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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2010-03
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木下恵介を辿る旅007●不朽の名作はもしかして、未来を暗示しているのかもしれない



 最近、木下惠介監督の伝記本『天才監督 木下惠介』(長部日出雄著)と、高峰秀子さんと著者とのふれあいが書かれた『高峰秀子の流儀』(斎藤明美著)に深い感銘を受けまして。(本当にどちらも名著です!)

 木下監督作品が観たくてしょうがなくなり、新宿TSUTAYAでどの程度のDVDが借りられるのかを調査してまいりました。

 同時代に黒澤明監督と「2大巨頭」として人気を博し、ライバル関係にあったはずなのに片や黒澤作品は全作品のDVDがズラ~っと並んで威容を誇っていたのに対し、木下恵介コーナーの地味なことといったら・・・。

 全49作品中、棚に並んでいたのは15作品ほど。しかもほとんどがVHS。DVDで借りることが出来るのは『二十四の瞳』『日本の悲劇』『カルメン故郷に帰る』『女の園』『野菊の如き君なりき』ぐらいなものでした。

 たしかにそれらは、日本映画史の中でも「名作中の名作」として語られるものばかりですし、これだけの代表作が並べられているというだけでもやはり凄い監督ではあるのですが。それ以外にもまだまだ本当に様々なタイプの多彩な作品を残した方であり、そのどれもが後世に「遺されて語られ続けるに値する宝物」だと思うんですよ。しかしどうも現在においては商業価値が認められていないというところに、映画界のキナ臭い「政治」を感じてしまいますねぇ。

 世界各地の映画祭に「箔付け」のために積極的に出品したり、監督の死後も遺族や親族が商品化に積極的であり続けると、黒澤監督のように「ブランド価値」がキープされるわけですが。木下監督の場合は「おネエ」であったことも影響しているのでしょうか、独りで暮らし続けたわけで子どもがおらず、つまり死後に商品化を積極的に展開する「家族」がいなかったということも、現在の知名度に影響しているのかもしれません。それもまたそれで「木下監督らしいあり方」なのかもしれないですけど、残念すぎる事実です。

 ところで先ほどまで、『二十四の瞳』をDVDで観ていたのですが・・・。本当はちょっとだけ覗いてみるつもりだったんですよ。しかし魔物ですねぇこの映画。2時間25分もある作品なのにも関わらず、観始めたら最後、引き込まれて目が離せなくなってしまい、「終」のマークが出た後にはしばらく放心状態になってしまいました。

 この作品、20歳の頃に文化庁主催の木下監督特集上映で観たのですが、その時には全然なんとも思わなかったんですよ。「あ、これが名作と言われている大ヒット映画ね。」という認識しかなかったという感じ。やたら子どもたちが唱歌を歌う場面ばかりが続いてモタモタしている物語展開に、イライラした記憶があります。あと、元小学校教師である母親が「この映画を観た事で教師を志望した」と言っていたことがありまして、「短絡的な志望動機だなぁ」と、すっごく失礼なことを思っていたりしたわけですね。つまり「お涙頂戴の商業主義映画」だという烙印を、青かった僕は勝手に押してしまっていたわけですよ、この映画に対して(←ほんとアホ。)

 ところが!

 遅まきながら今になってようやく、この作品の良さがわかったのです!!

 当時の自分と今の自分の大きな違いは、映像制作に関わりはじめて本気で映画を作りながら生きて行きたいと思っているということがあるわけですが。この映画が「映像」として持っている力の凄さとか、その凄さを観客には誇示せずに飄々とやってしまっている木下恵介という人のとてつもない映像センスに圧倒されまくったという感じなのです。

 この映画、ただの一秒たりとも、ワンカットたりとも、一つの台詞たりともテキトーに作られている瞬間がありません。すべてに一貫して明確な「思想性」が込められており、圧倒的な迫力となって魂に突き刺さってくるのです。

 この映画が作られたのは終戦から9年目の1954年。そろそろ終戦の痛手から国民が回復し、再軍備や近代化が推し進められ始めた頃に重なります。その時代において、牧歌的な瀬戸内海の景色の中で本来ならば伸び伸びと育って人生を謳歌するはずだった子どもたちが、戦前から戦後の時代の波に呑まれて翻弄されてしまう姿を「オナゴ先生」の視点から描き出す。映画は徹底して貧しい者、弱い者の視点に寄り添い、オナゴ先生と一緒に笑い、そして哀しみ、泣くのです。

 かつて、笑ったり哀しんだり泣いたりすることが禁じられた時代があった。誰も本音を言うことが出来ない萎縮した社会になってしまった時代があった。この映画は、その恐ろしさを声高に訴えるのではなく、小学校唱歌を朗らかに歌いながら束の間の学校生活を楽しむ島の子どもたちの「生の輝き」を前半でしっかりと観客に共有させることで逆照射するのです。

 つまり、モタモタした物語展開は観客をその世界に引き込んで「生きて呼吸させる」ために必要なことなんですね。ところが後半になるにつれて物語の加速度は増し、次々に襲い来る運命の無慈悲さとのコントラストが引き立つのです。そして、オナゴ先生と一緒に観客も「泣く」ことになるのです。時の流れの残酷さ、世の流れの無慈悲さに共感しながら。

 木下監督作品は、高度経済成長で日本がイケイケドンドンだった時代や様々なアングラ文化が花開いた時代には「女々しくて情緒的だ」と語られたそうですが。

 女々しくてなにが悪い。情緒的でいられるということが、どれだけ恵まれたことなのか。そのことをきっと、木下監督は生涯をかけて訴え続けた人だったんだろうなぁと感じました。

 木下監督の訴え続けたことはたぶん、これからますます強度を増して我々に突き刺さってくるような気がします。『二十四の瞳』で描かれている不況下における子どもの貧困問題は、現代の問題でもあります。

 経済的な困窮が人々の心から「潤い」を無くし、いつの間にかとんでもない暴走が起こり破滅的状況を迎えた、この国の過去。油断しているとそれは再び「未来」になるのかもしれないということを感じながら、文句なしの不朽の名作から目が離せなくなったひとときでした。FC2 同性愛 Blog Ranking
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