木下恵介を辿る旅007●不朽の名作はもしかして、未来を暗示しているのかもしれない


木下監督作品が観たくてしょうがなくなり、新宿TSUTAYAでどの程度のDVDが借りられるのかを調査してまいりました。
同時代に黒澤明監督と「2大巨頭」として人気を博し、ライバル関係にあったはずなのに片や黒澤作品は全作品のDVDがズラ~っと並んで威容を誇っていたのに対し、木下恵介コーナーの地味なことといったら・・・。
全49作品中、棚に並んでいたのは15作品ほど。しかもほとんどがVHS。DVDで借りることが出来るのは『二十四の瞳』『日本の悲劇』『カルメン故郷に帰る』『女の園』『野菊の如き君なりき』ぐらいなものでした。
たしかにそれらは、日本映画史の中でも「名作中の名作」として語られるものばかりですし、これだけの代表作が並べられているというだけでもやはり凄い監督ではあるのですが。それ以外にもまだまだ本当に様々なタイプの多彩な作品を残した方であり、そのどれもが後世に「遺されて語られ続けるに値する宝物」だと思うんですよ。しかしどうも現在においては商業価値が認められていないというところに、映画界のキナ臭い「政治」を感じてしまいますねぇ。
世界各地の映画祭に「箔付け」のために積極的に出品したり、監督の死後も遺族や親族が商品化に積極的であり続けると、黒澤監督のように「ブランド価値」がキープされるわけですが。木下監督の場合は「おネエ」であったことも影響しているのでしょうか、独りで暮らし続けたわけで子どもがおらず、つまり死後に商品化を積極的に展開する「家族」がいなかったということも、現在の知名度に影響しているのかもしれません。それもまたそれで「木下監督らしいあり方」なのかもしれないですけど、残念すぎる事実です。

この作品、20歳の頃に文化庁主催の木下監督特集上映で観たのですが、その時には全然なんとも思わなかったんですよ。「あ、これが名作と言われている大ヒット映画ね。」という認識しかなかったという感じ。やたら子どもたちが唱歌を歌う場面ばかりが続いてモタモタしている物語展開に、イライラした記憶があります。あと、元小学校教師である母親が「この映画を観た事で教師を志望した」と言っていたことがありまして、「短絡的な志望動機だなぁ」と、すっごく失礼なことを思っていたりしたわけですね。つまり「お涙頂戴の商業主義映画」だという烙印を、青かった僕は勝手に押してしまっていたわけですよ、この映画に対して(←ほんとアホ。)
ところが!
遅まきながら今になってようやく、この作品の良さがわかったのです!!
当時の自分と今の自分の大きな違いは、映像制作に関わりはじめて本気で映画を作りながら生きて行きたいと思っているということがあるわけですが。この映画が「映像」として持っている力の凄さとか、その凄さを観客には誇示せずに飄々とやってしまっている木下恵介という人のとてつもない映像センスに圧倒されまくったという感じなのです。

この映画が作られたのは終戦から9年目の1954年。そろそろ終戦の痛手から国民が回復し、再軍備や近代化が推し進められ始めた頃に重なります。その時代において、牧歌的な瀬戸内海の景色の中で本来ならば伸び伸びと育って人生を謳歌するはずだった子どもたちが、戦前から戦後の時代の波に呑まれて翻弄されてしまう姿を「オナゴ先生」の視点から描き出す。映画は徹底して貧しい者、弱い者の視点に寄り添い、オナゴ先生と一緒に笑い、そして哀しみ、泣くのです。
かつて、笑ったり哀しんだり泣いたりすることが禁じられた時代があった。誰も本音を言うことが出来ない萎縮した社会になってしまった時代があった。この映画は、その恐ろしさを声高に訴えるのではなく、小学校唱歌を朗らかに歌いながら束の間の学校生活を楽しむ島の子どもたちの「生の輝き」を前半でしっかりと観客に共有させることで逆照射するのです。
つまり、モタモタした物語展開は観客をその世界に引き込んで「生きて呼吸させる」ために必要なことなんですね。ところが後半になるにつれて物語の加速度は増し、次々に襲い来る運命の無慈悲さとのコントラストが引き立つのです。そして、オナゴ先生と一緒に観客も「泣く」ことになるのです。時の流れの残酷さ、世の流れの無慈悲さに共感しながら。

女々しくてなにが悪い。情緒的でいられるということが、どれだけ恵まれたことなのか。そのことをきっと、木下監督は生涯をかけて訴え続けた人だったんだろうなぁと感じました。
木下監督の訴え続けたことはたぶん、これからますます強度を増して我々に突き刺さってくるような気がします。『二十四の瞳』で描かれている不況下における子どもの貧困問題は、現代の問題でもあります。
経済的な困窮が人々の心から「潤い」を無くし、いつの間にかとんでもない暴走が起こり破滅的状況を迎えた、この国の過去。油断しているとそれは再び「未来」になるのかもしれないということを感じながら、文句なしの不朽の名作から目が離せなくなったひとときでした。→FC2 同性愛 Blog Ranking
akaboshiコラム041●僕より先に僕のことを見抜いていたのかっ!!

先日、大学時代の友人の結婚式が新潟でありまして、出席してきました。
素朴でまっすぐな性格の友人の人柄そのものであるかのような、純朴な感じの披露宴。久々に再会した友人たちとも、10年以上の歳月の経過が嘘であるかのように「あの頃のまま」な感じで話すことが出来て新鮮でした。
「新鮮でした」ってのは実は僕、これまで同窓会とか昔の仲間と会う場に出ることが苦手でして、なんだかんだ理由を付けては出ないことが多かったんです。でも最近は苦手意識が抜けてきて、「どうでもいいこと」のように感じられるようになりました。たぶん、歳をある程度重ねて「無駄な自意識」が抜けてきたんだと思います。

「男は男らしく外で働き、女は旦那を家で支える」という、いわゆる保守的かつ(旧来)オーソドックスとされてきたスタイルの家庭をこれから友人が築くことになるのだろうことは、仲人のスピーチやご両親の様子などから伺い知れたわけですが。「彼にとってはそういう生き方をすることが自然なんだし、彼と一緒になる人もそれを選んだわけだし」と、実際に目の前にそういう二人が居る以上は「そういうもんなんだろうなぁ」と思うしかないわけで、それがこの二人の人生設計なわけです。心の底から「このまま仲良く過ごしてもらいたいなぁ」と祝っている自分がいて嬉しかったです。実はもう少し「ひねくれた感情」が湧いてくるのかもしれないなぁと覚悟もしていたものですから(笑)。

一応、言いだす前には「ちょっと驚かすかも知れないけれども大丈夫?」と注釈を付けましたけどもね。すると友人たちは笑顔で「いいよいいよ。この歳になると人生経験積んできてるし、大抵のことには驚かなくなってきてるから。何でも言って!」と返してくれたので、お言葉に甘えて言わさしてもらいました(笑)。
友人1名は、言った途端に「あぁ、大学時代からそうなんじゃないかと思ってたよ」と、ケロッとした顔で返してきました。なにぃ~~っ!!自分ですら自分がゲイだと自覚していなかった時にっ!?僕より先に僕のことを見抜いていたのかっ!!と衝撃。
そしてもう一人はなんと、「あ。うちの職場の上司にもいるよ」とのこと。リアクションが軽い、軽すぎる~っ!(爆)。

ちなみにその友人は、ここではとても書けないような超~お固いマッチョの権化のような大組織で日々、我らの安全を守ってくれているので当然、保守的な職場なのかと思っていたのですが…。私的なレベルでは、そういうところでも当事者が言い出しやすい世の中になってきているのですねぇ。ホント、あの組織の中枢でそう言ってる人が居るんだったらもう、怖いものはないんじゃないかと感動すら憶えてしまうエピソードでした。

再会した友人たちとこれから、また新たな関係性が築けそうで楽しみです。→FC2 同性愛 Blog Ranking
レイザーラモンHGを観察せよ006●えっ!リッキー・マーティンってカミングアウトしてなかったの!?と思ってしまったのはHGのせい・・・だけでもないようで

実は本日、リッキー・マーティンがゲイであることを公表したことが報じられたのですが、正直「えっ!してなかったの!?」と感じてしまったのは僕だけでしょうか?
なぜそう思ったのかを考えてみたら、記憶の奥にしまい込まれていた映像と音声がムクムクと復活してきました。今から約4年前、日本のテレビ界を席捲していたレイザーラモンHGが「ハードゲイキャラ」で腰を激しく振って登場する時のテーマ曲に使われていたのが、リッキー・マーティンのヒット曲『Livin′la Vida Loca』だったんですよねそういえば。だから原曲を歌ってる人は当然ゲイだと認知されてるのかと思い込んでいました。日本ではHGブームの数年前に郷ひろみが「♪ア~チ~チ~ア~チ~」って振り付きでカバーしてヒットもしてましたっけ。
●YouTubeより~レイザーラモンHG
いやぁ~。ブームってものは過ぎ去ってみると「なんでこんなのが流行ってたんだろう」と不思議な感慨に襲われますね(苦笑)。レイザーラモンHGのあのパフォーマンスについては当時、「非当事者が当事者を笑い物にしている」という意味で抗議活動をする人もいれば、健康的な笑いとして笑って見ている人もいて、三橋順子さんが言うところの「オカマのダブルスタンダード」と同じように、当事者間でも意見が別れていたように思います。僕は当時、わりと楽しんで見ている方でした。ノンケ男性が忘年会等でモノマネを盛んにしている姿が報じられても、いい光景だなぁ~と思ってましたし。
4年経って今の自分がどう感じるのか久々にYouTubeで上記の映像などを観てみましたが、やっぱり笑って見てしまいますね~(笑)。結果的には「おネエ」とは違う「マッチョタイプ」のゲイの認知に繋がっているような気がしますし、表現が中途半端ではなくスコーンと突き抜けてしまっているので、「健康的」に感じられるんですよ、スポーツを見ているような感覚。ジメジメしていないところが当時、多くの人々に好感を持たれた秘訣だったのかなぁと思いました。
さてリッキー・マーティン「カミングアウト」のニュースですが、AFPでは今回のニュースをYouTube動画でも報道していますよ。
●Youtubeより~リッキー・マーティン、同性愛者であることを告白
■人気歌手リッキー・マーティン、同性愛者であることを自らの公式サイトで告白(シネマトゥデイ)Ricky Martin: "I'm gay"
【3月30日】プエルトリコ出身の歌手リッキー・マーティン(Ricky Martin、38)が29日、公式サイトで同性愛者であることを明かした。マーティンがゲイではないかといううわさは以前からあったが、突然のカミングアウトで世界中のファンを驚かせた。
腰を回転させる動作やサルサのような踊りを見せるマーティンに憧れるファンは世界中にいるが、特に女性ファンが多い。レコーディングやコンサートはほとんどスペイン語で行っているが、1999年の「Livin' La Vida Loca」の大ヒットなどのおかげで、英語圏にも多くのファンがいる。
「私は幸せな同性愛者だと誇りを持って言える。自分が自分であることに感謝している」こう明言したマーティンは数か月前に回顧録を書き始めた。その際、自分の性的指向を打ち明けようと決意。この決断は人生のターニングポイントとなったという。
「最初の一文を書いたときから、この本によって自分は、長い間自分の中に抱え続けてきたものから解き放たれると確信した」
さらに、自分の中にとどめておくことができないほど秘密が重くなったことや、自分が同性愛者だということは称賛に値するものだと考えているということなども明かした。
また、もっと早くに打ち明けなかった理由については、告白すればキャリアがダメになると以前から忠告を受けてきたからだと書かれている。
この告白によって自分は強さと勇気で満たされているというマーティンは、こう宣言した。「今日はわたしの日、今はわたしの瞬間だ」
(00:59) Report
Mar 29 - Singer Ricky Martin announces that he is gay. John
■リッキー・マーティン、「自分は幸福な同性愛者」(ロイター)
■リッキー・マーティン「ホモセクシュアル」だと告白(TVGroove)

現在のリッキー・マーティンは、代理母の出産で2人の子どもの父親となり、一人で子育てをすることも公表しているのだとか。今後自伝が発売されるとのことですが、ぜひ日本語訳でも出版して欲しいですね。ジョージ・マイケルのように自伝映画のようなものを創るとか、さらに発展した展開を見せてくれると嬉しいかも。商業的なニーズもありそうですし。→FC2 同性愛 Blog Ranking
Ronとakaboshiの直撃トーク★綾さんに聞く!MtFレズビアンな恋バナ&SEX 04●性風俗とマジョリティ

今回は綾さんの性風俗体験から初恋まで掘り下げますが、Ronさんと僕にとっては「知られざるマジョリティの世界」という感じでした。
04●性風俗とマジョリティ
■綾さんに聞く!MtFレズビアンな恋バナ&SEX PLAYLIST
前日に開催していたパフナイトも併せてどうぞ~。
■パフナイト★MtFレズビアン綾さんの人生“トラ”の巻 PLAYLIST
ほんっと綾さんって(本人曰く)「マジョリティの子どもの世界」にハマってたんですねぇ~。Ronさんや僕のリアクションを見ていると、完全にそういうものとは別の感性で生きていたことがわかります。男女関係に疎かったというのはつまり・・・基本的には異性に関心が無かったということですからねぇ(爆)→FC2 同性愛 Blog Ranking
テレビの中の性的マイノリティ03●「オカマ」のダブルスタンダード

性的マイノリティを巡る様々な事柄を考えるとき。いろんな見解が衝突し合って「単純には語ることが出来ない複雑さ」にぶつかることがよくあります。「オカマ」という言葉に対するスタンスも、その一例。
三橋順子さんは今回の講演で、「オカマは差別語であり、テレビメディアでの使用は禁じるべきだ」と主張されました。
03●「オカマ」のダブルスタンダード
■テレビの中の性的マイノリティ PLAYLIST
■主催:セクシュアルマイノリティと人権を考える会 さらだ ■講師:三橋順子さん
ゲイの中でも、特に新宿二丁目界隈から発信されているゲイ雑誌を中心とした文化圏に親和性の高いタイプの人々は、いわゆる「キャムプ」の文脈で「オカマ」を肯定的な意味で使用しているケースが多いです。
一方、MtFトランスジェンダーや「女っぽい仕草や言葉遣い」が理由でいじめられた経験のあるゲイ当事者の中には、自らのトラウマに直結するということもあるのでしょう。「差別語である」という認識を持っている人が多いようです。
僕としては「オカマ」という言われ方でいじめられた経験がまったく無いため、この言葉と「個人的な感情記憶」が結びついたことがありません。ただ、テレビで明らかに「侮蔑的に使われている光景」を観た時には不快になったりします。
また、バラエティ番組をはじめとする「お笑い」での使用の場合、どこからどこまでが「侮蔑的表現」であり、どこからどこまでが「笑いによる現実批評・風刺表現」なのかの判別は難しく、受け手の主観にも関わる問題なので簡単に線が引ける問題ではないのではないかと思っています。
三橋順子さんの主張を聴いて、あなたはどう考えますか?→FC2 同性愛 Blog Ranking