東京国際レズビアン&ゲイ映画祭09●「特異なカップル」「月のかげ」上映後TALK

第17回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭では、わずかながらですが日本製映画の上映も行われました。(←「わずかながら」ってとこに毒、あります?爆)。今年の場合は20日(日)11:25~「特異なカップル」と「月の影」。そして21日(月)16:25~短編公募作品を審査する「レインボーリールコンペティション」で上映された6本。つまり「2枠」が日本製映画の上映に割り当てられたのですが、この枠数、近年まれに見る少なさだったのではないかと思われます。
その貴重な一枠。「長編作品」(観客による審査投票なし)の枠で上映されたのは、両方とも「ノンケ監督」や「ノンケを中心とした出演者たち」によって制作された作品でした。結果的には、「ノンケから見たセクシュアル・マイノリティー像」が、良くも悪くも浮かび上がるプログラムとなっていたように思います。僕がゲイ当事者であるためなのか、どうしても、「あぁ・・・やっぱりそういう風に描くのか」と思ってしまったり、「ステレオタイプな演技」が気になったり。どうも「想像上のセクマイ像」を提示されているようで・・・複雑な思いを燻らせながらスクリーンを眺めました。
「フィクション映画」というのは基本的に「想像上の世界」を創作することで成り立つ表現なので「想像上」であることは、当たり前のことではあるのですが・・・この2本を見て感じる「違和」はなんだろう。いったい、なにが原因なんだろう。そんなことを感じながら観ざるを得ない自分の狭量さに、正直、嫌気がさしながら。
01●両作品の監督・出演者自己紹介
02●「特異なカップル」TALK
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この映画に関して僕の感じた「違和」は、冒頭の場面で主人公のゲイ・カップルが、他に女性や様々な人々が居るにも関わらず、同じ部屋の中でずっと上半身裸で抱き合って「愛し合っている」ことをアピールし続けている行為にあります。2人が「ゲイであること」を映画の観客に向かって、わかりやすく提示するため以外の何物でもない表現方法。ゲイの登場人物たちの「人間としてのリアリティー」からは、かけ離れているような気がしました。
03●「月のかげ」TALK
フェミニンなゲイと、引っ込み思案だった女性との心の交流を描いた映画で物語には引き込まれたのですが、「ゲイの演じ方」における「女性性の強調の仕方」が、これまた「役柄本人のリアリティー」からは逸脱し、まるで映画を見ている観客に向かって「私は女性的なゲイ(おネエ)を演じています」と、過剰にアピールしているように見える仕草が目立っていたように感じました。
海外の作品は「その国のLGBT映画を代表するレベル」の選りすぐりのものばかりが居並ぶ中、公募作品やアマチュア作品が中心の日本製映画のプログラムは、どうしてもこの映画祭の中では見劣りしがちであり、観客動員も少なくなりがちだという現実があるようです。実際問題、日本製映画の上映の際には「その作品の関係者」が客席を埋めている比率が高いようで、他の海外作品とは明らかに、客席の人々の数も雰囲気も違いました。
しかし、だからといってこの手のプログラムを縮小させるのではなく、やはり「開催国」のクリエイターを育て、切磋琢磨させ、応援する姿勢をも、しっかりと映画祭には担い続けて欲しいです。そして観客の側にもそういう意識を持って、日本製映画を積極的に支援したり批判して育てる姿勢を持つ人が、もっとたくさん居てもいいのではないかと思います。
「日本製映画の上映」が全体のプログラムの中から浮いてしまっている現状は、この映画祭の重要な課題の一つではないかと、数年前よりずっと思い続けています。そしてその課題は映画祭実行委員だけが背負うものではないことも、肝に銘じなければと思っています。→FC2 同性愛Blog Ranking
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