三島由紀夫とつきあってみる。006●小説「音楽」の魔①
「性の不毛地帯に鋭利なメスを入れた問題長篇」
新文芸座のATG映画特集で見た増村保造監督の「音楽」 。衝撃的だった。
そして三島由紀夫の原作を読んでみた。そこには映画よりもさらに細かく濃密な、三島由紀夫独特の世界が繰り広げられていた。
なんでこの人はこんな言葉が書けてしまうんだろうと、驚嘆させられるばかりの読書体験だった。
ちなみにこの小説は1964年に書かれた。この年は東京オリンピックが開催され、高度経済成長の成熟期。雑誌「婦人公論」に連載され、翌年の1965年に単行本として出版された。
当時彼は39歳。すでにボディービルによる肉体改造は完成し、細江英公写真集『薔薇刑』が海外でも出版されていた頃。文壇のトップスターとして君臨し、最も脂が乗っていた時期である。
実は古本屋でこの本の「初版本」(1965年発行・中央公論社刊)を見つけた。帯に書いてあった売り文句が面白い。
「性の不毛地帯に鋭利なメスを入れた問題長篇」
「精神分析医の眼をとおして美しい弓川麗子の性行動と赤裸々な告白を描き人間性の深奥に迫る最新作」
なんと艶かしい表現だろう・・・。
説明書きの通り、この小説は精神分析医の「手記」という体裁をとっている。
つまり書き手である「私」は、汐見和順という名の精神分析医という設定なのだ。
「精神科医の手記」という仕掛けがもたらす表現の自由
その構造を説明するために、初版本では手の込んだ仕掛けが施されていた。まず表紙をめくると「音楽・三島由紀夫」という中表紙。その次に「刊行者・序」という三島由紀夫氏からの注意書きが2ページに渡り書いてある。そしてさらにめくると、今度は手記の表紙が出てきて、やっと小説が始まるのだ。(これです→)
「汐見和順・述 音楽~精神分析における女性の冷感症の一症例」
・・・これが、小説『音楽』の本当の(?)タイトルなのである。
「刊行者・序」で三島由紀夫は、この本のプロデューサーであるかのような立場から、読者に対して二つの注意書きをしている。
(以下、その一部を引用)
・・・そもそも小説というものはフィクションであるにも関わらず、もう一つのフィクションでくるんでしまう周到さ。これだけ言い訳を作っておけば、もう怖いものはない。あからさまな性描写だろうが女性蔑視的な表現だろうが思う存分、好きなように書けてしまう。三島由紀夫、なかなかのしたたか者である。
1964年という時代にはすでに女性の社会進出が活発になり、旧来の女性蔑視的な表現や性描写に対する抗議も盛んに起こっていただろう。しかも「女性自身」と言えば女性週刊誌のトップ。下手すると不買運動でも起きかねない。
広範な女性読者をターゲットにしたこの雑誌で、限界ギリギリの描写を試みながら、三島由紀夫はなにをしたかったのだろう。
小説『音楽』の魔の世界を覗きながら、彼について考えてみたい。
●三島由紀夫「音楽」(新潮文庫)
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そして三島由紀夫の原作を読んでみた。そこには映画よりもさらに細かく濃密な、三島由紀夫独特の世界が繰り広げられていた。
なんでこの人はこんな言葉が書けてしまうんだろうと、驚嘆させられるばかりの読書体験だった。
ちなみにこの小説は1964年に書かれた。この年は東京オリンピックが開催され、高度経済成長の成熟期。雑誌「婦人公論」に連載され、翌年の1965年に単行本として出版された。
当時彼は39歳。すでにボディービルによる肉体改造は完成し、細江英公写真集『薔薇刑』が海外でも出版されていた頃。文壇のトップスターとして君臨し、最も脂が乗っていた時期である。
実は古本屋でこの本の「初版本」(1965年発行・中央公論社刊)を見つけた。帯に書いてあった売り文句が面白い。
「性の不毛地帯に鋭利なメスを入れた問題長篇」
「精神分析医の眼をとおして美しい弓川麗子の性行動と赤裸々な告白を描き人間性の深奥に迫る最新作」
なんと艶かしい表現だろう・・・。
説明書きの通り、この小説は精神分析医の「手記」という体裁をとっている。
つまり書き手である「私」は、汐見和順という名の精神分析医という設定なのだ。
「精神科医の手記」という仕掛けがもたらす表現の自由

「汐見和順・述 音楽~精神分析における女性の冷感症の一症例」
・・・これが、小説『音楽』の本当の(?)タイトルなのである。
「刊行者・序」で三島由紀夫は、この本のプロデューサーであるかのような立場から、読者に対して二つの注意書きをしている。
(以下、その一部を引用)
「一つは、氏の手記における、女性の性の問題に関する、徹底的に無遠慮な、科学的な取扱いの態度が、殊に女性読者に反感を催さしめるのではないかということであった。もしこれが文学作品であったら、性はこれほど即物的な扱いをうける惧れはなく、良きにつけ悪しきにつけ修飾のヴェールをかけられるのが常であって、それが読者の想像力を刺戟することになる筈であるが、氏の手記にはこうした配慮が一切欠けており、文中、性の象徴的神話的修飾が出てくれば、それはすべて患者の妄想から発して、あるいは記述者に影響したものなのである。
第二には、氏の手記の内容があまりにも常軌を逸しており、正常な女性の生活感情からあまりにもかけ離れているので、手記全体が荒唐無稽の創作と見做される惧れがあることである。しかしわれわれは、これらがすべて事実に基づいていることを、いやいやながらでも承認せねばならないし、一旦承認した上は、人間性というものの底知れない広さと深さに直面せざるをえぬ。それはいつも快い眺めであるとは限らないが、どんな怪物が出没してもふしぎはない神話の森なのであって、それを蔵しているのは、ひとり作中の麗子のみではなく、正に読者諸姉の一人一人なのである。」

1964年という時代にはすでに女性の社会進出が活発になり、旧来の女性蔑視的な表現や性描写に対する抗議も盛んに起こっていただろう。しかも「女性自身」と言えば女性週刊誌のトップ。下手すると不買運動でも起きかねない。
広範な女性読者をターゲットにしたこの雑誌で、限界ギリギリの描写を試みながら、三島由紀夫はなにをしたかったのだろう。
小説『音楽』の魔の世界を覗きながら、彼について考えてみたい。
●三島由紀夫「音楽」(新潮文庫)
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