akaboshiコラム016●『薔薇族』的なものと、ゲイコミュニティ

6月7日(土)、伊藤文学さんの新著『裸の女房』出版記念イベントが、銀座のキャバレー「白いばら」で行われたので撮影に行って来た。
■伊藤文学著『裸の女房―60年代を疾風のごとく駆け抜けた前衛舞踊家・伊藤ミカ』

僕は今回、文学さん側の「個人記録」として撮影を頼まれた。これまでたくさんお世話になっているということもあり、自分の持つ技術が少しでも役立てるのならばと協力することに。したがって無料で入ることはできたけれど。いくら「文学ファン」と言えどもこの値段では・・・と思っていたのだが、なんと会場には次から次へと人が押し寄せ最終的には140人に達していた。キャバレー側としても、予定より多く席を確保せねばならなくなり、スタッフたちが血相を変えて大わらわな光景が繰り広げられていた。
訪れた人々は、団鬼六さんや花田紀凱さんなど出版界の重鎮やその家族、文学さんの学生時代からの友人たちや下北沢でのご近所づきあいのある方々など。年齢は全体的に高めだった。この世代のこの客層にとって、この価格設定というのはそれほどキツくないのかもしれない。

まがりなりにも薔薇族の編集長を長年務めてきた人の主催するイベントなのにも関わらず、この現象は面白いと思った。今回の本が、『薔薇族』の創刊以前に文学さんの奥さんだった伊藤ミカさんの短い生涯を描いたものであるというのも、その原因の一つであろう。そしてもう一つの遠因はやはり、『薔薇族』と「ゲイコミュニティ」との長年の確執にあるのではないだろうか。

その結果、当事者たちが「自ら主体的に発信する力を持ち始めた」動きを素直に受け入れることのできなかった『薔薇族』は、情報の鮮度も落ち、新規読者も思うように開拓できず、廃刊につながったと、大まかに言ってしまえるような気がする。

両者の言い分、どちらもよくわかる。
だから、それはそれでいいんじゃないかと思う。たとえ現在、「ゲイコミュニティ」との関係は希薄になっていようとも、一人の出版人として築き上げてきた人脈や信頼、長年の仕事に対するリスペクトを幅広い分野の人たちから得ているという事実もあるのだから。78歳になってなお生き生きと、若い頃の妻の伝記を出版することができ、現在の奥さんや娘さんたちに手伝われながら盛大に出版記念パーティを行うことが出来た。スタイルが「貴族趣味」と言われようが、これが文学さんの追い求める「美学」なのだろうから。

振り返って客席の人々の表情を観察したら、この会場内の男性陣がほぼ「ノンケである」という事実に、さらに向き合ってしまった。皆さん、トローンとした目でステージに魅入っており、僕に表情観察されていることすら全く気付かずに、踊り子さんたちの一挙手一投足に意識が吸い寄せられているのだ。「とろけるような視線」「なまめかしい視線」というのは、こういうことを言うのだろうと思った。
肝心の踊り子さんたちの踊りは・・・う~ん。こういうのってドラァグ・クイーンが毒々しい誇張を施しながらパロディー表現としてやっているのを何度も見たことがあるので、それに比べてしまうととっても「健全」なもののように思えてしまう。たぶん「エロティック」な表現ではあるんだろうけど、周囲のノンケ男たちと同じように、女性の肉体から発せられるエロス的な表現に「エロス」を感じない分、毒抜きされた単なる「踊り」だとしか僕には感じ取れないのだ。感覚的なものが全く喜ばず、自分の「ゲイ度」はかなり濃厚なのだということを発見することになった(苦笑)。

南定四郎さんが「当事者主体」にこだわったゲイ業界の出版人だったとするならば、伊藤文学さんというのはつまり、昨今の言葉でいえば「アライさん(非当事者の応援者)」としての関わりを貫いたという所に、ゲイ当事者以外の「外の世界」に対して開いてつながっていくという「可能性」があった。しかし同時に、当事者主体の心理が「根本のところではわからなかった」という限界もあったのかもしれない。そんなことを感じた一夜だった。
ただ、なんでもそうだが「可能性」の裏には「限界」があるので、「評価」しようなどとは全く思わない。後世の者は、こうした歴史の「光と影」の両面から学び、今後に生かしていけばいいのだと思う。そういう意味で、日本のセクシュアル・マイノリティにとっても学ぶべき歴史は、いよいよ分厚く堆積してきているのだ。→FC2 同性愛 Blog Ranking
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