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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2018-10
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三島由紀夫とつきあってみる。005●「卒塔婆小町」のセックス論と三島的男女観

戯曲集『近代能楽集』の一篇「卒塔婆小町」を演じた経験について書きながら、改めてこの短篇に込められた三島由紀夫という人の世界観について考えてみた。
現時点で僕が知っている彼についての知識は大したものではない。しかし、その浅薄な知識と照らし合わせてみても、この戯曲には、「いかにも三島由紀夫らしい」エッセンスが散りばめられていると思う。そのことを考察してみたい。

詩人に象徴される、三島的「男性性」

この戯曲の主人公である詩人は、若い「男」である。
「男」が「女」と比較されるときによく語られる一般論として、「男は理想に生き、女は現実に生きる」という言葉がある。この詩人は、その意味での「男」である。
しかも「詩人」というのは、一般社会とは一歩距離を置きながら、自分の美(理想)を言葉によって探し求めている者のことである。
「理想を追う」ことは「男」の象徴。
したがってこの作品の世界観の中では、詩人は「男の中の男」だと言うことができる。

老婆に象徴される、三島的「女性性」

もう一人の主人公である「老婆」は、年老いた「女」である。
薄汚い公園でカップルがイチャつくのを邪魔しながら煙草の吸殻を拾い集めているという、「現実にまみれた存在としての女」である。
歳を重ねると人は大体において、理想というものを信じにくくなる。積み重ねられた現実体験が人をそう変化させることは致し方ない。
年寄りは現実の中に生きている。夢を見るとしても、それは過ぎ去った過去の記憶の中に見るのであり、未来への理想は抱きにくくなる。「現実に生きる」ことは「女」の象徴。
そういう意味では、この老婆は「女の中の女」だと強引に言ってしまうことも可能である。

☆そうではない女性もたくさんいますが、三島由紀夫は50年代~60年代にかけて活躍した作家だということもあり、あえて旧来の一般論を持ち出して語っていることをご承知おきください。ここでいう「女」とは、古い男性社会の中で語られていた一般的な「女」という概念にすぎません。

三島的「男の中の男」と「女の中の女」の対決

この戯曲は、三島由紀夫にとっての対立する二つの概念をぶつけ合った「ジェンダー論」だという風に読み取ることも可能である。しかもそれは、セックスという行為における身体性とも密接に関係があるので「身体論」でもあり、「セックスにおける男性性・女性性についての考察」でもある。

女は男に美しがられることで生きていると実感できる

この戯曲で奇妙なのは、恋愛状態がもたらす高揚感を賛美する詩人に対して、冒頭のやり取りで老婆はきっぱりと否定しておきながら、いつの間にか自分の方から詩人をたぶらかし、自分に惚れさせるということだ。
99歳の皺だらけの婆さんが、巧みな弁舌と共にいつの間にか絶世の美女、小町に変身する。
これは言葉がもたらす魔力を象徴しているのかもしれない。演劇というのは、台詞の一言一言が虚構の世界を構築して行く芸術だからである。
詩人はまんまと老婆の言葉の魔力に魅せられて、老婆のことを絶世の美女だと思い込み「美しい」と口にしたくてしょうがなくなる。
しかし老婆(小町)はそこでもったいぶらせる。
今までも沢山の男が自分に惚れてきたが、「美しい」と口にした途端に皆、死んでしまったというのだ。だから詩人も口にするべきではない。それを言ったらあなたは死ぬ、と色っぽく警告する。

男は女に自分の理想(美)を重ね、手に入れようと燃え上がる

恋愛感情による熱病状態にある人間というものは、逆境であればあるほど燃え上がるものだ。老婆の警告は詩人の炎に油を注ぐようなもの。ますます詩人の熱病は燃え盛り、老婆(小町)の美しさという幻想に酔いしれ、ついには口にしてしまうのだ。
「小町、君は美しい。」
そして残酷なことに、この言葉を口にした途端に詩人は死に、詩人の幻想が消えたことで絶世の美女・小町は元の99歳の老婆に戻る。
老婆はその後も生き続ける。そしてまた99年後に次の「男」が現れて「美しい」と言ってくれるまで、生まれ変わって待たなければならないという残酷な運命が暗示されて幕は閉じられる。

セックスの暗喩

これは、ぶっちゃけてしまえば人間の本能がもたらす営みとしての「セックス」における男性性、女性性を暗喩した描写だということが出来る。
セックスという行為において「男」は、「女」に自分の美の幻想を抱いて欲情し、一つになろうとあらゆる手練手管を用いて征服しようとする。
逆に「女」は「男」が自分に欲情してくれることで喜びに満たされ、「男」を受け入れる。

「男」は「女」を征服できた喜びを感じた途端、射精という絶頂を迎えて「死ぬ」。
「女」は「男」が絶頂を迎えたことで自分の存在が満たされるが、「男」のように一瞬で絶頂を迎えることは少ないので「死にはしない」。

結局は男性的生き方の中に「美」を求めてしまう三島的結末

こうしたことから見ても、彼は「男」と「女」という対立概念にこだわって表現をしつづけた作家であると言うことは可能だろう。しかも結局彼は、「男」という生き方の中に「美」を求めた結末を、いつも用意する。「男性性の勝利」を謳い上げてしまうのだ。
この戯曲でも、詩人が死んだ後、老婆にこんな言葉を吐かせている。
「もう99年!」
・・・彼女は自分の美しさを証明してもらって「男」に愛される瞬間のために、さらに現実にまみれて生き続けなければならないのだ。死の直前に欲求を満たし、絶頂という幸福感を味わって死んだ詩人と、どちらが辛い結末だろう。明らかにこの結末では、「女性性の敗北」を描くことで「男性性の勝利」が宣言されていると言えるだろう。

同性愛者の光と影

三島研究本において、三島由紀夫が同性愛者でなかったことを証明しようとする記述を、たまに見かける。
彼は結婚をし、妻子もいたことは事実だ。しかしそういうゲイは世の中にいっぱいいる。

彼の場合は大っぴらに公表出来ない立場にあり、そういう時代状況の中にあったから、こうした作品や自分の生き方を通して歪んだ形で表現ぜざるを得なかったのではないか。僕はそう捉えている。なぜなら、その書かれた内容や趣味・嗜好からしても、明らかにゲイ特有の特徴が読み取れるし、そう考えることが最も自然だと思われるからだ。
そして、その歪みと暗さこそが三島文学の魅力となり、表現の原動力となっているのではないかと思う。

彼は、歪んだ形で「男性性の優位」を表現することで、自らのカタルシスを得ていた。
或る意味では悲しい生き方だ。
また、或る意味では、自分の性的嗜好に忠実に生きることを追求し続けた生涯であったとも言えるだろう。
そこに是非の判断はいらない。彼の生涯は、彼にしか歩めなかった生涯なのだから。

当時と今とでは時代状況は明らかに変わった。
現代において、もう三島由紀夫は生れないだろう。
まさしく彼は、この国の戦前・戦後から高度経済成長、その飽和期に差し掛かるまでの時代が生み出した「鬼っ子」である。彼の年齢が、昭和の年号と見事に一致していることもなにかの因果だろう。

彼を読み解くことは、この国の精神史、さらには同性愛者の精神史を読み取ることにもなる。
そうした観点から、今後もこの連載を続けてみようと思う。

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コメント

この記事へのコメント

(MYPの)G2です。私は三島に複雑な感情を抱いています。表現者としての才能には嫉妬さえ感じるし、仮構の男性性に生きようとした人生は痛ましくもあるし、隠しようのない女性への嫌悪には不快感を禁じ得ません。そしてその背後に、男性性を押し付けた父親の存在を感じるのです。
なお、三島は明らかにホモ・セクシュアルです。でも彼は結局、国家体制という男性性から逃れられなかった。今のこの時代なら、もしかしたら三島も、国家体制に頼らずにもう少し自然体で生きられたかもしれませんね。

三島、三つしか読んだことがない。メリケンのゲイ友達結構読んでいるのよね。

●G2さん。
僕は、自分も含めてゲイはなぜ三島氏に興味を持ちやすいのかを
細かく考えて行こうと思ってこの連載をしているのですが、
今回、わかったことは「やっぱり三島氏は男が好き」だということです。
(まあ、僕が言わなくても誰が見ても明らかですが・・・笑)
だから女性が三島氏に不可解で複雑な感情を持つのはわかります。
あと、ご指摘の通り、三島氏がなぜあそこまでフィクショナルを装って
生きてしまったのか。なぜ自然体でいられなかったのか・・・
その部分にヒジョーーーーーに!!興味がありますっ!(←強調しすぎ・・・)
なんだか、自分達のイタイ部分を見てしまうようで恐ろしい気もするのですが
避けては通れない道であるように思えてなりません。

●ephaさん。
メリケンさんのお友だちということは、海外のゲイの方ですか?
どういう風に受けとられているのか興味ありますね~。
今度ぜひ、レポートお願いしますっ。
ちなみに、読んだ3つの作品とはなんですか?

手紙教室みたいな名前のやつと(超いい加減)。仮面の告白と後はもう一冊。宿題に追われて脳みそがかぼかぼになってきています。意味不明。
ところで、三島さんの割腹自殺の様子を撮った映像があると聞いたことがあるのですか真偽のほどはいかに。写真があるのだからあるのが当然なのかもしれないけれど。噂で聞くところによると「決起しないのか?」と割腹しながら段々と冷めていくとか。

あ。因みに友達はハードコアゲイだと思っていたらしいです。数年前に、彼の恋人が手記を発表したけど、彼は妻帯だったのだよと言ったら驚いていたところをみると作風からもゲイらしさが出ていたのではないかと推測します。今度聞いてみますね。

●epha
「恋愛講座」というのを女性誌で連載していたみたいですね。
割腹自殺の現場の実写映像は、ないと思いますが。
本人が1965年に監督して主演をした「憂国」という映画の中で
割腹シーンを演じているようです。(まだ見たことはありません)
三島由紀夫との肉体関係を書いた男性が書いた小説が出版されましたが
現在は発売中止になっているようです。(色々と事情があるようです)
・・・しかし図書館には所蔵されているので、これは読みました。

ぼくは三島作品にいちばんに感じるのは描かれる女性のリアリティのなさですね。「卒塔婆小町」のような能の戯曲なら台詞も人物も記号化されてリアルとは別の次元なんでしょうが。
今後とりあげられる作品でのakaboshiさん的三島論、楽しみにしています。

●nicoさん。
たしかに、「卒塔婆小町」の老婆からも、リアリティのなさを感じます。
書かれたのが昭和27年なので、今とは日常の言葉遣いも違ったのかもしれませんが
老婆にしても詩人にしても、文学的・演劇的な「大仰な」喋り方です。
この戯曲は能を原作にしてますが、筋はほぼ三島氏の創作だそうです。
書き出しのト書きが象徴的です。
「オペレッタ風の極めて俗悪且つ常套的な舞台。」
・・・舞台美術として作るべき世界観をこんな言葉で指定しています。
彼はわざと大げさにフィクション化して、
日常的なリアリティとは別のリアリティを言葉によって創作することに
興味があったのかもしれませんね。

三島由紀夫が同性愛者でなければ、私はもっと楽に彼の著書に手を伸ばせたかもしれない。“イタイ部分”があるのかも。。。
実は、肉体改造も、同性愛も、映画出演も、市ヶ谷へ行ったことも、ぜ~んぶ、芝居だよ、と言ってくれるとホッとするんだけどな。
「近代能楽集」、買いましたが、ツん読状態です。

le monde lunatique の今日のブログに澁澤龍彦さんの事が載っていました。この方が「長靴をはいた猫」の翻訳家である事しか知りませんでしたが、マルキ・ド・サドの翻訳家であり、三島由紀夫作の戯曲「サドこうしゃく婦人」は彼の影響を受けてかかれた物だと知りました。
サドこうしゃくについては、IQの低い私が知っているのは、映画「クイルズ」のみなのですが、こうして、三島由紀夫に影響を及ぼした方の存在を知ったのですが、
人は人の影響を受けて、どれだけ変わり、人格形成されていくものなのかが、また、楽しいのだと思いました。

● cafenoirさん。
僕はその「イタイ」部分に、どうやら魅かれているようです。
彼が一生懸命誇示しようとした「男性的で強いイメージ」は
逆に、彼の内面の弱さ、優しさを感じさせてしまう。
同性愛者という面だけではなく、この国における「男」という概念についても
三島由紀夫の生き方から考えられるような気がします。
「ぜ~んぶ、芝居だよ」って言って欲しいけど言い切れない。
だから、あの時代を生きた人の中に、ある意味「トラウマ」のようなものを
強烈に植え付けた彼の死に方。
現実のこととして見つめてみると、イタイけど色々と
大切なことが感じられるのではないかと思っています。

●seaさん。
澁澤龍彦さんの本は、古本屋ではだいたい三島由紀夫と並んで
同じようなコーナーに並べられることが多いです。
まだあまり読んだことはないのですけど、三島さんとも交友は深かったようです。
人間の負の部分とか、グロテスクな部分を見つめようとするその作家としての姿勢は
尊敬しています。とても興味のある人です。

すごい文書でした。私今夜、翻訳をして、私の友達と読みました。ごめん。どうも!

僕がここに書くのは場違い(皆さんとのレベルが違い過ぎる笑)ですが、三島由紀夫・・・、僕の尊敬する美輪明宏菩薩の著書「紫の履歴書」に三島さんのことが結構書いてありますよ~!ってかakaboshi07さんならもうとっくに読んでるかな?(笑)あの本で三島さんの素の部分が少しわかります。

池田理代子が「春の雪」を漫画で書く事になり、そろそろ連載するらしいです。力のある方ですが、単なる恋物語になってしまうと、三島由紀夫の意図がつかめなくなるので、どうかなと思います。

●wikaさん。
翻訳を・・・!
・・・こんな赤裸々な文章なので、ちょっとハズカシイ(笑)。

●SHIN'YAさん。
レベルなんてないから遠慮せず荒らしていいよ(笑)。
美輪さんはずいぶんと仲が良かったみたいですよね。
でもお互いに、タイプではなかったように感じられます。(あくまでも推測ですが。)
表現者同士として通じ合うものがあったのではないでしょうか。
「紫の履歴書」、一度読んでみたいと思っている本です。
美輪さんもかなり、壮絶な人生の歩みを経ている人ですよね。
・・・三島氏の素の部分・・・興味あります(笑)。

● seaさん。
えっ、あの池田理代子さんが・・・!
彼女、けっこう物語として面白く書きますよね。
三島氏の一見難解な文章をどう解きほぐすのか興味あります。

三島同性愛者説

三島はゲイだった、と断定的に書いてある文章が多いですが明確な根拠をちゃんと述べているのは皆無です。根拠なしの断定は「流言飛語」の類と同じでしかないんで困ったもんなんですが、なぜ「流言飛語」が広まるかもだいたいそのからくり(心性)は、構造が単純なんで分かりますね。
三島は20歳の頃の年上の女性との「プラトニックな恋愛」(『仮面の告白』後半に言及あり)が忘れられず、それを40になるまでひきずっていた。なかなか結婚したがらなかったのも、『美徳のよろめき』のような不倫小説が多いのもそのためですね。人妻になってしまった相手と思いを遂げるにはどうするかという想像を美的に追求する熱意もそこからでている。最晩年の豊饒の海第一部『春の雪』の女性も、20歳のとき結婚を逃して他家の妻になった相手を略奪する、というイメージで、完全に一貫してますね。自然主義文学を徹底的に批判揶揄する評論で、三島は「自然主義文学には男色の匂いがある」という皮肉、批判の仕方をしています。いわゆるホモフォビア的として批判されそうなレトリックですね。そのあたりの文章をちゃんと読んでいればこんな説には拘泥することはないでしょう。
そもそもゲイの方には「プラトニック・ラブ」という語が理解不能なのかもしれません。プラトンすらゲイ扱いしてるようですから。「プラトニック・ラブ」は当然異性愛で、青年期に生じる過渡的な形態です。恋する異性との関係を美しく保ちたい欲求から生じます。それが分かっている人は三島がゲイではないということもすっと腑に落ちると思いますよ。

三島の肉体改造

コメントにあったんで追記しときます。三島がボディビルを始めたのは極めて実際的な必要に迫られたため。ある日帰宅したら部屋のなかに侵入してそこに突っ立っている男がいた。警察呼んで連れていってもらったのですが、そのときの三島は顔面蒼白だったそうです。そら怖いわね、知らん男が自分の部屋にいたら。それをきっかけにボクシングを始めた。偉い作家の先生だからと手加減するのが気にいらず、ボディビルに転向。いわゆる反三島ファンの暴漢に対する自己防衛と威嚇ですね。このあたりの経緯は、平岡梓の本と、安部譲二の証言を参照してみてください。写真集出したのはまあ悪ふざけみたいなもんでしょう。コンプレックスを克服できていい気分だったのもあるでしょうが。

●domoさん。

すっご~い、研究者みたいですね。ただ、三島さんの場合は虚言癖や誇張癖、自己演出癖があるみたいですから、残されたテキストの文字面の情報ばかりに縛られていると、本質を見誤るかもしれないですね。いろんなことを曖昧にボカして「秘密」で彩った方が、後世になってもいつまでも自分のことが語り継がれると本人が計算していた節もありますから、こうして多様な解釈ができるんでしょうね~。そのこと自体、とっても豊かなことだなぁと思います。
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