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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2006-01
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ヴィム・ヴェンダース「ランド・オブ・プレンティ」●MOVIEレビュー①

「9・11」というトラウマを抱えて

「ベルリン・天使の詩」「パリ、テキサス」「さすらい」など、ヴィム・ヴェンダース監督のフィルモグラフィーには、ため息が出るほどの名作が多い。社会や同時代と正面から向き合い、常に誠実で刺激的な問題作を発表してきた数少ない「映画作家」の一人だろう。そんな彼がついに「9・11」と向き合った作品を発表した。

現在公開中の「ランド・オブ・プレンティ」は、なんと偶然生まれた作品だという。
2月に日本公開される次回作「アメリカ、家族のいる風景」の撮影が延期になり、空いた期間で突然思い付いて16日間で撮影してしまったらしい。なにかにとり付かれるかのように出来上がったこの映画は、そのエネルギーと切実な思いが詰まった、まさに「今、本当に必要な映画」となった。

世界はまだ「9・11」を克服できていない。その後起こった様々な出来事にも、どう対処していいのかわからない。そんなどうしようもない現代の苦悩に対して、映画作家として何が発言できるのか。ヴィム・ヴェンダースらしい誠実な問いかけが、この作品にはちゃんと詰まっている。
●公開情報:
現在シネカノン有楽町で1/13(金)までモーニング公開中(連日10:45~)
1/21~27、目黒シネマで一週間限定公開(12:30~ / 17:15~ )

マイケル・ムーアへの静かな批判

「9・11」以後、事件を題材に様々な映画が作られては来た。中でも特に有名なのがマイケル・ムーア監督の「華氏911」だろう。アメリカ大統領選を前に公開され、カンヌ映画祭のパルムドールを受賞し、世界中にセンセーショナルな話題を振りまいた。
しかし映画としては何という幼稚な表現だっただろう。ブッシュ大統領を完全に「悪魔」視し、告発することしかしない。ドキュメンタリーの手法を借りてはいるが、作者の政治的な主張に満ちた「戦闘的プロパガンダ映画」としか言えない代物だった。

僕は、あの映画は逆にブッシュ支持者を刺激して、その意思を強固なものにしてしまったのではないかとさえ思う。確かに描かれている内容や告発されるべき大統領の姿は「知っておくべき戦慄すべき事実」ではあるが、あそこまであからさまに戦闘姿勢を前面に押し出してしまうと、描かれた事実が感情的に誇大化されたものなのではないかと思われてしまうからだ。
さらに言えば、戦闘的な表現というものは観客にカタルシスを与えてしまう危険を内包している。感覚的に「やっぱりそうか」と思わせるだけで、観客の思考を「終わらせてしまう」のだ。
「華氏911」を観た後、まるでエンターテインメント娯楽大作を見た後と同じような、妙な爽快さを感じて背筋が寒くなってしまったのは、僕だけではないだろう。

戦いの姿勢は、新たな戦いしか呼び起こさない

あれは「プロパガンダ映画」そのものだ。「プロパガンダ映画」とは、映画と同じ政治的主張を受け入れる人たちの意見を補強することには長けているが、反対意見を持っている人々の心には決して響かない。それどころか反発心を増長させ、意志を強固にさせてしまうだけなのである。
「戦い」の姿勢をとり続ける限り、そこからは新たな「戦い」しか生まれない。
「戦い」というのは、思考を単純化させなければ出来ない行為である。
そもそも「賛成」「反対」という態度表明自体、思考の単純化の産物であるのだから。そのことに無自覚な者に、芸術表現をする資格はない。自らの思考を固めてしまうことへの畏れがない者に、映画を作る資格はない。

映画というものは油断をすると簡単に「戦い」の論理に巻き込まれてしまう危険な装置だ。マイケル・ムーアはあまりにも無邪気に映画を「道具」にしてしまった。

映画はもっと大人であるべきだ。
ヴィム・ヴェンダースはこの映画で、そう言っているように思う。
複雑な物事から逃げずに、先行きの見えない不安を受け入れながら生きること。自らの不安によって他者を必要以上に悪魔視し、「敵」を勝手に作り出してしまう愚かな精神構造から解放されること。そんな当たり前の状態に、世界を戻さなければならない。

この「ささやかな物語」は、静かな語り口だからこそ、ゆっくり心に染み渡って来る。
世界が子どもになろうとしている今だからこそ、映画は大人であるべきだ。FC2 同性愛Blog Ranking
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田中泯・砂に踊る「兵士の物語」●PLAYレビュー(TV)

音楽VS言葉の物語

NHK教育テレビで1/3(火)に放送された、田中泯・砂に踊る「兵士の物語」。
ストラヴィンスキーが劇場用音楽として作った曲を、舞踊家と作曲家とテレビ演出家とのコラボレーションで映像化したもので、とても見ごたえがありました。なにより、「言葉」と「音楽」を対比させるという、この物語に込められたメッセージの深さに惹かれました。


悪魔に魂を売り渡し、巨万の富を得る男

登場人物は兵士と悪魔の二人。
休暇をもらって戦場から帰ってきた兵士が、河原でヴァオリンを弾いて休んでいます。兵士は音楽家であり、音楽は彼の魂。純粋に音楽を楽しむ彼。

そこへ悪魔が登場し、「お前のヴァイオリンと引き換えに、未来の事が何でもわかる本をやろう」と告げます。悪魔が言うには、その本には未来の出来事が為替レートからなにからすべて記されているというのです。
兵士は悪魔の誘惑に乗り、ヴァイオリン(=音楽=魂)を手放してしまいます。

巨万の富は、心を砂漠にするだけだった

兵士は故郷の村へ帰りますが、誰も兵士の姿に気付きません。魂を売り渡してしまったので、もう「生きている人たち」と交流が出来なくなってしまったのです。
亡霊となって彷徨いながらも、未来の事が書かれている本によって兵士は巨万の富を得ます。しかし、心は乾いて行くばかりなのでした。


音楽の喜びを取りもどす

そんなある日。
兵士は、城に眠る王女に恋をします。しかし眠っている彼女を目覚めさせるには、音楽の力が必要らしいのです。
そこで兵士は再び悪魔に会い、せっかく築いた巨万の富と粗末なヴァイオリンを交換します。

兵士が必死で奏でる魂の音楽は、王女の心に届いて目覚めさせ、二人はめでたく結ばれることになりました。
やがて兵士が手放した預言書は朽ちて行きます。兵士はもう、未来の事を知ることが出来なくなりました。その代わり、「生きる」ことを取り戻しました。

悪魔は不滅である

一方、悪魔が死ぬことはありません。
また次の機会を狙って虎視眈々と目を光らせ続ける悪魔の踊りで、物語は幕を閉じます。・・・このように、「兵士の物語」は一見単純な寓話形式ではありますが、そこに込められた世界観は、まるで20世紀の世界史を暗喩しているかのようです。「言葉」のもたらした「理想」や「大義」に翻弄され、「現在の喜び」を見失った果てに、数々のジェノサイドが引き起こされました。そして、いまでも悪魔は簡単に人々の心に忍び込み、心の砂漠化は進行中です。とても現代性のある物語であり、人間の普遍的な愚かしさを鋭く衝いている傑作だと思いました。

田中泯という表現者

田中泯さんは悪魔を演じていたのですが、飄々とした風貌がピッタリでした(笑)。何よりも、その軽やかな動きの自由さに目が引き付けられます。踊っているのに踊っているように見えない。抽象表現をしているはずなのに、そんな風に感じられないから不思議です。
番組内で語られていた、田中泯さんの舞踊論を紹介します。

「たぶん私たちは、重力から逃れないことを選んだ・・・っていう風にも言えるわけですね。だから、重力そのものが本当は愉快なものなんだと思ってもいいんじゃないかなっていう気がするんです。そのことを本当に認めきった時に、とても愉快なこととして、僕なんかには感じられるんですね。用意周到に、大変な労力を使って準備を重ねて、そしてそれが一瞬・・・本当に短い一瞬かもしれないんですけども・・・いや、長い一瞬かもしれません・・・その一瞬に、フッと自分に訪れてきた時の、楽しさ。愉快さみたいなものっていうのは、僕はとってもわかるような気がします。」
田中泯さんの舞踊は、いわゆる「ショーダンス」ではないので「派手さ」や「わかりやすさ」とは無縁なのですが、一つ一つの動きに「他者との関係性」や「自己の内面」や「音楽との葛藤」が複雑に絡まり合っていて深みがあるのです。しかもそれを理屈(言葉)ではなく魂(音楽)として表現できる方法を、彼は体得しているのでしょう。
たとえ映像として切り取られてもその強度は死なずに、見る者を充分、惹き付ける力を持っていました。ぜひ今度、生で舞台を見てみたいと思います。
●田中泯さん舞台情報
桃花村舞踊公演「重力と愉快」(田中泯公式サイトより)
新国立劇場・小劇場にて
2006. 1/21 sat 19:30, 22 sun 16:00, 23 mon 19:30
構成・演出=田中泯
出演=玉井康成、夏井秀和、菊島延幸、原田悠士、石原志保、松尾彩子、伊藤菜起、渡辺奏、田中泯
◎入場料(全自由席・日付指定)前売¥3,000 当日 ¥3,500
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