NHK同性愛番組放送中止の真相●竜超の現代狂養講座「同性愛とテレビジョン」
皆さんは90年代半ば、ゲイ・レズビアンに特化した番組がNHKで作られ、連続放送のはずだったのに、なぜか1回だけで消えてしまったことを、ご存知ですか?
1990年代。民放とNHKで3つの同性愛関連番組を担当したテレビディレクター・佐藤安南さんにインタビュー。1995年4月から1年間にわたってNHKで放送される予定だった「真夜中の王国・サンクチュアリ」の放送が、1回で打ち切られてしまった事件の真相を今、はじめて語ります。
テレビ界やマスメディアの抱える構造的な問題点が浮かび上がるだけでなく、当時20代だった佐藤安南さんが「自分はヘテロ女性である」ということと真摯に向き合いながら、コミュニティの人々と出会い、どのような主体性を持って番組を制作したのか。そして、どんな番組をクリエイトしたいというビジョンを抱くようになったのか。25分のインタビューと座談会でたっぷりと描かれています。当時、番組に出演したレズビアン漫画家の水月モニカさんも出演。ぜひご覧ください!
『竜超の現代狂養講座①
同性愛とテレビジョン』
ゲイ雑誌『Badi(バディ)』
2009年3月号DVDに収録。
全国のゲイショップ・書店で発売中!
→お求めはバディジェービィよりどうぞ。
★当作品は、第18回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭の「レインボー・リール・コンペティション」の上映作品として選出されました。(2009年7月20日に青山スパイラルホールで上映)
★同作品の撮影と編集はakaboshiが担当。佐藤安南さんは本当に素敵な方でした。そして、この有能なディレクターの夢が理不尽な形で消され、14年間も黙殺され続けてきた事実に、むしょうに腹が立ちました。ぜひご覧頂きたい映像です。→FC2 同性愛 Blog Ranking
1990年代。民放とNHKで3つの同性愛関連番組を担当したテレビディレクター・佐藤安南さんにインタビュー。1995年4月から1年間にわたってNHKで放送される予定だった「真夜中の王国・サンクチュアリ」の放送が、1回で打ち切られてしまった事件の真相を今、はじめて語ります。

『竜超の現代狂養講座①
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ゲイ雑誌『Badi(バディ)』
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★当作品は、第18回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭の「レインボー・リール・コンペティション」の上映作品として選出されました。(2009年7月20日に青山スパイラルホールで上映)
★同作品の撮影と編集はakaboshiが担当。佐藤安南さんは本当に素敵な方でした。そして、この有能なディレクターの夢が理不尽な形で消され、14年間も黙殺され続けてきた事実に、むしょうに腹が立ちました。ぜひご覧頂きたい映像です。→FC2 同性愛 Blog Ranking
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劇団フライングステージ「ミッシング・ハーフ」●PLAYレビュー

前日に見た「ジェラシー~夢の虜」と同じ場面設定=20世紀初頭の上海にある一室が舞台。今日はそこの住人であるマリーさんの8年後の姿が描かれていた。
このマリーさんってのが、かつて映画が無声映画だった時代に女形として活躍していた人なのだが、トーキーになったとたんに女形は皆、お払い箱になってしまい、上海に流れて宦官になり(つまり性転換して)女優になるチャンスを窺いながらも、なかなかチャンスに恵まれずに街娼をしているという設定。
映画がトーキーになった時に活動弁士が不要になったのは知ってたけど、リアリティが求められるようになって女優が活躍するようになり、女形の仕事が奪われたというのは知らなかった。
こういうところに注目して作劇するっていうのが、さすがは関根氏。劇団フライングステージでこれまで書いてきた脚本では、歴史とか文学の名作の「クィア・リーディング」がたくさん行われている。つまり、あまり語られることのなかった「セクマイ的な視点」から、歴史を捉え直しているわけであり、本当に貴重な仕事を続けているんだなぁと尊敬。
今回は昨晩の舞台よりももっと濃厚に、マリーさんの恋愛模様とか人生が描かれていて、感じ入ることが多かった。昨晩は川島芳子に惚れたが、今日は関根マリーに惚れた(笑)。
こうして「いい舞台」を見ると思う。「人間を描く」ということは、綺麗事だけではなくその人物の醜い部分とか隠したいと思ってる部分とかにもスポットを当てることであり、醜悪でグロテスクな行為でもあるわけだ。それがあってこそ、その人物にとっての夢や理想が対比的に浮かび上がり、表現としての立体感が増す。
光は、影があるからこそより光として輝く。
影は、光があるところには必ず存在する。
・・・これ大事。
それにしてもマリーさんはやはり、ある意味では関根氏の分身なんだろうなぁと思う。ものすごく役柄に愛情を持っていることが伝わってきたし、これから年を重ねることでこの役を彼がまたどんなふうに咀嚼して新たな生命を宿らせ続けていくのかを、ファンとしてず~っと追跡していきたいと思った。
関根信一氏にはこれからも、好き勝手に我が道を進み続けてほしい。「自分でなければ出来ないこと」見つけられている人って、本当に幸運だと思うから。→FC2 同性愛 Blog Ranking
劇団フライングステージ「ジェラシー~夢の虜」●PLAYレビュー

川島芳子についての物語だったので、昨年末にテレビ朝日で放送された「川島芳子物語」を見ておいて良かったと思った。彼女の人生のあらすじは、あのドラマのおかげで頭に入っていたので今回の演劇、すごくとっつきやすかった。
昨年の「新・こころ」に続いて、最近劇団フライングステージは「文芸もの路線」をかっちりと丁寧に上演している。とても見ごたえがあって、良質な名作映画を見たあとのような満腹感。
テレビ朝日のドラマの数倍は、川島芳子が「人間」として想像できた。そして、常に「役割」を演じ続ける道に自分を追い込んでいった彼女の孤独や哀しみ。時に「素直な心」を垣間見せた時の「ちょっとした瞬間に感じられる温かみ」のようなものがしっかりと演じられていたので、人物像が立体的に浮かび上がってきた。
なんといっても、「あの川島芳子」に親しみを感じられたというのが凄い。高飛車で近寄り難そうなキャラクター造形なのにも関わらず、逆に親しみが湧く。それはきっと綺麗な面だけでは無く、泥臭かったり醜い部分まで丁寧に描かれているからこそ。真の意味での「親しみ」というのは、綺麗事では感じられないものなのだ。
関根信一氏が演じていた「マリー」という役柄は、川島芳子と2ヶ月間だけ親密に過ごすことになる宦官である。すなわち性転換をした、現代でいうところの「MtFトランスジェンダー」。おそらく想像上の人物なのだが、まるで歴史の物語世界の中に関根氏自らが飛び込んで行って体験しているかのような錯覚に陥った。
他にも、登場人物に「ゲイ」を忍び込ませていたりと、フライングステージらしい仕掛けも仕込まれていたが、全体としてはやはり、自らの生き方を様々に「演出」しながら生きざるを得なかった川島芳子の苛立ちの中から浮かび上がる「弱さと強さ」が儚げで、そこに「色気」のようなものを感じて魅入ってしまった。惚れそうだった。
近年の関根信一氏。劇作家としても演出家としても、すごく面白くなってきていて目が離せない。描き出された世界観が繊細で、なおかつ深くて。2時間以上があっという間に過ぎ行く劇世界が創造されていた。→FC2 同性愛 Blog Ranking
akaboshiコラム010●関西クィア映画祭で揺れた「あたりまえ」

こんな貴重な上映の機会なのに、平日昼というのはやはりもったいない。もっと好条件で上映できるくらいに資金的な余裕が生まれて欲しい。
ロビーではFtMライフスタイルマガジン「Like Boy」がブースを出展していた。「東京で発行されている雑誌なので、関西ではなかなか直に手に取る機会がありませんよ~!ぜひ!」と呼びかけられていて、用意した在庫の売り切れが続出していた。同誌はいわば、FtM版の「バディ」といった感じで、「ハッピーFtMライフ」的なイメージで、表紙やグラビアのビジュアル的にも「格好よさ」を感じさせる。こういうのが出てきたのって、当事者にとっては嬉しいのではないだろうか。
そういえば昨年の東京国際レズビアン&ゲイ映画祭では、トランス関連の上映が「皆無に等しかった」と言ってしまっていい。たぶん短編の中にはあったのだろうが、あまり印象に残っていない。そういう意味では、動員があまり見込まれなさそうだけれども、ちゃんとトランスの映画も取り上げたり、内容的に刺激的だったり尖っていたり、少し難解ぎみだったり・・・と、より深く「映画の多様性」を感じられるという意味で、関西クィア映画祭的なプログラミングセンスというのは貴重だと思った。HEP HALL位の大きさならば、こうしたプログラムの上映にも適している。
東京の「動員拡大路線」がいいのか。関西の「内容の深度追及」がいいのか。さまざまに意見はわかれるだろうが、どちらにも各々の価値がある。結果的に、独自性を競い合う状況が生まれていることは、観客としては喜ばしい。

たとえば、「クィア映画系」の有料専門チャンネルとかが出来ればいいのだが・・・。需要が少ないのかもしれない。いや、それともまだ需要が発掘され、開発されていないだけなのかもしれないが。
僕は、自分が映画が好きだということもあり、特にこうしたクィア系映画祭が大好きだ。とにかく映画祭期間は「自分がセクマイ当事者であることがなんでもなく感じられる」感覚が味わえるから。つまり「忘れられる」のだ。自分がマイノリティとされる存在なのだということを。
目の前で上映される映画のほとんどは、セクマイが世の中に存在することを「当たり前」とする視点から制作され、観客の中にも当然「たくさん居るもの」という前提で作られている。しかし映画祭が終わり、日常のありふれたところで目や耳から入ってくる映像・音声の多くは、セクマイが「居ないことが前提」で作られているものが95%以上はあるのが現実。
これって、あんまり意識してないけど、「意識しない位に当たり前」の状況として過ごしているんだなぁということを、映画祭から解放されて日常に出た時に気付くのだ。「このストレスは、堆積すると結構大きなものになるんじゃないか?」という、普段忘れてしまっていることに。
また、たとえばNHK教育テレビ『ハートをつなごう』や民放ニュース番組での報道などでのセクマイ描写を見て感じる違和感というのは、クィア系映画祭での「存在が当たり前とされて作られている映像世界」を見た後だからこそ、感じるものなのではないかとも思う。あの手の真面目なテレビ番組世界の中ではまだ、「居ない」とされていたものが「居るんだよ」という紹介が行われている段階であって、それってつまりは「非当事者主体」の目線なのだ。当事者目線ではない。

★同作品の撮影と編集を担当しました。ぜひご覧ください。
★詳しくはこちら。
21世紀になっても相変わらず、日本のテレビの現実は、まだ「セクマイを発見」したり「出会って」いる段階。でもとりあえずは、これが積み重ねられて継続されることによって、次の段階に進めるんだと割り切って、ちょっとでも先へ進めるように後押しするような気持ちで見ればいいんだなぁとも思う。

わざわざ閉鎖空間である「クィア系映画祭」に行かずとも「自己受容のシャワー」が浴びられる環境が、もっと充実すべきだし、そのために出来ることをこれからも模索しながら探していきたい。→FC2 同性愛 Blog Ranking