LGBT可視化に向けて011●日本テレビ、「LGBTに関する公平な報道を求める要望書」への回答を寄せる

放送に含まれていた「ホモフォビア的な」描写や言葉について、TOKYOPride、第10回レインボーマーチ札幌委員会、ゲイジャパンニュース、尾辻かな子さん の連名で日本テレビに抗議書が提出されていました。その回答が寄せられたことを本日、「Act Against Homophobia」ブログが伝えています。
→「日本テレビからの回答書」
僕としては、特に下記の引用部分をしっかりと、記憶に留めておこうと思いました。
なお、当ブログでは番組内容について細かく検証しています。掲載間隔が開いてますが、やめたわけではありませんよ(笑)。今後も少しずつですが長期にわたって「テレビ表現における他者表象の問題」特にマイノリティー描写について考える契機にしようと思います。いつ掲載するかは神出鬼没ですが(すみませ~ん。)気長にお付き合いください。弊社では日本民間放送連盟の放送基準第77条「性的少数者を取り上げる場合は、その人権に十分配慮する」を順守し、視聴者の皆様、特に性的少数者の人権には配慮を重ねるべく、指導をしております。また、「放送と人権」の観点からも、外部より講演者を招くなどして、新入社員向けの人事研修プログラムをはじめとして、通年のプロデューサー研修等、人としての学びの場を設け、研錬を積んでおります。
しかしながら、貴委員会のご指摘にもありましたように、一部番組で差別を助長すると受け止められるような表現があったならば、まことに遺憾です。ご指摘のひとつひとつを真撃に受け止め、今後の番組制作に活かすべく局内での周知徹底に努める所存です。
これまでの関連記事
●たかがテレビ024●日本テレビ『アンテナ22』にて「真夜中の新宿2丁目禁断の同性愛の楽園 」今夜放送
●たかがテレビ025●「真夜中の新宿2丁目~自由奔放な魅惑の街」を見て
●たかがテレビ028●検証「真夜中の新宿2丁目~自由奔放な魅惑の街」①PRの品性
●たかがテレビ029●検証「真夜中の新宿2丁目~自由奔放な魅惑の街」②2丁目の記憶
●たかがテレビ032●検証「真夜中の新宿2丁目~自由奔放な魅惑の街」③カメラの暴力、ボカシの功罪
・・・記事によっては見解にブレがありますが(笑)、視聴直後の感情的な感想と、時間が経ってから細かく冷静に見た検証との違いなので、ご容赦くださいませ。→FC2 同性愛Blog Ranking
新日曜美術館「画家 小山田二郎 鳥女の肖像」を見て

一年前の展覧会ではじめて見たのですが、一気に世界に引き込まれたのです。改造前の古めかしい赤レンガで覆われた薄暗い東京ステーションギャラリーの雰囲気と、グロテスクな彼の絵は見事にマッチしていました。
彼の描く絵の中では、繊細かつ大胆な線と色彩によって描き出された幽霊のような異形の者たちが、額縁の中で静止しているのではなく、見ている者のイメージの中で息づき自由自在に動き回るのです。その生命力の強さには圧倒されましたし、心の中に鋭くダイレクトに浸透して来るものを感じました。
「異形」を糧にする精神
今日、NHK教育テレビ「新日曜美術館」では彼の生涯を紹介していましたが、印象的なエピソードがいくつかありました。彼は病気によってグロテスクになってしまった「自分の顔」を否定せず、むしろ芸術家として受け入れていたのです。なんと絵を制作するときには、自分の顔を鏡に映しながら描いていたそうです。彼の絵はすべて、自画像だとも言えるのですね。
コメンテーターのねじめ正一さんも語っていましたが、彼の顔は他者からしてみれば「怖い顔」だし、本人も「人から怖がられる顔」だという自覚は充分すぎるほどにあったことでしょう。でも、そういう顔をしていたからこそ感じられることがある。他者からそう見られることによって、自らの内面に蓄積する様々な毒や棘がある。彼はそれを否定するのではなく芸術表現の養分として生かし、自身の内面を掘り下げて抉り出すことで作品に昇華した。「障害」と語られがちな「異形」である肉体を、決して「障害」だとは見做さずに芸術表現の「糧」にして活用した。その精神力の強さには驚きました。
それに、彼が描いた「舞踏」という絵が描かれた背景には、戦争の暗い影があったということも見逃せません。東京大空襲でこの世の地獄を見てしまったこと。その後の世の中の急激な変化をも体験してしまったこと。取り残された感覚。孤独。そうした記憶の堆積が、彼の中には積もっていた。彼は自己の内面を見つめてばかりいたという印象があったのですが、実はそれを極めることは社会性のある表現の獲得に繋がることでもあるわけですね。
いや~それにしても・・・。
まさか奥さんの小山田チカエさんと、失踪時に生活を共にされた小掘令子さんの姿を同じ番組内で見ることが出来るとは思いませんでした。両人とも、とても生き生きと嬉しそうに亡き画家のことを語っていましたし、芸術を愛する人に独特の「精神の若さ」が滲み出ている人柄で素敵だと思いました。
東京の八重洲にある「文京アート」では、6月30日まで「小山田二郎 油彩・水彩展-1950年代~'70年代-」が開催されています。テレビというものはどうしても、おせっかいにも一つ一つの絵について「解説」をして「意味付け」をしてしまいます。それは本来、芸術作品に対する接し方としては邪道です。また、実際の絵の質感とか大きさ、彼の絵に特有の「引っかき傷」の生々しさや繊細な色彩を映像で映し出すことはできません。
小山田二郎さんの絵は実際に見ると、一つ一つがまるで宇宙のような広がりのある世界を確立しています。わかりやすい言葉では簡単に解釈できない、多様な印象をもたらしてくれる豊かな作品です。もし機会がある時には、ぜひ見てみてください。
今回の放送がきっかけとなって、再び大規模な展覧会が開かれないかと期待しています。個人美術館が作られてもいい位の素晴らしい芸術家だと思います。画集や伝記すら出版されていないという事実が不思議です。→FC2 同性愛Blog Ranking
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●異形の幻視力~小山田二郎展(東京ステーションギャラリー)
●ふたたび小山田二郎展へ・・・完全に虜と化す。
画家・小山田二郎特集をNHK「新・日曜美術館」が放送

●NHK教育テレビ公式サイト
僕は以前、彼の展覧会を見て衝撃を受けました。そのときの記事はこちらです。
●異形の幻視力~小山田二郎展(東京ステーションギャラリー)
●ふたたび小山田二郎展へ・・・完全に虜と化す。
放送は朝8時からと、夜8時からの2回です。興味のある方はぜひ。→FC2 同性愛Blog Ranking
「yes」創刊の波紋013●「vol.3」本日発売。表紙は松田聖子さん

以前から、ゲイに彼女のファンが多いことは有名でしたし、聖子さん本人やプロモーション・スタッフたちも、とっくの昔から気付いていたのでしょう。しかし今まで、その動きが表面化されることはありませんでした。何しろ彼女のような立場の人は「イメージ戦略」を何よりも重視するでしょうからね。しかし、『yes』ならば先進的なイメージでゲイ向けのプロモーションが出来る。そのことに聖子さんサイドが着目したようです。
聖子さんは4月の末にクラブ「ageHa」で行なわれたGAY MIX PARTYにシークレット・ゲストとして登場したらしいのですが、そのライブは「yes」とのコラボレーション企画だったようです。しかも聖子さんサイドからのアプローチだったらしいということが、5月に発売された「週刊女性」で記事になっていました。 ゲイに向けてアプローチをすることが「マイナス・イメージ」ではなく、少しずつ「トレンド」として捉えられてきた何よりの証拠ですね。
ゲイは結構、アイドルへの偏見がないよ。
僕もこのブログで工藤静香さんへの愛を語ったりしてますが(笑)、ゲイには比較的、ストレート男性よりも「女性アイドル好き」を公言している人が多いように思われます。
なぜアイドル好きなのか。自分の感覚を分析してみると、「女言葉」の歌世界に対する抵抗感が少ないからだと思います。女性アイドルの歌世界は大体において「女→男」に対する恋情を歌っていますが、ゲイの恋愛対象は「男→男」ですから矢印の指し示す先が「男」であることは共通ですもんね~。(←単純すぎる分析だぁ~。爆)。
それともう一つ。「男」として世の中で生きていると、ある程度の年齢になっても「女性アイドル好き」を公言することには勇気が必要となってきます。だから「ストレート男性」は自分を演出するためにも、ある程度の年齢になったら「女性アイドル好き」を卒業しなければならないのです。カラオケでも「女言葉の歌」を歌うよりは、「男言葉の歌」を歌う方が格好よく見えますし、ヘタに「女言葉の歌」を歌ってしまうと「・・・オタク?」と思われがちですしね。
僕も今まで「ストレート男」として振る舞ってきた場面においては、カラオケで工藤静香の歌なんて歌えませんでした(笑)。無理やり、男性歌手の好きでもない歌を心を込めずに歌ってきましたし(爆)。たま~に女の子が工藤さんの歌を歌ってくれると、内心は嬉しさで舞い上がってしまうのですが冷静さを装い、でも一生懸命拍手をしてあげて「工藤静香の歌、似合うね~次も歌ってよ。」と女の子に「けしかけて」歌わせていたりもしました(←ズルい奴。)
夜の新宿2丁目を歩いているとゲイ・バーから「聖子」や「明菜」、「安室」や「浜崎」等の歌を気持ち良さそうに歌う男の声が聴こえてくる事があるのですが、ものすっごく幸せそうです(爆)。ゲイに囲まれた環境では、普段は「男」として出来ないことをおもいっきり発散出来るわけで、「女性アイドル好き」を卒業したふりをしなくても済みますしね。もしかするとこれは、ゲイならではの特権と言ってもいいのかもしれないっ!(笑)。
本当は「ストレート男性」の中にも、隠れアイドルファンっていっぱいいるんじゃないのかなぁと思いますし、思春期に好きになったものって、結構いつまでも好きで居続けるのが自然な姿なのではないかと思うのですがね。
今度は書店のどこに並ぶのか?
松田聖子ファンにとっては夢のような今回の「yes vol.3」ですが(←いいなぁ~。)さて今回は書店のどの場所に並べられるのでしょう。前回はヒース・レジャーが表紙だった影響で「映画本」売り場でキネマ旬報と並べられてたり、「男性ファッション誌」売り場だったりと様々でした。今回は表紙が松田聖子さんですから「音楽誌」売り場か「女性誌」売り場ということもあり得そうですよね。
LGBT向け雑誌売り場というものがないからこそ起こるこの珍現象(笑)。けっこう楽しみだったりなんかして。 →FC2 同性愛Blog Ranking
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ニール・ジョーダン「プルートで朝食を」●MOVIEレビュー

彼はすごい。本当にすごい。人を疑わない。まっすぐなまなざしで親しげに他者に微笑みかけ、打算も下心も全くない。・・・ところでこんな人、本当にいるの?
ニール・ジョーダン監督が最新作『プルートで朝食を』で描き出したトランスジェンダーの主人公キトゥンは、まるで「天使」なのではないかと疑いたくなるほどに清らかな精神の持ち主として描かれている。
ちなみに、この映画の日本公開時のキャッチコピーは「神様は彼に、ほんの少しだけ試練を与えた」なのだが・・・と~んでもない(笑)。実際には「ほんの少し」どころではない数々の過酷な試練が次から次へと襲いかかり、常人ならば気が狂って廃人になってしまうだろうと呆気にとられるほどである。
そう。
つまり監督は主人公を「常人」としては描かなかったのだ。まるでファンタジーに出てくるような「聖人」として、意図的に主人公を「美化」して描ききったのだ。途中からそのことに気付き、なぜわざわざ「ファンタジー」として映画全体をコーティングしたのか、監督の意図を汲み取ってみようとは思ったものの・・・残念ながら、伝わらなかった。映画的表現として、成功しているようには感じられなかった。
やろうとしたコンセプトの意味は「頭では」理解できる。しかし実際に提示された映画からは、なんの感慨も湧いて来ない。コンセプトが空回りして「机上の空論」に終始してしまったという感じ。その原因はきっと、映画の中にあまりにも多くの要素を詰め込みすぎて散漫になり、芝居の「見せ場」を作れなかったからなのではないかと思う。名画の条件とは「印象に残る強力な場面」を作れるかどうかだと思うのだが、この映画には残念ながら、それがない。

たしかに主人公の人生は数奇なものであり、描くべきことはたくさんある。まずは生まれ方自体が悲劇的だ。
キリスト教における神父というのは、女人と交わりを持ってはならない。しかし人間なんだからその禁忌を犯すことだってある。ごく真面目な神父が出来心で美しい家政婦を犯したことから生まれた主人公。しかし家政婦は出産後、神父の家の玄関先に主人公を捨てたまま、大都会ロンドンへと旅立ってしまう。
自分に子どもがあることを知られてはならない神父は、主人公を近所のおばさんに預けて育ててもらう。つまり主人公は「自分の親を知らずに」育ったのだ。
物心がつくにつれ、まだ見ぬ母に強烈な憧れを抱くようになった主人公。やがて自分の美しさに気付いて女装に興味を持ちはじめ、内面が「女っぽい」自分にも気付いて行く。そのことが原因で周囲との軋轢が生まれるようになってからは、自分の出自についての「空想」や「妄想」を抱くことで現実の辛さから逃避するようになる。

しかし主人公はどんな状況においても人を疑わず、与えられた境遇を素直に受け入れる。たまに「妄想」に現実逃避しながらも結構うまくやって行く。やがて父親である神父とは邂逅し、実の母親を探し出し再会すべく訪ねて行く彼。しかしその名場面すらも描写はあっさり。
芝居が散漫。要素詰め込みすぎ
この映画は結局のところ「主人公の半生記」を描き出すことに振り回され、肝心の「主人公の内面」が見えにくくなっている。主人公の「美しさ」で説得力を持たせるにしても、この主演俳優がそれほど「絶世のオーラを放った美男/美女」であるとも思えない。彼の演技力の限界も、この映画をよそよそしいものにしてしまっている要因だ。彼が役柄を肉体化できているようには思えなかった。
「キャンディード」を理論として見せられても・・・

ちなみに「キャンディード」とは、フランスの哲学者ヴォルテール原作のミュージカルのことであり、岩波文庫の解説では、次のように説明されています。「これほどまでに攻撃的な世の中で自分らしさを保ちながら生き抜いていくにはどうすればいいのだろう?本作を撮るにあたって私はその点をおとぎ話風に描いてみたいと思いました。主人公であるパトリックが自分の置かれた状況から創造していく物語の世界です。パトリック・マッケーブと脚本を推敲していく過程で、常に私の脳裏にあったのはキャンディードでした。世界を美しい場所として捉えることを非常識なまでに強要する中で、パトリックは全てを失っても決して自分自身を見失うことはないのです。」

● ヴォルテール「カンディード 他五篇」(岩波文庫)「人を疑うことを知らぬ純真な若者カンディード。楽園のような故郷を追放され、苦難と災厄に満ちた社会へ放り出された彼がついに見つけた真理とは…。当時の社会・思想への痛烈な批判を、主人公の過酷な運命に託した啓蒙思想の巨人ヴォルテール(1694‐1778)の代表作。」
● 水林 章「『カンディード』<戦争>を前にした青年」
たしかに、ヴォルテールのこの哲学的思索は素晴らしいものかもしれないが、それは逆説的に、「聖人でなければこんな世の中生きていけるわけがない」という悲観論でもあるわけで。
こうした非現実的な人物に現実味を持たせるには、文学や演劇のように観客の想像力で登場人物を造形できる表現様式だったら成立するのかもしれない。しかしこの種の「物語映画」というものは、演じる俳優の肉体の現実性がリアリティーを持ってスクリーンに映し出される。それ自体がものすごく現実的であるにもかかわらず、その主人公の内面に対しての現実感を持てないのならば、観客としては「あの人はいったい何?」と呆気にとられるしかなくなってしまう。最新の映像技術を駆使して主人公の姿が非常にリアルに即物的に映し出されている分、その内面が非現実的であることが逆に際立ってしまうのだ。
モノクロ映画やアニメ、あるいは実験的なスタイルを選択して「物語映画」であることを拒否すれば、よりリアリティーのある形で「カンディード」の思想が表現出来たのかもしれない。すなわちこの映画はコンセプトに縛られたまま、興行的なバランスを取ることも要求されたためにどっちつかずに終わってしまったのではなかろうか。

どうやら原作小説の主人公は、映画とは違ってもっと生々しく「怒りっぽく」「受身」の人物として造形されていたらしい。しかし映画化にあたって「優しくおもいやりのあるキャラクター」に変えられた。さらに父親である神父のキャラクターも、より善良なものに改変され、物語全体もハッピーエンドに変更された。 (パンフレットの情報より)
二ール・ジョーダンが映画化にあたって切り捨てた部分にこそ、もしかしたら主人公の人間としての「まっとうな部分」が含まれていたのかもしれない。この改変がもし「興行的な計算」によって行われたのだとしたら、結果としては裏目に出てしまったのではないかと思う。原作をぜひ読んでみたいのだが日本語訳での出版はされていないようなのが残念だ。
●Patrick McCabe 「Breakfast on Pluto」

「プルートで朝食を」
(Breakfast on Pluto)
2005年 イギリス
監督:二ール・ジョーダン
出演:キリアン・マーフィー ほか
●公式サイト
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●トランスジェンダー映画「プルートで朝食を」公開中
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