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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

ブロークバック・マウンテンで見る世界005●初回を観ました。



 初日の渋谷は大行列

 3/4(土)から渋谷のシネマライズで先行ロードショーが開始された「ブロークバック・マウンテン」 。どうせ観に行くならと気合を入れて10:50からの初回を観に行ってしまいました(笑)。ちなみに、僕がこんな「映画マニア」のようなことまでして映画を観たのは、はじめてです(←じゅ~ぶんマニアだっつーの)。

<今回は、映画の内容には触れずに「初日レポート」に徹しました。
 ネタばれではありませんので、安心してお読みください。>

 念のため一時間前に渋谷に着き、スペイン坂を登ってみると上の方になにやら行列が。
「もしや・・・」と思った通り、この映画の初回目当ての人々による行列でした。
 「残りわずかとなりま~す」と係の人が呼びかけていたので急いで並び、なんとか前から5番目の端の席をゲット。僕の後ろにもどんどん人が増えていたので、初回に入るのをあきらめざるを得なかった人が、たくさんいたのではないかと思われます。

 開場し劇場内に入ると、客席には思ったよりもゲイのカップルは見当たらず、かといって若い女性層に偏るわけでもなく、若者からお年寄りまで幅広い年代の男女で埋め尽くされていました。
 ただ、やはり「PG-12指定」の影響なのでしょうか、子どもが全く見当たらなかったのが残念と言えば残念。
 入場が禁止されているわけではなく、保護者同伴ならば入場は可能なのですが、親に勇気がなければ連れては来ないのでしょうね。
 nicoさんのこちらの記事によると、シドニーでは子供連れの光景もあったとか。こういう映画を子どもと一緒に観て語り合う親って素敵だと思うし、僕が子どもだったら一生忘れないけどな~(笑)。

 場内では、すすり泣きがあちこちから。

 それにしてもこの映画、本当によく出来てます。
 単純に、観ていて「おもしろい」と感じるし、画面が美しいし、台詞も抑制されていて一言一言が深いし、演技もいいし音楽もセンスがいいし演出も編集もいい。「いい映画」の条件が何拍子も揃っているから観ながら「ダメ出し」する必要もなく(笑)安心して映画の世界に身を委ねることが出来ました。
 そして後半になればなるほど物語としての強度は強まり、心を揺さぶられる場面がいくつも出てきます。しかもそれが、ハリウッド大作にありがちな「押し付けられる」種類の感動ではなく、観客自身が自らの知能と感覚を駆使した上で感じる、深い部分での心のざわめきがもたらされるのです。
 途中からあちこちで鼻をすする音が聴こえて来たのですが、余計なBGMがない映画だから場内に響く響く(笑)。でもわかります。気を抜くと、僕も泣いてしまいそうになったほどですから。こんな感覚は本当に久々だったし、どうせなら周囲に混ざって泣けば良かったとも思いました。


 この映画は世界を変える。


 ・・・観終わってからまず、そう思いました。
 なぜならこの映画は、人間としての「普遍的な部分」を表現するレベルまで、しっかりと到達しているからです。
 国境を越え性別を越え、老若男女を越えて観客の心を結びつけてしまえるような、強烈な力をこの映画は持っていると感じました。
 それは、数ある芸術表現の中でも「音楽」が持ち得る特権です。この映画はいわば「音楽的な領域」にまで達しているのです。

 アカデミー賞絡みの報道では「社会性」(メッセージ性)ばかりが注目され、「同性愛の悲劇」を描いた側面に注目が集まっていますが、それはあくまでも観客の側が勝手に意味付けるもの。この映画はそれよりも、もっと高いレベルに達して、映画それ自体が「生き物」として自立しているように思います。

 もちろん、この映画が「結果的に」噛みついている既成の「家族制度」だとか「父権制度」「男女の夫婦という窮屈な関係」などについても、論じることには大きな意義があるでしょう。
 そうしたいろんな論議を巻き起こすに充分な「上質な議題」を提供してくれる映画だし、だからこそ、これほどまでに世界的な評価を勝ち得ているのだと思います。しかし、その全てを包み込んでしまうかのような「大きさ」を、この映画は持ち合わせてもいるのです。

 間違いなく、10年に一度出るか出ないかの名作。僕は映画をたくさん観るようになってから10年は経つのですが、これほどの感覚を味わったのは久しぶりのことです。
 低予算映画ながらもアカデミー賞の最有力候補になっているのは納得だし、世界中の映画業界に良い刺激を与えるためにも、ぜひこの映画がオスカーを受賞して欲しいと思いました。

 アカデミー賞は、アメリカの映画製作者たち自身による投票によって決まります。心ある映画人ならば、この映画が達成したものの「大きさ」に気付いているでしょうし、業界の改善のためにも投票しただろうと思います。

 映画史に確実に残るこんな素晴らしい名作が「同性愛」を描いてくれたことは、結果として世界のLGBTたちに計り知れない好影響をもたらすことでしょう。
 そういう意味でも、歴史的な映画です。




 観終わって映画館を出たら、ちょっとしたお祭り騒ぎでした。映像メディアが観客のインタビューを収録したり、雑誌の記者がアンケートを取っていたり。
 僕は「ぴあ」の出口調査隊に捕まったので質問に答えました。作品については100点満点、演技や演出・音楽等について5段階で採点するのですが、もちろん満点にしておきましたよ。
嘘じゃなく、心からそう思えたから。

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アニー・プルー著「ブロークバック・マウンテン」

オリジナル・サウンドトラック「BROKEBACK MOUNTAIN」

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ブロークバック・マウンテンで見る世界004●やっと本日!日本公開(東京のみ)

 いや~、あちこちの海外在住の方々のブログにレビューが掲載されているものの、なるべく予備知識を入れずに見たいのでグッと我慢してきた「ブロークバック・マウンテン」ですが・・・やっと本日、日本公開の初日を迎えました。

 と言っても渋谷シネマライズでの先行上映であり、全国公開の3/18までは2週間あるのですが、東京に住んでいる者の特権として、早いうちに観に行ってこようと思っています。どんな映画かを知った上で、アカデミー賞の発表を知りたいですからね~。(地方の方、すみません。)
 そのアカデミー賞。
どのメディアもほぼ全て、最有力はこの作品だと取り上げています。雑誌等の特集記事でも、まずはこの映画の写真が一番目立つ形で掲載されているので、ものすごい宣伝効果だと思います。
 ただ、小心者のゲイとしては、会社で大っぴらに「今年のアカデミー賞、どうなるんだろうね~」という会話をしたくても、話が奥深く発展してしまうことを恐れ、ついつい控えてしまうことがあったことを、ちょっぴり反省。(←臆病だなぁ。)
 似たようなことは「メゾン・ド・ヒミコ」の時にも感じました。「最近、なにかいい映画観た?」という何気ない会話だったのに、「メ・・・」と言いかけてやめ、 「TAKESHIS'」 に切り換えたことがあります・・・おかげで内容を説明するのに苦労しました(笑)。
 もしアカデミー賞を本当に受賞すると、その辺の心理的圧迫も随分と楽になるでしょうから、そういう意味でも大期待してますっ!(←結局、自分の小心者ぶりは棚上げかいっ。)

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ゲイと父親との関係~ジョージ・マイケル報道で考える PART.2

 前回の記事「ゲイと父親との関係~ジョージ・マイケル報道で考える」 に、Ikunoさんがブログ「Who singing now? The 3rd Planet」でTBしてくださいました。
 コメントを書こうと思ったのですが・・・なんだか長くなりそうなので記事にします。興味のある方は、Ikunoさんの記事と併せてお読みください。
   ◇◇◇
 Ikunoさんと、お父さんとは、本当に相性が合ったのでしょうね。フランクに接することが出来たというのが、いいなぁ~と思います。

 Ikunoさんのお父さんのように文学的な感性が豊かな人はきっと、人間の多様性についての理解も深いでしょうし、他者を尊重するということがどういうことなのか知っているのでしょう。だから自分の子どもに対してもちゃんと「他者」として接することが出来たのだと思います。素敵です。

 ただ、残念ながら日本の多くの父親たちの日常を想像すると、そのような人は少ないのではないかと思います。仕事の忙しさで時間に追われ、そのような感性を自らに育む余裕が無いだろうからです。なぜなら、仕事場というのは「ビジネスマンとしての人格」は形成しますが、「人間としての多様性」を切り捨てることが求められる場でもあるからです。演劇や映画の客席を埋めるのも大半は中年女性たち。ビジネスマンの芸術的感性の貧困度は深刻です。

 僕の父は、やたらに自分の「美学」を持っている人でした。特に「男である」ということに関しては強烈に。「父というのはこうあるべきだ」「男というのはこうあるべきだ」という美学を、よく息子である僕に聴こえるように口にしていました。僕も幼い頃は素直でしたから(笑)、従っていたように思います。

 ところが成長するにつれて「父の美学」に自分を当てはめ、演じなければならないという強迫観念が辛くなって来ました。しかも、そんな中でさらに自分が「ゲイである」ことを認識しはじめるのですから・・・それはもう絶望的(笑)。

 唯一の救いは、母や姉とは仲が良かったということです。父は「女性蔑視発言」もよくする人だったので、日頃から彼女たちを傷つけていました。だから父のいない時には、父の理不尽さや横暴さを3人で愚痴っていました(笑)。だから父の前で「演じていた」のは僕だけではなく、母や姉も一緒だったわけですが。

 その影響か、今でも女性と話す方が僕としては自然に振る舞うことができます。しかし、女性が「女性」であることを僕にアピールして来ると嫌悪感を覚えてしまうのは、幼い頃からあまりにも母や姉と親しみすぎたせいで、彼女たちの「暑苦しさ」を思い出して「もう勘弁っ!」と生理的に拒否反応が起きてしまうからなのだと、自分では把握しています(←自分勝手ですね~笑)。

 だから僕は必然的に、自分の育った環境で足りなかった「優しく包み込んでくれる男性」のことを求めてしまう傾向にあるようなのです。従って、僕がゲイである理由は「後天的」である比率が高いのだと、自分で認識しています。・・・なんだか、自分のセクシュアリティーを披瀝するのって、ちょっとこっぱずかしいですが(笑)。

 これは決して特殊な例ではなく、僕の父親のように「不器用で強烈な美学を持った男性」が相変わらず格好いいとされ続けている限り、似たような精神遍歴を辿って似たようなセクシュアリティーを持つ人も生まれ続けるだろうなぁと思ったので、ジョージ・マイケルに共感しながら前回の記事を書いた次第です。

 「人の数だけセクシュアリティーはある」という言葉もあるようです。同性愛を自覚する人も、その原因や理由は人それぞれ。「断言調」で一括りにするような方々がたくさん世の中にはいらっしゃいますが、他者に対する想像力を持つのが面倒くさくて怠惰なんだなぁ~と、思うようにしています。

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