akaboshiコラム011●永遠の鹿児島3DAYS
しかし、そういう日常の意味を根源から疑うことになる「旅」を経験した。ライフワークとして取り組んでいる映画作り。その取材で鹿児島に出掛けたのだ。
この3年間。僕は全国各地のLGBT関係のイベントに、よく通った。一時期は、このブログで映像公開することに使命感のようなものを感じたりして、撮影・公開が目的で通っている時期もあった。だが、次第にその目的は気持ちの中心から外れて行き、今ではむしろ友人・知人に会って、互いの変化や変わらなさを確認し合う「なんでもない時間」に喜びを感じるようになった。

羽田から小型の機体で飛び、着いた鹿児島空港には、友人(レズビアンのカップル)が車で迎えに来てくれた。今回は宿もお世話になる。誘われた当初は躊躇したのだが、この人たちなら素直に甘えさせてもらおうという気持ちの方が勝った。それは正解だったと思う。
ささやかな2人暮らし。女同士ということが周囲からどう見られるのか。やはり常に意識せざるを得ない。しかもここは鹿児島。都会のように匿名性の中に紛れることは難しい。彼女たちが、どのようにその辺のことと向き合っているのか。手料理を御馳走になりながら、詳しく聞いた。
無理せず、できないことはしない。周囲を刺激しないような方法での説明を施し、様子を見ながら少しずつ自分たちの居心地の良さを作って行く。同居を始めて約半年である彼女らの取っている方法論からは、現実に即して地に足のついた、生活者としての知恵を感じた。

しかし、それを行わせている背景にある心の闇の深さや笑顔の裏、「模範」を他人に示すことによって生じる様々な欺瞞や内面の分裂には、なかなか踏み込まないし描き出せていない。影が出来ない位の眩しい光を当て、ただ「頑張っている姿」を描き出す。結果的に、制作者側の選別により「あるベクトルに適った生き方」が肯定され、テレビで描くことのできない生き方をしている者たちに疎外感を抱え込ませる。「模範を描き出すこと=人間を描くこと」だと制作者が勘違いしている限り、番組がそうした権力性から逃れ得ることはできないことだろう。
模範的に振る舞いたくても振る舞えない環境で生きている者だって、現実社会と真正面から向き合い格闘しながら、知恵を絞って繊細に、なおかつ逞しく生きている。
たとえば鹿児島の彼女らは、休日は家族の農作業を手伝ったり、誘われたら旅行をしたり。周囲との濃密な付き合いの中で同性のパートナーを「ルームシェアをしている人」と紹介しながら楽しく過ごす。気付く人は勝手に気付けばいい。気付かない人はそのままでもいい。あくまでも自然体なのだ。その話しぶりからは、「いずれパートナーとして紹介するつもり」と決めている風な企みは感じられない。つまり、いわゆる「カミングアウト」に第一義の目標を設定しているようには思えないのだ。
しかし、それはちっとも不自然だとは感じなかったし、恥ずべきことだとも思わなかった。彼女らの生活環境の中ではむしろ、素敵なことだとさえ感じた。周囲との関係性を第一に考え、自分たちも疲れない方法論を選び取る。これが、いわゆる「正しいこと」なのかどうかはわからない。いや、そもそも人の生き方に「正しい/正しくない」などと評価軸を持ち込むこと自体が、とても傲慢でおせっかいな発想なのではないかと昔から思っている。
きっと、結果は後から勝手に付いてくるのだと思う。人と人との付き合いにおける基本原則を、おざなりにさえしていなければ。

実家の畑で採れたという、おいしくて新鮮な野菜をふんだんに使った手料理を何度も御馳走になりながら、2人がどうして鹿児島での同居を決意したかに至るライフヒストリーを聴き続けた。2人がかけ合い漫才のように面白おかしく話すので、大笑いしたりこちらからも突っ込んだりしているうちに、心の根源的なところから、あったかいものが自然に染み出てくるような気がして、全身からゆったりと力が抜けて行くのを感じた。
もともとは都会で必死に生きていた40代の「彼女」が、忙しさや諸事情で生活が破綻に近い位に荒んでしまい、体調も崩してしまっていた。そこへ、パレードで知り合ったもう一人の40代の「彼女」が訪ねて行き、見るに見かねて生活を立て直し、まるで「保護」するかのようにして始まったという鹿児島での同居生活。まだ歩み始めたばかりの2人の関係の中では、喧嘩することもしばしばあるようだが、きっと丁々発止の掛け合い漫才を続けながら乗り越えていくのだろう。そんな未来が思い描けるほどの強い絆を感じた。

時には互いのことを真剣に心配し合ったり、助けあったり。当事者同士でなければ語り合えないようなことを語り合ったりしている。
「同性愛者として生きる上での生活にまつわる実際的な問題」というのは、そういう場で語り合ってこそ、具体的に見えてくるようだ。時には本気で頭を悩ませてしまうような、のっぴきならない問題もある。でも、まずは一緒に食事をしながら一緒に笑い合って過ごす時間の中でこそ、英気が養われて行く。そして、再び問題に向き合うための勇気も湧いてくる。
鹿児島という土地柄では、都会と比べて物や人の数は少ない。しかしその分、人の「心」に目線が注がれやすいのではないだろうか。彼女らが、他人のことを本気で心配しながら関わり合っている姿を見て、そう思った。そして、いわゆる「コミュニティ活動」での出会いが、こうして参加した一人一人の日常にまで深く影響を与え、繋がり合うきっかけになっているという事実を目の当たりにして、その存在意義を新たに発見した。

なにが大切か。生きる上で、なにを求めるのか。人や物に溢れる大都会の真ん中で、僕はそれらを見失わずに追及し続けて行けるのだろうか。
鹿児島で「なにかを見つけた彼女たち」と過ごした3日間の記憶は、これから先ずっと、僕に「なにか」を問いかけ続けてくるのだろう。→FC2 同性愛 Blog Ranking
LGBTの紙媒体★掲載チェック25●アイスランドのレズビアン新首相。新聞報道チェック

今回は、さすが「世界初」の文言とともにニュースが配信されたからでしょうか。わりと満遍なく報道は行われたようです。夕刊のない産経新聞以外は2月2日付夕刊で全紙が報道。産経新聞も3日付朝刊に国際面で報道しています。
まず、見出しに「同性愛者」と含めていたのは毎日、東京、産経でした。
●特に毎日新聞が最も目立つ形での報道。2月2日付夕刊1面の新聞名の下にある「トピック」のトップに、カラーの写真付きで『世界初 同性愛の首相』の見出しを付け、『アイスランド新首相に女性のシグルザルドッティ氏が就任する。「世界初の同性愛者の首相」となる。』というリード文を付けています。
記事は6面に掲載。
『アイスランドに女性首相 「同性愛者」と公表』
(関連箇所抜粋)
●記事内容が最も充実しているのが東京新聞。2月2日付夕刊2面中央にカラー写真付きで6段抜きの大きさ。英BBC(電子版)などによると、本人が同性愛者と公表しており、「世界初の同性愛者の首相」となる。54歳の女性作家が「パートナー」という。前夫との間には2人の子供がいる。社会民主党幹部は「性的指向は問題にならない」とBBCに語った。
『アイスランドに女性首相 経済再建へ中道左派連立 弱者対策に高い支持 同性愛公表者で初』
(人となりを説明した関連箇所抜粋)
●産経新聞(2月3日付朝刊国際面左側横書き部分。カラー写真付き)同性愛者と公表しているため、首相誕生は世界中の同性愛の権利支持者にとっての「画期的な出来事」(英タイムズ紙)となる。ただ、政治家としての本領は女性、高齢者、移民、貧困層など社会的弱者への一貫した支援姿勢だ。「聖ヨハンナ」の呼び名もある。
航空会社の客室乗務員として働き、労組活動を経た後、1978年に議員に初当選。社会問題相を87-94年と2007年から現在までの2回務めている。
私生活では、2002年に結婚式を挙げたジャーナリスト・脚本家の女性(54)がパートナーだと公表。男性との結婚歴もあり、2人の子供がいる。
『「世界初」同性愛者の首相誕生 金融危機のアイスランドで』
(関連箇所抜粋)
●朝日新聞 (2月2日夕刊2面右側上部に3段抜き)同性愛者であることを公表している世界初の指導者」(英紙インディペンデント)といわれ、同性愛者団体は「画期的な出来事」と評価している。
『アイスランド新政権発足 4月にもEU加盟焦点に』
(関連箇所抜粋)
●読売新聞(2月2日夕刊2面中央部分に4段抜き。カラー写真付き)また、シグルザルドッティル氏は同性愛者であることを公言している。現地の報道によると、同性愛を公表した世界初の首相になるという。
『中道左派政権が発足 アイスランド 首相に女性』
(関連箇所抜粋)
●日本経済新聞(2月2日2面左下に3段抜き)首相に就任したシグルザルドッティル氏は、元スチュワーデスで、組合活動を通じて政界入り。78年から国会議員を務めている。「同性婚」を認める同国の法律に基づき、女性脚本家(54)をパートナーとしており、英紙などによれば、世界で初めて同性愛を公表している首相が誕生した。
『アイスランド 女性新首相を指名 中道左派連立で合意』
(記事中、同性愛公表者であることへの言及なし。)
・・・へぇ~。アイスランドでは同性婚が出来るんですね。シグルザルドッティルさんは、男性との結婚経験があり、2人の子どもがいて、現在は作家のパートナーと結婚しているとのこと。政治家としては1978年から国会議員を務めているということで、30年間国政に関わり続けている実績や人柄が、今回の指名に繋がったようです。
ところで僕としては気になったのが、「同性愛者」と報じた5紙のうち1つも「レズビアン」という言葉は使っていないこと。もし、これが男性だったら「ゲイ」と使ったのだろうかとか、こういう時の言葉の選び方って、分析してみるとけっこう面白いです。「レズビアン」は一般的には隠微なエロスを連想させるイメージがあると(メディア関係者の「お堅い」部署の方々に)相変わらず判断されているから、こうした政治ニュースには使われないのかもしれないと、今回の報道からは感じました。
それにしても。不況とメディア構造の変遷によって新聞の経営は近年ジリ貧化しており、「勝ち組」と「負け組」に別れてきているわけですが。今回のニュースの見出しに「同性愛」と入れなかった3媒体(朝日・読売・日経)がそのまま「勝ち組メディア」ばかりだったというのも、気になる傾向です。もしかして、尖っているものは「マス」を掌握できないとでも言うのでしょうか・・・。(←残念ながら、それも世の中の一面の真実ではあるのですが。)→FC2 同性愛 Blog Ranking