akaboshiコラム004●「カミングアウト教」の信者じゃないから ~NHK教育テレビ「ハートをつなごう ゲイ/レズビアン」に寄せて
カミングアウトを無条件に称賛して促すような一面的な表現は、副作用があるのに明記しないままで薬を処方するのと、同じことなのではなかろうか?
前日に引き続き放送されたNHK教育テレビ『ハートをつなごう』の「ゲイ/レズビアン」第二夜(9月30日放送)は、人口2400人の小さな離島に住むゲイ男性が、4月に放送された『ハートをつなごう』の第1弾を見たことで番組スタッフにメールを送ったことがきっかけとなって実現した企画だった。なんと彼は、テレビを通して大々的にカミングアウトしたいと宣言したらしい。
番組ではその「売り込み」に乗り、彼の住む離島に取材に出かけ、その暮らしぶりや母親や友人と語らう姿などを映し出した。かくして「一大(!?)カミングアウト」が実行されたわけだが…前夜に続き、僕には制作者側の「無邪気さ」が気になってしょうがなかった。
もちろん、離島に住む彼が今回とった行動については他人がとやかく言う筋合いのものではないと思う。彼は現在、海外に住む外国籍のパートナーと遠距離恋愛中なのだそうで、いずれ離島で共に暮らしたいとの夢を持っているようだ。
ただ気になったのは、まだ離島で「男ふたり暮らし」を実践しているわけではない彼が、なぜにこうも今、思い切ったカミングアウトを行う必要があるのか。彼はイギリス在住の経験があるそうなので、かの地の空気に触れたことも影響しているのだろうが…。「カミングアウト、どうせするなら国会で!」ならぬ「カミングアウト、どうせするならNHKで!」といった浮かれ具合には、驚きを禁じ得なかった。そして、浮かれさせたままで撮影し、放送していた制作者側の態度にも、「NHK」というブランドの暴力性に、どの程度の意識があるのか疑問に思った。
もしこの番組が「非当事者向け限定」に制作されて公開されたのだとしたら、まだわかる。しかし「当事者もたくさん見る」ことが前提となって放送されたわけだから尚更、その無神経ぶりに対して僕は黙ってはいられない。
「結婚」と同じように、 「カミングアウト」はゴールではない。
今の日本の社会状況の中では、同性/両性愛者が自分の性的指向を周囲の人間に告げることには、リスク が付きまとうケースがまだまだ多い。特に、告げる相手が近親者であればあるほど、カミングアウトによって新たな精神的ストレスを本人も近親者も抱え込むことになりやすいという話を、周りの人間から耳にタコが出来るほど聞いてきた。
これまで、たとえばゲイの作家やレズビアンの政治家が大々的に「社会的カミングアウト」をしてきた系譜があるが、その裏では必ず「カミングアウト」をしたことによって本人たちが新たに抱え込むことになってしまった、想像を絶するようなストレスや重圧との闘いがあったことを無視してはならない。ノンケ社会との戦いだけではなくコミュニティ内部からのバッシングも起こり、疲労困憊になって精神を病んだり隠遁することになった者も数多く居るのだ。
しかし、「活動家」的な使命を帯びた作家や政治家は、カミングアウトによって生じた「負の部分」を表立っては語りたがらない。なぜなら「見えないマイノリティ」と言われる同性/両性愛者の可視化を進めるために、それは障壁になると思ってしまうからなのだろう。
結果として、彼ら/彼女らの発するメッセージの「善の部分」 のみを真に受けて、自分の身の丈から逸脱した規模でのカミングアウトを急激な速度で実践してしまう者が、特に若者の中に出てきたりするのだ。そのことによって本来は切れずに済んだ人間関係が切れてしまったという例も、数多く聞いている。それが「良かったこと」なのか「悪かったこと」なのかは、誰にも判定できない種類のものではあるけれど。そんな粗暴なことを結果的には扇動しかねない無邪気なメッセージの発し方に対しては、今の僕は断固として反対する。
カミングアウトは自分だけの問題ではない。それを受け取る「他者の問題」でもある。当事者でさえ「自分が同性/両性愛者である」ことに気づいてから、何年も悩みを抱え続ける場合が多々あるのだから、受け取る側がそれと同じくらいに、いや、それ以上に悩みを抱え込んでしまうことだって有り得ることぐらいわかるだろう。その「事実」から目を背けてはならない。自分の都合だけで無神経に遂行すればいいというものではないはずだ。
たとえば、このブログでこれまでにカミングアウト・ストーリーを紹介してきた石坂わたるさんの母親・石坂モモさんの場合には、息子からのカミングアウトを受けて強烈なショックを受け、悩みを抱えて同性愛者である息子を「矯正」しようと思い立ち、大学に入って心理学を学んだりした。そして何年も経ってから徐々に受け入れることに繋がったのだ。もし、モモさんが「大学に入る」という道筋を思い描くことが出来ずに悩みを一人で抱え込まざるを得ない環境で暮らしていたら、どんな結果になってしまっただろうか。
そのエピソードを、結果論から「カミングアウトの成功例」として笑いながら振り返ることは出来ても、その笑顔の裏を具体的に想像してみてほしい。実は、失敗と成功の間には「紙一重」の違いしかないことに気が付くはずだ。
尾辻かな子さんの母親・尾辻孝子さんにしても、娘が「政治家として、東京レズビアン&ゲイ・パレードでカミングアウトする」と実行の数日前に家族に告げたため、母親としてはもはや、受け入れざるを得ない状況に置かれたのだ。もちろん孝子さんは、すぐにそれを受け入れたわけではない。あれよあれよという間に娘が「レズビアン議員」として新聞で報道され、一夜にして「レズビアンの母親」というレッテルを引き受けざるを得なくなった当時の、不安に苛まれ続けた日々の暗さや重さにも、きちんと想像を働かさなければならないと思う。昨年の1月にインタビューを行った時。その時期のことを振り返って語る孝子さんの目には、うっすらと涙が浮かんでいたことを僕は忘れられない。
石坂モモさんや尾辻孝子さんのように「子どもからカミングアウトされた親」としての経験を人前で語れる立場の人はつい、活動家的な血がたぎりながら「大丈夫ですよ」と「良い面」を強調しがちだ。したがってそれを聞く側もつい、「そうか大丈夫なんだ」と、素直に「良い面」を印象的に受け取りがちだ。しかし、その話の中にチラッと出てくる「何年も悩んだ」あるいは「死のうと思った」などの言葉の重さと暗さをも、けっして無視してはならないと思う。
したがって、「カミングアウト」という人間関係の繊細な部分に関わることを「促す」立場から物を伝えるならば、意識して「リスクも付き物ですので、現状を冷静に分析した上で、実行するかどうかを判断してください」との注意も同時に伝えなければ、とても粗雑で暴力的なプロパガンダに堕してしまう。この点については、過去の自分を振り返っても配慮に欠けていた点が多々あるため、自己批判の意味も込めて書いている。
たとえば、親にカミングアウトして理解し合いたくても、すでに年老いた親にこれ以上、精神的な負担をかけたくないと思って泣く泣く「言えない」当事者たちもたくさん居る。また、人間関係の濃淡はそれぞれに多様なものであり、性的指向を開示する必要のない人間関係だって人それぞれあるはずだ。カミングアウトを巡る環境とは、当然のことながら多様なものなのだ。
また、僕は最近「クローゼット」だの「カミングアウト」だのという、極端から極端への移行を連想させる言葉を使うこと自体、やめるべきではないかとさえ思っている。自らの性的指向を多くの人に開示していないからと言って、必ずしもその人が、押し入れの中に引きこもるかのように一人で暗くジメジメと生きているわけではないはずだ。言える人には言っているし、言えないと判断した人には言っていない。ただそれだけのこと。それがリアルな感覚というものだろう。
何人に、どの程度開示すれば「クローゼット」から「オープンリー」になれるのか。そのへんの基準も曖昧なまま、仲間内でお互いにレッテルを貼り付け合って蔑視したり嫉妬したりするような不幸は、いいかげん終わらせるべきではないのか?使われる言葉が極端すぎるから、そうした現象が起こるのだ。
LGBTコミュニティーは「カミングアウト教」の信者たちによる集合体ではない。もしそうなのだとしたら、そんなコミュニティーに僕は属して居たくない。
日常レベルの人間関係に密接した、些細で繊細でリアルな面を想像することのできないまま、ただ闇雲に「オープンリー礼賛」のメッセージを発する無神経には、ただただ閉口するばかりだ。「ノンケが作っているから」という問題で済まされることではない。→FC2 同性愛Blog Ranking

番組ではその「売り込み」に乗り、彼の住む離島に取材に出かけ、その暮らしぶりや母親や友人と語らう姿などを映し出した。かくして「一大(!?)カミングアウト」が実行されたわけだが…前夜に続き、僕には制作者側の「無邪気さ」が気になってしょうがなかった。
もちろん、離島に住む彼が今回とった行動については他人がとやかく言う筋合いのものではないと思う。彼は現在、海外に住む外国籍のパートナーと遠距離恋愛中なのだそうで、いずれ離島で共に暮らしたいとの夢を持っているようだ。
ただ気になったのは、まだ離島で「男ふたり暮らし」を実践しているわけではない彼が、なぜにこうも今、思い切ったカミングアウトを行う必要があるのか。彼はイギリス在住の経験があるそうなので、かの地の空気に触れたことも影響しているのだろうが…。「カミングアウト、どうせするなら国会で!」ならぬ「カミングアウト、どうせするならNHKで!」といった浮かれ具合には、驚きを禁じ得なかった。そして、浮かれさせたままで撮影し、放送していた制作者側の態度にも、「NHK」というブランドの暴力性に、どの程度の意識があるのか疑問に思った。
もしこの番組が「非当事者向け限定」に制作されて公開されたのだとしたら、まだわかる。しかし「当事者もたくさん見る」ことが前提となって放送されたわけだから尚更、その無神経ぶりに対して僕は黙ってはいられない。
「結婚」と同じように、 「カミングアウト」はゴールではない。

これまで、たとえばゲイの作家やレズビアンの政治家が大々的に「社会的カミングアウト」をしてきた系譜があるが、その裏では必ず「カミングアウト」をしたことによって本人たちが新たに抱え込むことになってしまった、想像を絶するようなストレスや重圧との闘いがあったことを無視してはならない。ノンケ社会との戦いだけではなくコミュニティ内部からのバッシングも起こり、疲労困憊になって精神を病んだり隠遁することになった者も数多く居るのだ。
しかし、「活動家」的な使命を帯びた作家や政治家は、カミングアウトによって生じた「負の部分」を表立っては語りたがらない。なぜなら「見えないマイノリティ」と言われる同性/両性愛者の可視化を進めるために、それは障壁になると思ってしまうからなのだろう。
結果として、彼ら/彼女らの発するメッセージの「善の部分」 のみを真に受けて、自分の身の丈から逸脱した規模でのカミングアウトを急激な速度で実践してしまう者が、特に若者の中に出てきたりするのだ。そのことによって本来は切れずに済んだ人間関係が切れてしまったという例も、数多く聞いている。それが「良かったこと」なのか「悪かったこと」なのかは、誰にも判定できない種類のものではあるけれど。そんな粗暴なことを結果的には扇動しかねない無邪気なメッセージの発し方に対しては、今の僕は断固として反対する。

たとえば、このブログでこれまでにカミングアウト・ストーリーを紹介してきた石坂わたるさんの母親・石坂モモさんの場合には、息子からのカミングアウトを受けて強烈なショックを受け、悩みを抱えて同性愛者である息子を「矯正」しようと思い立ち、大学に入って心理学を学んだりした。そして何年も経ってから徐々に受け入れることに繋がったのだ。もし、モモさんが「大学に入る」という道筋を思い描くことが出来ずに悩みを一人で抱え込まざるを得ない環境で暮らしていたら、どんな結果になってしまっただろうか。
そのエピソードを、結果論から「カミングアウトの成功例」として笑いながら振り返ることは出来ても、その笑顔の裏を具体的に想像してみてほしい。実は、失敗と成功の間には「紙一重」の違いしかないことに気が付くはずだ。
尾辻かな子さんの母親・尾辻孝子さんにしても、娘が「政治家として、東京レズビアン&ゲイ・パレードでカミングアウトする」と実行の数日前に家族に告げたため、母親としてはもはや、受け入れざるを得ない状況に置かれたのだ。もちろん孝子さんは、すぐにそれを受け入れたわけではない。あれよあれよという間に娘が「レズビアン議員」として新聞で報道され、一夜にして「レズビアンの母親」というレッテルを引き受けざるを得なくなった当時の、不安に苛まれ続けた日々の暗さや重さにも、きちんと想像を働かさなければならないと思う。昨年の1月にインタビューを行った時。その時期のことを振り返って語る孝子さんの目には、うっすらと涙が浮かんでいたことを僕は忘れられない。

したがって、「カミングアウト」という人間関係の繊細な部分に関わることを「促す」立場から物を伝えるならば、意識して「リスクも付き物ですので、現状を冷静に分析した上で、実行するかどうかを判断してください」との注意も同時に伝えなければ、とても粗雑で暴力的なプロパガンダに堕してしまう。この点については、過去の自分を振り返っても配慮に欠けていた点が多々あるため、自己批判の意味も込めて書いている。
たとえば、親にカミングアウトして理解し合いたくても、すでに年老いた親にこれ以上、精神的な負担をかけたくないと思って泣く泣く「言えない」当事者たちもたくさん居る。また、人間関係の濃淡はそれぞれに多様なものであり、性的指向を開示する必要のない人間関係だって人それぞれあるはずだ。カミングアウトを巡る環境とは、当然のことながら多様なものなのだ。
また、僕は最近「クローゼット」だの「カミングアウト」だのという、極端から極端への移行を連想させる言葉を使うこと自体、やめるべきではないかとさえ思っている。自らの性的指向を多くの人に開示していないからと言って、必ずしもその人が、押し入れの中に引きこもるかのように一人で暗くジメジメと生きているわけではないはずだ。言える人には言っているし、言えないと判断した人には言っていない。ただそれだけのこと。それがリアルな感覚というものだろう。
何人に、どの程度開示すれば「クローゼット」から「オープンリー」になれるのか。そのへんの基準も曖昧なまま、仲間内でお互いにレッテルを貼り付け合って蔑視したり嫉妬したりするような不幸は、いいかげん終わらせるべきではないのか?使われる言葉が極端すぎるから、そうした現象が起こるのだ。
LGBTコミュニティーは「カミングアウト教」の信者たちによる集合体ではない。もしそうなのだとしたら、そんなコミュニティーに僕は属して居たくない。
日常レベルの人間関係に密接した、些細で繊細でリアルな面を想像することのできないまま、ただ闇雲に「オープンリー礼賛」のメッセージを発する無神経には、ただただ閉口するばかりだ。「ノンケが作っているから」という問題で済まされることではない。→FC2 同性愛Blog Ranking
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