爪あとを残したいという決死の思いを込めて制作した作品」として、伝説化された。

シンポジウムの冒頭で、コーディネーターのブブ・ド・ラ・マドレーヌさんが述べていた「開催の主旨」そのものが、この日、僕には最もエキサイティングでドラマチックに感じられた。彼女はかつて、ダムタイプに所属し「S/N」にも出演した。つまり、「S/N」についての記憶を濃密に、肉体に刻み付けている人物なのだ。
まるで「ダムタイプ同窓会」あるいは「S/Nと古橋氏の神格化を食い止める会」でもあるかのような会場に足を運んだ者たち。一方で、こうしたイベントを芸術系の大学で行うこと自体が既に「神格化」に手を貸すことになる矛盾とも向き合いながら、「それでも私は語り始めたい」と宣言していた彼女の言霊の1つ1つが、最もパフォーマンスとして能動的かつ現実革新の気概に満ちた佇まいを感じさせた。

大学に入学してダムタイプのパフォーマンスに触れて衝撃を受けて以来「誰よりもダムタイプのファン」だと言い切る彼女。恐らく、第三者によるミーハー的な関心が最も高いであろう古橋氏の「S/Nの頃の様子」とか「死を前にした日常」なども、彼女はかなり近しいところで、つぶさに見ていたはずだ。
しかしなかなか彼女の口からは、聴衆の期待通りに赤裸々な日常は語られない。「本来、裏方なので人前で話すことには慣れていないので・・・」と断りながらの平易な言葉からは、「知りたいこと」がまるっきり語られない。だからこそ、なおさら惹きつけられた。その場における彼女の一挙手一投足、言葉を選ぶ表情や仕草のすべてに、僕の神経が集中した。これぞミステリアス。なんて魅力的なのだろう。そんなことさえ、ふと、思うほどだった。

「喪」はまだ明けていない。そして、明ける必要はないのかもしれない。
そんな彼女の様子を慮りながらも、コーディネーターとして話を引き出そうとするブブさんの「もどかしさ」とか、躊躇する気持ちなども伝わってきて、2人のやり取りに含まれる「S(シグナル)」の中から「N(ノイズ)」の豊かさを勝手に感知してみるのも、シンポジウムを聴く者としての醍醐味だった。

そして、ダムタイプや古橋氏の歩みを知ることによって後世のものが受ける最も大きな恩恵は、N(ノイズ)だと思っていたものの中から、とびっきりのS(シグナル)を感知するという発想を知ることだと思った。そんなビジョンをこれから身にまといながら世界を見つめて生きて行けるとは、なんとゾクゾクすることなのだろう。
素敵なレンズを一つもらった気がする。闇を見晴るかすことにもなり、痛みも伴うだろう。しかし、その道程を見つけることが出来たことはやはり、素敵なのだ。僕は、この日見つけ得た哲学を一生、持ち続けることになるだろう。→FC2 同性愛 Blog Ranking
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