「yes」創刊の波紋013●「vol.3」本日発売。表紙は松田聖子さん

以前から、ゲイに彼女のファンが多いことは有名でしたし、聖子さん本人やプロモーション・スタッフたちも、とっくの昔から気付いていたのでしょう。しかし今まで、その動きが表面化されることはありませんでした。何しろ彼女のような立場の人は「イメージ戦略」を何よりも重視するでしょうからね。しかし、『yes』ならば先進的なイメージでゲイ向けのプロモーションが出来る。そのことに聖子さんサイドが着目したようです。
聖子さんは4月の末にクラブ「ageHa」で行なわれたGAY MIX PARTYにシークレット・ゲストとして登場したらしいのですが、そのライブは「yes」とのコラボレーション企画だったようです。しかも聖子さんサイドからのアプローチだったらしいということが、5月に発売された「週刊女性」で記事になっていました。 ゲイに向けてアプローチをすることが「マイナス・イメージ」ではなく、少しずつ「トレンド」として捉えられてきた何よりの証拠ですね。
ゲイは結構、アイドルへの偏見がないよ。
僕もこのブログで工藤静香さんへの愛を語ったりしてますが(笑)、ゲイには比較的、ストレート男性よりも「女性アイドル好き」を公言している人が多いように思われます。
なぜアイドル好きなのか。自分の感覚を分析してみると、「女言葉」の歌世界に対する抵抗感が少ないからだと思います。女性アイドルの歌世界は大体において「女→男」に対する恋情を歌っていますが、ゲイの恋愛対象は「男→男」ですから矢印の指し示す先が「男」であることは共通ですもんね~。(←単純すぎる分析だぁ~。爆)。
それともう一つ。「男」として世の中で生きていると、ある程度の年齢になっても「女性アイドル好き」を公言することには勇気が必要となってきます。だから「ストレート男性」は自分を演出するためにも、ある程度の年齢になったら「女性アイドル好き」を卒業しなければならないのです。カラオケでも「女言葉の歌」を歌うよりは、「男言葉の歌」を歌う方が格好よく見えますし、ヘタに「女言葉の歌」を歌ってしまうと「・・・オタク?」と思われがちですしね。
僕も今まで「ストレート男」として振る舞ってきた場面においては、カラオケで工藤静香の歌なんて歌えませんでした(笑)。無理やり、男性歌手の好きでもない歌を心を込めずに歌ってきましたし(爆)。たま~に女の子が工藤さんの歌を歌ってくれると、内心は嬉しさで舞い上がってしまうのですが冷静さを装い、でも一生懸命拍手をしてあげて「工藤静香の歌、似合うね~次も歌ってよ。」と女の子に「けしかけて」歌わせていたりもしました(←ズルい奴。)
夜の新宿2丁目を歩いているとゲイ・バーから「聖子」や「明菜」、「安室」や「浜崎」等の歌を気持ち良さそうに歌う男の声が聴こえてくる事があるのですが、ものすっごく幸せそうです(爆)。ゲイに囲まれた環境では、普段は「男」として出来ないことをおもいっきり発散出来るわけで、「女性アイドル好き」を卒業したふりをしなくても済みますしね。もしかするとこれは、ゲイならではの特権と言ってもいいのかもしれないっ!(笑)。
本当は「ストレート男性」の中にも、隠れアイドルファンっていっぱいいるんじゃないのかなぁと思いますし、思春期に好きになったものって、結構いつまでも好きで居続けるのが自然な姿なのではないかと思うのですがね。
今度は書店のどこに並ぶのか?
松田聖子ファンにとっては夢のような今回の「yes vol.3」ですが(←いいなぁ~。)さて今回は書店のどの場所に並べられるのでしょう。前回はヒース・レジャーが表紙だった影響で「映画本」売り場でキネマ旬報と並べられてたり、「男性ファッション誌」売り場だったりと様々でした。今回は表紙が松田聖子さんですから「音楽誌」売り場か「女性誌」売り場ということもあり得そうですよね。
LGBT向け雑誌売り場というものがないからこそ起こるこの珍現象(笑)。けっこう楽しみだったりなんかして。 →FC2 同性愛Blog Ranking
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ニール・ジョーダン「プルートで朝食を」●MOVIEレビュー

彼はすごい。本当にすごい。人を疑わない。まっすぐなまなざしで親しげに他者に微笑みかけ、打算も下心も全くない。・・・ところでこんな人、本当にいるの?
ニール・ジョーダン監督が最新作『プルートで朝食を』で描き出したトランスジェンダーの主人公キトゥンは、まるで「天使」なのではないかと疑いたくなるほどに清らかな精神の持ち主として描かれている。
ちなみに、この映画の日本公開時のキャッチコピーは「神様は彼に、ほんの少しだけ試練を与えた」なのだが・・・と~んでもない(笑)。実際には「ほんの少し」どころではない数々の過酷な試練が次から次へと襲いかかり、常人ならば気が狂って廃人になってしまうだろうと呆気にとられるほどである。
そう。
つまり監督は主人公を「常人」としては描かなかったのだ。まるでファンタジーに出てくるような「聖人」として、意図的に主人公を「美化」して描ききったのだ。途中からそのことに気付き、なぜわざわざ「ファンタジー」として映画全体をコーティングしたのか、監督の意図を汲み取ってみようとは思ったものの・・・残念ながら、伝わらなかった。映画的表現として、成功しているようには感じられなかった。
やろうとしたコンセプトの意味は「頭では」理解できる。しかし実際に提示された映画からは、なんの感慨も湧いて来ない。コンセプトが空回りして「机上の空論」に終始してしまったという感じ。その原因はきっと、映画の中にあまりにも多くの要素を詰め込みすぎて散漫になり、芝居の「見せ場」を作れなかったからなのではないかと思う。名画の条件とは「印象に残る強力な場面」を作れるかどうかだと思うのだが、この映画には残念ながら、それがない。

たしかに主人公の人生は数奇なものであり、描くべきことはたくさんある。まずは生まれ方自体が悲劇的だ。
キリスト教における神父というのは、女人と交わりを持ってはならない。しかし人間なんだからその禁忌を犯すことだってある。ごく真面目な神父が出来心で美しい家政婦を犯したことから生まれた主人公。しかし家政婦は出産後、神父の家の玄関先に主人公を捨てたまま、大都会ロンドンへと旅立ってしまう。
自分に子どもがあることを知られてはならない神父は、主人公を近所のおばさんに預けて育ててもらう。つまり主人公は「自分の親を知らずに」育ったのだ。
物心がつくにつれ、まだ見ぬ母に強烈な憧れを抱くようになった主人公。やがて自分の美しさに気付いて女装に興味を持ちはじめ、内面が「女っぽい」自分にも気付いて行く。そのことが原因で周囲との軋轢が生まれるようになってからは、自分の出自についての「空想」や「妄想」を抱くことで現実の辛さから逃避するようになる。

しかし主人公はどんな状況においても人を疑わず、与えられた境遇を素直に受け入れる。たまに「妄想」に現実逃避しながらも結構うまくやって行く。やがて父親である神父とは邂逅し、実の母親を探し出し再会すべく訪ねて行く彼。しかしその名場面すらも描写はあっさり。
芝居が散漫。要素詰め込みすぎ
この映画は結局のところ「主人公の半生記」を描き出すことに振り回され、肝心の「主人公の内面」が見えにくくなっている。主人公の「美しさ」で説得力を持たせるにしても、この主演俳優がそれほど「絶世のオーラを放った美男/美女」であるとも思えない。彼の演技力の限界も、この映画をよそよそしいものにしてしまっている要因だ。彼が役柄を肉体化できているようには思えなかった。
「キャンディード」を理論として見せられても・・・

ちなみに「キャンディード」とは、フランスの哲学者ヴォルテール原作のミュージカルのことであり、岩波文庫の解説では、次のように説明されています。「これほどまでに攻撃的な世の中で自分らしさを保ちながら生き抜いていくにはどうすればいいのだろう?本作を撮るにあたって私はその点をおとぎ話風に描いてみたいと思いました。主人公であるパトリックが自分の置かれた状況から創造していく物語の世界です。パトリック・マッケーブと脚本を推敲していく過程で、常に私の脳裏にあったのはキャンディードでした。世界を美しい場所として捉えることを非常識なまでに強要する中で、パトリックは全てを失っても決して自分自身を見失うことはないのです。」

● ヴォルテール「カンディード 他五篇」(岩波文庫)「人を疑うことを知らぬ純真な若者カンディード。楽園のような故郷を追放され、苦難と災厄に満ちた社会へ放り出された彼がついに見つけた真理とは…。当時の社会・思想への痛烈な批判を、主人公の過酷な運命に託した啓蒙思想の巨人ヴォルテール(1694‐1778)の代表作。」
● 水林 章「『カンディード』<戦争>を前にした青年」
たしかに、ヴォルテールのこの哲学的思索は素晴らしいものかもしれないが、それは逆説的に、「聖人でなければこんな世の中生きていけるわけがない」という悲観論でもあるわけで。
こうした非現実的な人物に現実味を持たせるには、文学や演劇のように観客の想像力で登場人物を造形できる表現様式だったら成立するのかもしれない。しかしこの種の「物語映画」というものは、演じる俳優の肉体の現実性がリアリティーを持ってスクリーンに映し出される。それ自体がものすごく現実的であるにもかかわらず、その主人公の内面に対しての現実感を持てないのならば、観客としては「あの人はいったい何?」と呆気にとられるしかなくなってしまう。最新の映像技術を駆使して主人公の姿が非常にリアルに即物的に映し出されている分、その内面が非現実的であることが逆に際立ってしまうのだ。
モノクロ映画やアニメ、あるいは実験的なスタイルを選択して「物語映画」であることを拒否すれば、よりリアリティーのある形で「カンディード」の思想が表現出来たのかもしれない。すなわちこの映画はコンセプトに縛られたまま、興行的なバランスを取ることも要求されたためにどっちつかずに終わってしまったのではなかろうか。

どうやら原作小説の主人公は、映画とは違ってもっと生々しく「怒りっぽく」「受身」の人物として造形されていたらしい。しかし映画化にあたって「優しくおもいやりのあるキャラクター」に変えられた。さらに父親である神父のキャラクターも、より善良なものに改変され、物語全体もハッピーエンドに変更された。 (パンフレットの情報より)
二ール・ジョーダンが映画化にあたって切り捨てた部分にこそ、もしかしたら主人公の人間としての「まっとうな部分」が含まれていたのかもしれない。この改変がもし「興行的な計算」によって行われたのだとしたら、結果としては裏目に出てしまったのではないかと思う。原作をぜひ読んでみたいのだが日本語訳での出版はされていないようなのが残念だ。
●Patrick McCabe 「Breakfast on Pluto」

「プルートで朝食を」
(Breakfast on Pluto)
2005年 イギリス
監督:二ール・ジョーダン
出演:キリアン・マーフィー ほか
●公式サイト
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