北野武「TAKESHIS'」●MOVIEレビュー
闇の自覚者が引き受けてしまったもの
自分を分析したくなったのだろう。
しかも徹底的に。
現在公開中の北野武監督最新作「TAKESHIS'」は、一見難解に思えるスタイルをとってはいるが、実はとても単純かつ明快な作品である(と、僕には感じられた。)監督自らが手にしてしまった「スターという権力」と、それを引き受けている自己について、彼自身が主体になったり客体になったりしながら思考を巡らせ、あの手この手で茶化して分析することが中心になっている。その観点から見てみると、けっこうわかりやすい。
物語としての整合性もスタイルとしては壊してあるのだが、実は一貫している。様々に繰り出される映像としてのイメージやシュールな展開の場面も、監督が自己を分析するために脳内に浮かんだ観念を映像化することに忠実である。彼の自己から逸脱して飛躍する領域には達していない。真に革新的な映画というものは、監督(作者)の内面世界すら超越して「別の生き物」として自立して生き始めるもののことを指すと思う。コンセプトや編集方針から行って、監督はその領域を目指したかったのだろうと推察されるが、達しきれていない。
僕としては、もう少し「異物」としてゴツゴツと突き刺さってくるものを期待していたのだが、その期待は裏切られた。それはきっと論理としても感覚としても、この映画がわかった(ような気分にさせられた)からかもしれない。僕の内面とこの映画は、なぜだか知らないけど共鳴することが多かった。僕が普段関心を持っていることと共通する部分が、この映画からかなり見出せたからなのかもしれない。だから物足りない。なぜなら僕は映画に「他者」を期待するからだ。それだけ、この映画に高い期待を持ちすぎていたということなのかもしれないが。
もっと非情になって再編集を。
公開に先立って監督自らが積極的にメディアに出演し「ジグソーパズルのような映画」だと公言して「難解だ」というイメージを払拭しようと奔走していたが、それほどのものでもない。むしろ観客に媚びた編集になってしまっている部分が多く、興醒めした。松竹全国ロードショーという公開規模に合わせたサービス精神なのかもしれないが、単なる説明のためにしかすぎない不要なフラッシュバックの多用は、映画のリズムを壊すだけである。意味世界からの飛躍を目指して壊したはずなのに、中途半端なのだ。飛躍しきれていない。結果として、どっちつかずになってしまった。要するに「商売」のために飛躍できなかったという感じ。もったいないと思う。
その「飛躍しきれなかった」要因としては、この作品で彼が描き出している、彼を取り巻く様々なしがらみへの愛情が関係しているのだろう。作品で描いた世界と、彼の日常とがあまりにも密着しすぎているため、結局は自らの足を掬われてしまったのではないだろうか。監督として作品を編集する上での精神的な「暴力」が足りない。映像素材や役者達に愛情を持ちすぎなのだ。もっと時間をおいて映像素材から距離を置き、じっくりと編集をやりなおせば、この作品はもっと飛躍できるはずである。
スター論=権力論→暴力論
彼のような「スター」が揺るぎない地位を手に入れるためには、たくさんの敵と戦って勝ち残ることが必要なのだろう。「スター」に憧れる人間は多い。しかし本当にその座を手にするためには、光の強さと同じ分だけの深い闇とも付き合える度胸と覚悟がなければならない。
彼も現在の地位を築き上げるためには様々な権謀術策を弄して戦い続けて来たにちがいない。魑魅魍魎が跋扈する芸能界という環境は基本的には「水もの」であり、毎日博打をしているようなものだ。「金の生る木」には亡者どもが群がり、生き血をすすりにやってくる。
しかもその地位は「人気」という曖昧なものによって保障されているにすぎない。「人気」とは、ちょっとしたきっかけで移り変わる気まぐれなものである。長年そうした環境でスターとしての地位を維持するには、並大抵の心臓では持ちこたえられないだろう。
しかしこの十数年、ビートたけしはテレビ界で「スター」として存在し続けてきた。北野武としても今や「日本映画界の第一人者」としての地位を確立してしまった。今彼は、まさに権勢の頂点にいる。山の頂に辿りついた者にしか見ることの出来ない下界の景色があるのだろう。そこでしか味わえない栄光と、その裏返しとしての闇。犯罪すれすれの罪も犯してきただろう。殺さなければならない感情もあっただろう。そんな自分への贖罪という意味でも、こうした形で吐き出しておかなければ耐えられないのだろう、きっと。
一将功成りて万骨枯る
この映画は、まるで美術館で絵画展を鑑賞する時のような気持ちで気楽に楽しめばいい。絵画展で一つ一つの絵が独立した世界を持っているように、この映画の各場面は独立して感じられるような構成になっているからだ。しかし、そのどれもが「スターの栄光と孤独」という一つのテーマで関連付けられてはいるのだが。
特にわかりやすかったのは、たけしがタクシーの運転手になって夜道を走る場面。「その先には行ってはいけないよ」と言われたにも関わらずタクシーを走らせるたけし。夜道では客として、次から次へと魑魅魍魎が乗って来る。彼らはまるで「ビートたけし」という権力を頼って寄生してくるタレント達を象徴しているかのよう。全編を通して松村邦洋氏・内山信二氏の「デブタレント」コンビが頻繁に登場するのだが、彼らはおそらく「たけし軍団」を象徴しているのだろう。寄生してくる「小者たち」を背負った責任による重みで、たけしというタクシーは左右にフラフラしながら息も絶え絶えに進んで行く。
道の先には夥しい量の死体が横たわっている。しかしたけしは構わずタクシーを前進させ、死体を無情にも踏みつけながら進み続ける。「一将功成りて万骨枯る」という、ことわざそのものの光景。「スター」という存在が成功を収め続けるためには、その裏でたくさんの人々の夢が散り、犠牲が払われている。その痛みをも引き受けながら進み続けられる者こそが、最後に勝ち残れるのだ。・・・彼はきっと、このような夢をよく見るのだろう。
不毛地帯の乾き
強烈な自己顕示欲と、その裏返しとしての強烈な不安がもたらす逃避願望、孤独、破壊衝動。
歌手として長らくスターの地位に君臨し続けている浜崎あゆみも、その孤独や不安を楽曲に込め、たまに吐き出して解消している。それと同じような棘や痛々しさ、空虚感がこの映画からは滲み出ている。なんとかユーモアを忍ばせて笑いに転嫁しようとはしているのだが、そのどれもが乾いている。乾いた笑いを意図的に成功させることが出来るのは、彼ならではの才能だろう。
オレ以外はみんな敵!・・・でも綺麗なネーちゃんには傍にいてほしい。
そんな自分のあり様を自虐的なまでに開示して見せ、自己否定を極めるようでありながら、実は結果的に辿りつくのはそこまでの自己洞察力があることを観客に見せ付けることで成り立つ自己肯定。
やはり彼は並みの心臓の持ち主ではない。
戦い続けるためにはオアシスも必要だ。終盤の海辺の場面。京野ことみ演じる「綺麗なネエちゃん」をちゃっかりと傍らにはべらせ、ラストの大殺戮でも彼女を傷つけることはしない・・・単なるエロ親父としての正体を見せている(笑)。
強烈なまでのエゴに満ち満ちた、おそろしいまでに自分勝手に徹した映画である。でもそこが評価できる。彼の凄いところは、罪な存在としての自己の悪から逃げず、あえて露呈することで向き合い、徹底的に分析しようとする姿勢。それは辛いことである。でも、やらなければ生きては行かれない性質の人間なのだろう、北野武という人は。
それは真摯に生きている人間にしか出来ない芸当である。
彼は逃げていない。全てと戦っているのだ。他者とだけではなく、自分自身とも。
しかしやはり残念なのは、どうしてもエゴに徹し切れなかった説明カットの多用。この映画がイマイチ作品としての評価を勝ち得ていない理由は、そこにあると思う。どうせなら開き直って単館ロードショー向けに低予算で製作したほうが自由に作れて、作品としてさらに飛躍できたのではなかろうか。彼の映画的感性は、メジャーな市場には似合わないのではないだろうか。彼独特の優しさが、この作品では仇となってしまったようだ。
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しかも徹底的に。
現在公開中の北野武監督最新作「TAKESHIS'」は、一見難解に思えるスタイルをとってはいるが、実はとても単純かつ明快な作品である(と、僕には感じられた。)監督自らが手にしてしまった「スターという権力」と、それを引き受けている自己について、彼自身が主体になったり客体になったりしながら思考を巡らせ、あの手この手で茶化して分析することが中心になっている。その観点から見てみると、けっこうわかりやすい。
物語としての整合性もスタイルとしては壊してあるのだが、実は一貫している。様々に繰り出される映像としてのイメージやシュールな展開の場面も、監督が自己を分析するために脳内に浮かんだ観念を映像化することに忠実である。彼の自己から逸脱して飛躍する領域には達していない。真に革新的な映画というものは、監督(作者)の内面世界すら超越して「別の生き物」として自立して生き始めるもののことを指すと思う。コンセプトや編集方針から行って、監督はその領域を目指したかったのだろうと推察されるが、達しきれていない。
僕としては、もう少し「異物」としてゴツゴツと突き刺さってくるものを期待していたのだが、その期待は裏切られた。それはきっと論理としても感覚としても、この映画がわかった(ような気分にさせられた)からかもしれない。僕の内面とこの映画は、なぜだか知らないけど共鳴することが多かった。僕が普段関心を持っていることと共通する部分が、この映画からかなり見出せたからなのかもしれない。だから物足りない。なぜなら僕は映画に「他者」を期待するからだ。それだけ、この映画に高い期待を持ちすぎていたということなのかもしれないが。
もっと非情になって再編集を。
公開に先立って監督自らが積極的にメディアに出演し「ジグソーパズルのような映画」だと公言して「難解だ」というイメージを払拭しようと奔走していたが、それほどのものでもない。むしろ観客に媚びた編集になってしまっている部分が多く、興醒めした。松竹全国ロードショーという公開規模に合わせたサービス精神なのかもしれないが、単なる説明のためにしかすぎない不要なフラッシュバックの多用は、映画のリズムを壊すだけである。意味世界からの飛躍を目指して壊したはずなのに、中途半端なのだ。飛躍しきれていない。結果として、どっちつかずになってしまった。要するに「商売」のために飛躍できなかったという感じ。もったいないと思う。
その「飛躍しきれなかった」要因としては、この作品で彼が描き出している、彼を取り巻く様々なしがらみへの愛情が関係しているのだろう。作品で描いた世界と、彼の日常とがあまりにも密着しすぎているため、結局は自らの足を掬われてしまったのではないだろうか。監督として作品を編集する上での精神的な「暴力」が足りない。映像素材や役者達に愛情を持ちすぎなのだ。もっと時間をおいて映像素材から距離を置き、じっくりと編集をやりなおせば、この作品はもっと飛躍できるはずである。
ここからは内容に具体的に触れます。ネタバレ注意!!

彼のような「スター」が揺るぎない地位を手に入れるためには、たくさんの敵と戦って勝ち残ることが必要なのだろう。「スター」に憧れる人間は多い。しかし本当にその座を手にするためには、光の強さと同じ分だけの深い闇とも付き合える度胸と覚悟がなければならない。
彼も現在の地位を築き上げるためには様々な権謀術策を弄して戦い続けて来たにちがいない。魑魅魍魎が跋扈する芸能界という環境は基本的には「水もの」であり、毎日博打をしているようなものだ。「金の生る木」には亡者どもが群がり、生き血をすすりにやってくる。
しかもその地位は「人気」という曖昧なものによって保障されているにすぎない。「人気」とは、ちょっとしたきっかけで移り変わる気まぐれなものである。長年そうした環境でスターとしての地位を維持するには、並大抵の心臓では持ちこたえられないだろう。
しかしこの十数年、ビートたけしはテレビ界で「スター」として存在し続けてきた。北野武としても今や「日本映画界の第一人者」としての地位を確立してしまった。今彼は、まさに権勢の頂点にいる。山の頂に辿りついた者にしか見ることの出来ない下界の景色があるのだろう。そこでしか味わえない栄光と、その裏返しとしての闇。犯罪すれすれの罪も犯してきただろう。殺さなければならない感情もあっただろう。そんな自分への贖罪という意味でも、こうした形で吐き出しておかなければ耐えられないのだろう、きっと。
一将功成りて万骨枯る

特にわかりやすかったのは、たけしがタクシーの運転手になって夜道を走る場面。「その先には行ってはいけないよ」と言われたにも関わらずタクシーを走らせるたけし。夜道では客として、次から次へと魑魅魍魎が乗って来る。彼らはまるで「ビートたけし」という権力を頼って寄生してくるタレント達を象徴しているかのよう。全編を通して松村邦洋氏・内山信二氏の「デブタレント」コンビが頻繁に登場するのだが、彼らはおそらく「たけし軍団」を象徴しているのだろう。寄生してくる「小者たち」を背負った責任による重みで、たけしというタクシーは左右にフラフラしながら息も絶え絶えに進んで行く。
道の先には夥しい量の死体が横たわっている。しかしたけしは構わずタクシーを前進させ、死体を無情にも踏みつけながら進み続ける。「一将功成りて万骨枯る」という、ことわざそのものの光景。「スター」という存在が成功を収め続けるためには、その裏でたくさんの人々の夢が散り、犠牲が払われている。その痛みをも引き受けながら進み続けられる者こそが、最後に勝ち残れるのだ。・・・彼はきっと、このような夢をよく見るのだろう。
不毛地帯の乾き
強烈な自己顕示欲と、その裏返しとしての強烈な不安がもたらす逃避願望、孤独、破壊衝動。
歌手として長らくスターの地位に君臨し続けている浜崎あゆみも、その孤独や不安を楽曲に込め、たまに吐き出して解消している。それと同じような棘や痛々しさ、空虚感がこの映画からは滲み出ている。なんとかユーモアを忍ばせて笑いに転嫁しようとはしているのだが、そのどれもが乾いている。乾いた笑いを意図的に成功させることが出来るのは、彼ならではの才能だろう。
オレ以外はみんな敵!・・・でも綺麗なネーちゃんには傍にいてほしい。

やはり彼は並みの心臓の持ち主ではない。
戦い続けるためにはオアシスも必要だ。終盤の海辺の場面。京野ことみ演じる「綺麗なネエちゃん」をちゃっかりと傍らにはべらせ、ラストの大殺戮でも彼女を傷つけることはしない・・・単なるエロ親父としての正体を見せている(笑)。
強烈なまでのエゴに満ち満ちた、おそろしいまでに自分勝手に徹した映画である。でもそこが評価できる。彼の凄いところは、罪な存在としての自己の悪から逃げず、あえて露呈することで向き合い、徹底的に分析しようとする姿勢。それは辛いことである。でも、やらなければ生きては行かれない性質の人間なのだろう、北野武という人は。
それは真摯に生きている人間にしか出来ない芸当である。
彼は逃げていない。全てと戦っているのだ。他者とだけではなく、自分自身とも。
しかしやはり残念なのは、どうしてもエゴに徹し切れなかった説明カットの多用。この映画がイマイチ作品としての評価を勝ち得ていない理由は、そこにあると思う。どうせなら開き直って単館ロードショー向けに低予算で製作したほうが自由に作れて、作品としてさらに飛躍できたのではなかろうか。彼の映画的感性は、メジャーな市場には似合わないのではないだろうか。彼独特の優しさが、この作品では仇となってしまったようだ。
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