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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2019-06
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八月納涼歌舞伎「法界坊」●PLAYレビュー

歌舞伎を観たのは10年ぶりだ。

10年前の僕は「東京に出てくる」ということだけで興奮し、見るもの聞くものが珍しかったというおめでたい奴だった。「こ、これがあの有名な歌舞伎座・・・本物だぁ・・・」と建物を見上げながら単純に感動したことを憶えている。

当時は学生だったから当然のごとく金はない。
いちばん安いチケットを買い3階席の後ろの方から観たのだが、そこで巻き起こる現象のすべてが面白くて新鮮だった。

遠く下の方に見える舞台に向かって、隣の席のおじさんが突然「ヨッ○○屋っ!」と声を掛ける驚き。しかも何人もあちこちから声を掛けるのに、しっかりと声が揃っているのも不思議。
大きくて色鮮やかな舞台セットと、役者の衣裳にも目を奪われた。物語の筋はわからなくても、舞踊として視覚をちゃんと楽しませてくれる。
そしてなにより、場内に漂うあたたかな雰囲気がいい。
現代劇(新劇系)の舞台に親しんでいた僕にとっては、観客が作り出す歌舞伎座独自の「場」の雰囲気が珍しかったし心地よかった。

その後、行く機会はなかった。なんとなく取っ付きにくい印象は拭えなかった。歌舞伎独自の様式や物語に親しんでおかないと、やっぱり敷居が高く思えてしまう。

しかし今回突然、観る機会が訪れた。10年前の感激の記憶と照らし合わせながら、今の僕がなにを感じるのかがとても楽しみになり、出かけてみた。
歌舞伎鑑賞2回目の、とても素朴で幼稚なレビューになることをお許し願いたい。

えっ、あの人たちみんな男?・・・性の超越ぶりがあまりにも自然。

一階席のほぼ真ん中という好条件での観劇。舞台が近い。花道も近い。10年前とはまったく別の劇場に来たみたいだ。
イヤホンガイドを借りて準備は万端。緞帳が開いてさあはじまった。

お茶屋の店先で女中さんたちが歌舞伎調の台詞回しで喋っている。
来たぞ来たぞ、これぞ歌舞伎っ!
綺麗で華やかで明るい世界に浸ろうかと思いきや、ん?・・・そういえば。初歩的な疑問が頭をよぎる。

歌舞伎役者ってみんな男なんだよねえ。たとえ女中さんの役でもそうなんだよねえ。
えっ・・・あの、どう見てもナチュラルに軽い身のこなしで女として振る舞っている人が、実生活では男なのか?
声だって全然太くない・・・。さすが。歌舞伎の芸は幼い頃からみっちりと仕込まれるというから、これは訓練の成果なのだろう。
「女形」というにはあまりにもナチュラル。「女」を誇示していないのに自然に女として舞台に存在している。舞台上における性の越境ぶりの自然さに、クラクラと軽いめまいがした(笑)

串田和美さんが演出という期待。

歌舞伎は一日中上演している。僕は夜6時からの「法界坊」を見たのだが、演出は串田和美さん。なんと、現代演劇界におけるビッグ・ネームではないか。

かつて「オンシアター自由劇場」を主宰し吉田日出子さんらと「上海バンスキング」などのヒット作を作った彼。現在ではフリーの演出家として数々の舞台を演出し続けている。
歌舞伎の演出は何度か経験があるらしいが、僕は今回はじめてそのことを知り、驚いた。
黒テントなどで実験的で先鋭的な舞台を演出してきた串田さんが歌舞伎!?。
野田秀樹さんや蜷川幸雄さんも最近は歌舞伎の演出に進出しているという。
それだけ歌舞伎界が「新鮮な現代の空気」を取り入れ、革新して行こうという意欲に満ちているのだと思う。なかなか面白い展開であり今後が楽しみだ。

役者同士の関係性を丁寧に構築。「様式」で死んだ演技を否定する。

串田さんの演出は、俳優の演技の質に如実に現われていた。

基本的には歌舞伎の節回しを大切にしつつ、時々、まるで現代劇であるかのような「遊び」を俳優にやらせるのだ。
上手い俳優は、そうしたアドリブであるかのような「遊び」を楽しみ、客席を沸かせる。それは相手役との関係性をしっかりと把握し、「様式だから」という安心感に埋没してしまわない「生きた」演技の形である。しかし「遊び」はあくまでも「遊び」。歌舞伎調の様式という基本にすぐ戻れるからこそ遊べるのである。

「現代的遊び」と「伝統様式」との行ったり来たり。
その浮遊した演技感覚が自ずと俳優たちに緊張感を持続させ、観客にもスリルを与える。
だから歌舞伎なのにちっとも眠たくならないのだ。

主役の法界坊を演じる中村勘三郎さんは、その点やはり「ピカ一」で、演出家の要請を見事に消化していた。
法界坊とは「悪僧」のことなのだが、基本的にダラダラとした崩した姿勢で存在し、幼子のような幼稚さも兼ね備えたコミカルな役柄を飄々と楽しんでみせてくれる。身体が身軽だし、アドリブもバンバン入るから目が離せない。
彼が舞台にいる時といない時では、「場」の温度が明らかに違うように感じられた。

伝統芸能というものはどうしても「様式」に甘んじて死んだ演技をしがちになる。
見ている者は退屈しやすく、眠くなりがちだ。
しかしこうした現代劇における演技の基本を導入することによって、生き生きと躍動をはじめるのだ。だからこそ、歌舞伎界から現代演劇の演出家へのラブ・コールが絶えないのだろう。
歌舞伎界は、生き残るための大切な鉱脈を見つけたのである。

歌舞伎とは「見えないはずのものを見せてしまって、あっけらかんと笑い飛ばす遊び」である。

物語は基本的には、封建制度の理不尽さに翻弄され、恨みや妬みがぶつかり合って殺し合いにまで進展して行くという歌舞伎の王道どおりの展開。

きれいだったはずの登場人物の心に潜んでいた「エロ」や「悪」が、どんどん露呈してゆくさまはグロテスク。滑稽なくらいに様式で誇張されるものだから、その露悪的な物語がちっとも陰惨には感じられないのがいい。

立ち回りで相手の腕を切り落としたらユーモラスに飛んで行ったり、顔を切りつけたらパカッと割れて中の肉が丸見えになったり。本当ならば正視するのも憚られるような気持ち悪い出来事を、平気で軽々とやってしまうのだ。
演出家は、こうした歌舞伎の特色を意識的にわざと誇張して、際立たせる仕掛けをいくつも設けている。

黒は「見えないもの」の象徴。そこをあえて「見せる」演出。

たとえば、暗闇の中で何かを求めて探りあい、立ち回る「だんまり」という無言劇の場面。
本来は背景に黒幕を張ったり照明を暗くして「暗闇」を表現し、その中をスローモーションのように皆が動きまわるというスタイルなのだが、串田演出ではわざと客席の電気までつけて煌々とまぶしい中で「だんまり」を行わせた。
最初は違和感があってどう観たらいいのか戸惑う観客も、しだいに「普段は隠されていて見えないもの」の細部までじっくりと観ることの楽しみを見出して行く。

「黒子」の存在も際立たせた。「黒子」は本来、舞台上に出てきても「見えないもの」として扱われる存在。ところが串田演出は黒子にも物語に介入させ登場人物とコミュニケートさせたり、意志を持った人格としてさまざまな悪戯をさせている。

雷の場面ではわざと「風神・雷神」のパネルをあざといまでに吊るして登場させ、目には見えないはずの自然界の神々の存在をも舞台上に現出させる。歌舞伎の持つ「あざとさ」を余計に際立たせて批評してみようという試みを感じた。

そして、たぶん串田さんが最も(?)こだわったであろう演出が、二幕のラスト近くにあった。
法界坊が幽霊となってロープで吊るされ、客席の上を彷徨う場面のあと。
吊られた幽霊が姿を消し、さあこれで終わりかと思いきや、いきなり舞台の隅に大きなサーチライトが一つ登場し、ものすごい光量で天井を照らし出す。縦横無尽に動き回るライトの先に、
なにかが捕らえられて照らし出されるのかのような期待を持たせておいて、結局はなにも照らし出さずに、行き場をなくしたかのようにライトは去って行く。
一見すると意味がない。しかし、何かが暗示されているような気がして胸に引っかかった。

謎のサーチライトが象徴するもの。

観劇当日の僕は、この謎の演出の意味がわからなかった。
物語とは関係のない意味不明なことをするということは、演出家がその場面に強いこだわりを持って仕組んだということを意味する。あの仕掛けはなんだったのだろう。

今日になって突然わかったような気がした。
あれは「見えないものを見えるようにしたい」という、「露悪」への憧れを持ち続ける人間存在というものを象徴したかったのではないだろうか。
「なかなか見えない」からこそ、「もっと見よう」と思って人は惹きつけられる。しかも隠されていて「悪」の香りがするものに、人は根源的な魅力を感じて引き寄せられる。エロスというものはそういうものだ。

しかし現代社会はそうした「悪」や「汚いもの」をどんどん、社会の表舞台から抹殺して「クリーンな」管理社会へと変貌しようとしている。人間本来の多様性は否定されて画一化され、不自由で息苦しい社会を我々は築きつつある。
そうした流れの中でも人間の根源にはやっぱり「悪」がある。「悪」とは「人間の本能」の別名だと僕は考える。本能を無くしたら、すでにそれは人間ではない。

社会の息苦しさによって「悪」のガス抜きができにくくなってしまったら、歪んだ形で「悪」は蓄積されて行く。鬱積されたマグマはいつか必ず噴火する。そのための出口を塞いでしまうのが現代社会。じゃあ、どういう形で噴火すればいいのか。自分で新たに捜さなければならない時代なのだ。

歌舞伎は「悪」をあっけらかんと舞台上に提示し、観客に大笑いさせたり美しさに酔わせたりする。昔から「悪場所」と揶揄されながらも人々に求められて来たのは、歌舞伎のグロテスクな「悪」を見に行くことで、自らの「悪」をガス抜き出来るからなのかもしれない。

本当の暗闇の深さを知らなくなったわれわれ。

あのサーチライトは、現代のわれわれの欲望の姿だ。
幽霊を探しても、私たちには見えなくなってしまった。
あまりにも明るくクリーンで清潔な「良識」の灯りに包まれることに慣れてしまったから。
もう、幽霊や魑魅魍魎たちのおそろしくも魅力的な姿に、本当の意味で怯えることが我々には出来なくなってしまった。
そもそも東京に住んでいると、夜でも「闇」がない。
深夜でも地上のネオンサインが夜空を染め上げていて、路地という路地には外灯が赤々と点いている。闇に潜む幽霊の存在など、想像すら出来なくなる。
こうして人間としての本能は、どんどん鈍くなり殺されてゆくのだ。

なんとつまらないことだろう。
闇の深さを知らなければ光の素晴らしさも知ることは出来ないというのに。

そう思うと、あの日見た歌舞伎のすべての場面が、遠い世界にある懐かしいけれどももう届かない、グロテスクな夢の世界に思えてくる。なんだかせつない。

見えないからこそ見ようとする。
見えないものがなくなったら、見ようとすることすらしなくなってしまう。

そうした力に対抗し、人間のありのままをみつめようとする営み。
昔も今も、歌舞伎の本質は「ロック」である。


「法界坊(ほうかいぼう) 」
序幕 深川宮本の場より
大喜利 隅田川の場まで
浄瑠璃「双面水照月」
演出・串田和美(ポスターの人形制作も→)
歌舞伎座にて8月28日まで

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コメント

この記事へのコメント

この文を読んでも、つくづく、akaboshiさんの日本びいきを感じます。
私も、日本の良さを再確認しようと思います。

オレも歌舞伎大好きで、よく行きます。
法界坊も観ました。第二幕の終わりにこだわるのは演劇出身のakaboshiさんならではですね。
誰といったんだろう、笑?

こんにちわ!初めてコメントさせていただきます。
akaboshiさんの文章を拝見して、『法界坊』が見たくなりました。でも行く機会がなさそう。去年、『東海道四谷怪談』を彼と見に行ったのを思い出します。

●海の上のピアニストさん。
日本びいき・・・というつもりはありませんが
映画にしても演劇にしても、
やはり自分が所属している社会の「今」に直接関係しているようなものに
強い関心があることは確かです。
歌舞伎は、とてもアバンギャルドな「体制批判」でもあるので
もっと身近なものになればいいのに、と思います。

●RYUくん。
第二幕の終わりは、やっぱり不思議な感じがしましたからね。
わざと観客の「後味を悪く」するがために入れてある感じでした。
ああいうところが、さすが現代劇で鋭い演出を手がけてきた
串田さんならではのこだわりなんだと思います。
ただ「娯楽」として流してしまうのではなく、
どこか心に「引っかかる」ものを提示する。
現に僕の心には強烈に引っかかったし、こんな自説を書いてもみたくなった訳です。
・・・正解かどうかは関係ない。
見た人の数だけ、正解はある。演劇とは本来そういうものであるべき。
RYUくん、健忘症?(笑)。

●cafenoirさん。はじめまして。
去年、彼と見に行ったのですか。
『東海道四谷怪談』といえば、夏場に似合う「怪談」ですね。
今回見に行って思ったのが、歌舞伎って「怪談」じゃない演目を見ても
充分に「怪談」。
歌舞伎の存在そのものが「怪談」。
よくよく考えるとものすごく怖いことを描いてるのに、
派手さと明るさであっけらかんと見せてしまうから、あまりそうは感じないけど。
とても奥深い表現なんだなぁと、再認識しました。

こんにちは、ツチコです。またの名は「ツチ子大夫」です(笑)
こちらもTBさせていただきます。
akaboshiさんが撮られた歌舞伎座の写真、素敵ですね。
その場の情景をやわらかく切り取ってる感じがして好きです。
見慣れた歌舞伎座が、ぜんぜん違った印象になりました。
するどい歌舞伎評にも唸ります。今後もおじゃまさせていただきますね。
ブログ共々、よろしくお願いします。

akaboshi07さん、こんにちは。
こちらからもTBさせて頂きました。
実は、今まで観た歌舞伎、4回中3回が串田さんの演出によるものでした。
同じ物語でも、演出家によってかなり感じが変わるみたいですね。
串田さんが描く世界には、かなりハマっています。
野田さんや蜷川さんの演出にも、かなり興味があります。

●ツチコ太夫さん、訪問ありがとうございます。
今後も歌舞伎についての知識を得るために遊びに行かさせてもらいます。
ホント、奥深くて表現としての知恵が詰まっていて、
知らなきゃ損だと思いました。今まで食わず嫌いだったんだなぁと反省してます。
写真、「やわらかく切り取ってる」という印象を持たれるんですね。
自分では意識していない感覚なので「なるほど」と思いました。
写真は多義的な表現ですから、いろんな印象が生まれてこそ
豊かなんだと思います。ありがとうございます。

●はにーさん。訪問ありがとうございます。
串田さんは、どちらかというと優しい世界観の中にチラッと毒を含めておいて
あとからジワジワと利いてくるようなタイプの演出を好むような気がします。
見ている最中はすごく「娯楽」として楽しめるんですが、
実はちょっと怖いこともさりげなく入れている。
そうした気質が、歌舞伎本来のあり方とマッチしているのかもしれません。
現代劇でも歌舞伎でも、やはりその人のカラーだとかこだわりを
ちゃんと含めて仕事しているんだなァと嬉しくなりました。

akaboshi07さん、ビス子と申します。
コメント&トラバありがとうございました。
私は、歌舞伎のグロテスクな「悪」が大好きです。
癖になる気がします。
あのサーチライトはとても印象に残っていたんですが、
なるほど、そんな深い意味が!感性の鋭さがうらやましいです。
歌舞伎座の写真、私も素敵だと思いました。
この前、夕方6時頃に歌舞伎座の右下(当日券売り場前の看板あたり)
から見上げてみたら、ライトアップと夕方のマジックタイム?で
とってもキレイでした。
正面の真下ではなく斜めから見上げた方がキレイな気がしました☆
では、また拝見させていただきます。

TB&コメント有難うございました。
akaboshi07さんは”感覚”をとても大事にされているんでしょうか?
記事に思わず引き込まれてしまいました。
私は”感覚”を”言葉”に表す事がとても苦手で陳腐になってしまうので、とても羨ましいです。
なぁんて堅苦しく言ってしまいましたが、要するにとても共感しました!ということで(笑)私もTBさせて下さいね。

● ビス子さん。
「悪」って、僕も非常に魅かれる概念です。
「善」よりかは断然、「悪」。そちらの方が人間の本質だと思うし。
歌舞伎は、普段抑圧されている「悪」をスカッ!と解放させてくれるから
見ていて気持ちいいんだと思います。
あの「美しさ」も、見る者を虜にしてしまうということからいえば「悪」ですよね。
サーチライトのことは、僕のまったくの主観ですので
もしかしたら串田さんの意図とは違う部分もあるのかもしれません。
でも、基本的に観客というのは「誤読」してしまってもいいものだと
僕は考えています。
芸術作品の解釈に「正解」などあろうはずはなく、
見る人一人一人の中で形作られたり変形したり、育って行くものだと思います。
制作者たちも、それを臨んでいるはずです。
その点、本当に歌舞伎というのは多義性に満ちていて素晴らしい。
いかようにも解釈できる「すき間」がたくさんあるように思いました。
夕方のマジックタイムに色づく歌舞伎座は綺麗でしょうね~。
僕も夕方のあの不思議な光線は大好きです。

●mayaribeさん。訪問ありがとうございます。
こんな長い記事を読んでいただき恐縮です。
本当はもっと簡潔にまとめたかったのですが、書いてるうちに
脳が興奮してしまい、止まらなくなってしまいました(笑)。
それだけ、今回の歌舞伎体験は僕にとって大きな出来事だったのです。
外国人の芸術家がこぞって歌舞伎を観て衝撃を受けるという理由が
わかったような気がします。
食わず嫌いは損ですね。

TBありがとうございます。
「法界坊」レビュー拝見させていただきました。
幼稚どころか実に見事なものだと思います。
自分はずいぶんと歌舞伎を鑑賞しているつもりでしたが
いまさらながら自分の「記事」の拙さを感じて恥じ入るばかりです。
いい刺激になりました。
第二幕のサーチライトにしても自分は見たままの感想しか持ちませんでした。
サーチライトは今までの歌舞伎にはなかった追跡の意志表示です。
すなわち、歌舞伎はあくまでも歌舞伎座の中での出来事でした。
ところが、今回の「法界坊」に限って「法界坊」は外へと飛び出してしまったのです。
今頃、銀座や新宿あたりをふらふらと歩いているのかもしれません。
サーチライトに照らし出されなかったのが何よりの証です。
何年か前に見た蜷川さん演出の「身毒丸」も義理の母と一緒に渋谷の街へ出て行くのをこの目で見ました。
ぼくは思うのです。
闇は目には見えなくなりましたが決してなくなったわけではありません。
世の中は単に明るくなったに過ぎないのではないでしょうか?
拙いコメントでした。どうかお許しください。

●べろさん。訪問ありがとうございます。
サーチライトって「追跡」をイメージさせますよね。
本当に、あの瞬間はいったい何が照らし出されるのかと期待が高まりました。
しかし何も照らし出さずに、あっけなく、何事もなかったかのように
サーチライトは引っ込められ、場面は終わってしまう。
かなり大胆な演出ですね、考えてみると。
作品全体が「エンターテインメント」として成り立っているからこそ、
ああいう大胆な演出を施してもバランスが崩れないのでしょう。
べろさんのおっしゃるように、闇はなくなったわけではなく
かえって深く濃くなっているのだと、僕も思います。
解放されたり、公に可視化されにくくなった分、
その屈折と鬱積は底深いものになってしまったように危惧しています。
いろいろと、おかしな事件が起こるたびにセンセーショナルに騒がれますが
僕は全然、意外なことだと思わなくなってしまいました。
「起こるべくして起こったなぁ」と思ってしまうんです、どうしても。

TBありがとうございました。他の記事も読ませていただきました。読み応えのある文章で、こういう感じ大好きです。写真も質感がいいですね。また、遊びに来ます。
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