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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

ブロークバック・マウンテンで見る世界019●悲しみを描き出したその先に・・・



 今回は、先日「ブロークバック・マウンテンで見る世界014●能ある鷹は爪を隠す」にコメントをいただいたPrismさんへのお返事という形で、記事を書かせていただきます。
 とてもたくさんのことを考えるきっかけを与えてくださったことに感謝します。Prismさんのブログの記事「自分を解放できる愛に縛られた2人●ブロークバック・マウンテン」も併せてお読みください。ではまず、僕のブログにいただいたコメントの全文を紹介させていただきます。

<今回の記事は完全に「ネタバレ」です。映画を観た方には興味深い内容だと思います。>

「ゲイの愛情と、男の友情」

ゲイの愛情と、男の友情の線引きは、非常に曖昧なモノですよね。

ある人は主人公同士の直接的なセックス描写が無いけれど、
『真夜中のカーボーイ』を、「ゲイ映画」と感じ、
ある人は主人公同士のセックスシーンが有る『BBM』を、
「ゲイ映画」じゃないと感じます。

愛する家族を捨てて、友の為に死んでいく「西部劇」は、
男の友情でしょうか?ゲイの愛情でしょうか?

人が人を愛するのに、性別は関係ないですよね。
だから私は、『BBM』を「ゲイ映画」とは思いませんし、
「ストレートに置き換えても成立するラブストーリー」とも思いません。

『BBM』を、ゲイを表現したゲイ映画と言うのは、
ストレートの正当性を主張し、ゲイを拒絶している人と、結局は同じ様な気がします。
私自身はストレートですが、ごく身近な人にゲイや、レズや、バイと告白されたとしても、接し方は変わらないだろうと思っています。

『BBM』は、人を愛するのに性別は関係ない事を気付かせる、
ゲイ(バイ)を扱った映画だと思います。
偏見を取り払う事ができる力を持った『BBM』を、
ゲイの視点から、「ゲイ映画」という偏見で枠組みに入れる事は、
ストレートの視点から、ゲイを拒絶する事と同じくらい意味が無い事だと思います。

わざわざ、この様な書き込みをしたのは、akaboshi さんが書かれた文章に、
敬意を表した為だと、好意的に取って頂けたら幸いです。
大変、興味深く読ませていただきました。

P.S.もし気分を害されたとしたら、削除していただいても結構ですよ(微笑)

      ◇◇◇

 コメントありがとうございました。気分を害して削除どころか嬉しかったので紹介させていたきました。基本的に批判されるのは好きなので大歓迎です。
 そちらの記事も読ませていただきましたが、率直な思いが遠慮なく書かれている点が素晴らしいと思いました。つきましては僕も、そちらの記事と僕のブログへのコメントを読んで感じたことを、率直に書かせていただきます。まず、僕のコメント欄に書いていただいた以下の部分に対して。

「『BBM』は、人を愛するのに性別は関係ない事を気付かせる、
ゲイ(バイ)を扱った映画だと思います。
偏見を取り払う事ができる力を持った『BBM』を、
ゲイの視点から、「ゲイ映画」という偏見で枠組みに入れる事は、
ストレートの視点から、ゲイを拒絶する事と同じくらい意味が無い事だと思います。

 ゲイが自ら「これはゲイ映画だ」と言うことは、偏見には当たらない

 従来のゲイを描写した映画に対して、いわゆる「ストレート」を自認する立場の側から「これはゲイ映画だ」という言い方をされる時には、偏見や侮蔑的なニュアンスが少なからず含まれていただろうし、ゲイの側にも「ちょっと待てよ。こんなものをゲイ映画と言ってしまうのかい!」という思いがあったことでしょう。しかし僕はこの映画に関して「これはゲイ映画だ」と言われることは大歓迎だし、自分から言うこともブログ上で率先して行なっています。(実生活で言うことはできません。僕はカミングアウトしていないからです。)先日アメリカの同性愛者団体GLAADが「同性愛者の社会を公正かつ正確に、また包括的に表現したメディア」だとしてこの映画を表彰したことからも、そう感じているのは僕だけではないことがわかります。

 ゲイが、同性愛について描いている映画を自ら「これはゲイ映画だ」と言うことは、偏見という枠組に入れることには当たらないと思います。なぜならゲイが自らを「ゲイ」だと称することは偏見ではなく自己主張だし、そのことによって「ストレート」を自認する方々を排除するわけでも、攻撃するわけでもないからです。

 「ゲイ」という枠組みに入れることを「偏見」だと単純に考えてしまうことこそ、「ストレート」の視点からの「偏見」なのではないでしょうか。少なくとも僕は「ゲイ」という言葉に誇りを持っていますから。

 それに、この映画を「ゲイ映画だと感じた」のは、ゲイである僕の主観であって「偏見」ではありません。ただ、いくつかのブログを見て廻った時に僕が感じた「ゲイの実態について語っている側面に、もっと注目してほしい」という思いを あの記事で表現したまでのことです。

 僕はなにもこの映画を「ゲイ映画だと呼ぶことしか認めない」と強制しているわけではないですし、観る人によって様々な観点を呼び起こす「多義的で複雑な表情を獲得した、真に攻撃的な本物の芸術表現」だと思っていることを、あの記事の最後にも明記してますし、他にも繰り返し書いてきました。

 僕が言う「ゲイ映画」とは「ゲイの生き方を描いた映画」という程度の意味でしかありません。
僕からすると、Prismさんは「ゲイ」という言葉だからこそ過剰に反応してらっしゃるように感じられます。

 この映画を観る「入口」の違い

 「ブロークバックマウンテン」を見て「人を愛するのに性別は関係ない事を気付かせ」られるのは、「ストレート」を自認する人たちならではの感想です。

 僕らLGBTたち(Lesbian、Gay、Bisexual、Trancegender)は自分の日常で、とっくにそのことに気がついています。(そのことに気がついている人たちのことをLGBTと言います。)
 このように、映画を観る際の大前提(入り口)自体が大きく違うのですから、感想が大きく違うのは当たり前ですね。

 ゲイであることを自覚している僕としては、「ブロークバック・マウンテン」を観て「人を愛するのに性別は関係ない」という自分にとっての常識には目が向かないのです。むしろ「人を愛するのに結局は性別という観念が邪魔をしてしまうことの残酷を、丹念に炙り出している映画だ」という印象を強く持ちました。

 これはハッピーエンドではない。悲しみを描いた映画だ。

 なぜならこの映画における主人公二人の同性同士の愛情は、いわゆる「結ばれる」というハッピーな結果に至るわけでは決してないからです。
 最終的には「報われなかった恋=悲恋」に終わっています。ここが重要だと思います。

 ラストシーンでイニスが、ジャックのクローゼットの中に二人の思い出のシャツを見て感じたのは悦びではなく「真の悦びを追求せずに過ぎてしまった時間の苦さ」だっただろうし、ジャックにしても死因はゲイ・バッシングだったことが暗示されています。

 しかもジャックの死因は、「イニスの脳裏に描かれたこと」として表現されています。イニスは同性愛者が迫害される実態を父の教育で嫌というほど叩き込まれているわけですから、あのような連想を咄嗟にするのです。父から叩き込まれた「ホモフォビア(同性愛嫌悪)思想」が、彼をずっと苦しめ続けたことを示している場面だと思います。

 彼ら二人は結局「ブロークバック・マウンテン」で過ごした輝かしい過去に縛られたまま、その後の人生を過ごしてしまったのです。戻りたいけど戻れないままに。しかもその原因のほとんどは、「同性を愛すること」に躊躇し続けたイニスの「煮え切らなさ」がもたらしています。あの時代における「同性愛」という概念の持っていた汚れたイメージに徹底的に翻弄され続けたイニスの後悔と悲しみが、この映画の終盤を支配している通低奏音だと思います。

 イニスはその後、ジャックと過ごした「ブロークバック・マウンテンでの輝かしき想い出」を胸に秘めたまま、相変わらず孤独で不器用な生涯を全うするのでしょう。なにが幸せなのかは人それぞれですが、若かりし頃の想い出を喰って生きて行く男の後半生を想像すると、僕は切なく感じます。

 「ストレート」と「LGBT」が、根本的に違う点

 「ストレート」だと自分を規定している人々は、好きになる対象が異性である自分自身に対して疑問を感じたり、自己嫌悪に陥ることは、まずないでしょう。それは「当たり前のこと」として誰からも受け入れられる現象だからです。
 「男が女を好きになる」「女が男を好きになる」こと自体を責める人など、誰もいないでしょう。

 しかし「同性を好きになる自分」に気付いた者はまず、自分で自分を責めることでその感情を否定してしまいがちです。なぜなら一般常識から逸脱している自分は変態なのではないか、病気なのではないかと、まず自分で思ってしまうからです。これは同性を恋愛対象として見たことのある者ならば誰もが必ず経験する通過儀礼だし、うまく通過したとしても、日常的に突き刺さり続ける「他者からの心無い言葉」によって生み出される「罪悪感」からは逃れられません。(通過儀礼を通過出来ずに、命を絶つ者もたくさんいます。)

 映画でのイニスは徹底して、そうした「自己嫌悪を抱えたままの人物」として描かれています。最も象徴的なのが、主人公二人がはじめて肉体関係を持つことになる、あの「寒い夜の場面」ではないでしょうか。ここで、Prismさんがご自身のブログで書かれている文章を引用させていただきます。この場面に関するPrismさんと僕の観点が、かなり違うことに注目するためです。

ある厳しい寒さの夜、放牧地で夜を明かすと凍えるから、羊の番は牧羊犬に任せて、2人ともキャンプ地で夜を明かす事にします。

イニスは、男らしさの象徴でもあるカウボーイ同士が、同じテントで夜を過ごす事に抵抗を感じ、ジャックの事を、同性愛者だと思っていないけれど、ジャックの誘いを断り、焚き火の傍で寝る事にします。
しかし夜更けに、厳しい寒さで呻くイニスは、
「意地を張らないで、テントに来いよ」という、
ジャックの言葉に促され、テントに移動します。
 

 イニスがテントに入るのを
 ためらった理由


 イニスがあの寒い夜にジャックの誘いを受けてテントに入らなかったのは、「男らしさの象徴でもあるカウボーイ同士が、同じテントで夜を過ごす事に抵抗を感じ」たことが理由なのでしょうか。
 男同士が並んで寝ることは別に不思議なことではないし、ごく普通に当たり前に行なわれていることです。ただし、お互いのことを過剰に意識していない限りにおいては。

 僕は、あの時点ですでにイニスの内面では「ジャックを好きになっているかもしれない自分」と「そんなことはあってはならないと制御しようとする自分」が葛藤していたからなのだと思います。ジャックのことを過剰に意識していなければイニスは、なんの抵抗もなくテントに入って、男同士として並んで寝ることが出来たでしょうから。

 イニスは本心では、テントに誘われたことが嬉しかったのかもしれない。しかしあそこでジャックの誘いに乗ってテントに入ってしまったら、欲望に負けるかもしれない。そんな自分に彼は気付いていた。だから、寒くても外にいることを選んだ。なぜなら、いわゆる「変態」になりたくないから。父親が幼い自分に見せた「汚い(殺されるべき)同性愛者」になりたくないから。

 その後、やはり寒さに耐えられずテントに入ったイニスとジャックは肉体関係を持つのですが、これは明らかにお互いの感情の昂ぶりが抑えられなくなった上での出来事だと思います。ブログ上での感想の中には「二人の肉体関係の描写が性急すぎる」という声も多いようですが、こうしたイニスの心理的な伏線に気付いていると、印象はだいぶ違うのではないかと思います。

もう一箇所、Prismさんのブログから引用させていただきます。

イニスが、ジャックの想いを受け入れたのは、
何ヶ月も女を断って、ブロークバック・マウンテンに居た男の性欲からなのか、
一緒に、ブロークバック・マウンテンで、羊の放牧をしていた仲間意識の延長からなのか、
イニスに、潜在的に同性愛の要因があって、ジャックが切っ掛けで目覚めただけなのか、
ブロークバック・マウンテンの開放感からなのか、
山には2人以外誰もいない事を含めた、チョットした好奇心の気の迷いなのか、その理由は、観る者に判断を委ねています。

私自身は、イニスがジャックの想いを受け入れた理由を強いて挙げるとすれば、 全ての要因が重なったからだと思いますが、
私が気付いていないような要素があるのかもしれません。

ですが私は、『ブロークバック・マウンテン』という作品においては、
同性愛者の想いを受け入れた理由が重要な事ではなく、
異性愛者が同性愛者の想いを受け入れたという事が、
一番重要な事だという気がします。

異性愛者が、異性を好きになる理由というのは、1つではありませんよね。
容姿だったり、声だったり、性格だったり、匂いだったり、出会いだったり、意外性だったり・・・。

ですから、イニスがジャックの想いを受け入れた理由を、どれか1つに限定して判断してしまう事は、作品のテーマから少し外れてしまう様に、私は感じます。

 まずこの部分では一つ、文句を言わせていただきたい箇所があります。「異性愛者が、異性を好きになる理由というのは、1つではありませんよね。」という部分です。

 同性愛者だって、同性を好きになる理由は1つではありません。この部分をPrismさんがどのような意識で書かれたのかは存じ上げませんが、同性愛者が人を好きになる理由は「性欲のみだ」と断言されているように感じ、正直不快です。確かに男同士の関係というのは「まず性欲ありき」の傾向が強いことは否定できません(笑)。しかし「誰とでも、溜まっていたら寝ることが出来る」というのは違うと思います。我々だって「男だったら誰でもいい」わけではない し、「容姿だったり、声だったり、性格だったり、匂いだったり、出会いだったり、意外性だったり・・・。」と言ったあらゆる要素が絡まり合って「あいつと寝たい」と思いますし、人を好きになります。このように書かれると人間扱いされているように感じません。それに「人を愛するのに性別は関係ない」とおっしゃった上記のコメントと矛盾しています。

 イニスがジャックの思いを受け入れた理由は「ジャックに惹かれていた」からだと僕は思います。したがって「異性愛者が同性愛者の想いを受け入れた」という一方通行の表現は当てはまらないのではないかと思います。

 男同士の「さりげなさすぎる」情愛表現

 イニスは、自分で明確に意識していたかどうかは別にして、やはりジャックに次第に惹かれていたのだと思います。アン・リー監督は映画の前半部で、さりげなくそのことへの伏線を描いています。「男同士」ならではの「本音を表立って剥き出しにしないところで、実は交わされている秘めた情愛表現」を、実にさりげなく描き出しています。ただ、あまりにもその描写が「さりげなさすぎる」ところがこの映画の面白いところであり、特徴でもあります。

 そして、映画の冒頭から同性愛者であることを暗示されているジャックも、イニスに「自分に好意を持っている気配」を感じていたからこそ誘ったのだと思います。同性愛者は手当たり次第、男に手を出す訳ではありません。しかも「ホモフォビア思想」の根強い土地柄で、まかり間違えば大変な罪として断罪される「リスク」を伴うわけですから、かなり慎重に様子を窺っていたことでしょう。

 二人が肉体関係を持つまでに相思相愛の関係になっていなければ、あの夜以降、二人は気まずくなっていたでしょうし、イニスほどのホモフォビア思想の持ち主ですから、もっと罪悪感に苦しめられたことでしょう。ジャックを断罪することも出来たはずです。しかし、そうはならなかった。それどころかあの夜以降のイニスは、人が変わったように明るくなり、ジャックに対して心を開いたのです。

 イニスが受け入れたのは「自分」である

 イニスは、ジャックと肌を合わせた時に感じた快楽によって、自らの思いをはっきりと意識して確信したのです。そして、ジャックを好きになっている「ありえない自分」を,ようやく受け入れたのです。だからこそ、ジャックに対して自分の全てを曝け出すことが出来るようになったのです。

 この場面で大事なことは、自分のことを「異性愛者」だと思っていたイニスが、ジャックとの出会いによって「同性愛者になった自分を受け入れた」ところにあると思います。

 人は「異性愛者」「同性愛者」という別々の「種族」に分かれているわけではありません。異性を好きになったら「異性愛者」だし、同性を好きになったら「同性愛者」なのです。そしてその枠組みは、人との出会いによって変化するかもしれない、実に曖昧なものなのです。これこそが、僕らLGBTが感じている「リアル」です。

 可視化されずに来た「秘めた葛藤」

 イニスの葛藤の場面のような「同性に熱烈に惹かれたことがある者」が抱える内面に秘めた葛藤は、多くのLGBTたちが常に「秘め続けてきた」ことでもあり、社会的にはあまり可視化されていません。

 ですから「ストレート」を自認する人達がこの映画を観て「秘められた葛藤」を読み取りにくいのは、あたりまえのことです。逆にいうと、LGBTたちはその部分を読み取って共感しているのだと思います。そうした違いが見えてきて、非常に面白いことだと思いました。僕にとっては、この映画が教えてくれた大きな「発見」です。

 浮かび上がった問題点

 我々が「同性を好きになる」時に感じること、考えていることが広く知られていないのが、2006年の日本における現実です。この映画の感想を通して、そうした「LGBTたちの問題点」と「ストレート自認者たちの問題点」が浮かび上がりました。そもそもLGBTの多くが、自らのキャラクターを使い分けて「隠れている」ことに問題がある。すなわち「ストレート」自認者の感性に合わせて演じて生きているという現状に、まずは問題があるのです。

 こうした現状は、やはり変わって行くべきだと思うし、現に変わりつつある国もいくつか出てきています。もしその流れが上手く進行すれば、旧来の「ストレート」「ゲイ」「レズビアン」「バイセクシャル」「トランスジェンダー」という枠組みも、無効化する方向に向かうでしょう。そうならなければならないことを、この映画では「イニス」というキャラクターの歩んだ「なにも選び取れなかった人生」を残酷に炙り出すことで示唆しているのです。(彼は結局のところ、「ゲイ」という生き方も「バイセクシャル」という生き方も、「男」という生き方も選び取れなかった人なのですから。)

 「ブロークバックマウンテン」は、60年代~80年代にかけてのアメリカ・ワイオミング州を舞台に、「ゲイ」自認者と「ストレート」自認者の男性が、「ジェンダーの枠組み」の無効化された世界の真の悦びを垣間見たにも関わらず、結局はあんな風に不器用にしか生きられなかったという現実を、非常に繊細に丁寧に描き出した映画です。不器用にしか生きられなかった主人公の悲恋を描いたという点では旧来の「ゲイ映画」の枠組みから少しも外れていないというだけではなく、「ゲイ映画」の集大成、決定版と言ってもいいでしょう。

 しかし、この映画はこれまでの「ゲイ映画」(ゲイの生き方を描いた映画)には見られなかった大きな広がりを持ち、幅広い反響を巻き起こしました。
 その一番の理由は、我々LGBTが日常で当たり前のように感じて夢見ている「ジェンダーという枠組みの無効化された世界」の姿が、「ブロークバックマウンテン」という理想郷を通して可視化され、結果的に「ストレート」を自認する人たちに「人間の生き方の可能性」が実はもっと多様であるということを「発見」させたからだと思います。いや、もしかしたら「発見」ではなく「押し殺してきた自分」というものに気付かせているのかもしれません。

  イニスのような生き方は、もう終わりにしなければならない

 この映画は「ゲイの生き方」のロールモデルを示したわけではなく、「旧来のゲイの生き方」の典型の一つを忠実に描き出したに過ぎません。

 しかしそのことで、こうした生き方は、もう「過去の遺物」として終わりにしなければならないものだと示唆しているのです。直接的にメッセージとしては語っていませんが結果として、そういう思考を観客に促すところが、この映画の真髄なのではないでしょうか。

 Prismさんのコメントと、記事の一部の描写に触れて感じた「違和感」にこだわったことで、いろんなことを考えることができました。
 ありがとうございました。
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