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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2009-06
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akaboshiコラム016●『薔薇族』的なものと、ゲイコミュニティ



 6月7日(土)、伊藤文学さんの新著『裸の女房』出版記念イベントが、銀座のキャバレー「白いばら」で行われたので撮影に行って来た。

伊藤文学著『裸の女房―60年代を疾風のごとく駆け抜けた前衛舞踊家・伊藤ミカ』

 なんとこのイベント、入場料は1万円。来場者は『裸の女房』とおみやげも一緒にもらえるというわけだが、この価格設定には驚いた。現地に行ってみて更に驚いたのは、銀座の老舗キャバレーというものは入場するだけでも7600円も払う必要があるらしい。そういう意味では適正価格と言えるのだろうか!?・・・世界が違いすぎる。

 僕は今回、文学さん側の「個人記録」として撮影を頼まれた。これまでたくさんお世話になっているということもあり、自分の持つ技術が少しでも役立てるのならばと協力することに。したがって無料で入ることはできたけれど。いくら「文学ファン」と言えどもこの値段では・・・と思っていたのだが、なんと会場には次から次へと人が押し寄せ最終的には140人に達していた。キャバレー側としても、予定より多く席を確保せねばならなくなり、スタッフたちが血相を変えて大わらわな光景が繰り広げられていた。

 訪れた人々は、団鬼六さんや花田紀凱さんなど出版界の重鎮やその家族、文学さんの学生時代からの友人たちや下北沢でのご近所づきあいのある方々など。年齢は全体的に高めだった。この世代のこの客層にとって、この価格設定というのはそれほどキツくないのかもしれない。

 ただ驚いたのは・・・ゲイ率の異様な少なさ。イベント開始前に文学さんと話したところによると、「今日はゲイの人は、君と竜くんと、あの自衛隊の彼ぐらいかなぁ。」と言っていた。自衛隊の彼というのは、以前から「文学さんの熱烈なファン」としてコミケなどでオタク層向けに、薔薇族や文学さんを紹介する冊子を作ったりしている彼。(こちらの映像で登場。)本人はノンケだと公言しているにもかかわらず、文学さんの認識では完全に「ゲイ」に入るらしい(爆)。しかし僕としては、話してみると彼は「筋金入りのノンケ」だと思う。ということは今日、この140人の中で、はっきりと「ゲイ」だと認識できるのは・・・2人だけしか居ないではないか!

 まがりなりにも薔薇族の編集長を長年務めてきた人の主催するイベントなのにも関わらず、この現象は面白いと思った。今回の本が、『薔薇族』の創刊以前に文学さんの奥さんだった伊藤ミカさんの短い生涯を描いたものであるというのも、その原因の一つであろう。そしてもう一つの遠因はやはり、『薔薇族』と「ゲイコミュニティ」との長年の確執にあるのではないだろうか。

 1990年代に日本のゲイコミュニティの活動が様々に花開いた時期に、『薔薇族』側はその活動に対してあまり積極的なサポート体制や資金協力を行わなかったという歴史的事実がある。コミュニティ側の当事者主体的なイベントや活動のほとんどは、当時のライバル雑誌『アドン』を主宰する南定四郎さんが関与して行われていたものだということは、先日の伏見憲明さん主催のトークイベントでも語られていたこと。つまり確執の背景には『薔薇族』VS『アドン』という、ゲイ雑誌界のライバル争いという側面があったのだ。

 その結果、当事者たちが「自ら主体的に発信する力を持ち始めた」動きを素直に受け入れることのできなかった『薔薇族』は、情報の鮮度も落ち、新規読者も思うように開拓できず、廃刊につながったと、大まかに言ってしまえるような気がする。

 また、文学さんが今回のように、キャバレーでのイベントを企画するというセンス自体、この御時勢に「浮世離れした行為」であるとも言える。それは、『薔薇族』で得た資金で骨董品を蒐集し、新潟に美術館を建設した発想や行動とも似ている。ゲイ・コミュニティの市民活動でお金がなく、手弁当でボランティア活動をしている側からすれば、「そんなに資金があるのなら少しは還元してくれてもいいじゃないか!」と思うことだろう。しかし『薔薇族』としては、ビジネス上のライバルが中心になって関与しているものを支援するわけにはいかなかったのだ。

 両者の言い分、どちらもよくわかる。

 だから、それはそれでいいんじゃないかと思う。たとえ現在、「ゲイコミュニティ」との関係は希薄になっていようとも、一人の出版人として築き上げてきた人脈や信頼、長年の仕事に対するリスペクトを幅広い分野の人たちから得ているという事実もあるのだから。78歳になってなお生き生きと、若い頃の妻の伝記を出版することができ、現在の奥さんや娘さんたちに手伝われながら盛大に出版記念パーティを行うことが出来た。スタイルが「貴族趣味」と言われようが、これが文学さんの追い求める「美学」なのだろうから。

 シャンソン歌手・クミコさんによる歌の披露や団鬼六さんのスピーチなど、見どころがたくさんあったイベントは、キャバレーの踊り子さんたちによる華麗なショーでクライマックス。その部分の撮影は禁じられていたため僕は、最前列で元自衛隊の彼と一緒に見たのだが。席の隙間にまで侵入してきて、いわゆる「セクシーな格好」で舞い踊る踊り子さん達に挑発されても、あんまり心を動かされない自分がいた(爆)。

 振り返って客席の人々の表情を観察したら、この会場内の男性陣がほぼ「ノンケである」という事実に、さらに向き合ってしまった。皆さん、トローンとした目でステージに魅入っており、僕に表情観察されていることすら全く気付かずに、踊り子さんたちの一挙手一投足に意識が吸い寄せられているのだ。「とろけるような視線」「なまめかしい視線」というのは、こういうことを言うのだろうと思った。

 肝心の踊り子さんたちの踊りは・・・う~ん。こういうのってドラァグ・クイーンが毒々しい誇張を施しながらパロディー表現としてやっているのを何度も見たことがあるので、それに比べてしまうととっても「健全」なもののように思えてしまう。たぶん「エロティック」な表現ではあるんだろうけど、周囲のノンケ男たちと同じように、女性の肉体から発せられるエロス的な表現に「エロス」を感じない分、毒抜きされた単なる「踊り」だとしか僕には感じ取れないのだ。感覚的なものが全く喜ばず、自分の「ゲイ度」はかなり濃厚なのだということを発見することになった(苦笑)。

 それにしても、薔薇族編集長の出版記念パーティにも関わらず、ここまで徹底して「ノンケ的センス」で彩られたイベントが開催されることになろうとは・・・。

 南定四郎さんが「当事者主体」にこだわったゲイ業界の出版人だったとするならば、伊藤文学さんというのはつまり、昨今の言葉でいえば「アライさん(非当事者の応援者)」としての関わりを貫いたという所に、ゲイ当事者以外の「外の世界」に対して開いてつながっていくという「可能性」があった。しかし同時に、当事者主体の心理が「根本のところではわからなかった」という限界もあったのかもしれない。そんなことを感じた一夜だった。

 ただ、なんでもそうだが「可能性」の裏には「限界」があるので、「評価」しようなどとは全く思わない。後世の者は、こうした歴史の「光と影」の両面から学び、今後に生かしていけばいいのだと思う。そういう意味で、日本のセクシュアル・マイノリティにとっても学ぶべき歴史は、いよいよ分厚く堆積してきているのだ。FC2 同性愛 Blog Ranking
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