工藤静香「深紅の花」●名曲レビュー004

今はただ
透き通るまで 愛を染めて
赤い血で
Nothing Lasts Forever
壊れて行く時間を止めて
終わりのない愛を信じた
そんな夜
でも時は流れる
いつか砂に帰る
いつか又
深紅の花咲くまで
その時まで
I say Good-bye
「深紅の花」
words:橘朋実
music,arrangement:YOSHIKI
●工藤静香、独身時代最後のシングル。前作から一年半のブランクを経て発売。
ピアノとストリングスに乗せて、繊細で息の詰まるような世界観を聴かせてくれます。
●リリースに間隔が開いたのは、デビューからずっと所属しつづけたレコード会社「PONY CANYON」との契約が切れ、なかなか次の会社が決定しなかったことが理由のようです。
●せっかく歌手として充実の時を迎えようとしていた彼女にとって、やりきれない日々だったと思います。その間も芸能活動を休んでいたわけではなく、連続ドラマに出演したり、音楽バラエティーの司会をしたりもしていました。
肝心の歌手活動は?。ファンとしては不安な気持ちで彼女の動向を見守っていました。
●そんな最中、木村拓哉氏との種子島デートが芸能マスコミを大々的に賑わせます。
この数年前から彼女はサーフィンにはまっていたので驚きはしませんでしたが「歌はどうしたの?」と、やっぱり思ってしまうのでした。
●一年半ぶりのリリース決定の情報が流れた時の方が、僕としては驚かされました。なんと「元カレ」であるYOSHIKI氏の経営するレコード会社から、YOSHIKI氏のプロデュースで発売するというのですから。
●しかし、それはとても彼女らしいやり方だと思いました。
「歌手としての人生で、一度はYOSHIKIの曲を歌いたかった。時期は今しかないと思った」
・・・この言葉を聞いて、僕はホッとしました。周囲がどう思おうが、彼女が歌手としての自分の必然を貫けているのなら、それでいいんです。
●こうしたことは、表現者としてお互いをリスペクトしているからこそ出来ることだと思います。
そして発売されたこの曲は、YOSHIKI氏のプロデュースに全面的に身を委ね、
「ボーカリスト」に徹しきったピュアな歌い方を楽しむ彼女でした。
澄み切った歌声からは、音楽を心から楽しんでいる様子が伝わってきます。

C/W②足下を飾る太陽
③PRAY
収録アルバム「Jewelry Box」
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たかがテレビ。009●NNNドキュメント「解かれた封印」で語るテレビ報道④

NNNドキュメント「解かれた封印~雲仙・大火砕流 378秒の遺言」をもとに、僕が感じた「テレビ的」ということはどういうことなのか。考えてみようと思います。
<参照記事:① ・ ② ・ ③>
僕はこのドキュメントを見て、とても「後味の悪さ」を感じました。
内容が内容だけに、後味が良いわけはないのですが・・・それにしてもネガティブな後味の悪さなのです。

テレビ局に属している人が、自らの属する組織を批判することには限界があるだろうことはわかります。それにしても、あまりにもお行儀よく優等生的に、既存の「テレビドキュメンタリー的な文法」に則ってまとめすぎなのでないかと感じました。
制作者たちが番組作りで発見した「哲学」が提示されていないのです。
いろんな立場の人たちにバランスよく話を聴き、ただ並列して提示しているだけ。制作者達が感じた「主観」は巧妙に隠されています。これが、僕が「テレビ的」だと感じた理由です。

テレビや新聞などのマスメディアによる報道姿勢が問われる時、よく使われる言葉に「公正中立であれ」と言う言葉が使われます。最近ではNHKのETV特集「従軍慰安婦」の番組改変問題で、中川大臣らが口にしていました。
しかし僕は基本的に「公正中立」という言葉ほど曖昧で実態のない「まやかしの言葉」はないのではないかと考えます。

いろんな意見があることを提示し、視聴者に考えさせる。
・・・一見、もっともな態度であるかのように思われますが、そもそも情報を取捨選択する際に「主観」が排除されることなど、絶対にあり得ません。
「いろんな意見」を選んでいるのは、結局は番組制作者たちの「主観」です。しかも、同じ意見を取り上げるのでも「どのような言い方の発言を取り上げるのか」によって、印象はガラッと変わります。いかようにも操作できてしまうのです。

「客観報道」はあり得ない
「客観報道」とは、あり得ない言葉です。
そもそもカメラマンは現場において、自分の周囲360度すべてを撮影できる可能性を持ちながら、ある意図と目的を持って現実の「ほんの一部」を切り取って撮影するのです。

さらに番組の構成者が、ある意図と目的を持ってそれらを並び替え、全体の構成を決定します。
映像というものは必ず、そうした個人の主観を通した「選択」によって成り立っています。
これでどうやって「公正」で「客観的」なものを作れというのでしょう。
人間が人間である限り、それは永遠不朽に無理な話です。

しかもテレビは、ニュースにしてもドキュメンタリーにしても、制作する個人の名前に重きを置きません。(映画では監督名というのは大事な要素とされています。表現内容に責任を取る個人の存在が、きっちりと明確に示されます。)テレビは個人よりも、テレビ局という「組織の制作」であるかのような態度を装います。あたかも組織が「合議の上で」「冷静に判断して」「考え抜いて」映像を送り出しているかのように装っています。(そんな手間も暇もかけていないにも関わらず)

・・・大嘘つきですね。
バランスなんて取らなくていいんだよ
だからこの番組でも、そんなテレビ界の嘘つき体質に則って、あらゆる立場の人たちをバランスよく出演させ、各々の立場の人たちから発せられた典型的な発言を並列させています。

「ドキュメンタリー」というのは、本来的には「フィクション」です。
なぜなら、制作者達の主観的によって選択された映像の集積で出来上がっているからです。しかし、この番組でも制作者達は傍観者のように姿を消し、責任を回避しました。この番組で抜け落ちてしまっている大事なことは、そういう「現在のテレビ界」の無責任体質への批判ではないでしょうか。

そのこと自体は責めません。そのことによって浮かび上がることもあるでしょうし、意味のある行動だとは思います。
でもどうせなら、そんな自らの卑しい体質をもまっすぐに見つめ、自虐的になることを恐れずに番組の中に取り込んで自ら攻撃する位の覚悟を持つべきだったのではないでしょうか。表現としては毒々しくなるかもしれませんが、恐れずにやればいいんです。どうせ日曜深夜で視聴率もたかが知れています。

テレビがつまらない理由として、表現としての毒や鋭さを回避してしまう「自己規制」が幅を利かせているからだとも言えます。ちょっとした事で苦情の電話をする視聴者にも原因はありますが、もっと伸び伸び表現をするべき。しかもこの場合、批判対象は自分なんだからスポンサーの顔色を気にする必要もない。とことんやってしまうべきなんです。

「公正中立」という嘘で自分をごまかさないでほしい。表現とは結局、人間個人から発せられるものでしかないのだから。テレビ界に属している人たちは「組織」なんですか?「マシーン」なんですか?・・・一人一人の、思考能力を持った人間でしょ?
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