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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

ブロークバック・マウンテンで見る世界014●能ある鷹は爪を隠す

当事者意識の有無による
「感じかた」の違い


 LGBT雑誌「yes vol.2」に掲載されていた「クローゼットの闇に迷い込まないための、ブロークバック山の案内図」という記事を読み、どうして僕は泣いたのか。( →こちら参照 )

 実はその後も考え続けているのですが、やはり思いが至ったのは「LGBT」と「ストレート」の違いでした。つまり、この映画を観て感じ取るものが、どうやら「LGBTを自覚して生きている人」と、「そうでない人(ストレートと呼ばれる人)」とでは、かなり違うらしいということです。

 これは当たり前のことなのかもしれません。当事者になってみなければわからないことはたくさんあるし、僕だって「ストレート」の男性や女性の気持ちは理解できないことがたくさんあります。だから僕は「良い」「悪い」という文脈で語ろうとしているわけではないので、そこは誤解しないでください。

 ただ、全国公開が開始され、続々といろんなブログで日本での感想が書かれているのを観ると、この映画について「べつに同性愛映画という程のものではなく、男と女に置き換えても成り立つ普遍的な愛の物語だ。」という言説が多いことに驚いています。そういう見方も出来るようではありますが、そこで感想を終わらせてはもったいない。なぜ作者は主人公をわざわざ「カウボーイの男性2人」にし、舞台設定をアメリカのあの時代の田舎にしたのか。そこから紡ぎ出されている物語の本質にもう少しこだわって考えてみると、今までとは違った視点から世の中を見ることが出来るかもしれません。

<いよいよネタばれモードに突入!映画を観ていない方はご注意ください。>

父親からの強烈な洗礼
「ホモフォビア(同性愛嫌悪)教育」


 イニス(ヒース・レジャー)が幼い頃、父親が行った同性愛者殺人を目撃させられて抱えてしまったトラウマが、重要なイメージとして映画では提示されます。「男同士で汚らわしいことをすると、こういう目に合うんだ」という教育のために二人の死体まで見せられ、「同性愛嫌悪(ホモフォビア)が正義」だということを、彼は強烈に父親から植えつけられるのです。しかも殺人を犯した父親は罪に問われることなく、殺された二人は闇に葬り去られて行くのです。発覚すると命を落としても当然とされていた同性愛者差別の実態が強烈なイメージとして、この映画では提示されています。

 しかし「教育」は無効だった。

 しかしジャック(ジェイク・ギレンホール)に出会い、人間的なふれあいを通して親しくなったイニスは、性の衝動を抑えることが出来ずにジャックと身体を合わせます。あれほどまでに父親や社会から「ホモフォビア思想」を植え付けられたにも関わらず、彼は欲望に忠実になるのです。対するジャックの方は、自らがゲイであるという自覚を早いうちから持って生きてきた種類の人なのでしょう。イニスに誘いをかけるのも彼です。しかし映画では、そこに行くまでの性的な感情表現を「ほぼ抑制」し、わかりやすくは描きません。

 「男らしさ」を外す快感

 「男」という仮面を被って生きている人間のほとんどは、他人の前で自らの本心をあからさまに表現することを避ける傾向にあります。特に「好き」という感情を素直に表すことに関しては「女々しいこと」とされがちなため、あえて表現しないようにしがちです。

 もともと「好き」という感情には、理由などありません。「好き」になってしまうものは「好き」になってしまうのです。そして、その感情は自分にとっては本物なのです。しかし、「マッチョ信仰に浸っている男」は基本的にその表現を抑えます。特に「好き」な対象が「あってはならない」とされる「男」であるのだから、なおさら表立って表現できるわけがありません。この映画の前半部分での淡々として抑制された表現と日常描写は、そのことを非常にうまく表現していると思います。

 だからこそ、一度「たが」が外れた時には抑えられていたものが洪水のように溢れ出し、一気に加速して行くのです。これは、僕らゲイが大人になってから自らを「ゲイ」だと認め、ゲイ同士の恋愛関係に自らを投じはじめた時の悦びとか勢いと同じようなことです。それまでは「男」という武装の中に閉じ込めていた本当の自分を解放し、裸になったからこそ得られる心地よさ。自由。それまで強烈に抑えられていた分、開放度も自由度も強烈に感じられるのです。

 そして、「同じ罪を犯している」という共犯感覚も二人の絆をさらに強めたことでしょう。実際、「罪」とされることをしているという「後ろめたさ」は彼らに常につきまとっていたでしょうから。しかし人というのは不思議なもので、「後ろめたさ」というスリルすらも快楽に変え得るものなのです。

 彼らがあの「ブロークバック・マウンテン」で味わった最高の悦びや快楽は、実社会で本来の人間性が抑圧され続けていることの反動です。だからあの日々は輝いて感じられるし、その後の人生において片時も脳裏から消し去ることは出来ず、いつまでも理想郷であり続けたのです。

 バッシング表現への感度の違い

 その理想郷についに帰り着くことが出来ず、死別する二人。
 映画では彼の死因を、ほんの2、3秒ではありますがはっきりと「ホモフォビア」イメージの反復で描いていました。
 映画を観た後に、あの数秒の印象が重く突き刺さり、脳裏に強く残るか残らないか・・・。この点も「LGBT」を自認する観客と「ストレート」を自認する観客とでは、おそらくある程度は違ってくるのかもしれません。実際にゲイ・バッシングによる殺人は頻発しているというLGBTに関する知識や、周囲にLGBTの友人や家族がいるかいないかによっても事情は違って来るのでしょうが。

 この映画は紛れもなく「同性愛について」誠実に描いている映画です。
 アン・リー監督がキャンペーンにおいて「ゲイ映画」であることへの注目を避ける発言をしていたのは、保守層が多いと言われるアカデミー会員に、必要以上に「同性愛差別反対プロパガンダ映画」だという印象を与えたくなかった「アカデミー賞対策」なのかもしれません。「同性愛」と聴くだけで忌避する人たちをなるべく刺激しないようにしながら、まずは映画館に足を運んで「観てもらう」ための彼なりの営業スマイルであり、幅広い観客層を動員するための、周到な作戦だったのかもしれないと僕は感じています。
 映画は、まずは観てもらわなければ何もはじまりませんから。

 もちろん僕は、この映画を一面的な「プロパガンダ映画」だと見做しているわけではありません。それとは全く対極にある、多義的で複雑な表情を獲得した、真に攻撃的な本物の芸術表現だと思っています。

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