ブロークバック・マウンテンで見る世界024●ゲイ・イメージ考

この映画を観て、「彼ら二人はゲイなのか」と疑問を持つ人がいるようです。つまり「彼らをゲイと見做していいのか」ということらしいのですが、ゲイである僕にとってその疑問はとても不思議だし、ある意味では面白い疑問だとも思います。なぜなら「ゲイと見做す」という判断をする際に浮かび上がるのは、その人が従来抱えてきた「ゲイという言葉へのイメージ」であり本音だからです。普段、存在を意識すらされない我々ですから、こんな機会はめったにありません。
特に、カミングアウトしているゲイが、これまで自分の周囲にいなかった人たち(今の日本ではほとんどの人がそうでしょう)にとっては、イニスのことを「ゲイ」と呼ぶことに、ためらいを感じる人が多いようです。
その理由の一つはきっと、映画の主人公二人ともが「男っぽい」からだと思います。たしかに彼らは、世間に流布している「ゲイ」「同性愛者」「おかま」という言葉から短絡的に連想される「フェミニンな感じ」のキャラクターではないし、テレビタレントのように「オネエ言葉」で喋るわけでもありません。ルックスは「イケメンだけどフツーの男」だし、女性と結婚してセックスもして、子どもを持ったりもしているわけですから、なおさら「彼らはなんなの?」と混乱させるみたいです。
その混乱はおそらく、この作品の映画化に当たってアン・リー監督が「確信犯として」描き出した場面のせいでもあると思います。なにせこの映画では「男性同士のセックス場面」だけではなく、あえて「女性とのセックス場面」をも生々しく映像化しています。この映画が物議を醸し、多くの観客の旧来の価値基準を掻き乱している理由の一つに、その場面も含まれるのではないかと思います。
今回は、この映画の反響によって浮かび上がった「ゲイ・イメージ」の相違について、特に「非当事者たち」によるイメージと、「ゲイである僕が思う」イメージの相違について、こだわってみようと思います。
ここで僕の話をします。注:ここで使う「ゲイ」とは、男性のことを恋愛対象として好きになっている自分のことを、自覚している男性のことを指します。ゲイの中には女性を性的には愛せない人が圧倒的に多いのですが、中には愛せる人もいます。また、そうしたセクシュアリティーが人との出会いによって柔軟に移り変わる人もいます。
「ゲイ」という概念や「男女どちらを、どの程度好きになるかの比率」は人それぞれ。はっきりと固定された正解があるものではありません。したがって僕は「今、自分で自分のことをゲイなんだと認識している人」のことを、ゲイと見做すことにしています。

「おかま」という言葉は、それを言われた人間にとっては非常に侮蔑的な言葉に感じられることが多々あります。世代によって感覚に差はあるようですが、僕の感覚では自分のことを「おかま」と呼ばれることには、今でも抵抗を覚えます。それは個人の体験にもよるようです。
例えば僕は幼少からピアノを習っていたのですが、小学生の時にクラスの男子から「ピアノなんか習って女みたいな奴だな。おかま~ぁ」と、しつこくからかわれたことがあります。どちらかと言えば弱気で内気だった僕はジョークとして聞き流すことが出来ず、けっこう傷つきました。まだ性にも目覚める前であり、自分としては「男子」だと思っているわけですから「女みたい」とか「おかま」と言われるのはショックです。「男子」として育てられた自分を否定されたような気持ちになります。その後は、ピアノを習っていることを友達には話さないように心がけました。
僕はかつて「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」を抱えていました

すなわちその頃の僕は、女性を生理的に嫌悪するのと同時に、たとえタイプの男性がいたとしても「ホモフォビア」を理由に「嫌悪を装っていた」わけですね。嫌悪しないとタイプの男性を好きになってしまい、自分の「おかま」と向き合うことになってしまいますから。その頃の僕はきっと、周囲に「嫌悪エネルギー」を撒き散らしていたのでしょうね。(しょ~もなっ。)
そんな状態で20代の後半までの月日を過ごしたので、言わずもがな僕のキャラクターは、いわゆる「フツーの男」です。ファッションも髪型も、喋り方も完全に「平均的な男」という感じです。
20代の後半になってようやく「ゲイ」の人たちと接する機会を持つようになってから、まずは驚きました。自分のようなケースは特殊だろうと思っていたら、その反対。むしろ僕は「平均的・多数派のゲイ」だったのです。たしかに「おかま」のイメージどおりに女性っぽい人や「オネエ言葉」で喋る人もいますが全体の中ではむしろ少数派。そうした人ほど「ゲイ」であることがキャラクターとして「わかりやすく表面化」しているわけですから、新宿二丁目を中心とした「ゲイ・コミュニティー」に積極的に関わるケースが多いようです。しかし、そうした行動を取らない人もたくさんいるのが実情だし、むしろほとんどのゲイは「フツーの平凡な男っぽい感じ」のキャラクターなのだと知ったのです。
考えてみれば当たり前のことなんですよね。カミングアウトしていないということはなにも引きこもって無人島で生きているわけではなく、男性であるキャラクターを身に纏いながら「異性愛者のフリをして」社会の中に存在しているということなのですから。ゲイだと悟られて「おかま」というレッテルを貼られることによる中傷や、偏見により社会的地位を失うことへの恐れも抱えています。だから「フツーの男キャラ」で過ごす事の方が安全だし、自らもずっと馴染んで生きて来たキャラクターでもあります。僕の場合は自分を女性も愛せる男だと認識したがっている時期が長かったわけですからキャラクターもそのまんまなのです。
お互いに見えない「ゲイ」と「ゲイを差別する人」

なぜなら、どこに強烈なホモフォビアを抱えている人がいるのかが、現実問題としてとても見えにくいからです。自分の会社やライバル会社の役員や上司、同僚に、もしゲイに対して強烈な偏見を抱えた人がいた場合、なにをされるかわかりません。実際にそうした被害に遭って脅されたり、いじめられた人の話も聞きます。世の中、人の揚げ足をとろうとする人はたくさんいますから。
しかもゲイ自体が普段、「異性愛者」を装い隠れているのが現状ですから、強烈な偏見を抱えている人が誰なのかも、なかなか表面化される機会はありません。隠れているから話題にすらなりにくいし、強烈な偏見を抱えている人の思想というものは「ゲイ」を目の当たりにしたり「おかま」について語らないと表現されないからです。だから、お互いに見えないのです。
もしかしたらゲイの側の過剰防衛という面もあるだろうし、必要以上に仮想敵を強大なものとして思い描き過ぎている面もあるのでしょう。しかし、ある程度の世論の後押しなり、何らかのきっかけがないと、ゲイを戦々恐々とさせているこの心理的圧迫や恐怖感からはなかなか自由になれません。本音とタテマエを使い分け、直接的な衝突や自己主張を避けたがる日本社会に濃厚な二面性も、その圧迫を生み出す原因になっていると思います。まだ世論は熟しているとは言えないし、我々が当たり前の生活者として生きていることへの想像力を持っている人が非常に少ないのが現実です。
こうしたゲイのあり方や世の中の仕組みを認識していれば、映画でのイニスやジャックの姿は「とてもリアリティーのある」ゲイの姿だと映ります。彼らは、あの時代における「ゲイ」としての典型的な生き方をしていると思うし、彼らのような二重生活は、程度の差こそあれ現在でも「ゲイにとっての日常」であり続けています。

映画の中の二人のように、女性と結婚して子どもを作っているけれども、同時に男性とも関係を持ち続ける「既婚者ゲイ」も、実際に世の中にたくさん存在しています。日本でも、60~70年代に青春時代を過ごしたゲイの多くの者たちが「既婚者にならざるを得なかった」というのが現実だったようです。作家の三島由紀夫氏も、その代表例だと思います。
その頃はまだインターネットもありませんし、ゲイ同士が出会って恋愛関係を築ける場は大都会などの特殊な場所に限られていたようです。ゲイの交流雑誌として一時代を切り拓いた「薔薇族」の創刊も、1971年のこと。それほど長い歴史があるわけではありません。
「薔薇族」創刊・普及前のゲイたちは、今とは比べ物にならない孤独感と戦いながら、日常を生きていたのだと思います。いつまでも男が結婚をしないで一人でいると「おかま」であると公言することになってしまうプレッシャーもあります。また、両親が生きているうちに安心させてあげようと、自らを偽って結婚を「してあげる」人も、実際にたくさんいたようです。
70年代~90年代頃(ネット普及以前)のゲイの生き方については、伊藤文学さんの著書「薔薇ひらく日々を~薔薇族と共に歩んだ30年」を読むと、詳しく知ることができます。彼はゲイではないにも関わらずゲイに関心を持ち続け、ゲイバーをかつて新宿で経営したり、最近でも「薔薇族」を復刊したりして日本のゲイたちをずっと応援し続けている人です。
●伊藤文學著・「薔薇ひらく日を―『薔薇族』と共に歩んだ30年」
「ブロークバックマウンテン」と「町」との往復は、多くのゲイにとって日常である
既婚者に限らずゲイの多くは今でも、公的には「異性愛者の男」としてのキャラクターを身に纏い、たとえば男同士の会話に出てくる恋愛話や「オンナの話」などになった時、異性愛者に話を合わせ、ゲイであることが「バレないように」振る舞っています。そして、自分が本当に感じることを本音で語ったり、異性愛者の鎧を脱いで身軽になるのはあくまでも私的な場に限定していますし、人を選んで行なっていますので二枚舌はゲイの必然。もし都会ではない場所で結婚して私的な場を持てなくなってしまったりしたら、ゲイは精神的にかなり追い詰められてしまうのではないでしょうか。
この映画で描かれた「ブロークバックマウンテン」という場所は、ゲイにとっては自分を解放し、ゲイとして振る舞える時間や場所と同義。そして、彼らが山を下りてから過ごした「町での日々」は、我々が本音を隠して生きている時間や場と同義。その両方の世界を行ったり来たりしているのが、現在でも行われている平均的なゲイの生き方だと言うことも出来るでしょう。
イニスを「異性愛者」とカテゴライズしておきたいホモフォビア

また、同じ観点から「異性愛者であるイニスが、同性愛者であるジャックの想いを受け入れた」という解釈もあるようですが、それを真に受けると、こういうことになってしまわないでしょうか。
同性愛者ジャックが「男とやりたがっていたから」異性愛者イニスが「やらせてあげた」。すなわちイニスは、「ブロークバックマウンテン」での日々において、ジャックに対して「恋人同士であるかのように演じてあげて、ゲイのために肉体を捧げてあげていた」。そして山を下りてからの再会も、ジャックの前でだけ「ゲイを演じてあげていた」ということになってしまいます。あの映画において、「山」と「町」どちらの環境が演じているものだと表現されていたのかは、言うまでもないことでしょう。
「ゲイ」という言葉は基本的に「男性の同性愛者」という意味です。ジャックが男性である以上、イニスを「ゲイ」だと呼ばないということは、イニスがジャックに愛情を持たなかったということを意味してしまいます。
イニスがあくまでも異性愛者であり、同性愛者の思いを受け入れてあげたのだと考える背後には、異性愛者を「一段上」のところに置いて同性愛者を「可愛そうで哀れなもの」だと見做す、「旧来のゲイ・イメージ通りの意識」があるように僕は感じます。細かいことかもしれませんが、この映画が発しているメッセージにも関わる重要な部分だと思いますので、あえて書かせていただきました。
「ゲイ映画」ということに抵抗を感じるホモフォビア
また、この映画のことを「これはゲイ映画だ」とゲイが述べることに抵抗を感じる方もいるらしいです。それは裏を返せば「同性愛者」「ゲイ」「おかま」という言葉を、今までその人が「どういうイメージで捉えて来たのか」を、如実に物語ってしまっているのではないかと思います。それはゲイの問題というよりはむしろ「そう思っている人たち」の内面の問題だと思いますので、それに合わせて僕が自らの見解を変える必要もないし、気を使って主張を控える必要も感じません。
また、たとえ「ゲイ映画」という言葉のイメージが汚れていて、「従来のゲイ向け成人映画」というニュアンスで捉えられるのだとしても、その捉え方自体に「無知から来る差別意識」があると思いますので、そう思ってしまう人たちに合わせて僕の主張を変える必要も感じません。このブログでも紹介してきた「シュガー」や 「ハードコア・デイズ」 をはじめ、「ゲイ向け成人映画」というカテゴリーに入れられがちな作品の中にだって素晴らしい作品はたくさんあるし、志を込めて作られた名作がたくさんあります。そのことをぜひ知ってもらいたいと思いますし、「ゲイ」という言葉が付くことに抵抗を感じてしまう自らの内面と向き合ってほしいと思います。
このブログのスタンス
このブログは、タイトルに「GAY」という言葉が入っていることからもわかるとおり「ゲイが書いていることを読者が承知している」ことを前提にして書いています。ゲイとして生きている僕の主観を包み隠さず書くことが、ここを見に来ている人への礼儀だと思っています。「ゲイ・イメージ」が汚れているのだとしたら、それはゲイの問題ではなく、そういう目で見ている社会の問題だと思います。そして、そのことに遠慮して、これまで対社会的には本音を控えてきたゲイの「卑屈さ」にも一因があると思います。したがって僕はこの場を「ストレート言説に気を使って大人しく語る場」ではなく、「思うことを率直に主張する場」だと捉え、書いて行こうと思います。
「ゲイ・イメージ」考

実はこの現象自体、とても画期的であり、意味のある事だとも思います。今まで潜在していて見えなかったものが、この映画をきっかけにして一挙に表現され、しかもブログ時代ということもあり、ネット上に溢れ出しているのですから。
僕は他所でそういう発言を見かけたとしても基本的にはスルーしていますが、当ブログにコメントとして書き込まれた発言に、そういうニュアンスが感じられたものに関しては、指摘してこだわらせていただきます。僕はゲイの代表者を気取っているわけではなく、あくまでもこのブログのコンセプトの中心テーマとして、僕の主観を表明しているだけです。今の僕は実生活では「ゲイとしての本音」を率直に語れる立場にありませんが、ここはそういう場であってもいいはずです。
最後に、「キネマ旬報」3月下旬号に掲載されていたアン・リー監督の発言を紹介します。
関連記事「映画作家としての僕の挑戦よりも、むしろ映画を観てくれる人が試されるんじゃないかな。他者に対して寛容であること、あるいは自分の未知の領域に関してもオープンでいられるか否か。そして内なる“恥”の部分とどう向き合うか。この映画で動揺してしまうのは別に悪いことだとは思わないけど、でもイニスとジャックの情熱を受けとめられる正直さと勇気は持ってほしい」
「自分の視点よりもまず他の人の視点を撮るという習慣が身についているのかもしれないな。女性とか、同性愛者とかね。」
●アン・リー「ブロークバック・マウンテン」●MOVIEレビュー
●「ブロークバック・マウンテンで見る世界」最新記事はこちら。
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岸恵子リスペクト005●「知るを楽しむ」水曜夜連続放送中

僕は今朝の第一回再放送を録画したので、これから見ようと思います。感想はまた後日。
このシリーズはテキストとしても発売されていて、岸さんと辰巳芳子さんが一冊にまとめられているのですが、岸さんの部分だけでも88ページもあり、写真や書き下ろしの文章も掲載されていて、とても充実した内容です。彼女のこれまで生きて来た道のりや、人生観について知ることが出来る入門書だと言えるでしょう。僕はこちらも・・・これから読みます(笑)。
最近の岸さんの活発な活動振りは、ファンとして幸せです。→FC2 同性愛Blog Ranking
●人生の歩き方 2006年4-5月 (2006)「岸惠子 孤独という道づれ」
岸恵子リスペクト004●「岸マープル」は可愛かったけど・・・

昨日放送された岸恵子さん主演ドラマ「嘘をつく死体」ですが、ある意味ものすごいドラマでした。なにが凄いって、ミステリー・ドラマのはずなのにちっとも「謎」に関する好奇心を掻き立てられないばかりか、いちいち子ども騙しのような無神経で安っぽい「視聴者をおどかす」ための空疎な演出が随所に施され、見ていて物語の展開など「ど~でもよくなる」空しさに覆われてしまったからです。どうせなら「ミステリー」というものを茶化した「コメディー」としてもっとカリカチュアしてしまったら笑って見ていられたのかもしれませんが、そこまで踏み込む勇気はなかったようです。
笑うには中途半端。ドキドキもしない。それでも2時間なんとか見続けたのは僕が「岸恵子ファン」だから。ファンは、岸さんが次にどんな格好でどんな髪型でどんな表情を見せてくれるのか、それだけでも十分に見ていられるものですが、そうでない人にとっては「なにを見ていいのかわからない」困ったドラマになっていたのではないかと思われました。
岸さんの「我の強さ」を再確認
それにしても、演技を見ているだけでも十分に、岸さんというのは「我が強い」人なのだということがわかります。その特性が生きる役柄の場合には彼女の魅力は引き立つのですが、今回のようなドラマでは空回りしてしまったようです。
どんな台詞を言うときにも岸さんは「周囲のリズム」に合わせるというよりは自分の身体感覚に忠実に存在し続け、結果的に相手役から浮いてしまいます。常に存在の仕方が「岸恵子の時代気分」でホスト役を務めていた時と同じような「私が岸恵子ですっ!」と、背筋を伸ばして凛とした気品を保ったままでいるのです。しかしこの役は、脚本で書かれている台詞の言葉でもわかるように「現代の若者しゃべり」のような、構えず気取らず「ぶっちゃけた」調子でしゃべることが要求される役。台詞の言葉と岸さんの身体感覚も、明らかに「ずれている」のが伝わってきました。その「ズレ」が成功しておかしみを生んでいる場面もあれば、逆に浮いてしまっている場面もあり・・・こうしたことはリハーサルを積み重ね、共演者同士で呼吸が掴めるようになることで解決するものなのでしょうが、その時間もなく強行軍で撮影が進められたことが画面から滲み出ていました。
一晩寝て翌日にこのドラマを思い起こすと印象に残っているのは「岸さんが岸さんとして、あの役を演じていた」という強烈なインパクトのみ。ドラマと言うよりも「岸恵子を見た」という事実しか頭に残っていないのです。やはりスターとして一世を風靡するタイプの人間には、その人に独特の存在感とか、強烈な「花」があるものです。結果的に、彼女の「人としてのアクの強さ」を再確認させられるドラマとなりました。
ステレオタイプはつまらない
なぜ岸さんの印象ばかりが残ったのか。その理由はきっと、彼女が決して演技に「ステレオタイプ」を持ち込まず、あくまでも「自分の身体感覚」にこだわって演技をし続けたからだと思います。時に不器用でゴツゴツしていて、明らかに周りからは浮きがちではあったけれども。
共演者たちのほとんどは、その点では演技が素直で単純でした。画面に出てきた瞬間から「裏表のない善人」あるいは「悪人」あるいは「いわくあり気な人」だということがわかってしまう。いかにもこれまでのサスペンスドラマに繰り返し出てきたであろうパターン通りの典型的なキャラクターを「なぞっている」ように感じられてしまうのです。それは「コメディー」としてカリカチュアした世界観の中では有効な演技の方法ではありますが、今回のようにリアリズムのスタイルを貫こうとした時には「中身のない人」に見えてしまいます。
人物が内面に抱える複雑さというものは、そう簡単に「表情」や「仕草」として表現されるものではありません。むしろフツーの人間なら多かれ少なかれ、自分の本心が他人に容易には悟られないように「隠して(演じて)」生きているものだと思います。安っぽいドラマに出てくる人たちのように、常にわかりやすく大げさな表情で感情表現をする人たちなど、現実世界にはあまり存在しません。
「これはサスペンスドラマだから」という割り切りで、従来のサスペンスドラマのイメージをただなぞるだけのものほど、つまらないものはありません。「火曜サスペンス劇場」がテレビにおける使命を終えて終了した背景には、こうした「従来のサスペンスドラマをなぞるだけのサスペンスドラマ」では、メディアが複雑化して好みが多様化した現代のテレビ視聴者が満足しなくなったという面があるはずです。テレビドラマ界の根本的な発想転換を望みます。現代の視聴者はもう、子供だましで騙されるほど単純ではありません。
今回のドラマで唯一面白かったのは、冒頭の岸さんと木の実ナナさんのコミカルな会話のシーンだけ。あとはほとんど、ドラマとしては成立せずに停滞してしまっていました。どうか岸さんには、もっと丁寧に時間をかけて生み出される「創作の場」で、素敵な演技を見せ続けて欲しいと思います。「テレビ的演技に合わせられない不器用さ」というのは、実は非常に人間的であり大切なことなのですから。→FC2 同性愛Blog Ranking