ウム・フェミニスト・ビデオ・アクティヴィズム(WOM) 『OUT:ホモフォビアを叩きのめす!プロジェクト』●MOVIEレビュー

3月6日(土)、国際基督教大学で開催されたイベント『〈"女"同士の絆〉と生き抜くこと ―アジア圏の「レズビアン」のつながりを考える』にて、韓国のドキュメンタリー映画『OUT:ホモフォビアを叩きつぶす!プロジェクト』(2007年)の上映を初めて観て、監督トークを聴きました。
★同作品(OUT: Smashing Homophobia Project)は2007年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映、その後、東京で監督トークイベントなども開催されました。僕は当時トークイベントには参加したのですが、作品を観たのは初めてです。
まず驚いたのは韓国の学校空間においてレズビアンが置かれてきた状況の過酷さです。特に、キリスト教系の学校では「レズビアン狩り」というのが公然と行われてきたということ。韓国のクリスチャンは人口の30%は居るわけですから、日本のクリスチャン(2%)とは比較できない比率の高さです。

『OUT』が製作された2005年~07年頃までは「学校レズビアン検閲」を韓国の多くの学校が行っていて、「同性愛は簡単に変えられるもの」であるとして指導が行われていた。学校にレズビアンと疑われた生徒のブラックリストがあり、リストに載っている者同士で会うことが禁じられた。挨拶するだけでも罰した。
韓国の学校で「レズビアン検閲」の対象とされた生徒は、罰則としての清掃をさせられ反省文を書かされ、転校を命じられるなどして、いわば学校で過ごす時間の多くを勉強に割くのではなく、そうした「仕打ち」によって奪われてしまっていたとのことです。これは「重大な人権侵害である」と『OUT』の監督は話してました。
学校でいくら「レズビアン検閲」にさらされようが、自分では変えようのない状況に耐えるのは非常に困難。ドキュメンタリー映画に出演した彼女は、怒りの矛先を自分に向け、自傷行為を行ったとのことで、映画にもその傷跡を自らカメラに映す場面が出てきます。撮影当初、彼女は映画で自分のことを語りたいと望んでいましたが、監督はまず「彼女自身の安全を守ること」を優先したとのことです。
そして2005年にまず製作されたのが『学校のレズビアン検閲』という映画。韓国で社会的な反響を巻き起こしたそうで、「レズビアン検閲」の人権侵害について多くの人々に意識させるきっかけに繋がって行ったようです。その取り組みをさらに長編ドキュメンタリーに結実させようと作られたのが『OUT』。
『OUT』は、ドキュメンタリー映画の出演者自らも映画の撮影や編集、企画内容等に関与して一緒に製作していく「セルフディレクティング(自己演出)」の方法を採用し、監督は出演者にカメラを渡し、日記風に独白や日常風景を撮影してもらったそうです。そして週3日、それらの映像を監督と出演者で観ながらディスカッションを重ねて行ったとのこと。
そうすることで、出演者は映像によって記録された自己の姿を見つめ返して自己省察を深めて行くのです。映像の積み重ねによって、自己の変化にも気づいて行く過程そのものも映画に組み込んでいく手法。そして、いつの間にか、映画作りが出演者自らのエンパワーメントに繋がっていく。そういう手法で製作されたとのことです。
『OUT』製作時に監督が立てた方針としては、以下の6つを挙げていました。
①ホモフォビアとアウティングによるリスクの考察。
②出演者が社会的カミングアウトをする際の露出制限について考える。
③客観的ではなく主観的に。
④出演者たちをテーマにする。
⑤出演者が自らの人生に向き合うチャンスにする。
⑥映像言語を用いた表現を。
4か月に及ぶ『OUT』撮影の前に、出演者の一人は「すべて過去に起きたことだから大丈夫」と語っていたのですが、実際に撮影を重ねて自己省察を深めたことで、撮影後には「いかにそれまでの自分が、自分の傷を『無かったことにする』ことに慣れていたか」に気が付いたと語ったとのこと。
監督は、出演者が自己省察する際、セクシュアリティに関する基礎的情報の提供はしたけれども「あなたは○○なのではないか」といった類の誘導は行わず、あくまでも当人自らが考察するように促したそうです。その理由は、「セクシュアルアイデンティティとは、誰かから言われてわかるものではなく自らがわかるもの」だから。
「しかし、若いうちに他者の否定的な言葉にさらされると、物事を自ら考え見出す能力の発達が妨げられる。そして、自らが自らのセクシュアルアイデンティティを見出すことが出来なくなる」。そうした問題意識から取られた撮影方法だったようです。
ここからは僕が『OUT』を観た感想なのですが、主要登場人物3名の「顔」が一度も映し出されることがなく、首から下、後ろ姿、あるいは彼氏と喋ってる際に見える並木の光景等ばかり。彼女らと話す監督の顔以外は殆ど映らないという徹底ぶりに驚き、でもそれが重要なメッセージなのだと感じました。
「自分は何故学校でレズビアン検閲の対象とされたのか」がきっかけとなって始まった撮影において、「彼氏と付き合っている自分はレズビアンと言えるのか」「女の子を好きになるのと友情とどう違うのか」など、その時々にぶつかる疑問や気持ちの繊細な揺れが、「顔」を映さないからこそ語れているのです。
そして「なぜ私はドキュメンタリーを撮ることを引き受けたのか」「なぜ自分は顔を映せないのか」などの考察に繋がったりもしていました。素朴な疑問に繊細にこだわり、監督に対して自ら撮影した映像での「つぶやき」を見せ、一緒に語り合うことで、さらに自己省察が進んで行く。その変化の過程において映画が創り出されていく。見事でした。
映画の出演者である彼女たちは「劇中歌」として挿入されるラップ音楽の歌詞を作り歌い、そしてラストの場面では建物の屋上で青空に向かい、仮面を付けつつ未来に力強く向かっていこうとするイメージ映像を堂々と撮影するのです。制作者と出演者が同時代を生きる「人」として共に歩み続ける決意表明として僕は受け止めました。
質疑応答で印象的だったのは「韓国ではゲイの監督は大勢活躍していますが、レズビアン映画は少ないのか?」との質問への応答。なんと韓国ではレズビアンを取り上げたドキュメンタリーは『OUT』や『学校レズビアン検閲』そして、08年に政治家に立候補したレズビアンの記録映画しか出てないとのこと。
韓国ではゲイに関しては最近でもテレビドラマ『人生は美しい』でゲイカップルが描かれヒットしましたが、相変わらず主要メディアや商業映画界でのレズビアン描写は「無い」とのことです。「なぜレズビアンは出来ないのか。歯がゆい思い」だと監督は語っていました。
全部のトークを聴いての疑問。
韓国キリスト教系の学校では「レズビアン検閲」「レズビアン狩り」があったとのことですが、「ゲイ検閲」「ゲイ狩り」も同じように学校の指導要領に組み込まれるレベルで起きてなかったのだろうかということ。起きてなかったのだとしたら理由は?と聞けばよかったと、後から気付きました(残念)。
総じて、韓国社会における「レズビアンの状況の厳しさ」は予想以上でした。映画やドラマでの表現に限って言うならば「ゲイ」については最近、日本よりも先んじた表現が流通するようになってると言えそうです。つまりレズビアンとの格差が大きく開いてしまってるように感じられました。韓国のゲイたちはその状況をどう見ているのかも気になります。→FC2 同性愛 Blog Ranking
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