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フツーに生きてるGAYの日常

やわらかくありたいなぁ。

2005-10
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メゾン・ド・ヒミコで未知との遭遇010●ふたたび観に行く

また観に行きました。
そしたら・・・観たはずなのに憶えていない場面や記憶違いなども見つかり、記憶の不思議を改めて感じたのでした(←なんのこっちゃ。笑)
だから以前の記事で書いたディテールは、違うところもあります。あんまり気にしないでくださいね~。

今回思ったのは、この映画、実はすごくシビアだということ。
うっかり無防備のままで観るとちょっとした精神的ダメージを受けてしまうかもしれません。
僕にとっては、前回とはまったく雰囲気が違って感じられました。なぜなのでしょう・・・。

筋を追うことからの解放

はじめて観る時というのはどうしても、物語の筋を追うことに意識が集中します。そのため細かい所に目が行き届きません。
特にこの映画は沙織(柴咲コウ)をストーリーテラーのようにして進行するため、まずは彼女の心理がどう変化するのかに気を取られがちです。

しかし今回の僕は、すでに物語を知っています。だから沙織の心理から解放され、周囲のいろんな人たちのことに目を向けられるようになりました。だから印象がガラッと違って見えたのだと思います。

卑弥呼からの自立

今回いちばん印象に残ったのは、卑弥呼の哀しさ。
老いて死に行く者の哀しさが残酷なまでに感じられ、胸を衝かれました。

卑弥呼が大量に血を吐いた日。
春彦は不安に耐えられず沙織を電話で呼び出します。
そして卑弥呼がベッドで寝ている横で、募る不安を沙織に吐露してしまいます。


「こうやって、この人がちょっとずつ死にかけていくのを見ていながら、オレ、生きていたいとか思えなくなってくんだよ・・・もう、愛とかさ、意味ねーじゃん」

「だから、オレが自分をこっちの世界につなぎとめとくにはさ、欲望なんだよ!
それだけなんだよ!」
実はこの言葉を、卑弥呼はちゃんと聴いていたようです。
後日、春彦に釘を刺すからです。

ドレスを着た山崎を、ホームの皆で連れ出してクラブへ行く夜。出かける前に春彦は、ベッドの卑弥呼に挨拶します。
「じゃ、適当にその辺で遊ばせてくるよ」
すると卑弥呼は突然春彦のTシャツの袖をつかんで険しい顔で言うのです。
「駄目よ・・・駄目。」
恋人への嫉妬心をあらわにした、生々しい場面だと思いました。
もしかしたらこの時点で卑弥呼は、沙織と春彦が惹かれあっていることにも気付いていたのかもしれません。
あるいは、ホームの皆を外界へ連れ出すことを止めたのかもしれません。
そのどれもが含まれているように感じられる、多義的な「駄目」でした。
しかも卑弥呼にしては珍しく、感情的に取り乱しているのだから驚きです。

若さの残酷

しかし春彦は若い。卑弥呼の制止を振り切って、思うがままの行動を実践します。
その夜、春彦は沙織と思いが通じ合ってキスをしてしまいます。そして後日ベッドを共にしてみるところまで、二人の関係は急速に発展します。

これでは、卑弥呼は完全に置き去りです。
死に行く老いた者は、生を謳歌している若者の熱情や衝動を止めることはできないのです。
なんという残酷。
あの、めくるめくようなダンスシーンの裏には、卑弥呼の底知れぬ孤独があったのです。

人間の業

生きている限り常に移ろい行くのが「人の心」というもの。
だからこそ、共鳴し合えると感じた時には、儚さを承知の上でわかち合い、楽しむのです。
しかしその楽しみは必ず終わり、空しさが訪れます。
それが人間の生です。

そんな繰り返しをそのままに、突き放すような態度で提示しているのが、この映画の本質であるかのように、今回は感じられました。

だからこの映画を「ファンタジー」と呼ぶのは、あまりにも表層的な見方ではないでしょうか。
「笑い」や「美しさ」の裏には毒がある。「ファンタジー」的なデコレーションは、その毒を少しでも緩和させ、少しでも開かれた表現にしようという、監督なりのバランス感覚なのでしょう。
◇◇◇
次回は、上映の後に行なわれた犬童一心監督と田中泯さんのトークショーについて書いてみます。実は僕は、これを目当てに出かけました。そして、この映画の持っている体質通りにシニカルな、犬童監督という人格に興味を持ちました。では次回。

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