性的マイノリティーの当事者が語る「生きづらさ」とは04●斉藤幸太さん02●中学生時代。好きなアイドルの話は友だちから肯定されるため

前回は小学生時代の話でしたが、中学校に入ってからの斉藤さんの経験談が続きます。好きなアイドルや芸能人の話に苦しむエピソードって、よく出てきますね。
02●中学生時代。好きなアイドルの話は友だちから肯定されるため
好きなアイドルの話…僕はどうだったんだろうと振り返ったら、意外と「困った経験」は無かったように思います。なぜなら女性アイドルが大好きだったから(爆)。不思議だな~あまり男性アイドルのことを好きになったことが無かったんですよ(←本当にゲイか?爆)。それよりも斉藤由貴とか小泉今日子とか工藤静香にハマッてましたね~。かといって彼女らに「自己を同一視してた」とかいうわけではないんですよ。う~ん説明できない。けど好きだった。
僕が「自分はゲイなんだ」と意識したのは20代の後半だったので、学生時代は完璧に「ノンケ」だと思ってたし、人のことを好きになれないタイプなんだろうなぁと思って深く考えなかったから、悩みもしなかったんですよ。だから、もし学生時代に「ゲイなんだ」とはっきり意識してたら一体どうなってたんだろうなぁと、斉藤さんの話を聞きながらぼんやりと想像し始めたところです(←遅っ!笑)。→FC2 同性愛Blog Ranking
薔薇族は生きている052●明かるいところへ出ようと歩いて来ました。~藤田竜さんとの100号記念対談

はっきり言って、知らないからそういう乱暴な言い方が出来てしまうんじゃないかと思うんですよね。バックナンバーを気軽に読むことが出来ないから、平気で先人たちの業績に汚名を着せることが出来てしまうんですよ。残念ながら、今のままでは文化として成熟出来ませんね。過去が経験として「蓄積」されたり「共有」されて行かないわけですから。
自力復刊薔薇族に関わるようになってから、伊藤文学さんにお借りして『薔薇族』のバックナンバー を読む機会を得るようになり、僕は何度も目から鱗が落ちました。特に、創刊から10年間にわたる『薔薇族』100号の頃までの誌面の内容の豊かさには圧倒されます。そして、意識的に「コミュニティー」を創り出そうという編集者たちの気概が伝わってきます。当事者たちへの意識啓発的な文脈から見ても、どれだけ貢献していたかわかりませんよ本当に。

伊藤文学というノンケで呑気な父親と、藤田竜というゲイ当事者で神経の細かい母親。主にこの2人が中心軸となって発行されていた初期『薔薇族』からは、家庭に帰り着いたかのような温かい雰囲気が漂って来ます。雑誌をめくると読者として、身も心も裸になってくつろぐことが出来るんです。(たとえそれが、当時の編集者たちの巧みな戦略だったのだとしても。笑)
03●明かるいところへ出ようと歩いて来ました。~藤田竜さんとの百号記念対談

…これって、喧嘩ですかぁ?(爆)すごいですよね~この赤裸々ぶり(笑)。いまどき、ここまで読者に対して自己を晒してしまう編集者って、いるんでしょ~か。こういう感じの赤裸々トークバトル、当時はかなり誌面で見かけることが出来ます。編集部のみならず、読者同士の間でも盛んに議論が交わされたりしています。皆さん精神的にタフだったんですね~。藤田 ぼくはかなり長い間、伊藤さんにイライラすることが多かったわけね。
伊藤 そう。それはわかる。それはなぜかというと、波長が合わないわけね。それで、全然、価値観が別だし、まず、写真をそんなに大事に思わない。それから、文章なんかでも、そんなに自分が好きじゃなかったから、いま考えてみるとそういう傾向があったと思うんですよ。
藤田 それから、ホモの特質かもしれないけれども、ぼくは神経の細かいところがある。伊藤さんはわりとのんびりとしているでしょ。
伊藤 藤田君はどっちかというと気が短い。それで、神経質だ。ぼくはのんびりやで、そういうところからも、最初の2,3年というものは、ほんとにイライラしっぱなしだったんじゃないかと思うんです。
藤田 本のかたちになるたびにぼくはガッカリしてたのね。
伊藤 そうね。いちいち、あそこが悪い、どこが悪いとか、怒られどおしだったわけで、それが爆発すると、何度「おりる」といわれたかわからない。
<『薔薇族100号』掲載「明かるいところへ出ようと歩いて来ました。」より>
あ、そうそう。『薔薇族』をバッシングするときのもう一つの常套句として「異性愛者の編集長が出していたために、当事者性が無かった」という言い方があるのですが、編集に関わっていた多くの方々は同性愛者の当事者でした。特に、その屋台骨となって支えていた藤田竜さんは内藤ルネさんとの半世紀に及ぶパートナーシップを続けたバリバリのゲイの方です。
初期『薔薇族』は、藤田さんと文学さんとの独特の緊張関係のもとに制作されていたから、当事者性に引き篭もらずに、ゲイ以外の読者をも獲得できる「開かれた雑誌」として成立し、抜群の知名度を誇ることが出来たのだという側面を、見逃してはならないでしょう。そして、どうして90年代以前のこうした歴史が「断絶」として感じられてしまうのかを、きちんと検証しなければならないでしょう。→FC2 同性愛Blog Ranking
性的マイノリティーの当事者が語る「生きづらさ」とは03●斉藤幸太さん01●小学生時代、同じ感覚の人がいなかった

まめた君に続いては、立教大学学生の斉藤幸太さんのスピーチです。小・中・高・大学と進むに連れて、その時々に特有の「生きづらさ」があったという斉藤さん。その経過をわかりやすく、ディテールにこだわりながら語ってくれました。まず今回は小学生の時のエピソードから。
斉藤幸太さん01●小学生時代、同じ感覚の人がいなかった
「楽しかったから、友人として」女の子と一緒に遊んでいたのに、高学年になるにつれて「女ったらし」と呼ばれるようになったという斉藤さん。
小さい頃は性別なんて関係なく、男女が混ざり合って遊ぶことが多かったはずなのに…。成長するにつれて否応なく区別されて行きますし、そのことに違和を感じても、そういう意見を表明することへの抑圧が強くなります。そして「男の子らしく」「女の子らしく」というジェンダーを素直に受け入れることの出来ない子どもは「自分がおかしいのではないか」と自分を責めるようになってしまうのです。
斉藤さんの話を聞きながら、「あぁ、そう言えば僕もかつて、そういうことを疑問に思ったことがあったっけ」と、忘れていた感覚が蘇ってくる気がしました…というよりも、忘れていた自分に気付いてショックだったというのが本当のところ(爆)。大人になるって嫌だね~感受性が鈍ってしまうだけのような気がします(涙)。
斉藤さんの話は5回に分割してお届けします。次回は中学生時代のエピソードです。→FC2 同性愛Blog Ranking
性的マイノリティーの当事者が語る「生きづらさ」とは02●遠藤まめたさん02●どうしてこんなに「何か」にさせたがるんだろう。

前回に引き続いて遠藤まめた君のスピーチです。女子校から男女共学の「大学」に進んだ時、さまざまなストレスをさらに強く感じるようになったというまめた君。普段接している時には、ここまで深く日常の経験を話したことがなかったので、正直驚きながら聞きました。
遠藤まめたさん02●どうしてこんなに「何か」にさせたがるんだろう。
いや~。このスピーチは本当に「記録できて良かった」と思いましたね。「初舞台ならでは」の瑞々しさとか初期衝動が溢れかえる魅力がいっぱいで、荒削りだけれども思いが真っ直ぐに伝わってくるスピーチでした。これって「二度とない」かけがえのない瞬間なんですよ。

本人としては、まだまだこのスピーチでは言い足りないことがたくさんあったようですが、焦らずに少しずつ、表現し続けて欲しいです。
ではここで映像の「番外編」として、出番が終わってリラックスするまめた君を休憩時間に激写!しましたので御覧ください。カメラを廻しながら、一緒にトイレまでついて行ってしまいました…(な~にやってんだか。爆)
遠藤まめたさん03●終了後インタビュー

ところで。この日のシンポジウムは「性的マイノリティーは構築されたのか?」というテーマだったのですが、まめた君はそれに引っ掛けて「胸とかは再構築してません」と言おうかとも、ふと考えたらしいです。(←実際には言わなかったわけですから、怒らないでね~。)それを聞いて気付かされることがありました。「トランスジェンダー」と言うと、身体の性別を完全に「男っぽく」「女っぽく」することを希求する人ばかりなのかと思いがちですが、そこまでは希求しない人も少なからずいるわけですね。
大事なのは、ステレオタイプに当てはめて単純に理解するのではなく、「いろんな人がいるんだ」ということを柔らかく受け止め合うことなんだろうなぁと思います。そのためにも、「自分にとっての自然な感覚=自分にとってのフツー」を遠慮なく語り合って表現し合うことが必要。その上で、特定の人々だけがストレスを溜め込まないでいられるためにはどうすればいいのか。「社会の問題として」考えて行くべきなのでしょう。

パフナイトは通常、土曜の夜に行われるのですが今回は日曜の昼に開催。中・高校生は500円で入れます!。世代を問わず、セクシュアリティーを問わず交流できるのがパフナイトの面白さ。ぜひぜひ、お気軽に参加してくださいね。→FC2 同性愛Blog Ranking
性的マイノリティーの当事者が語る「生きづらさ」とは01●遠藤まめたさん01●孤独って、響き合えるものじゃないかなぁ

11月20日(火)。横浜国立大学で「差異と共生シンポジウム」が行われたので、第一部の「性的マイノリティの当事者が語る " 生きづらさ " とは」を撮影してまいりました。

まず一人目は、このブログではもうすっかり御馴染みとなった遠藤まめた君。大学のシンポジウムで話すのは初めての経験だったそうですが、印象深い言葉が次々と飛び出し、思いが「まっすぐ」に伝わってくるスピーチでした。
遠藤まめたさん01●孤独って、響きあえるものじゃないかなぁ
「なにが身体で心かわからないし、なにが男で女かわからないし、自分は『何だ』とうまく表現する言葉が見つからない。」というまめた君。

高踏的な場所から抽象的に物事を論評して悦に入ることは「アガってしまった人たち」に任せておきましょう。生活感覚から遊離した抽象論は、広がりを持たない自己満足に陥りがちです。そんなところに自閉してしまうのはやめましょう。
いまだ置き去りにされている日本の性的マイノリティーの政治課題を地道に解決して行くためには、こうした「日常のディテール」の細かい部分を語り合ってシェアし、社会の問題として意識化して行くことの積み重ねが大切なのです。今回のシンポジウムを撮影しながら、そのことを強く感じました。→FC2 同性愛Blog Ranking