ダンカン・タッカー「トランスアメリカ」●MOVIEレビュー

やっと日本公開された「トランスアメリカ」を観てから数日経った今。この映画を思い返した時にまず浮かぶのは主人公ブリーのキャラクターの特異性。「かわいい」とも言えるけれど、むしろその「女性性の濃さ」がグロテスクにも感じられる奇妙な存在感が気になってしょうがない。
背筋を常にピンと伸ばし、清楚で清潔感あふれる実直な振る舞いを心がけ、意識的に「模範的な女性」としての身体感覚を意識し続ける彼女。堅苦しいまでに誠実に「女性」であろうとする彼女の振る舞いは、どこか「人口的」であるために可愛らしくも滑稽にも思えるのだ。 常に意識が張っている危うさと儚さを感じさせる存在の仕方。すごく疲れるのではないだろうか。

三島の場合は幼少時、祖母に囲われて女性的に育てられたため、学校に通う年齢になってから自分の異質性に気が付き、通学の車内で見かける男子を観察しては必死に「男らしさ」を研究して身に付けたそうだ。内面は女性として育ったのに、そんな自分を嫌って日常生活では「女性性」を必死で殺し、文学作品の中で発散した。そして社会的には過剰なまでに「男」であることを意識し続け、肉体的にも精神的にも必死で「男性性」を追求した生涯だったと言えるだろう。
「トランスアメリカ」の主人公ブリーは三島とは違って、肉体のあり方を内面(女性性)に合わせて行くことを選んだ。しかし本人が意識的にジェンダーを選び取っているという点では三島と同じ。したがって濃度の濃い「女性らしさ」を全身から過剰なまでに醸し出している人物として造形されている。男性から女性へのトランスジェンダー(MtF Transgender)の人が皆そうであるわけではないようだし、それぞれ個人差はあるようだ。ブリーほど極端に「女性性」を追及する人ばかりではない。すなわちこの映画では、いわば「典型例」として、わかりやすく演じられているということは言えるだろう。

生まれつきの性別に「違和」を感じ、性転換手術をしようとしていたブリー。その矢先に、かつて自分が男として付き合っていた女性との間に出来た「息子」と再会することになる。息子の生活のあまりにも荒廃した様子を見て放ってはおけなくなったブリーは、自分が父親であることを隠しながら、性転換手術の地へ向かって息子と二人でアメリカ横断の旅を続ける。
この映画の一つのポイントは、「嘘」という行為(概念)なのかもしれない。ブリーは自分が男の身体で生まれたことを「嘘」だと感じ、女性の身体を自分にとっての「真」だと感じて手に入れようと手術までする。すなわち彼にとって「男」とは「嘘」と同義。だから、かつて自分が「男性として」女性と愛し合った過去も「嘘」だから葬り去りたい。無かったことにしたいのだ。したがって息子にも、自分が本当は父であるということを告げない。
しかし息子はまだ若い。真っ正直に生きている。年齢を重ねた人間に特有の「嘘」との折り合いの付け方を知らない息子と、「嘘」を抱えたままの父親の関係がスリリング。いつ息子に「嘘」がバレるのか。いつかバレるに違いない。そんな危うさが、この映画の物語を引っ張る強力な「サスペンス」になっている。
「真」
ブリーは家族と再会し、トランスジェンダーとして生きている「真」の自分の姿を初披露する。父・母・妹はそれぞれに衝撃を受け、ブリーに対して無神経な言動を浴びせる。しかしブリーはそういう種類の無神経さには傷つき慣れているようだ。「女であること」には誇りを持ち、何を言われても動じない強さを身に付けている彼女。アメリカの典型的な保守思想の権化のような堅物の母親との対決も、ブリーを本質的には揺さぶらない。そんなことは覚悟の上だから。
しかし、そんな彼女を唯一、根底から揺さぶったものがある。それはやはり、息子の「まっすぐな」真の心だった。なんと息子は目の前のブリーが実の父親だということに気づかずに、恋心を抱いてしまうのだ。

過去を捨て去ることは出来ない。男の身体で生まれ、そのことで苦しんだという過去を「無かったこと」にすることなど、出来ないことなのだ。
「綺麗」
捨て去ろうとしていたものを受け入れることが出来たとき。それまで肩を怒らせて虚勢を張っていたブリーの「何か」が変わりはじめた。分厚く塗りたくっていた化粧が剥がれ落ち、人工的ではなく真に安らいだ笑顔を、はじめて浮かべることが出来たように感じた。それは美しい笑顔だった。主演のフェリシティ・ハフマンを僕はその時はじめて「綺麗だ」と感じた。
人というのは、無駄な自意識に捉われているうちは、真の笑顔で笑うことなど出来ないものなのかもしれない。→FC2 同性愛Blog Ranking
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