西河克己「不道徳教育講座」●MOVIEレビュー

・・・堂々と言えた時代も今は昔
やっぱり三島由紀夫は「悪党」である。
「悪こそが人間の本性」であることから逃げずに掘り下げ、そこから見えてくる「自分なりの善」を希求しつづけた人。そういう意味では作家として誠実であり、信頼できるし尊敬できる。
しかし彼の不幸は、その感覚が人並み外れて鋭敏すぎたために、戦後の高度経済成長がもたらした無菌国家化の消毒スプレーを誰よりも強烈に浴びてしまったことだろう。鋭敏過ぎる人間というのは、鈍感すぎる人間よりもずっと、「幸せ」からは遠ざかるのが宿命だ。
この映画はまず「道徳教育講座」という文字がスクリーンに大写しになる場面からはじまる。「なんだなんだ、文部省特選映画か?」と思わせた所で、画面の右下から「不」の文字がトコトコと歩いて来て文字列の先頭に加わる。完成したタイトルは「不道徳教育講座」。一文字加わるだけでここまで印象が変わってしまうことの目眩に襲われながら、映画の世界に引き込まれる。
三島由紀夫ひょっこりと登場
その後、突然画面に三島由紀夫本人が登場するので仰天させられる。薄暗いバーのカウンターに腰掛けて、映画の観客に向けて語りかけてくる。「道徳とは、檻である。」実に痛快かつ三島由紀夫的世界観を象徴する言葉である。いつものように目をカッと見開いた自意識過剰気味の三島由紀夫は、観客に「檻から出るための」鍵を渡し、「不道徳教育講座」の世界へと誘うのだ。

以前の物語
時は戦後の混乱期から抜け出し、やっと庶民の生活が落ち着き始めた昭和30年代。
生活が安定すると人というのは暇になるから、あれこれと「おせっかい」になり始めるらしく、「道徳という檻」を自ら作り出して自らを縛り上げる勘違いを始めてしまう。
そんな勘違い人間の溜まり場である教育界や政界の権力者達によるヒエラルキーや、産業界の利権構造が複雑に絡まり合って「お前らのどこが善なんだ」と突っ込みたくなるような魑魅魍魎がうようよ沸いている様子を、コミカルに風刺する。「人に善を強いる者たちの欺まん性」を、三島由紀夫は容赦なく描き出し、観客に「笑いという批評精神」にまぶしながら提出するのだ。こんな映画が堂々と作られていた事実は、1959年の日本はまだ死んでいなかったというなによりの証拠である。
近年の日本で強まりつつある「愛国心」だの「自己責任」だのと言った「権力者が押し付けようとする、おせっかいな言説」は、すでにこの頃から言われ始めていたようだ。しかし、この映画が作られた昭和30年代の庶民や映画人たちは死んではいない。そうした言説を権力者が言い出すとむしろ「な~に言ってやがんだぃ」と馬鹿にし、かえって嘲りの対象としていた様子がこの映画にはリアルに描かれている。
当時は戦争の記憶がまだ生々しく、愛国心を持ち過ぎて盲目になったから国家的な破綻に陥ったのだという事実を人々がまだ忘れてはいない。そして「自己責任」なんていう言葉で他者の行動を「他人事」として切り捨て、ヒステリーを起こして断罪するなんてことも、人間関係が濃厚に結びついている当時の世の中ではあり得ないことだろう。画面からほとばしり出る市井の人々の人間としてのエネルギーの濃厚さは、現代の世の中の無味乾燥ぶりと記憶喪失ぶりを、かえって強く意識させてくれる。

成り代わる
人殺し以外のあらゆる犯罪を犯したことがあるという「最も不道徳な男」が、刑務所から出所するところからドラマは始まる。
刑事の監視から逃れるために彼は、自分とそっくりな男を見つけてこっそり衣服を取り替え、変装して逃亡する。しかし変装した相手はなんと、「最も道徳的であるべき」道徳教育の権威者だった。こうした「最もドラマティックに物事が進行する」設定を思いつくのが、いかにも三島由紀夫的。
しかし「悪党」というのは頭がいい。次第に環境に順応し、乱暴な言葉遣いではあるが「道徳教育の権威者」そのものであるかのように振るまえるようになる。
彼の「権威」の傘の下にいようと周囲にはたくさんの人間がまとわりついているのだが、講演会などで彼がどんなに「毒舌」を吐いてしまったとしても「おっしゃる通り!」と、巧妙に道徳的言説に「解釈し直してしまう」ところが面白い。権力者になれば、なにを言っても「大層なもの」に聞こえてしまうという現実風刺。
「善人」を気取ると欲望は鬱積して屈折する
女優の三崎千恵子(「男はつらいよ」のオバちゃん役で有名)が、教育大臣の妻の役で出てくるのだが、最高に面白い演技を見せている。彼女は普段は「妻でございます。」と貞淑でつつましやかに振る舞っているのだが、実は屋敷に出入りする車の運転手に恋焦がれている。しかも彼はボディービルダーのような筋骨隆々とした男らしい男。夫人は彼の裸体を思い浮かべ、「よからぬ想像」をしては「いけないわッ!」と掻き消す日々。
しかしある日、ついに我慢がならず告白してしまうのだが、あまりにも舞い上がりすぎて勘違いし、「不道徳な男」に対して邪な告白を言ってしまい、弱みを握られてしまうのだ(笑)。「善人」を気取っている人ほど色んな意味で欲望は鬱積し、始末に負えない人間になってしまう。そんな欲求不満のマダムをコミカルに表現した名演技である。
「道徳的な男」を演じる道を選択する主人公
やはり悪党は悪党。どう振る舞えば賢く生きて行けるのかは本能的に察知する。権力者の娘を妻に迎え、自らを「道徳的な男」そのものに同化させる道を選択する。いわゆる「檻の中」に完全に入り込み、演じながら生きて行く道を彼は選択するのである。
主人公と女が「檻の中」に入り込み、地平線に向かって歩いて行く映像を提示した後、再び三島由紀夫本人が登場し観客に語りかける。
「どうして彼らが檻の中にいることを選択したかって?そりゃ、檻の中で安全に生きるほうが、人間長生き出来るってものさ。」
・・・観客を煙に巻いたまま、この映画も終わって行く。

1959年/日活/モノクロ/89分
監督:西河克己
制作:芦田正蔵
原作・出演:三島由紀夫
出演: 大坂志郎 信欣三 三崎千恵子
長門裕之 清水まゆみ 浅沼創一
柳沢真一 高島稔 月丘夢路
岡田眞澄 植村謙二郎 佐野浅夫
松下達夫 天草四郎 高品格
初井言栄 葵真木子 浜村純 藤村有弘
●三島由紀夫「不道徳教育講座」(角川文庫)
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三隅研二「剣」●MOVIEレビュー

盲目的ストイック礼賛映画
僕、昔はこういう嫌な奴だったかも。
この映画の主人公を見ていたら、かつての自分の恥かしさと直面した。「超」が付くほどの真面目人間。目標達成のためならば全てを犠牲にしてもいいと思う盲目症。そんな風に自分を追い込めない周囲の人間のことを馬鹿だと思ってしまう危なっかしくて堅物で愚かな男。
しかし三島由紀夫はそういう男を「愚か」だとは見做さない。むしろ手放しで礼賛する。そこが三島由紀夫の三島由紀夫たるところ。
三島由紀夫原作の「剣」は、剣道に打ち込む青年が主人公。彼は大学の剣道部の主将であり、来るべき大会において最高の成績が上げられることを目指し、自分だけではなく周囲の人間をもストイックに追い込んで行く。「もっと普通の生活感覚を持て」と父親から注意されるほど、彼は日常の全てを剣道に捧げており、生き方に「遊び」がない。未来のことを考えたり男女交際にうつつを抜かすなんて、彼にしてみたらとんでもないこと。とにかく純粋で、まっすぐすぎるのだ。そんな奴は当然、周りからは浮いてしまう。
さわやかな青春モノかと思っていたら火傷する
現在の目標を達成することのみに100%のエネルギーを注ぐ強さは、実は精神的な弱さと裏表の関係にある。精神的に依存出来る目標がないと、生きていられない種類の人間なのだから。いわば「目標依存症」とでも言おうか。そういうタイプの人間は、あくまでも自分の思い描く現実しか受け入れられないために、突発的な出来事や未知なる出会いや偶然性への抵抗力を持つことが出来ない。そして、強い自分でいられなくなった時に、いとも簡単に「ゼロ」になる。物事を適当に流すことが出来ない人というのは、実は非常に危険な人なのだ。
女性はやっぱり「俗悪な誘惑者」として敗北させられる
そんな堅物の彼を「女性的な魅力」で落とそうと執念を燃やす女性を登場させるのが、いかにも三島由紀夫的。「ストイックな男性」の対立概念としては、必ずと言っていいほど「世俗的な誘惑で堕落させようとする、現実存在としての女性」を登場させる。そして結果的には女性性の敗北と、男性性の勝利を高らかに謳い上げてしまう。この作品は、まさにそのパターンどおりの展開である。主人公は、色っぽい女の子の色仕掛けに引っかかるほど「俗悪」ではない。そのことを強調したいがために、女性は「ダシ」に使われるのだ。
男の嫉妬
主人公のあまりのストイックさに嫉妬する、ひねくれ者のアウトローを川津祐介が演じている。彼は、こういう「ちょっとグレた」感じの人間っぽい役柄がとても似合う。二人はあまりにもタイプが違うため、激しく反目しあう。互いに互いのことが気に入らなくてイライラする。しかし、気になって仕方がないのだ。男同士の嫉妬心とは、こういうもの。
二人は互いに、相手が自分には「足りない」ものを持っていることが気になって仕方がないのだ。しかしそういう本音を相手に悟られることは「敗北」を意味するために、意識的に冷たい態度を取ってしまう。男の嫉妬というのは、こんな風に屈折した形で表面化してしまうものであり、こじれてしまうとかなり厄介なものである。実は相手のことがとても「好き」だからこそ嫉妬してしまうのだが、こじれた糸を解きほぐすには「男のプライド」が邪魔してしまう。なかなか回復することはない。

白と黒のコントラストを常に意識させる撮影が秀逸。主人公の清くまっすぐな姿に常に寄り添いつづける「影」の存在を、常に観客に意識させることに成功している。
その映像効果がもたらすスリルはサスペンスを呼び、次に何が起こるかわからないという高揚感を観客にもたらし続ける。主人公の危なっかしさが気になって仕方がない。いつ、彼は折れてしまうのだろうと。
中途半端に生きているのなら死んでしまえ
生きているのならとことん「生きる」。愚直なくらいに自らの信念に忠実に。そして、その信念が実現できないことを悟ったならば、いさぎよく「死ね」。これが三島由紀夫の死生観である。理想が実現できないのならば、人が生きる意味などない。彼は若い頃から、そう思い詰めるタイプの人間であったようだ。そして、精神的な「若さ」が失われることを最も忌避した人なのではなかろうか。
この映画の主人公にとっては「剣道の大会で優勝するため、自らが主将となってチームを統率する」ことのみが生きる全て。その先の未来を想定していないということは、「いつ死んでもいい」と本気で思い続けているのだろう。こうした主人公の人間的気質は明らかに、三島由紀夫本人が投影されているのだろうと思う。
若さの特権である「一途さ」は、やはり肉体的な「若さ」と不可分の関係にあるだろう。健全な精神は健全な肉体に宿る。老いた肉体には老いた精神が宿ってしまうことは、人としての宿命である。しかし三島由紀夫には受け入れられなかった。「肉体の若さ」を失うことで「精神の若さ」までが枯渇し始めてしまう現実を、三島由紀夫は「負け」と見做し、受け入れられなかった。
破綻礼賛
負けを認められない人間の危険性。負けを楽しむことが出来ない人間が必然的に選びとる末期。それは、存在の不安から逃れるための行動。不確実から「確実」「絶対」への転身。すなわち死。死んだ者は絶対に生き返ることは出来ない。「死」それこそが唯一、「絶対」という言葉を当てはめるにふさわしい概念なのだ。
ヒューマニズムを嘲笑う
三島由紀夫は、「自殺するなんて最も愚かで神への冒涜」だとする、よくある啓蒙的で道徳的な死生観とは対極のところを見据えている。彼は、死を選びとる若き人間を決して否定したりはしない。むしろ礼賛する。突然の断絶が生み出す空虚感を、美しく喜ばしいことだとして祝福するのだ。そして、その感性を「歪んだ」ものというよりは「真っ当なこと」なのだと、観客や読者を説伏させてしまうかのような強烈な光を放射する。
彼の描く「死」は絶望ではない。空虚なのだ。そして、それこそがこの世の中が孕んでいる「内臓の正体」なのだ。
生き恥を晒す人間を嘲笑う
この映画のラストシーン。突然の断絶を味合わされた観客は、見事に「ア然」とさせられる。それはまるで、1970年11月25日に日本中が「ア然」とした時のように。
自死を選びとった人間の死体を覗き込む「生きている者たち」の顔が、なんと醜悪で滑稽に思えてしまうことか。「お前らは、のめのめと生きていけるほど鈍感なのか」と言いながら勝ち誇って高笑いをしている三島由紀夫の顔が脳裏をチラつく。「自死」を堂々と礼賛してしまうのだから、三島由紀夫にハマり過ぎると、ある意味危険である。
彼は心底、この世を呪詛していたのだろうと思う。それは裏を返せば、誰よりもこの世を「愛していた」ということなのかもしれない。しかしそれはあくまでも、自分の内的世界としての「この世」ではあったけれども。

監督:三隅研二
制作:藤井浩明 財前定生
原作:三島由紀夫
出演:市川雷蔵 藤由紀子 川津祐介 長谷川明男
河野秋武 紺野ユカ 小桜純子 稲葉義男 角梨枝子
●三島由紀夫原作映画「剣」DVD発売中
●三島由紀夫「剣」(講談社文庫)
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●「剣」上映情報
キネカ大森で開催中の三島由紀夫映画祭2006で、5/7(日)19:00~、5/10(水)19:00~上映があります。40年ぶりに日本上映が実現した「憂国」と併せて、ぜひご覧ください。
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