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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2008-09
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akaboshiコラム003●この「むず痒さ」はなんだろう。~NHK教育テレビ「ハートをつなごう」第一夜を見て

 結婚願望の強い20代のレズビアンを主人公に据えて放送された『ハートをつなごう/ゲイ・レズビアン第2弾』の第一夜(NHK教育テレビ9月29日放送)。

 見ている30分間、とにかく「むず痒さ」を覚えてしょうがなかった。その理由はきっと僕が「結婚」だとか「結婚式」という、ありきたりの「幸せイメージ創出セレモニー」を自分が行うことに対しては、全く興味がないことと無縁ではないだろう。

 カナダでは、国籍を問わずに結婚届が出せるそうだ。だからと言って日本の法律でも適用されるわけではないのだが、形だけでも2人のパートナーシップを「証明」することは出来るというわけだ。番組ではカナダで籍を入れ、日本とカナダで結婚式を挙げようと決め、着々と準備を進めているカップルの様子を、ひたすら肯定的に素直に応援するあたたかい眼差しで映し出していた。製作者たちのそのピュアで真っ直ぐな視線が、なんだか逆に怖かった。そして、若い彼女らの純真さがまぶしくもあり、同時に危なっかしくも感じられた。

 日本に生きる同性愛者の多くは、誰かと「籍を入れる」だとか「結婚式を挙げる」ということを、自身の人生設計の中にあまり組み込まずに生きて来た。それは確かに社会状況が「そういう選択」しかさせなかったという側面があるのと同時に、むしろ積極的にそういうライフスタイルを選択している人たちも少ながらず居るはずだ。

  しかし番組に登場した彼女らは、衣装合わせをしたり友人に報告したりと、儀式に向けて何の疑いもなく具体的な準備を着々と重ねて行く。それは個人的な欲求であるのと同時に、ノンケ中心社会に対する一種の復讐心にも似た情熱が込められているかのようでもあり、まるで「活動家」であるかのような過剰なエネルギーの発露には複雑な心境を抱きながら番組を見続けた。

 恋愛感情というものは移ろいやすく曖昧なものだ。義務で付き合う仕事上の関係ならばともかく、「好き」同士で付き合う者同士の関係ほど不安定なものはないと僕は思う。今日愛し合っていた2人の関係は、明日崩壊するかもしれない。未来は誰にもわからない。

 だからこそ「形」として証明し、周囲の人々に見届けてもらいたくなるのが人としての性なのかもしれないが、それがいつしか「縛り」となり、かえって精神的な抑圧を生み出すことにもなりかねない。

 パートナーシップとは、単純に綺麗ごとでは済まされない様々な波乱要因も含んでいるものではなかろうか。その出発において華々しく彩りすぎると、逆に反動が起こって崩壊するケースも多々あるのだということを、僕はこれまでたくさんのケースで実際に目にしてきた。

 衆目の前で満面の笑顔で「永遠を誓う」ようなことは嘘くさくて、僕には絶対に出来ない。さらに言うと、自らのパートナーシップを他人から祝福してもらうために、自らが準備に情熱を注ぐという感覚もわからない。そもそも祝福とは自分から仕掛けるものではなく他人が勝手にするものではないのか?。

 そういう意味で、「結婚」というセレモニーの在り方には、根本的に気持ち悪さを感じてしまう。もともと僕は「儀式」「セレモニー」といった格式ばったことを形式どおりに行うことが昔から苦手で、皆が素直に遂行している姿を見ると笑いをこらえるのに必死になってしまうような気質があり、大学の卒業式も用事が無かったにも関わらず欠席したほどなので、かなり極端な感覚の持ち主なのかもしれないが。

 むろん、この感覚は僕が「ゲイだから」ということとは関係ない。たとえ僕が「異性を好きになる種類の人間」だったとしても、同じような家庭環境で同じような育ち方をしてきたのならば、同じことを思っていたことだろう。僕が自らを「ゲイだ」とはっきり意識したのは28歳の時なので、思想形成とセクシュアリティーに因果関係は少ないはずだ。

 もしも僕が異性愛者だったとして。相手の女性から「結婚式を挙げたい」と強要されたとしたら別れを選ぶ可能性が高いし、そもそも最初からそういう価値観の持ち主のパートナーになることは無いのではないかと思う。

 ただ、異性愛者であるということで制度上の恩恵を受けられるのならば「籍」は入れるのかもしれない。その場合も、どの程度「得」することがあるのか、「リスク」は生じないのかを慎重に見極めてから決断するのだろうが。

 現代では異性愛者の中に、僕と同じような感覚を持っている人が少なからず居ることは広く知られている。それと同じように同性愛者の中にだって当然、いろんなライフスタイルの志向があるのだ。皆が皆、「出来るのならば結婚がしたい、セレモニーがしたい、同性パートナーでも祝福されたい」と思っているわけではない。

 ただでさえ一般メディアでは扱われることの少ないゲイ・レズビアン。たまに取り上げられるこうした番組に登場する人々が「典型例」だと思われるとしたら心外だ。そんな風に感じた人々も少なからず居ることだろう。ただ、これは当事者特有の「自意識過剰」がもたらす心配事であり、NHKのテレビで放送されることがマイノリティの「典型例」だと思われるような、テレビが大衆メディアの王者だった時代も、とっくに終わっているのかもしれないが。

 もちろん、「結婚式」や「結婚」そのものに憧れる同性愛者も一定数、居るだろうことは想像が付く。そして、そういう他者の価値観はもちろん尊重するべきだと思う。

 そういう人々にとっては、これまで「結婚式を挙げること」や「籍を入れること」が想定できにくく、選択出来ないような社会環境があったことは事実であり、それは明らかに不公平で差別的な状況なのだと言える。カミングアウトしようがしていまいが、同性愛者は異性愛者と同じように働き、同じように税金を払っている。それなのに、片方は優遇され、我々のライフスタイルだけが「想定外」のものとされている状況は、単純に考えてやはりおかしい。

 さまざまな場面で価値基準の多様化が進む現代。LGBT当事者が思い描く人生設計も、同じように多様化している。独りで生きていくことを積極的に選択し、自分にとっては「同性パートナーの法的保障」の必要性を感じないという人々も、たくさん居ることだろう。そういう人々にとっては、日本の法律での同性パートナーへの差別的な状況は「他人事」であり、生存権を脅かされるような切迫した問題としては感じられない。

 したがって、そういう人々が、この問題を「当事者意識」を持って自らに引き付けて考えることはなかなか難しいのかもしれない。昨年の選挙結果を見てもわかるとおり、日本のLGBT権利改善運動のぶつかっている大きな壁は、ここにあるのだ。

 番組を見ながら、どうしてもそのような思いが脳裏をよぎるため、いわゆる「ノンケ目線」での標準的なライフスタイル志向への礼賛一色で編集されてしまった番組を素直に受け入れることが出来ず、とにかく「むず痒さ」に身もだえしながらテレビを見た第一夜だった。FC2 同性愛Blog Ranking
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