ジョシュア・マーストン「そして、ひと粒のひかり」●MOVIEレビュー

大きなブドウのような粒にして飲み込み、胃の中に何十個も貯めて飛行機に乗り、アメリカに持ち込んで大金を得る。17歳のコロンビアの女の子が何となく手を出してしまった「大金を得る方法」。日常から非日常への魅惑に誘われるまま、いつのまにか様々なトラブルに巻き込まれながら逞しく乗り越えて行く若い彼女の心情に、ずっと寄り添い続ける物語。
か細くて、折れそうな体型のモデルのように美しい女の子が、麻薬を何十個も必死に飲み込む姿が壮絶かつドラマティック。彼女が逃げ出したかったコロンビアの田舎町での浮かない日常。大金を得ればすべてが変わる。自由が手に出来る。
そんなに「アメリカ」はまぶしいのか。
コロンビアでは、彼女のような商売に手を出す人のことを「ミュール(麻薬の運び屋)」と呼ぶそうだ。近年、社会問題化しているらしい。それにしたって、こんなにも日常の中に犯罪組織からの誘惑が忍び寄り「一般化」しているのだろうか。そして、そんなにまでして「自由の国」アメリカに憧れてしまうものなのだろうか。

自分の国の文化に誇りが持てず、一見きらびやかで豊かに見える「アメリカ」というイメージに囚われてしまうことこそ実は不条理。なんで我々はこんな風になってしまったのか。世界中どこも同じじゃないか。
その環境にはその環境なりの「幸せ」があって「不幸」もある。「アメリカ」とは所詮、経済至上主義が作り出す幻想に過ぎず、実体などない。そもそも「幸せ」には実体などないのだ。
そのことに気付いた時、絶望するのか希望を持つのか。なにを自分の「幸せ」だと思うのか。
犯罪に手を染めながら結果的に彼女は「旅」をしたのだった。そのことを否定も肯定もせずに、見つめる。一人の女の子のオリジナルな人生の軌跡として。→FC2 同性愛Blog Ranking

(MARIA FULL OF GRACE)
2004年 アメリカ=コロンビア
監督:ジョシュア・マーストン
出演:カタリーナ・サンディノ・モレノ 、イェニー・パオラ・ベガ 、
ギリエド・ロペス 、ホン・アレックス・トロ 、パトリシア・ラエ
●「そして、ひと粒のひかり」DVD
●ジュシュア・マーストン著「そして、ひと粒のひかり」
ブロークバック・マウンテンで見る世界026●「純」について考えた

ジェシカの試写会レポート突然!炎のごとく
男同士の切ない純愛に胸が締めつけられる!!
魅惑の世界・・・(笑)今回、紹介するのは”ラブストーリー“。
しかも男と女ではなく”男と男”。そう言うと「私には関係ないじゃん」て言われてしまいそうだけど、そんなことはない!!すごく切ない純愛に女のコだって胸が打たれるハズ。<中略(物語説明)>
この映画で注目すべきは、やっぱり主演の二人!!
ゲイじゃない彼らが、本当に自然に演じきっているのがスゴイ。でも、そこにちょっと面白い話があるんです。ヒース・レジャーはずっとナオミ・ワットと付き合っていたんだけど、それが、この映画の撮影に入る直前に破局しちゃってるの。そして、この映画の共演者ミシェル・ウィリアムズと付き合って、結婚しちゃったんだよね。私が思うに、本当に魅惑の世界へと、足を一歩踏み入れてしまいそうで、不安だったんじゃないかな(笑)。だから、さほど美人でもない(失礼!)ミシェルと恋に落ちた・・・あくまでも私の想像だけど(笑)。それくらい、男同士の演技が自然だった!!
純愛ではあるけれど、本当に切なくなってしまった今作。最近では、イギリスとかではゲイ同士の結婚が認められるくらい、オープンになってはいるけど、保守的な日本ではまだまだ苦しんでいる人もいるんじゃないか・・・色々考えさせられる部分も多い作品です。
そんな今作は、”辛い恋“をしているアナタに、贈ります。どんな恋だって、この2人の恋に比べれば軽いって(笑)。前にすすむ勇気をくれる映画だと思います。
今回は「女の子雑誌」からのご紹介。
この人、直言派でおもしろいなぁ~。ジェシカさんという人はモデルさんらしいのですが、ヒース・レジャーの恋路についての分析とか発想が、すごく女の子っぽくて可愛い(笑)。魅惑の世界に足を踏み入れそうな不安を紛らすために付き合ったことにされてるミシェル・ウィリアムズはとんだ災難だけど(笑)、そう感じさせる位に、主人公を演じる俳優二人に、ものすごく濃密な空気が漂っていただろうことは画面からも伝わって来ましたよね。
考えてみれば役者さんって、特に舞台では性別を超えて演じることもよく行われているし、子どもも演じれば老人も演じられる。想像力をフルに活用してゲイを演じるなんてことも、役に没頭してしまえば出来るんでしょうね。もちろん演じた俳優二人にとっては挑戦だったのでしょうが、「演技」ということの不思議さと可能性についても考えさせてくれる映画でした。
純愛かぁ・・・。
「純」ってなんだろう。打算もなく、思うがままに求めて行動することを「純」というのなら、「ブロークバック・マウンテン」での二人は本当に「純に」愛し合ったんだろうと思います。しかし人というのはいつまでも「純」ではいられないもの。社会のしがらみの中で生きて行くには、受け入れなければならない現実もたくさんあります。そのために犠牲にしなければならないのは「純」な自分の心の核。
しかし、本当に「純」であった自分を見つけてしまった「熱い記憶」は、なかなか消し去ることは出来ません。特に、現実が辛ければ辛いほど、輝いた日々の思い出は、より鮮明に心を縛り、現実に浸透してきます。

この映画で最後にイニスが気付いたものは、ジャックのように自らの「純」に素直に向き合えなかった、彼の「不純さ」だったのかもしれない。そんなことを考えました。
ジェシカさんの記事のプロフィール欄に、おすぎさんと試写室でよく遭遇することが書かれています。「小さな作品から話題作までちゃんとチェックしているんだなって、尊敬しちゃいました」とのこと。そんなおすぎさんの、なかなか骨太な映画評を、ある雑誌から発見しました。「さすがはLGBTっ!」と言いたくなるような視点から、きっちりと発言していたので僕は彼を見直しました。次回紹介します。
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●DVD「ブロークバック・マウンテン」
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たかがテレビ018●「プリズン・ガール」のレズビアン描写

4/18に放送されたDRAMA COMPLEX「プリズン・ガール」は、普通の日本の女の子が突然アメリカ連邦刑務所に収監され、様々な「凶悪犯たち」と一緒に過ごした633日を描いていました。
僕としては新聞のサブタイトルに書かれていた「性転換のオカマ」がどのように描かれるのかに注目したのですが、実際に放送されたドラマでは「性転換者」の説明がなかったことを前回、問題視しました。視聴者を掴むための「ダシ」として言葉の持つインパクトが利用されたのではないかと思ったからです。
今回は、ドラマの中でどのように「レズビアン」が登場し、あるいは「性転換者」と思われる人物が描かれていたのかを、振り返ってみようと思います。
裁判所で判決を言い渡された主人公・朋美(安倍なつみ)は、全裸の身体検査等を経て、まずは鉄格子で覆われた独居房に入れられます。周囲の囚人たちの凶暴な怒鳴り声に怯えながら恐怖の時間を過ごす彼女。ハリウッドのサスペンス映画ばりに、おどろおどろしい音楽が常にBGMとして使われており、視聴者としては次第に「どんな凶悪犯がこれから出てくるのか」という期待を膨らまして行きます。いわば「怖いもの見たさ」という感覚が刺激されるのです。
三日目にやっと独居房から出ることを許され、相部屋をあてがわれた朋美。ルームメイトと挨拶し、一人で部屋を出た時に突然、屈強で大柄な黒人の女性が現れ「ガシッ」と肩をつかまれ身動きが取れなくなります。
「おはよう新米。俺はルピータ。行こうぜ。」
そのまま力ずくでルピータに刑務所内を連れ廻される朋美。小柄な朋美は抵抗できず、されるがまま。
「ほら見ろよ。みんな女同士で付き合ってんだ。」
そう言ってルピータが指差した空間ではたしかに、すべての女性がカップルであるかのように親密に寄り添い語り合っています。
やがて屋外にある、フェンスで囲まれた空間に案内される朋美。ルピータはそこにいる皆に紹介します。
「よお。俺の新しい彼女どうよ。」
そこにもカップルらしき女性たちがたくさんいて、ルピータを囃したてます。
「よおルピータ。さすがに手が早いねぇ。」
朋美に馴れ馴れしく顔を近づけるルピータ。
「こいつは俺のもんだ。・・・怖いだろ。ん?」
朋美は怯えながら、あるカップルに助けを求めます。
「助けてください!」
しかしそのカップルはしかめっ面で「なんか用かよ」と言ったかと思うと、朋美を見つめながらいきなり見せびらかすかのようにキスをします。驚いた表情の朋美のアップ。ルピータは、フェンスの隅へ朋美を連れて行きます。
「へっへ。おいで、こっちへ。ほ~ら。オレらも楽しもうぜ。」
壁際に押し付けられる朋美。
「可愛い顔だね。ほ~ら、いいだろ。」
ルピータは顔を近づけます。ついに朋美の唇が奪われるのかと思ったその時・・・
「おい、ルピータ放しな。」と呼び止める声。のちに友人となる韓国人(ユンソナ)が、危機一髪のところを助けてくれるのです。
「その子は、私のだよ。」
「何だよ、そうなのかよ。ちッ」
ルピータは去ります。
このルピータは女性の俳優が演じており、テロップやナレーションでも説明がないのでどう見ても「性転換者」には見えません。しかし、このドラマの中では最もその可能性が高い人物ではあります。男言葉で力まかせに朋美を連れまわし、強引にキスをしようとする「男らしい女」として描かれているわけですから。
レズビアンらしき人々が描写されるのは、2分足らずのこの場面だけなのですが、ドラマ全体の中でこの場面に課された役割は「うわ~、刑務所ってこわ~い。」ということを視聴者に印象付けて、さらに今後のドロドロした展開への期待を高めることなのでしょう。この場面のバックにも、常に恐怖心を煽る音楽が付けられていましたし、見せびらかすようにキスをする醜悪なカップルなどがいて、主人公が「力ずくで犯されてしまうかもしれない」という恐怖と期待を視聴者に抱かせるための演出が満載だったからです。
しかもこの場面に辿りつくまでに、すでに視聴者はさんざん恐怖心と好奇心を煽り立てられています。オープニングの番組説明やCM前の繋ぎテロップなどで「30人以上殺した殺人鬼」「子どもを殺した母」「一家全員がギャング」「5人の頭を斧でかち割った凶悪犯」の登場がセンセーショナルな言葉として示されているのですから。そこで満を持して最初に登場するのが、同性愛関係にあることが暗示された鬱屈した女性たち。「女しかいない閉鎖された空間だから、女同士が関係を持っている」という印象で描かれる人たちなのです。ここでは「入所前から、もともとレズビアンだった人たち」の存在はまったくと言っていいほど意識させられません。
ゲイに比べ、ただでさえ一般メディアで取り上げられることの少ないレズビアンの存在。日本ではレズビアンを「キャラ」にしているタレントすらも見かけることがありません。たま~に取り上げられたと思ったら、このドラマや あのドラマのようにやっぱり旧来のステレオタイプが補強されてばかり。一般マス・メディアのこの状況は、何とかならないものでしょうか。

原作本を、やっと本屋で見つけて買いました。ドラマの反響が大きかったらしく、売り切れが続出していたようです。普通の感覚の女の子が、普通な目でアメリカの「めったに見れない」部分を目撃したという意味では、とても面白い本だと思います。
日本テレビで放送されたドラマでは、最後に彼女が「刑務所中のスター」になったかのような表現がされていました。彼女の「ある能力」が皆の心を捉えたわけですが、だからといって彼女が出所する際に「お祭り騒ぎのように」皆から満面の笑顔で送り出されるというドラマティックな描写には、うそ臭さを感じます。一人一人違うはずの人間を「その他大勢」として一面的に群集として描いてしまうテレビドラマの安易な描き方は、本質を考えようとする視聴者の知的欲求を「えせヒューマニズム」による安っぽい感動で雲散霧消させてしまうのではないかと思います。なおさら、原作本で本人の書いた文章に触れてみたくなってしまいました。(←これも出版社とのタイアップ作戦か?笑)。
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芦原伸「西部劇を見て男を学んだ」●BOOKレビュー

「男臭くてギラギラしているもの」に本能的な嫌悪感を抱いてしまうため、僕は今まで西部劇を見た記憶がほとんどない。かつて淀川長治氏がテレビで「名作だから『駅馬車』を見なさいネ」と言っていたので見たことはあるものの、「つまんね~」と感じてしまい、ますます遠ざかって今日に至っている。
映画史上の名作とされる『駅馬車』を面白がれるかどうかは、世代によっても違いがあるようだ。そもそも僕の同世代で「西部劇ファン」だという人に、今まで出会ったことがない。しかし父親の世代になると結構いるらしい。年配の方から『駅馬車』のすばらしさを滔滔と語られたことがあるが、やっぱり僕にはわからなかった。
それは僕の気質も影響しているのだろうと思う。僕は西部劇の銃撃戦や乗馬シーンに限らず時代劇のチャンバラ場面などの「血湧き肉躍る」活劇シーンを見ても、血も湧かなければ肉も躍ることがない。テレビのスポーツ中継も見ないし、サッカーを見ながら雄叫びを上げることもない。スポーツやアクションを見て興奮することを「男性的な感性」というのなら、僕にはその感性は、まったくもって欠如している。
しかし本屋でこの本が気になったのは間違いなく「ブロークバックマウンテン」の影響だろう。あの映画は「伝統的な西部劇へのアンチテーゼ」としても語られることが多い。あの映画が何に対して噛み付いたのかを、ちゃんと知ってみたい。そんな欲求に応えてくれそうだから、読んでみたくなったのだ。
この本の著者はどうやら「男らしい男」にシンパシーを感じ、自らを「男として」強く意識しながら生きてきたようだ。それは書き出しの文章から伝わってくる。
西部劇があふれていた頃戦後のベビーブームに生まれた「団塊の世代」は、そろそろ定年を迎える。
<中略>
男としては、淋しくもあるが、「一所懸命働いてきたのだから・・・」という満足感もある。「そろそろ自分を自由にさせてくれないか」という願望もある。
男は引き際が大切である。
思えば仕事は戦争で、職場は戦場だった。男たちは昭和二十年代の前半に生まれ、物資のない戦後復興時代に少年期を過ごし、そのまま高度経済成長期に育っている。就職の頃は、すでに経済戦争に突入しており、「先進国に追いつけ、追い越せ」がスローガンであった。<中略>
団塊のオヤジたちの果敢でエネルギッシュな行動力は、ハングリーな時代に育ち、絶えず競争社会の中でライバルと戦ってきたからだろう。
それは、西部劇のヒーローたちの「人生哲学」にも似ている。
振り返れば、団塊の世代は、少年時代に西部劇を見ながら育ったのだ。
なるほど。
日本社会をこれまで引っ張ってきた「団塊の世代」が子どもだった時代は、ちょうどテレビが普及し始めた頃。草創期の日本のテレビ局は番組制作能力が低く、アメリカのテレビドラマや映画を大量に購入し、放送時間を埋めていた。だから「西部劇」がたくさん放送されていたのだ。やがて皇太子成婚パレードをきっかけにテレビが爆発的に普及して大衆化するにつれ、そうしたアメリカの映像は大量に庶民の日常生活に溢れ出して行く。現在のアメリカナイズされた生活環境は、テレビから流される「イメージとしてのアメリカ」への憧れがもたらしたのだ。
人々の思想にも、テレビから流れる「アメリカ的な価値観」は少なからず影響を与えてきたことだろう。特に少年時代に西部劇のヒーローに憧れ夢中になった世代の男性が「男は強く逞しく生きて、女・子どもを守ってやらなければならない」という人生哲学を持ったとしても、なんら不思議はない。むしろ、とても素直な反応だ。
西部劇に代表されるような男たちの「ダンディズム」は、日本という国が高度経済成長を遂げる際には「企業戦士が戦うために機能的な家庭」を作り上げる原動力となった。そして、日本が経済的な覇者として世界に君臨する力ともなったのだが、やがてはバブル崩壊によって「経済至上主義」が人々の精神にもたらした「ひずみ」に直面し、現在ではそうした「高度経済成長型」の生活スタイルは見直されて来ている。男女雇用機会均等法も施行され、少しずつ「男が男であること」の必然性は失われつつある。
そんな現代という時代は「ダンディズム」信奉者たちにとって、ますます肩身の狭い社会になっている。だからこそノスタルジーを感じるのだろう。それが「素晴らしいもの」として称えられていた過去を見直したくもなるのだろう。
こういう父親とゲイは相性が悪いのだ。
この本の全篇から漂う「失われた西部劇的価値観」にノスタルジーを感じるセンスは、70年代に生まれた僕にとっては過去の遺物。これは完全に「父親たちの世代の」価値観である。しかし父親というものは、自らの世代の価値観を息子にあてはめたがるものらしい。それは我が家も例外ではなかった。
しかし残念ながら、僕にとってそれは無理な注文だった。父親のセンスには、どうしても馴染めなかった。今から思えばそれは当たり前。なにしろ僕はゲイであり、男にも女にも距離を感じるセンスを持って生きているのだから。
かつての僕は、男らしくて暴君のように振舞う父が大嫌いだった。しかし今はもう、頑固だった父を恨んではいない。父と衝突することによって「自分はいったい何者なのか」を考える機会を与えられたんだと思うし、どのみち父と息子というものは衝突するものだ。それはきっと、息子が自己を確立するために必要なことでもあるのだ。
「ブロークバックマウンテン」のジャックも、実の父親や義理の父親の要求する「ダンディズム」に、どうしても馴染めなかったようである。やはり彼もゲイとしての感覚を持って生きていたからだろう。ゲイに「男の中の男になれ」と要求されたって、それは無理な注文なのである。ジャックは、実家が農場であるにも関わらず家を継がずに、あの農場に働きに出た。それは父親との軋轢が原因であるらしい。そして結婚後イニスに再会しに出かけたのも、妻の父親と相性が合わなかったことが大きく影響しているのだと思う。
ジャックが何に馴染めなかったのか。その「壁」の姿を知るには格好の本である。ちなみにこの本の中身は、目次を見れば一目瞭然である↓
<目次>
第一部 男の引き際
1 男は去りゆくものである・・・「シェーン」の場合
2 あの世であおう!・・・「昼下がりの決闘」の場合
3 老兵は去らず・・・「黄色いリボン」の場合
[西部ひとくち話] 友好から、追放、虐殺へ~先住民族の歴史
第二部 男の矜持
4 男は逃げてはならない・・・「真昼の決闘」の場合
5 男だって疲れる時がある・・・「拳銃王」の場合
6 男はプライドを忘れない・・・「荒野の七人」の場合
7 馬鹿息子ほどかわいい・・・「大いなる西部」の場合
[西部ひとくち話] 西部を征服した「コルト45」と「ウィンチェスター73」
第三部 男の友情
8 孤独は背中が物語る・・・「ガンヒルの決闘」の場合
9 相棒への侮辱は許せない・・・「許されざる者」の場合
10 旅は道連れ、世は無常・・・「明日に向かって撃て!」の場合
[西部ひとくち話] カントリーミュージックを歌おう
第四部 男の決断
11 男が酒をやめる時・・・「リオ・ブラボー」の場合
12 後輩に地位(ポスト)を譲る時・・・「ワーロック」の場合
13 死に場所を探す旅もある・・・「ワイルドパンチ」の場合
[西部ひとくち話] 酒はストレートで、キュッと飲む
第五部 男の優しさ
14 男はいつも女に優しい・・・「駅馬車」の場合
15 不倫にも年齢制限がある・・・「ウィル・ペニー」の場合
16 男と女、つれづれの愛もあった・・・「OK牧場の決闘」の場合
[西部ひとくち話] アメリカ西部開拓史~コロンブスの発見からフロンティアの消滅まで

実は自己陶酔型のナルシスト!?
この本には、著者が「男であることに酔いしれている」かのような記述もあり、正直言って最初は寒気がしたし抵抗感が強かった。
しかし「こういう人ってよくいるよなぁ~」と受け入れて読み進めるうちに、著者の並々ならぬ西部劇への思い入れと、自らを支えてきた人生哲学への自信に引き込まれて行く。共感はできないけれども、なんとなく気持ちがわかる部分も出てくる。
よく考えてみたらこの本は貴重である。なぜなら「男らしい男」というのは普段、自分の内面をあまり言語化したりはしない。それが男だと思い込んでいる節がある。従って、表立ってこのような本心が語られる機会は、極端に少ないのである。
「男」がどうして「ダンディズム」という鎧を身に纏い、ちょっとナルシスト気味になってしまうのか。その理由や理屈が、西部劇の中の男たちを説明することで非常にわかりやすく見えてくる。
次第に、苦手だった西部劇を、たまには見てみようかなぁとも思えてくる。「ダンディズムを分析してやろう」と思えば、なかなか面白そうではある。まずは「ブロークバックマウンテン」と同じワイオミング州を舞台にした「シェーン」あたりから見てみようかな。→FC2 同性愛Blog Ranking
●芦原伸「西部劇を見て男を学んだ」(祥伝社新書)
●ジョージ・スティーブンス監督「シェーン」(1953年)
西河克己「不道徳教育講座」●MOVIEレビュー

・・・堂々と言えた時代も今は昔
やっぱり三島由紀夫は「悪党」である。
「悪こそが人間の本性」であることから逃げずに掘り下げ、そこから見えてくる「自分なりの善」を希求しつづけた人。そういう意味では作家として誠実であり、信頼できるし尊敬できる。
しかし彼の不幸は、その感覚が人並み外れて鋭敏すぎたために、戦後の高度経済成長がもたらした無菌国家化の消毒スプレーを誰よりも強烈に浴びてしまったことだろう。鋭敏過ぎる人間というのは、鈍感すぎる人間よりもずっと、「幸せ」からは遠ざかるのが宿命だ。
この映画はまず「道徳教育講座」という文字がスクリーンに大写しになる場面からはじまる。「なんだなんだ、文部省特選映画か?」と思わせた所で、画面の右下から「不」の文字がトコトコと歩いて来て文字列の先頭に加わる。完成したタイトルは「不道徳教育講座」。一文字加わるだけでここまで印象が変わってしまうことの目眩に襲われながら、映画の世界に引き込まれる。
三島由紀夫ひょっこりと登場
その後、突然画面に三島由紀夫本人が登場するので仰天させられる。薄暗いバーのカウンターに腰掛けて、映画の観客に向けて語りかけてくる。「道徳とは、檻である。」実に痛快かつ三島由紀夫的世界観を象徴する言葉である。いつものように目をカッと見開いた自意識過剰気味の三島由紀夫は、観客に「檻から出るための」鍵を渡し、「不道徳教育講座」の世界へと誘うのだ。

以前の物語
時は戦後の混乱期から抜け出し、やっと庶民の生活が落ち着き始めた昭和30年代。
生活が安定すると人というのは暇になるから、あれこれと「おせっかい」になり始めるらしく、「道徳という檻」を自ら作り出して自らを縛り上げる勘違いを始めてしまう。
そんな勘違い人間の溜まり場である教育界や政界の権力者達によるヒエラルキーや、産業界の利権構造が複雑に絡まり合って「お前らのどこが善なんだ」と突っ込みたくなるような魑魅魍魎がうようよ沸いている様子を、コミカルに風刺する。「人に善を強いる者たちの欺まん性」を、三島由紀夫は容赦なく描き出し、観客に「笑いという批評精神」にまぶしながら提出するのだ。こんな映画が堂々と作られていた事実は、1959年の日本はまだ死んでいなかったというなによりの証拠である。
近年の日本で強まりつつある「愛国心」だの「自己責任」だのと言った「権力者が押し付けようとする、おせっかいな言説」は、すでにこの頃から言われ始めていたようだ。しかし、この映画が作られた昭和30年代の庶民や映画人たちは死んではいない。そうした言説を権力者が言い出すとむしろ「な~に言ってやがんだぃ」と馬鹿にし、かえって嘲りの対象としていた様子がこの映画にはリアルに描かれている。
当時は戦争の記憶がまだ生々しく、愛国心を持ち過ぎて盲目になったから国家的な破綻に陥ったのだという事実を人々がまだ忘れてはいない。そして「自己責任」なんていう言葉で他者の行動を「他人事」として切り捨て、ヒステリーを起こして断罪するなんてことも、人間関係が濃厚に結びついている当時の世の中ではあり得ないことだろう。画面からほとばしり出る市井の人々の人間としてのエネルギーの濃厚さは、現代の世の中の無味乾燥ぶりと記憶喪失ぶりを、かえって強く意識させてくれる。

成り代わる
人殺し以外のあらゆる犯罪を犯したことがあるという「最も不道徳な男」が、刑務所から出所するところからドラマは始まる。
刑事の監視から逃れるために彼は、自分とそっくりな男を見つけてこっそり衣服を取り替え、変装して逃亡する。しかし変装した相手はなんと、「最も道徳的であるべき」道徳教育の権威者だった。こうした「最もドラマティックに物事が進行する」設定を思いつくのが、いかにも三島由紀夫的。
しかし「悪党」というのは頭がいい。次第に環境に順応し、乱暴な言葉遣いではあるが「道徳教育の権威者」そのものであるかのように振るまえるようになる。
彼の「権威」の傘の下にいようと周囲にはたくさんの人間がまとわりついているのだが、講演会などで彼がどんなに「毒舌」を吐いてしまったとしても「おっしゃる通り!」と、巧妙に道徳的言説に「解釈し直してしまう」ところが面白い。権力者になれば、なにを言っても「大層なもの」に聞こえてしまうという現実風刺。
「善人」を気取ると欲望は鬱積して屈折する
女優の三崎千恵子(「男はつらいよ」のオバちゃん役で有名)が、教育大臣の妻の役で出てくるのだが、最高に面白い演技を見せている。彼女は普段は「妻でございます。」と貞淑でつつましやかに振る舞っているのだが、実は屋敷に出入りする車の運転手に恋焦がれている。しかも彼はボディービルダーのような筋骨隆々とした男らしい男。夫人は彼の裸体を思い浮かべ、「よからぬ想像」をしては「いけないわッ!」と掻き消す日々。
しかしある日、ついに我慢がならず告白してしまうのだが、あまりにも舞い上がりすぎて勘違いし、「不道徳な男」に対して邪な告白を言ってしまい、弱みを握られてしまうのだ(笑)。「善人」を気取っている人ほど色んな意味で欲望は鬱積し、始末に負えない人間になってしまう。そんな欲求不満のマダムをコミカルに表現した名演技である。
「道徳的な男」を演じる道を選択する主人公
やはり悪党は悪党。どう振る舞えば賢く生きて行けるのかは本能的に察知する。権力者の娘を妻に迎え、自らを「道徳的な男」そのものに同化させる道を選択する。いわゆる「檻の中」に完全に入り込み、演じながら生きて行く道を彼は選択するのである。
主人公と女が「檻の中」に入り込み、地平線に向かって歩いて行く映像を提示した後、再び三島由紀夫本人が登場し観客に語りかける。
「どうして彼らが檻の中にいることを選択したかって?そりゃ、檻の中で安全に生きるほうが、人間長生き出来るってものさ。」
・・・観客を煙に巻いたまま、この映画も終わって行く。

1959年/日活/モノクロ/89分
監督:西河克己
制作:芦田正蔵
原作・出演:三島由紀夫
出演: 大坂志郎 信欣三 三崎千恵子
長門裕之 清水まゆみ 浅沼創一
柳沢真一 高島稔 月丘夢路
岡田眞澄 植村謙二郎 佐野浅夫
松下達夫 天草四郎 高品格
初井言栄 葵真木子 浜村純 藤村有弘
●三島由紀夫「不道徳教育講座」(角川文庫)
●この映画はビデオ・DVD化されていません。ぜひDVD化を!→FC2 同性愛Blog Ranking
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