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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2009-04
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滝田洋二郎「おくりびと」●MOVIEレビュー

 もっと観客を人間として扱ってよ。

 「絶対に勝つ映画を作りたかった」という橋口亮輔監督の涙の理由を知りたかったからというだけではないけれど。映画の日ならば安く見れるからいっか、ということで4月1日に旧新宿コマ劇場横の映画館で観た。

 これだけ注目を集めた映画なわけだから一般常識としても抑えておかなくちゃと「理由付け」をして自分を納得させなければ、自分から積極的には観に行かなかっただろうタイプの映画なのだが。

 松竹系シネコン「新宿ピカデリー」で観るという手もあったのだが、どうもあの、「どこで観ても一緒」的な感覚しか残らないシネコンというシステムの、無個性・無菌化された空間というのが好きではない。やはり映画館にも独自の個性とか「その場所ならではの味わい」というものが、ちゃんとあって欲しいのだ。

 その点、歌舞伎町界隈に林立している、ちょっと薄汚れた映画館群は、程よく場末感や「昭和の香り」を漂わせたままで、人間臭さが感じられるので好きだ。この界隈で見ると不思議と、映画の濃度も高められて感じられたりする。

 ところで。1000円で観られる「映画の日」なわけだから、さぞかし混雑しているであろうと覚悟して出かけたのだが、アカデミー賞受賞効果によるブームは小康状態に達したようである。あるいはDVDが発売された影響なのか、客席の埋まり具合は4割ほどだった。

 年齢は高め。しかも、上映中にビニール袋の音をシャカシャカと立てて堂々と物を食いながら観ているような、「普段はあんまり映画館には足を運ばないタイプの人たち」が多かったようで、客席ではずっと何かしらの音がし続けていて騒がしかった。まぁ、それも映画館で映画を観る醍醐味の1つ(?)ではあるので、嫌いではないのだが。

 映画は・・・これが本当にアカデミー賞?と首を傾げたくなるような出来だった。物語としては、世間で嫌となるほど語られているとおり「死」というものを見つめ返すことができるという意味では面白い内容ではあるのだが、いかんせん演出が乱雑に感じられる場面が多々ありすぎる。特に、役者の演技のスタイルがあざとくて、クドい。つまり心情的な内実が伴わずに、テキトーに表情を大げさに作って演じている瞬間が多すぎるのだ。演出の方針としては、「ファンタジー風味」の味付けを全体的に醸し出したかったのだろうが、肝心の場面ではことごとく、それが裏目に出てしまっていた。高度な要求を役者が総じて咀嚼しきれていないのだ。

 こんな幼稚な演技の有様で、よくもまあ「主演○○賞」だの「助演○○賞」だのというものが取れたもんだよなぁと、日本の映画界も腐敗しきったものよと、橋口監督の心情が痛いほど理解できてしまった。(橋口氏の意見に影響を受けずとも、僕はそう思ったことだろう。)

 安易な「セクマイ・インパクト」

 映画の冒頭では主人公が「納棺師」としての初めての仕事をする場面が出てくるのだが、そこの演出には大きな疑問符を付けておきたい。

 棺の傍で横たわり、家族に見守られながら納棺の儀を迎えようとしている死者は、練炭自殺をしたようなので、死体は綺麗なままだった。一見、「きれいな女性」に見えるのだが。

 主人公の本木雅弘が儀式を執り行いながら、死者の衣服を着換えさせている際に、下半身に触れて「・・・ん?」と顔を歪めてみせる。そして、大げさな表情を作ったまま、上司役の山崎努に「・・・付いてるんですけど」と耳打ちする。要するに、女性だと思われていた死者は、MtFトランスジェンダーだったのだ。

 ここまでだったらまぁ、テレビで「ニューハーフタレント」がブームになっているこの御時勢、性を自在に越境する人々の存在が一般に広く認知されつつある世相を入れたかったのだろうと納得もできるが、僕が腹立たしかったのが、その後に画面いっぱいに大写しにされた、山崎努のクローズアップ。「気持ち悪くおぞましいもの」を見て、驚いているかのような表情を、かなり大げさにしているのだ。遺族の前で、そりゃないだろう。その場のリアリティから完全に逸脱している、単なる「観客への感情の説明」でしかない、幼稚な演技と映像表現。ここで一気に興醒めした。

 この演出は要するに、「ここは笑うべき場面ですよ」という指示が、スクリーンから観客に投げかけられているということなのだ。そして素直な観客たちは、ここで笑うことになる。この日、僕が観た回の観客の多くは、監督の狙い通り、ここで笑っていた。

 「…クッ。」「ククッ。」という音で発せられたその笑いは、僕には「嘲笑」であるかのように感じられた。これはつまり「セクシュアル・マイノリティ」に関する嘲笑でもあるわけで、正直、腹立たしかった。

 物語の中盤でこのエピソードの続きが描かれ、理論的には「フォロー」されるのだが、役者に、このあざとい表情をさせた演出の罪を拭い去るものでは全くない。僕の心に「トラウマ」のように突き刺さった、あの表情は脳裏から消え失せてはいない。もし、セクマイも観客として観るだろうという想定がなされていれば、このように「観客に嘲笑させる場面」を演出できただろうか?物語に観客を早々に引き込むための仕掛けとして、安易に「セクマイ・インパクト」を利用しないでもらいたい。

 そもそも何故、役者に表情で役柄の内面を「説明」させるのか。人間ってそこまで単純か?。感じたことをそのまま表情に直結させるほど、単純な生き物なのか?真の感情って、そう簡単には「顔」に出るものではないと思うのだけれど。

 ましてやこの場面の場合、遺族(家族)が見守る厳粛な儀式の最中であるにも関わらず。あんな表情をあからさまに見せてしまう、このベテラン納棺師(山崎努)のどこが「プロ」なんだ?。

 この場面に象徴されているように、単純であからさまで押し付けがましく説明過多な演技と演出スタイルは、130分も続く映画の上映時間中、ほぼ全篇にわたって貫かれていた。かくして僕は途中から、まるで幼稚園児になったかのような気持ちで、「すべてわかりやすく説明され続ける単純な表現」に付き合わされることになったのだ。

 なるほど。たしかにこの種の表現方法は、いわゆる「ハリウッド映画的」なものではある。そういう意味で、アカデミー賞の受賞に関しては(負の意味で)納得した。ただし、これを「日本映画の良心」だとか安易に言いあらわす物言いには、断固反対する。これって、一見「日本映画」の意匠をまとってはいるものの、演出スタイルにおいては完全なる(悪い意味での)「ハリウッド映画」ではないのか?

 物語がクライマックスに達したあたりでは「これでもか」と言わんばかりに、観客に「泣き」を強要する場面のオンパレード。映画のすべては、ここで「泣かす」ために計算された仕掛け。そういう意味では無駄が一切ない。その、一面的な映像表現は、観客が自ら能動的に、自らの力で感じ取るべき「感性の多様性」を許さないかのよう。戦時中にファシストたちが量産したプロパガンダ映像と、やってることが一緒じゃないか。僕はこういうお仕着せがましい表現を垂れ流せてしまう鈍感なセンスを、最も憎む。

 AERAの取材で「絶対に勝つ映画を作りたかった」と、むせび泣いた橋口監督がなにに勝ちたかったのか。その答えが出た。もちろん、こんな幼稚な映像表現に満ちた『おくりびと』に勝ちたかったのだろう。

 観客の「能動的な想像力」を信用しないような映画は、制作者たちの自己満足だ。130分もの間、自分が人間扱いされているようには到底思えない時間を味合わされてしまった。1000円「も」払ってしまったことを後悔した。FC2 同性愛 Blog Ranking
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